昏い、昏い。ここは一体どこだろう。
自分が立っているのか、座っているのか。平衡感覚がない。
自分の姿は見えるけれども、周囲は驚くばかりの暗闇だ。色を全て拭い去ったかのような黒が、ぼくを取り囲んでいる。
『アキ』
聞き慣れた声が、鼓膜を震わせた。ぼくははっと振り返る。
聞き慣れた、だなんて、なんたる遠回しな表現なのか。
自らの喉から零れるものと、まるっきり同じものだというのに。
「あ……っ……」
ずっと待ってた。
ずっと会いたかった。
ぼくは、君に。
ずっとずっと、会いたかったんだ。
「秋……っ」
駆け出す。
心が、急く。
縺れる足を、無様にも前に出す。
手を伸ばした。
「秋!!」
しかし、ぼくの手は幣原秋には届かない。
どれだけ走っても、幣原秋には追いつけない。
「待ってよ、待って……っ」
聞きたいことが、たくさんあるんだ。
話して、聞かせて。
ねぇ、どうして。
お願いだよ。
『アキ。ぼくらはやっぱり、死ぬべきなんだ』
秋は、そう言ってにっこりと笑った。
心からの、純粋な笑顔を。
穢れを知らない、無垢な笑顔を。
ぼくが、絶対に浮かべられない表情を。
「そんなこと、言わないでよ……っ」
君の口から、そんな言葉を聞きたくない。
死ぬべき人なんていないんだ。
君は、幸せになるべき人間なんだ。
『ぼくらは……ぼくは、死ぬべき人間だよ。幸せになる権利なんてない。だって、今まで沢山の──』
『沢山の命を、奪ってきたんだから』
そう言って笑う、秋の後ろには。
目も当てられぬほどの惨状が、広がっていた。
地に倒れ伏す、何人、何十人、何百人もの人、人、人。人としての尊厳なんてまるでない、死者への敬意なんて存在しない。
物のように、適当に、辺りに打ち捨てられた人の山は、ぴくりとも動かない。
『これだけ殺した人間が、天国にも地獄にも行ける訳がない──でも、この世にも、いていいはずがない』
分かるよね? と、秋は言う。
ぼくは、それでも震える声を上げた。
「でも……でも、君は、秋、君は、正義を貫いたんだ。それよりもたくさんの人の命を救った、そうでしょう? じゃないと、英雄なんて言われない……『黒衣の天才』なんて、呼ばれやしないんだ」
縋るように、首を振った。
秋は、笑顔で言う。
純粋な笑顔を、浮かべてみせる。
そうか、これは、こんな笑顔は、穢れを知らないから浮かべられるのではない。
穢れを全て飲み干し、共に生きていく決意をした人間だけが、浮かべることが出来る表情なのだと──
『どれだけたくさんの人を救ったからと言って、ぼくの罪が消えることはない。ぼくのこの力は、忌むべきものだ、忌避すべきものだ、恨まれるものだ、憎まれるものだ──フィアン・エンクローチェ、オリビエ・ウッドナード、ジネーブ・マカスキル。彼らを傷つけてしまった時に、理解するべきだったんだ』
秋は、そこで初めて、笑みを崩した。
『ぼくはずっと一人でいるべきだった。セブルスとリリーの手を取るべきじゃなかった。ジェームズにシリウス、リーマス、ピーターと、出会わなければよかった。仲良くならなければよかった。リィフに、ライ先輩、エリス先輩……レギュラスとも、知り合わなければよかった。なんであそこで、寂しさに負けてしまったんだろう? 誰とも触れ合わなければ、ぼくは誰も傷つけずに済んだのに。ずっと一人でいればよかった。魔法魔術大会なんて出なければよかった。一番最初の試合で負けておけばよかった。勝ち残らなければよかった。優勝なんてしなければよかった。そうすれば、ぼくの両親は死なずに済んだ。ぼくは、父さんと母さんを殺さずに済んだのに』
泣き出しそうな瞳で。
大きな瞳を、切なく揺らしながら。
それでも、涙を零さずに、秋は言う。
後悔の言葉を。
贖罪の思いを。
『リリーと仲良くならなければよかった。セブルスと仲良くならなければよかった。闇祓いに入らなければよかった。『黒衣の天才』なんて呼ばれたくない。ぼくは、誰も殺したくなんてなかった……っ、誰も傷つけたくなかった! ぼくが愛した人たちに、ずっと笑っていて欲しかった! ずっと、幸せでいて欲しかった! どうせ壊れるのなら、誰との間にも、友情も、愛情も、絆も、何も作らなければよかった!』
そう言い切って、秋は息をついた。項垂れる。
再び顔を上げたとき、その顔には、どんな表情も浮かんでいなかった。
昏く、深い。
透き通っていた瞳は、光を全て吸収してしまうかのように、濁って、淀んでいる。
『……アキ。君には、悪いことをした。……ムーディ先生の言う通りだ。ぼくはあそこで、死んでおくべきだった。それを間違って、色んなものを間違え続けて──ぼくは生きている。生き延びて、しまっている』
一緒に死のう。
アキ・ポッター。
『ぼくの、唯一の願い。どうか、叶えてくれ、アキ』
秋が、ぼくに手を伸ばす。
秋の手が、ぼくの頬に、そっと触れた。
「……ぁ」
ぼくは、こくりと頷いた。
秋の願いを、叶えてあげたい。
だって、ぼくは。
ぼくは、幣原秋なのだから。
『……いい子だね、アキ』
ごめんね。
そう言って、秋は微笑んだ。
なんとも儚い、笑顔だった。
──ぼくは目を開けた。
群青色のカーテンが、視界に入る。自分の部屋のベッドで、ぼくは横になっていた。
「……ぼくは」
心は、酷く落ち着いていた。
「死ぬべきだ」
幣原秋のために。
左手を、天に向かって伸ばした。
占い学の授業は、気温が上がってくるにつれて、厳しさを増していた。
何の厳しさかって? いかに、うだるような暑さの教室で眠気を抑えるか、だよ。
今日は、火星と海王星が素晴らしい位置にあるらしい。太陽系のミニチュア模型を出して、トレローニー先生が説明をしている。もう少し風通しの良い場所で聞いたのならば、興味を持って聞くことも出来ただろうが、生憎と身体を包み込む温風と鼻に付く香料が、集中力を途切れさせる。
何人かは、もうギブアップしている様子だ。机にぐったりと突っ伏している。アリスも御多分に漏れず、その中の一人だった。
トレローニー先生の囁くような声が、更に眠気を誘う。頭の働きがどんどん鈍くなっていき、それと同時に瞼がどんどん重たくなっていく──。
「アアアアアアアアッ!!!」
背後から聞こえた叫び声に、さっきまでぼくを取り囲んでいた眠気は胡散霧消した。霧がかっていた思考がパッとクリアになる。
教室中に先ほどまで漂っていた、誰もを眠気に誘おうとする雰囲気は、既に消え去っていた。
「ハリー!」
条件反射で、ぼくは床に転がるハリーに駆け寄った。両手で傷跡を抑えている。傷が痛むのか。ハリーを強く揺さぶった。
この前の夏休みと同じだ。ヴォルデモートの夢を、見たのか。
ヴォルデモートとハリーを繋ぐ絆。
どうしてハリーは、ヴォルデモートの夢を見るんだ?
ハリーはやがて目を開け、ぼくを見た。荒い息を吐いている。
クラス中が、ハリーに注目していた。
ロンが「大丈夫か?」と心配げに声を掛ける。トレローニー先生は興奮したように叫んだ。
「大丈夫なはずありませんわ! ポッター、どうなさったの? 不吉な予兆? 亡霊? 何が見えましたの?」
うるさいな、とぼくはちょっとだけ眉を寄せた。ハリーも、ぼくと同じように思ったらしい。ぼくの手に捕まって立つと、トレローニー先生にはっきりと「僕、医務室に行った方がいいと思います。ものすごい頭痛がするんです」と告げる。
「まぁ! あなたは間違いなく、あたくしの部屋の、透視振動の強さに刺激を受けたのですわ! 今ここを出ていけば、折角の機会を失いますわよ。これまでに見たことのないほどの透視──」
「頭痛の治療薬以外には、今は何も見たくありません」
語気を強めてハリーは言うと、ぼくの腕を引いて歩き出した。え、と目を瞠るも、ハリーの見た夢について詳しく聞きたい気持ちが、授業よりも圧倒的に勝った。
アリスに、後で荷物を持ってきて欲しい、と目配せすると、羨ましそうに睨まれる。ぼくは小さく笑って肩を竦めると、教室を出た。
「ヴォルデモートの夢を見た」
廊下は、授業中だからか閑散としていた。
誰もいない廊下を大股で歩きながら、ハリーはぼくに言った。
「ヴォルデモートがワームテールのしくじりを責めてた。でも、ふくろうが何かいい知らせを持ってきたんだ。だから、ワームテールはナギニの餌にならずに済んだ。その代わり、僕が死ぬ。そんな算段を立てている夢だった」
ハリーは、自らの見た夢を淡々と言葉にすると、医務室ではなく校長室へと足を向けた。ガーゴイルの石像の前で立ち止まる。
そして、ぼくらは目を見合わせた。そう言えば、合言葉は違うものになっていたんだったっけ。
「ダンブルドアは、ぼくに昔『甘いものを全て挙げていけば、いつかは正解に辿り着く』って言ってた……今もまだ、そんなルールなのかは知らないけど」
「でも、やってみる価値はありそうだ……梨飴。杖型甘草飴。フィフィフィズビー」
なかなか当たらない。ハリーに続いた。
「どんどん膨らむドルーブルの風船ガム。バーティー・ボッツの百味ビーンズ」
「アキ、ダンブルドアは百味ビーンズ、好きじゃないって昔言ってたよ。何でも若いとき、ゲロの味に当たったらしい──」
「……それは、なんたる災難」
想像して、口の中が強張った。それはトラウマものだろう。
ハリーは首を捻りつつ、続ける。
「あと、何があったかな……蛙チョコレート、砂糖羽根ペン、ゴキブリゴソゴソ豆板」
驚くべきことに、『ゴキブリゴソゴソ豆板』が合言葉で正解だったらしい。
ガーゴイルがぴょんと飛び退くのに、ぼくとハリーは目をまん丸くさせた。
「「ゴキブリゴソゴソ豆板?」」
顔を見合わせる。
「冗談のつもりだったのに……」
さすがはダンブルドアだ。ぼくらの予想を超えてくる。
ぼくらはガーゴイルの横を通り抜けると、石の螺旋階段に足を掛けた。階段がゆっくりと上昇し、後ろの壁は閉じられる。
やがて、ぼくらは扉の前に辿り着いた。真鍮のノッカーが、ぼくの目の高さの位置にある。
部屋には、誰かがいるようだった。ぼくらはちょっと躊躇する。
「ダンブルドア、私にはどうも繋がりが分からんですよ。全く分かりませんな。ルードが言うには、バーサの場合は行方不明になっても、全くおかしくはない。確かに、今頃はもうとっくにバーサを発見しているはずではあったが、それにしても、何ら怪しげなことが起きているという証拠はないですぞ、ダンブルドア。全くない。バーサが消えたことと、バーティ・クラウチの失踪を結びつける証拠となると、尚更」
この声は、魔法大臣のコーネリウス・ファッジのものだ。続けて、ムーディの声も聞こえた。
「それでは、大臣。バーティ・クラウチに何が起こったとお考えかな?」
「アラスター、可能性は二つある。クラウチはついに正気を失ったか──大いにあり得ることだ。あなた方にもご同意頂けるとは思うが、クラウチのこれまでの経歴を考えれば──心神喪失で、どこかを彷徨っている──」
「もしそれなれば、随分と短い間に、遠くまで彷徨い出たものじゃ」
ダンブルドアの声は冷静だった。
「もしくは……いや、クラウチが見つかった現場を見るまでは、判断を控えよう。しかし、ボーバトンの馬車を過ぎたあたりだとおっしゃいましたかな? ダンブルドア、あの女が何者なのか、ご存知で?」
「非常に有能な校長だと考えておるよ。ダンスも素晴らしく上手じゃ」
「ダンブルドア、あなたはハグリッドのことがあるので、偏見からあの女に甘いのではないのか? 連中は全部が全部無害ではない──もっとも、あの異常な怪物好きのハグリッドを無害と言うのならの話だが──」
「わしはハグリッドと同じように、マダム・マクシームも疑ってはおらんよ。コーネリウス、偏見があるのはあなたの方かもしれんのう」
「議論はもう止めぬか?」
ムーディが唸った。それにファッジも対抗するように苛ついた声を出す。
「それでは外に行くとしよう」
「いや、そうではないのだ。ポッターどもが話があるらしいぞ、ダンブルドア。扉の外におる」
ぼくらは度肝を抜かれたが、そう言えばムーディは『魔法の目』で、たとえ分厚い扉が間に挟まれていたとしても、それを透かして見ることができるのだった。
やがて、扉が開かれ、ムーディがぼくらを見下ろした。
「よう、ポッターども。さあ、入れ」
ぼくらは、少々居心地の悪い思いを感じながらも、ダンブルドアの部屋へと入った。ファッジは「ハリー! それに、君も」と、ぼくらを見て愛想よく笑う。
「今、丁度クラウチ氏が学校に現れた夜のことを話していたところだ。見つけたのはハリー、君だったね?」
「はい。……でも、僕、マダム・マクシームはどこにも見かけませんでした。あの方は隠れるのは難しいのじゃないでしょうか?」
ファッジは気まずそうな表情を浮かべた。
「まぁ、そうだが。今からちょっと校庭に出てみようと思っていたところなんでね、ハリー、すまんが、授業に戻ってはどうかね?」
「僕、校長先生にお話したいのです」
ハリーはダンブルドアを見て急いで言った。
ダンブルドアは、ハリーの真意を探るような目でハリーを見たが、やがて微笑んだ。
「それなら、ここで待っているがよい。我々の現場調査は、そう長くはかからんじゃろう」
そう言って、ダンブルドアとファッジ、そしてムーディは出て行った。
ムーディは、最後にぼくに暗い一瞥を残す。その視線を、臆することなく受け止めた。
ぼくらは、主人がいなくなった部屋で、ソファに腰掛けた。
「まだ、傷は痛む?」
そう尋ねると、ハリーは首を振った。
「もう大丈夫。心配かけてごめんね、アキ」
「ううん、いいんだ」
ハリーはちょっと微笑んで、周囲を興味深そうに見渡した。不死鳥や組み分け帽子、それにゴドリック・グリフィンドールの剣。
ふと、何かに興味を惹かれたように、ハリーは立ち上がった。背後の黒い戸棚へと近付いて行き、覗き込む。
「なんだろう、これ……」
「どれ?」
戸棚は、きちんと閉じられてはいなかった。ハリーは迷いながらも、戸棚に手を掛け、そろりと開ける。
中には、石の水盆が置かれていた。中には、見たこともないものが入っている。液体なのか気体なのかも判別出来ない。白っぽい銀色の物質で、じっと見ていると、絶え間なく波打っているのが見えた。なんとなく、守護霊のようだな、と考える。
この物体は、一体何なのだろう。ハリーも同じ考えのようで、杖を取り出すと、校長室を恐る恐る見渡し、そして杖で水盆の中を軽く突つく。
すると、途端に中の銀色の物体は渦を巻き始めた。そして、何やらどこかの風景を映し出す。
大きな部屋だ。そして、とても薄暗い。窓がないのか。
ぼくはハリーと共に、水盆の中をじっと覗き込んだ。
ぐるりと部屋を一周して、ベンチが階段状に並んでいる。そこに、人がずらりと腰掛けている。
部屋の真ん中には、椅子が一脚だけ置いてあった。椅子の肘には、重たそうな鎖が鈍く光っている。
ハリーは、ぼくの指をぎゅっと掴んだ。そして、もっと水盆に顔を近づける。
ハリーの鼻先が水面に触れた、その瞬間、視界がぐるりと回った。
ハリーがするんと水盆の中に吸い込まれていく。呆気に思う暇もなく、ぼくはハリーに掴まれていた指先から、水盆の中へと入って行った。
気がつくと、ぼくとハリーは、さっきまで水盆の中に移っていた景色の中にいた。丸い部屋の壁際、階段状のベンチの一番上に、ぼくらはいつの間にか立っていた。
部屋には、ざっと二百人くらいは人がいるだろうか。誰も、ぼくらが現れたことに気付いた様子すらない。
こんなに大勢の人がいるというのに、身じろぎをするときに鳴る服の擦れる音以外は、誰も口を開いていない。
「わぁっ!」
突然、ハリーが叫び声を上げた。慌てて振り返ると、ハリーの隣にはダンブルドア。
ぼくらは口々に謝ったが、ダンブルドアはこちらをチラリとも見ず、気付いてすらいないようだった。
「アキ、もしかして、これ……」
「『記憶』の中、だろうね、多分」
そう思って見てみると、少しはダンブルドアが若々しく見える。同じ銀色の髪に長い髭だが、ほんの、ほんの少しだけ、シワが少ないかな? 程度だが。
部屋を見渡してみる。光が全く入っていないし、どことなく感じる雰囲気から、地下室のようだ。ベンチが円状に並んでいて、その中心に一脚の、鎖がついた椅子……これは、この部屋は、多分──法廷だ。
隅にあるドアが開いて、三人の人影が入ってきた。男が一人、そして彼に付き従っているのは、二体の吸魂鬼だ。一気に周囲の温度が下がる。
ハリーが、ぼくの手をしっかりと握りしめた。その手も冷たい。
吸魂鬼は、男を中央の椅子に座らせた。この顔には見覚えがある。イゴール・カルカロフだ。
椅子の鎖が金色に輝くと、カルカロフの腕に一人でに巻きつき、縛り付けた。
「イゴール・カルカロフ」
クラウチが立ち上がり、罪人の名前を読み上げた。今よりもずっと若々しく、生気に溢れている。
「お前は魔法省に証拠を提供するために、アズカバンからここに連れてこられた。お前が、我々にとって重要な証拠を提示すると理解している」
カルカロフは目を瞬かせながらも、出来る限り背筋を伸ばした。
「その通りです、閣下。私は魔法省のお役に立ちたいのです。手を貸したいのです──私は魔法省がやろうとしていることを知っております──闇の帝王の残党を一網打尽にしようとしていることを。私に出来ることでしたら、何でも喜んで……」
ベンチに腰掛ける聴衆が、不快感を露わにするようにざわざわと声を上げた。
「汚い奴。クラウチは奴を釈放するつもりだ。奴と取引した。六ヶ月もかかって奴を追い詰めたのに……仲間の名前をたくさん吐けば、クラウチは奴を解き放つつもりだ。……いいだろう、情報とやらを聞こうじゃないか。それからまた真っ直ぐ吸魂鬼の元へとぶち込め」
ムーディだ。そして──ぼくは目を大きく見開いた──その隣に、幣原秋が座っていた。
年齢は、二十を少し超えたあたりだろうか。随分と大人びた。輪郭がシュッとして、目つきがちょっと鋭くなったか。
自分が成長した後の姿を見る、という経験はそうそうないから、ぼくにとってはかなり衝撃的だった。そうかぁ、ぼく、数年後にはこんな感じになるのかぁ。
願うなら、もう少し身長があって、もう少しイケメンであればなぁ、と思いはするのだが。女の子にも未だに見間違えられる大きな目とか、ちょいとコンプレックスではあるんだぞ。初対面のシリウスに、女の子と間違えられナンパされたのはトラウマだ。
幣原は、黙って指先を合わせ、感情の読めない瞳でカルカロフを見下ろしていたが、「ムーディ先生、なんでぼくをわざわざここに連れて来たんですか? ぼく、まだ仕事が大量に残っているんですけど。こないだの始末書、まだ書き終わってないし」とため息と共に尋ねた。
「何、貴様も知っておいて損はないだろう? どうせ、そのうち相手取ることになるのだ。奴さんの名前を再認識するのに損はするまい? あいつがいなくなった今、お前が何十人もの部下を指揮するのだから」
「……本当、やってらんないよ」
そうぼやいて、幣原は軽く頭を振った。
着ている服は、ムーディのものと少しデザインは異なるが、大まかな形や色は大体同じだ。黒の、インバネス・コート、というのだろうか? そんなローブに、ループタイ。きっちりと一番上まで止められたシャツのボタンは、幣原の神経質さが現れている。襟元や袖口には、鈍い輝きを放つ紋章があしらわれていた。
カルカロフの尋問が始まっていた。喘ぎながらも、何人もの名前を挙げていく。その様は、こうして『記憶』を覗き見しているだけのぼくにしてみても、醜悪で、嫌悪を催すものだった。
「よかろう、カルカロフ、これで全部なら、お前はアズカバンに逆戻りしてもらう。我々が決定を──」
クラウチ氏がそう結論つけようとした時、カルカロフは「まだ終わっていない!」と必死な面持ちで叫んだ。半ば立ち上がりかけようとするカルカロフの手足を、金色の鎖がきつく縛り上げる。
「スネイプ! セブルス・スネイプ!」
「この評議会はスネイプを無罪とした。アルバス・ダンブルドアが保証人になっている」
「違う! 誓ってもいい、セブルス・スネイプは『死喰い人』だ!」
幣原は、先ほどまでの無表情を僅かに歪め、眉を寄せてじっとカルカロフを見つめていた。
眼差しには──なんだ? この色は。憎しみだけじゃない、なんだろう、悲しみなのか? 少し違うようにも見える、そんな感情が渦巻いている。
合わせている指先に、ぎゅっと力が篭ったのが見てとれた。
ダンブルドアは立ち上がった。
「この件に関しては、わしが既に証明しておる。セブルス・スネイプは確かに『死喰い人』ではあったが、ヴォルデモートの失脚よりも前に我らの側に戻り、自ら大きな危険を冒して我々の密偵になってくれたのじゃ。わしが『死喰い人』ではないと同じように、今やスネイプも『死喰い人』ではないぞ」
ムーディは甚だしく疑わしげな目つきでダンブルドアを見ていたが、気遣わしげに幣原をちらりと見た。幣原はその視線に気付かず、未だ迷いの残る眼差しで前を見据えている。
「よろしい、カルカロフ。お前は役に立ってくれた。お前の件は検討しておこう、その間はアズカバンに──」
声が段々と遠ざかる。法廷は消えかかり、すべてが半透明となっていく。
暗闇が渦を巻き──やがて、法廷がまた戻ってきた。
今回は、先ほどと違って楽しげな雰囲気だ。ここがクィディッチ競技場だ、と言われても納得出来るだろう。
部屋の隅のドアが開き、ルード・バグマンが入ってきた。今より若く、精悍だ。
ベンチに座る魔女の何人かが手を振るのに、バグマン氏はちょっと笑って手を振り返した。
「ルード・バグマン。お前は『死喰い人』の活動に関わる罪状で答弁するため、魔法法律評議会に出頭したのだ。既にお前に不利な証拠を聴取している。間もなく我々の評決が出る。評決を言い渡す前に、何か自分の証言に付け加えることはないか?」
「あの──その、私はちょっとただ──」
「若造め、本当のことを言いおったわい」と、ムーディは呟いた。今回は、幣原の姿は見当たらない。
「しかし、申し上げたとおり、私は知らなかった! ルックウッドは私の父親の古い友人で、『例のあの人』の一味とは考えたこともなかった! それに、ルックウッドは、将来私に魔法省の仕事を世話してやると、いつもそう言っていたのです……クィディッチの選手生命が終わったら、の話ですが……死ぬまでブラッジャーに叩かれ続けてるわけにはいかないでしょう?」
温かみのある忍び笑いがそこかしこで上がった。クラウチ氏は冷たく「評決を取る」と言い放つ。
「陪審は挙手願いたい──禁固刑に賛成の者──」
誰も手を挙げなかった。一人の魔女が立ち上がる。
「先週の土曜に行われたクィディッチのイギリス対トルコ戦で、バグマンさんが素晴らしい活躍をなさいましたことに、お祝いを申し上げたいと思いますわ」
法廷は拍手の音で埋め尽くされた。クラウチ氏はカンカンに怒っていた──
そして、再び世界は回る。
次に現れた光景もまた、法廷だった。今度は、一番最初に見たものと雰囲気が近い。しんと静まり返っている。クラウチ氏の隣にいる魔女のすすり泣きが──涙の雫ももう出ないようなすすり泣きが──聞こえるだけだ。
今回は、幣原秋の姿があった。先ほどよりもやつれて見える。それに、少し痩せたようだ。目の下には黒々とした隈が刻まれており、眉間には深いシワが寄っていた。いつものように両手の指を合わせ、神経質そうに人差し指同士をトントントンと触れ合わせている。
今度は、四人の被告と六体の吸魂鬼が姿を現した。鎖付きの椅子は四脚になっており、吸魂鬼はそれぞれを椅子に座らせる。
「お前たちは魔法法律評議会に出頭している。この評議会は、お前たちに評決を申し渡す。罪状は極悪非道の──」
「お父さん」
薄茶色の髪の青年が呼びかけた。ガタガタと震えている。と、いうことは──彼が、クラウチ氏の息子なのか。
平素ならば鼻筋の通った美青年であるだろうにも関わらず、さらりとした髪は乱れ、その表情は恐怖に歪んでいる。
「お父さん……お願い……」
クラウチ氏は息子の声を無視して続けた。
「──この評議会でも類のないほどの犯罪である。四人の罪に関する証拠の陳述は既に終わっている。ロドルファス・レストレンジ。ラバスタン・レストレンジ。ベラトリクス・レストレンジ。──バーティミウス・クラウチ・ジュニア」
最後の人物の名をクラウチ氏が読み上げた瞬間、法廷がざわついた。
クラウチ氏は憎々しげに歯噛みすると、ざわめきよりも大きな声で罪状を読み上げる。
「お前たちは一人の闇祓い、フランク・ロングボトムを捕らえ、『磔の呪い』にかけた咎で訴追されている。ロングボトムが、逃亡中のお前たちの主人である『名前を言ってはいけないあの人』の消息を知っていると思い込み、この者に呪いをかけた咎である──」
「お父さん、僕はやっていません!」
悲痛な声。聴衆の何人かが、痛ましげに目を逸らした。
「お父さん、僕は、誓って、やっていません。吸魂鬼のところへ送り返さないで──」
「さらなる罪状は、フランク・ロングボトムが情報を吐こうとしなかったとき、その妻、アリス・ロングボトムに対して『磔の呪い』をかけた咎である。二人を回復不可能な状態にまで追い込んだ。お前たちは『名前を言ってはいけないあの人』の権力を回復せしめんとし、その者が強力だった時代を、お前たちの暴力の日々を復活せしめんとした。加えて──」
「お母さん!」
その声に、クラウチ氏の隣にいた魔女が大きく肩を震わせた。ガタガタとハンカチを持つ手を震わせ、すすり泣く。
「お母さん、お父さんを止めてください。お母さん、僕はやっていない。あれは僕じゃなかったんだ!」
「加えて! 闇祓いのエリス・レインウォーター、かの者を闇の魔術により『生ける亡者』とし、闇祓いの動向を探ったことについて! これは酷く非人道的な行為であり、極めて凶悪な犯行であると見なされるだろう!」
幣原は、ぐ、と歯噛みした。合わせた両手が、細かく震えている。
ムーディも憎々しげな表情で、目下の四人を睨みつけていた。
エリス・レインウォーター。幣原が四年生の頃の、レイブンクロー監督生。
魔法魔術大会で、幣原の前に帽子を脱ぎ──そして、幣原の両親が死んだ折、まだ設立されたばかりの『不死鳥の騎士団』に誘った人物。
空っぽだった幣原に、『復讐』という、生きる意義を差し出した人物。
クラウチ氏は続けた。
「ここで陪審の判決を。──これらの罪は、アズカバンでの終身刑に値すると、私はそう信ずるが、それに賛成の陪審員は挙手を願いたい」
誰もが、一斉に手を挙げた。自然と、拍手が沸き起こる。残忍な拍手が──自分を正義と断ずるが故の、傲慢な拍手が、沸き起こる。
その拍手に負けない声で、クラウチ・ジュニアは叫んだ。
「嫌だ! お母さん、嫌だ! 僕、やってない。やっていない。知らなかったんだ! あそこに送らないで! お父さんを止めて!」
吸魂鬼が、四人をアズカバンへと再び輸送しようと現れる。そこで、魔女は──ベラトリクス・レストレンジはクラウチ氏を見上げ、狂気の籠った声で叫んだ。
「クラウチ、闇の帝王は再び立ち上がる! 我々をアズカバンに放り込め! 我々はただ待つだけだ、あの方は必ず蘇り、我々を迎えにおいでになる。他の従者の誰よりも、我々をお褒めくださるであろう! 我々のみが忠実であった! 我々のみが彼の方をお探し申し上げた!! 闇の帝王、万歳!! ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」
クラウチ・ジュニアは、父親を見つめて、まだ叫び、もがいていた。
聴衆は、そんな彼を嘲笑う。
「僕はあなたの息子だ! あなたの息子なのに!」
「お前は私の息子などではない!」
クラウチ氏は、箍が外れたように叫んだ。
クラウチ・ジュニアの瞳が大きく見開かれる。
「私には息子などいない!」
その言葉に、クラウチ・ジュニアは呆然と、その顔から表情を失くした。
──しかし、それも一瞬だった。
「っふ、ふふふ………………アハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
クラウチ・ジュニアは、大きく肩を震わせ高らかに哄笑した。
気が触れたような笑い声に、観客の嘲笑はピタリと止まる。
「息子をいなかったものにするか! 息子までもが、お前を装飾するものに過ぎなかったのか! こちらこそ、お前みたいな父親など願い下げだ!! そのまま全ての傷を捨て置いて進むがいい、修羅の道を!! 振り返った先には屍ばかりだ、なんたる滑稽、なんたる傑作!! アハハハハハハハハハハ!!!」
そして、クラウチ・ジュニアは、ぐるりと首を回して──幣原秋を、狂気を孕んだ瞳で見据えた。幣原を指差し、叫ぶ。
「見ていたぞ、俺たちは、お前を! 幣原秋よ、お前はここにいる誰よりも罪深い!! 『黒衣の天才』よ、お前はその手で何人殺した、何人壊した、何人の未来を奪った、言ってみろ!! お前の暗闇の前では、俺たちの罪など片腹痛い!!」
今までの仮面を、父親の前での『息子』の仮面をかなぐり捨て、クラウチ・ジュニアは吠えた。父親に「息子などいない」と言われた今、もうそんなものはどうだっていいのだろう。
幣原秋は、蒼白な顔で、色を失った表情で、クラウチ・ジュニアを見つめていた。「聞くな、幣原!」と、ムーディが瞬時に幣原の耳を両手で塞ぎ、顔を背けさせる。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、俺たちが、お前を、絶対に殺してやる!! お前に殺された仲間の無念を! あの方が再び蘇ったとき、お前の首が手土産だ!! 我らの憎しみを、我らの恨みを、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に忘れるな!! それだけのことをお前はやったのだ!! お前の罪深さを、しっかりと思い知るがいい!! 死ね、幣原秋!! 同胞を数多殺したお前の罪は、地獄の業火に焼かれてもなお有り余る!! アハハハハハハハハハッ、アハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」
吸魂鬼が、クラウチ・ジュニアを法廷から引きずり出した。
重たい扉が閉まっても、彼の、彼らの狂った笑い声は、耳の奥にこびりついて離れなかった。ムーディが、目を見開いて自失する幣原の肩を強く揺さぶる。
「幣原、我を忘れるな。お前はここにいる、お前は、確かにここにいる。自分を見失うな。お前が迷うと、何人が路頭に迷うと思う? お前の迷いが、仲間を殺すのだ。忘れるな、幣原秋。お前は迷ってはいけない」
「……そこまでにするのじゃ、アラスター。お主のその言葉こそが、何よりその子を追い詰める──と、言っても今更のことだがの」
ダンブルドアは悲しげにため息をつくと、ぼくとハリーをくるりと向いた。
「そろそろ、わしの部屋に戻る時間じゃ。ハリー、アキ」
気がつくと、ぼくとハリーは校長室にいた。水盆の入っていた戸棚の前に立っている。すぐ横にはダンブルドアがいた。
「校長先生……いけないことをしたのはわかっています──そのつもりはなかったんです。戸棚の戸が、ちょっと開いていて、それで──」
ハリーがたどたどしく言うのに、ダンブルドアは鷹揚に頷いた。
「分かっておる」と言うと、その水盆を持ち上げ、自分の机の上に載せる。そして椅子に腰掛けると、ぼくらに向かい側に座るよう合図した。
「これは何ですか?」
ハリーが尋ねる。
「これはの、ペンシーブ、『憂いの篩』じゃ。時々感じるのじゃが、考えることや想い出があまりにも色々あって、頭の中が一杯になってしまったような気がするのじゃ。そんなときに、この篩を使う。溢れた想いを頭の中からこの中に注ぎ込んで、時間のあるときにゆっくり吟味するのじゃよ」
「それじゃ……この中身は、先生の『憂い』なのですか?」
「その通りじゃ」
ダンブルドアは杖を取り出すと、その先端をこめかみに触れさせた。そして杖を離すと、銀色の物質が、糸状になって杖にくっついていく。ダンブルドアは、その『憂い』をそっと水盆の中に落とした。水面にハリーの顔が写っていた。
ダンブルドアが篩を掴んで揺すると、次はスネイプ教授の顔が水面に浮かぶ。教授は口を開いた。
『あれが戻ってきています……カルカロフのもです……これまでよりずっと強く、はっきりと……』
「篩の力を借りずとも、わしが自分で結びつけられたじゃろう。しかし、それはそれでよい」
ダンブルドアは、ハリーとぼくを交互に見た。
「ファッジ大臣が会合に見えられたとき、ちょうどペンシーブを使っておっての。急いで片付けたのじゃ。どうも戸棚の戸をしっかり閉めなかったようじゃ。当然、君らの注意を引いてしまったことじゃろう」
「……ごめんなさい」
「好奇心は罪ではない。しかし、好奇心は慎重に使わんとな……まことに、そうなのじゃよ……」
ダンブルドアは、杖の先で水盆を突ついた。すると今度は、十代後半くらいの女の子が現れた。
『ダンブルドア先生、あいつ、私に呪いを掛けたんです。私、ただちょっとあの子をからかっただけなのに。普段は虫も殺さないような顔してるから、ちょっと意地悪しようと思っただけなのに。あの子が先週の木曜に、温室の陰でフローレンスにキスしてたのを見たわよって言っただけなのに……』
「じゃが、バーサ。君はどうして、そもそもあの子の後をつけたりしたのじゃ?」
ダンブルドアは悲しげに独り言を呟いた。それじゃあ──今の子が、バーサ・ジョーキンズか。
ハリーも、同じことを考えたようだった。
「この子が、昔のバーサ・ジョーキンズ?」
「そう、わしが覚えておるバーサの学生時代の姿じゃ」
ダンブルドアはその『憂い』を沈めると、ぼくらに向き直る。
「君には、酷なものを見せてしまったかの、アキ」
「……そんな、こと」
思わず口ごもる。ハリーが、ぼくの手をぎゅっと握った。それに、少しだけ励まされる。
「じゃが、忘れるでない。アキ」
ダンブルドアは、目を細め、険しい口調でぼくに告げた。
「全て、忘れるでないぞ、アキ。想いも、憂いも、悲しみも、喜びも、望みも、全て君自身のものじゃ。決して、誰かのものではない。そのことを、ゆめゆめ、忘れるな」
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