「…………、あー」
カーテンから差し込む日差しに焼かれ、ぼくは目を覚ました。見慣れぬベッド、見慣れぬカーテン、見慣れぬ机、見慣れぬ部屋。──ジェームズ・ポッターの生家。
……嫌な夢を見た、気がする。覚えていないけれど。覚えていなくて良かった、とも思う。忘れることは、あまり得意ではないのだ。
余計なことばかりを覚えている。
忘れたいことばかりを、覚えているのだ。
身を起こした。もう一眠りする気も起きず、身支度を整えると時計を見る。
まだ、朝の六時を少し過ぎたくらいか。降りていくには、少々早すぎる時間帯だ。
夏休みの宿題を少しばかりやって、もともとこの部屋にあった本をパラパラ読んだ頃合いで、七時が過ぎた。そろそろ大丈夫か、とぼくは本をパタンと閉じると、部屋を出た。
木造りの、ちょっと不思議な家だ。昨日、ここに初めて来たときは、今にも崩れてしまうんじゃないかと驚いた。ヘンテコな木箱がいくつも積み重なったようなお家なんて、初めて見たものだから。
木のお家は、石造りのホグワーツより、なんだか少し暖かく感じられた。
リビングを開けると、トーストの焼ける香ばしい匂いと、コーヒーの香りが漂ってきた。
ジェームズのお母さん──ユーフェミアさん、と言っていたっけ──は、ぼくの姿を見ると「あら、早いのね。おはよう、秋くん」とにっこりと笑った。
「あ、あの、はい、おはようございます……」
やっぱりもう少しゆっくりしてから降りてくるべきだったか。
僅かに目を伏せた瞬間、両頬に手が添えられた。ジェームズのお母さんの手だった。穏やかに、ぼくの目を覗き込んでいる。ジェームズのハシバミ色の目と、同じ目だ。
「秋くん、ジェームズを起こしてきてくれる? あの子、寝汚いから。夏休みだと言っても、いつまでも眠ってちゃあダメよ。『眠れるドラゴンをくすぐるべからず』なんて言うけれど、ジェームズはくすぐっても起きないわ。覚悟してね?」
「あ……はい」
頷くと、優しく頭を撫でられた。何だか、変な気分になる。
撫でられた部分をなんとなしに手で触りながら、ぼくは先ほど下ってきた階段を上った。ジェームズの部屋は、確か最上階だったはずだ。
うねうねと入り組んだ廊下や階段を、昨日案内された記憶を頼りに歩く。
やがて、目的の部屋へと辿り着いた。温かみのある赤い木の扉に、ちょっぴり歪な文字で『じぇーむず』と書いてある表札が掛かっている。
軽くノックしたが、返事はなかった。そこまでは期待しちゃいない、ぼくも。
ドアを押し開け中に入ると、壁に貼られたクィディッチ選手のポスターに出迎えられた。ビュンビュン飛び回ってはクワッフルやらを忙しなく投げ合っている。目が回りそうだ。
足元に適当に放られているトランクに足を取られそうになって、ぼくは慌てて飛び退いた。半開きになっているクローゼットに、本棚はあるものの、中身は半分ほどしか詰まっておらず、残りの半分は床やら机やらベッド脇やらに散乱している。
ベッドの上で大の字になって眠っているジェームズを起こすより先に、まずは紅色の分厚いカーテンを開けるのが先だ。
窓を開け、大きく息を吸い込み、吐き出した。ここからは、この辺り一帯、ゴドリックの谷を一望出来る。
「ジェームズ、朝だよ、起きて」
新鮮な空気を肺いっぱいに取り込んだところで、ぼくはジェームズを起こしに掛かった。
まずは肩を軽く揺さぶりながら、声を掛けてみる。しかし、このくらいじゃジェームズは目を覚まさない。
「起ーきーてー、ジェームズ、朝だよ!」
強く揺さぶるも、ジェームズは幸せそうにむにゃむにゃと言葉にならない声を漏らした。
「ジェームズ!」
毛布を剥ぎ取ると、ジェームズは眉間にシワを寄せて、毛布を探すように空中に手を伸ばした。
「起きて、起きてってば……って、ちょっと!」
ジェームズを再び揺り起こそうと手を伸ばしたぼくの腕を、ジェームズは掴むと遠慮なく引っ張った。
堪えきれずベッドに倒れ込むぼくを、ジェームズは容赦なく抱きしめる。
「んー、秋……秋の声がする……」
「はっ、離して、ジェームズ……っ!」
じたばたともがくも、もがけばもがくほどにジェームズのホールドは強まっていく。
「ジェームズっ、おいっ、プロングズ!」
「あー、レイブン、あったかーい……ええ、僕のためにその服、着てくれるの……うへへ」
「一体どんな夢を見てんだよ!? ……っひ」
もぞり、と、ジェームズの手が服の中に入ってきたことで、ぼくの堪忍袋の緒もぷっつん切れた。
穏やかに揺れていたカーテンが、突如として暴風に巻かれたようにくるくると踊る。地面に散乱していたものは、旋風によって端に吹き飛ばされた。
「あ、や、やぁおはよう、レイブン……」
「プロングズ」
壁に叩きつけられて、ジェームズはようやっと目を覚ましたようだ。
はは、と床に座り込み笑うジェームズを、腕を組み見下ろした。
「一体何を怒ってらっしゃるので? ま、まさか、僕の夢を垣間見た!?」
「へぇ、ぼくに怒られるような夢を見ていたの?」
「やべ、墓穴掘った」
風が、部屋の中で渦を巻く。ぼくの長い髪を、風が揺らしている。
「……選ばせてあげよう、プロングズ」
ぼくはにっこりと笑った。
「ここから紐なしバンジージャンプか、明日からきっちりばっちりしっかり起きるか、の二択だ」
◇ ◆ ◇
それからのハリーは、荒れていた。部屋に閉じこもり、ご飯の時にも降りてこない。
きっと、シリウスとロン、ハーマイオニーに宛てた手紙の返事がなかなか返ってこないことに、腹を立てているのだと思う。思春期だろうか。
「おい小僧」
ぼくは居間で付けっ放しにされていたテレビのニュースを見ていたのだが(ハリーがニュースを見ていると文句を言うのに、ぼくには言わないのは、多分……いや、やめておこう)、おじさんの声に顔を上げた。
「わしらは出かける。上にいるあやつにも伝えろ」
「どこに?」
「『全英郊外芝生手入れコンテスト』の授賞式だ」
「うん、どうぞ。行ってらっしゃい」
バーノンおじさんは、ぼくの気のない受け答えに渋い顔をした。
「この家から出てはならん」
「ハリーが窓から飛び降りようと思わなければね」
「……鉄格子をつけるべきか」
「さすがに非常識だと思うよ。もう一回空飛ぶ車の登場かな?」
まぁ、あの車は今頃ホグワーツの『禁じられた森』で野生化してるんだろうけど。
「……分かっておるのか? わしら全員が、この家からいなくなるんだぞ?」
「あぁ」
ぼくはそこでやっと、テレビから目を離してバーノンおじさんを見た。おじさんの手に持っているのは、その案内の公文書だろうか。それを見て、ぼくはにやりと笑った。
「分かってるよ」
彼らが車に乗り込むのを、その車がエンジン音と共に駐車場を滑り出すのを、ぼくはレースのカーテン越しに見つめていた。そしてすぐさま階段を駆け上がると、部屋のドアを勢い良く開け放ち、ぼんやりとベッドに寝転がっているハリーに笑顔で叫んだ。
「ハリー、荷物をまとめて! 用意をするんだ!」
「さすが、と言うか、何というか……準備がいいというか、手際がいいというか」
リーマスは少し頭を押さえていたが、横目でぼくを見た。
「どうして、私たちが今日迎えに来ることが分かったんだい?」
ぼくとハリーは、もうそれは準備万端、いつでも出発出来ますよ、な体制でスタンバっていた。部屋はもう綺麗にしてあるし、トランクやらヘドウィグの籠やらはもう既に玄関の前だ。
そんなぼくらの様子を見て、リーマスは呆れた声を漏らした。ぼくは端的に、それに答える。
「だって、『全英郊外芝生手入れコンテスト』なんて出したの、シリウスだろ?」
「……あの一等星が、一番私たちの中で公文書向きの文字を書けるから、そうしたのだけれど……そんな分かりやすい何かがあったかな?」
「封蝋に見覚えがあった」
「……君の記憶力を度外視していた」
苦々しい口ぶりだったが、リーマスの表情はほころんでいた。
やがてリーマスは、ダーズリー家に『全英芝生郊外芝生手入れコンテスト』が嘘八百だったことのお詫びと、ぼくとハリーが姿を消すことに対して心配は要らない、という旨の手紙をしたため終わったようだ。「よし」と呟き、用紙を手に取り読み返す。そして「大丈夫かな?」とぼくに手渡してきた。
受け取り「大丈夫だろ」と頷き、リーマスの手に握られていたボールペンを要求する。『リーマス・ルーピン』と書かれた署名の隣に、『幣原秋』と名前を書き加えてから、リーマスに用紙を返した。
「君の方が、あいつより存外字が綺麗だね」
「あぁ、あの癖字は読みにくいでしょ」
「本当に。普段は神経質で几帳面だから、あの字の汚さには驚いたものだよ」
「あいつは読めればいいと思っている節があるからね。人に読めない文字は書くべきじゃないとぼくは思うよ」
しかし、普段バーノンおじさんやペチュニアおばさん、それにダドリーがいるはずのキッチンに、リーマスやマッドアイや魔法使いがたくさんいる、という光景はとても変な感じがするな。
マッドアイは「魔法の目が調子が悪い」と呻いて、水を張ったグラスの中に義眼を漬けているし、すぐそこでは、ニンファドーラ・トンクスと名乗った若い魔女が、ハリーの前で『七変化』を披露している。
「すごいものだ」
髪の色が紫からショッキングピンクに変わったのに、ぼくは感嘆の声を漏らした。ふふ、とリーマスは、トンクスを見て優しく微笑む。
「幣原秋の後輩だよ。『闇祓い』なんだ。マッドアイの秘蔵っ子でね」
「……それは、それは」
その言葉に、先ほどとは違った目でぼくはトンクスを見た。
ぼくとリーマスがあまりに不躾にトンクスを見つめ過ぎたせいか、彼女はこちらを振り返り、近付いてきた。
「何見てんの? 面白いことでもあった?」
「君を見てたんだよ、ニンファドーラ」
リーマスが微笑む。それにトンクスは呆気に取られたように目を瞬かせていたが、やがてボッと頬を真っ赤に染めた。それも『七変化』の能力だろうか?
「に、ニンファドーラって呼ばないでっていっつも言ってるでしょ!」
「あぁ、ごめんね。……そういうことで、彼女のことはファミリーネームで呼んであげて欲しい」
リーマスは、前半はトンクスに、後半はぼくに対してそう告げた。
ぼくはこっくりと頷くと、トンクスに対して「よろしく」と笑った。
「あ、うん! ……えっと、その。話には聞いていたけど、改めて見ると、なんかすっごい不思議な感じ……」
「何が?」
「だって、あなた、幣原秋、なんでしょう? 『黒衣の天才』、幣原秋。あなたの名前は、闇祓いの中では密やかに伝えられてる。時代の英雄で──そして、あなたのような人を二度と出さないようにって」
「…………」
「闇祓いはね、変わったよ。少なくとも今は、皆の憧れの、カッコイイ職業だ。エリートなのは変わらないし、物騒なのもそのまんまだけど」
そう言って、トンクスはキラキラと輝く笑みを浮かべてみせた。
虚を突かれて、ぼくは黙り込む。
マッドアイがトンクスを呼んだ。弾かれたように彼女はマッドアイの元に駆けつける。
それに、ぼくは金縛りが解けた気分で大きく息を吐いた。
「大丈夫? アキ」
「……うん、大丈夫。……少し、驚いた」
闇祓いに、あんな笑顔を浮かべられる人がいるなんて。
「いい子だね、彼女」
そう言うと、リーマスは穏やかに目を細めた。
「あぁ……そうだね」
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