「なぁエル、星座って詳しい?」
てっきり秒で「えぇ勿論! 解説しましょう」と講義が始まるものだと思っていたラビは、エルの「えぇっと、その……まぁ……」という歯切れの悪い返事に、むしろ逆に驚いてしまった。
季節は春。長く残っていた雪も溶け、春の陽気を感じられるようになった今日この頃。まだまだ夜は肌寒いものの、身を切る寒さは薄れてきた。こんな夜となれば、エルはさぞや絶賛観測タイムだろう。ちょうど暇だし彼女の蘊蓄を聴くのも悪くないと、ラビも屋上へと出てきたのだった。
「マジ? エルは星のことなら何でも知ってると思ってたさぁ」
そう言うと、エルは「いえ、ラビさん、違うんですよ」と首を振った。
「……いやまぁ、私だって知識には抜けも漏れも穴もありますし、足りない部分はまだまだ勉強している身ではあるのですが。実は少し前から天文学者の中で新星座作りが流行っていまして、私としても把握しきれる気がしないんです」
「……流行ってるんだ……」
流行るもんなんだ、新星座作り。
「ちなみに『少し前』ってどのくらいからなん?」と尋ねると「ここ二、三百年くらいです」との返答が来た。天文学者、時間のスケールがアバウトすぎる。黒の教団ですら、設立からまだ百年程度だというのに。
エルはしゅんとしたまま呟く。
「そんな新興の星座については、私も知識が薄く……ご期待に沿えず申し訳ございません……」
「いやいや、何もエルが謝ることなんてないさ!」
ただの興味本位、もっと言えば暇潰しの問いかけに対し、そこまで真面目に返されるとラビの側も恐縮してしまう。
「じゃ、最近のヤツじゃなくて過去の……それこそメソポタミア時代やヒッパルコス、プトレマイオスの頃の星座なら把握してんだろ?」
「えぇ、そのくらいならば。ラビさん、よくご存知なんですね」
流石ですと素直に褒められ、なんだか面映い。頬を軽く掻いたラビは、ふと浮かんだ疑問を口に出した。
「そういや、なんで星座の神話ってギリシア神話ばっかなんかな。いや紀元前頃のギリシアに伝わった星座の知識が広まったっつーのは知ってんだけど、そいつらは大抵ギリシアの神様だとか伝説だとかが元になってんじゃん。でも、宗教って他にもいっぱいあるだろ? たとえばキリスト教に関わる星座ってないもんかね? 十字架とか、ノアの方舟とか、諸々星座になっててもおかしくないと思うんだけど」
「……そこ、気付いちゃいますかぁ……」
ふと見れば、エルが物凄く苦い顔をしていた。いつもニコニコしている彼女にしては珍しい表情だ。
「……もしかして、聞いちゃダメだったさ?」
「……実は、十五世紀に有名な方がいらっしゃいます。熱心なカトリック教徒の方でして、その方は先ほどの、プトレマイオスの四十八星座を廃してキリスト教義に関わる人々や道具を星座絵として制作しました。ラビさんがおっしゃった十字架座やノアの方舟座も制作されたそうですし、黄道十二星座を十二人の使徒に置き換えたりなされたと残されています」
ですが、とエルは前置いて、ふるりと頭を横に振った。
「その星座たちは、結局受け入れられませんでした」
「……あらまー……」
「多分今後は廃れていって、後世ではそんな星座があったことなど、好事家くらいしか知られない事実になるんでしょうね」
「いろいろあんだなー……」
エルの口が重い理由も察するというものだ。
重くなった空気を変えるため、ラビは話題を変えることに──いや、『戻す』ことにした。
「じゃ、一般的なとこでいいからさ。せっかくだし春の星座について、オレに解説してくんね?」
「いいですよ。ラビさん、こちらにどうぞ」
とん、とエルは、自身が座っているマットのすぐ横を軽く叩く。そこにラビも腰を下ろした。タイミング良く毛布が受け渡される。暖かくなってきたとは言え、春の夜は未だ冷える。
「春の夜空と言えば、やはり春の大曲線が一番の見どころであるのは間違いないでしょう。北斗七星はよく
エルの腕がそっと持ち上がり、天の星々を指し示す。
「北斗七星はご存知でしょうか。おおぐま座の星座の一部で、おおぐまの背中から尾の部分にあたります。いつでも北の空に浮かんでいるので、方角を知るためにも役立つ星座です」
「そいつは知ってるさ。でも、
「ふふ、それもそうかもしれませんね。北斗七星が柄杓と言われるのは、実はロシア民話に基づいています。北斗七星の形が人力車にも見えることから、たとえばスカンディナビアでは『大神オーディンの車』『雷神トールの車』、イギリスだと『アーサー王の車』などに見立てられることもあったんですよ」
「へぇ、王や神様が乗る特別な車なんだな。いや、熊だったさ?」
「どっちの見方もあったと思われますよ」
くすりと笑ってエルは、指し示す腕を僅かに東──うしかい座のアルクトゥールスの方向へと動かした。
「オレンジ色に輝くアルクトゥールスは、全天で四番目に明るい星です。太陽の二十倍の質量を持っています。そして、そこから南下した先にある青白い星が、乙女座の一等星スピカです。この二つの星は対になる星として『夫婦星』と呼ばれることもあるんですよ」
「確かに綺麗だな。つか、星の色が違うのはなんでなんさ?」
「星の表面温度によって色が変わるんです。白く輝く星の方が温度が高く、赤っぽく輝く星の方が温度が低いのです」
「なるほど。つまりスピカの方が温度が高いっつーわけね」
「ですです。さすが、理解が早いですね」
「先生の教え方がいいんさね」
「煽てても何も出ませんよ? ……そうだ、暖かいコーヒーを持って来ていたんでした。飲みますか?」
「サンキュ、頂くさ」
身を起こしたエルは、そのままゴソゴソとカバンを漁っては中から水筒を取り出した。何か出るじゃん、と思ったが口には出さない。
エルはコーヒーをカップに注ぐと「はい、ラビさん」と手渡した。水筒から注がれたコーヒーは、まだまだ充分な温もりを保っている。まだ寒さを感じる春の夜にはちょうどいい飲み物だ。
カップを両手で持ったまま、エルは呟く。
「……そう言えばラビさん、確か獅子座でしたよね」
「うん。えっ、よく知ってたな」
「知ってますよ。だって『お友達』の誕生日ですから。……獅子座も春の夜空に浮かぶ星座なんです。見えますか? あちら、南側に見える星座です。大きな鎌のような、クエスチョンマークのような星の並びがありますよね。これが、獅子の頭から胸に掛けての部分です」
エルが指差す方向に視線を向けた。
胸の辺りに一際輝く星は、確かレグルスだっただろうか。そう言うと、エルは「よくご存知ですね」と顔を綻ばせた。
「レグルス──ラテン語で『獅子の心臓』を意味する星です。一等星の中で一番暗い星なんです。ちなみに、獅子の腰の辺りに位置している少し明るめの星が、二等星のデネボラという星なんです。このデネボラと、先ほどの夫婦星──アルクトゥールスとスピカでできる三角形が『春の大三角』と呼ばれるものなんですよ。……これにて、春の星座の解説はおしまいとなります」
「うん、色々教えてくれてサンキューな。面白かったぜ」
一通り教えてもらえたから、任務先で空を見上げてもしばらくは退屈しなさそうだ。そう言うと、エルはしばらくラビを見つめた後、抱えた膝にコテンと頭を倒した。
「……ラビさん。今から少し、身勝手なことを言ってもいいですか?」
「ん? 何さ?」
こちらも首を傾げてエルを見る。
小さく息をついたエルは、やがて柔らかな笑みと共に囁いた。
「ラビさんのお誕生日も、一緒に祝えたら嬉しいです」
──だから、死なないでください、と。
そんな彼女の声にならない声を聞いた気がして、ラビは知らず、息を詰めた。
自分はエクソシストだ。それにブックマンでもある。
黒の教団はあくまでも仮の住まいであり、いずれ時が来れば別の場所へと移っていく。
そうでなくてもエクソシストは命を張る職業だ。明日の命の保証もない。
──それでも────……
「…………、おう。ま、忘れないようにするわ」
「……ふふ。忘れても構いませんよ」
「なんだよ。『友達』の言うことを簡単に忘れるほど、オレは不義理な男じゃないつもりさぁ。……あー、でも、綺麗なお姉さんに誘われちゃったら行っちゃうかもだから、先に謝っとくな」
あくまでも、軽い口調で。
聡い彼女はきっと気付いているだろう。
大事な誓いであるからこそ、軽々しく。
でも同時に、彼女には傷ついてほしくないのだ。
「全く……ラビさんらしいですね」
エルはそう言って苦笑する。
──そう。
たとえラビが帰ってこないことがあっても。
彼女が心を痛める必要は、ないのだ。
「……本心だぜ」
(約束してやれなくて、ごめんな)
──星も月も、霞に滲む春の夜。
君も同じ夜空を眺めているのだと、そう思えるだけで心が安らぐのだと──もしもそう告げたなら、君は一体どんな顔をするだろうか。
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