――群青のヴェールに、星屑が散っている。
屋上に出たラビは、頭上いっぱいに広がる星空に、静かに吐息を漏らした。
対AKUMA戦闘組織『黒の教団』。崖の上に作られた要塞は、街灯りもいっさい届かない。足元の地面よりも、星灯りの方が明るいと感じるほどだ。
どうして、これだけの満天の星空の下にいるというのに、星の光は影を作らないのだろう。そんなことを考えながら、とりとめなしに空を見上げて歩いていると、何やら柔らかいものを踏みつけた。遅れて「ふぎゃっ!?」と、何とも間抜けな声。
頭で考えるよりも先に、身体が動いた。飛び退き、夜闇に目を凝らす。もぞもぞと『その人物』は、呻きながらも身を起こした。
「ね、寝てた……はっ、い、今何時ですか!?」
「は、えっ、と……確か夜中の二時前だったと思うさ!?」
確かその筈だ。屋上に上がってくる前にふと見た壁掛け時計は、あと少しで短針が二を示そうとしていた。記憶を思い返す。
声は、女性のものだった。歳の頃は、声だけではよく判らないが、少なくともそう上ではなさそうだ。
暗闇に、目がだんだんと慣れてきた。ぼんやりと目の前でうごめく人影の輪郭も、徐々に辿れるようになる。
声で推定つけたように、その身体は女性のもののようだ。リナリーよりも随分と小柄で華奢だった。戦闘職ではないのだろう、身体の線も細く貧弱だ。
「あ、ラビ様ですね」
「オレのこと知ってるんさ?」
こちらが彼女のことを観察していたように、彼女もラビを観察していたらしい。彼女は柔らかに微笑んだ。
「はい。エクソシスト様のお顔とお名前は、全員把握しています。団員たるもの」
「……さっき踏んじまって、ごめんな。怪我とか痛いとことかない?」
「平気ですよー、起こしてくださりありがとうございます」
少しズレたことをぽあぽあと返す彼女に、少し脱力しつつも思わず笑いが零れた。彼女はきょとんとした顔で首を傾げる。
「あの、ラビ様、何か?」
「何でもないさ。ところで、どうしてこんなところに?」
「今日は、やぎ座流星群の日なんです。今日の二時が、極大だったから」
「流星群……そうなんか」
頭上を振り仰ぐも、ぱっと目に付く流星はない。彼女はラビの反応に、くすりと笑った。
「やぎ座流星群はそんなに流星が見えないんです。HRが10未満で……あ、HRっていうのは『Hourly Rate』のことで、ひとりが一時間に何個の流星が見られるかって大体の値なんです。だからこの流星群は、一時間に五個も見えたら御の字ですね。見逃すことも多いから、一、二個見えたらいいくらいなんじゃないですか」
せっかくなので一緒に見ますか、と彼女は隣を叩く。少し躊躇って、腰を下ろした。彼女がころんと寝転がる。それに倣い、身体を倒す。
立って見るのと、寝転んで見るのとでは、視界に入る星の数が全然違う。思わず目を瞠った。
「さっきも、こうして見ていたんですけど、気付いたら眠っちゃっていたんです。静かで、涼しくって」
「こんなトコで寝たら風邪引くさぁ」
「だから、起こして頂いて助かりました」
「そんなつもりはまったくなかったんだけどな……」
ま、結果オーライなのだろう、きっと。
ふと視界の端で、星が流れた。動体視力でそれを捉えたラビは、思わずそちらを指で示す。
「流れた!」
「嘘っ、それは気のせいですっ! 私見逃したもの!」
「残念ながら嘘でも気のせいでもないんさー」
「それじゃあ見間違いです!」
ムキになって熱弁を奮う彼女に、苦笑を漏らす。その時彼女の腕がパッと持ち上がった。
「今流れましたよ! ラビ様見ましたか!?」
「はっ!? それこそ気のせいだろ!」
「いいえっ、ちゃんとこの二つの目で見ましたもの!」
「それはきっと見間違いさ!」
隣にいるというのに、同じ星空の下にいるというのに、見ているところは違うのだ。さっき出会ったばかりの彼女と、こうして共に空を眺めているというのは、何だか随分と不思議な気分だった。
星が流れぬ間は、暇だった。ラビはふと口を開く。
「そういや、名前聞いてなかった。科学班の子?」
「はい、エル・シェフィールドと申します。科学班に所属しております」
「へぇ、見覚えないけど、最近入った?」
「そうですね、二月ほど前に」
「ふぅん……」
確かその頃から、少し長めの任務に出ていた。見覚えないのも当然か。
「どうよ、ココは。居心地の程は」
「ご飯は美味しいし、お給料はいいし、やりたいことはできるし、夢のような仕事場ですよ。皆さんもすごく良くしてくださって」
「やりたいこと? 何かあんのか?」
「はい。私……」
小さな両手を大きく広げて。
目の中に多くの星を映そうとばかりに、大きく見開いて。
「宇宙に行ってみたいんです。あの空の遠く遠くまで、一体何が広がっているのか、自分の目で確かめたい。そして、宇宙から地球を見下ろしたい。きっと、とても綺麗なんだろうなぁ。そこはきっと『戦争』なんて、『聖戦』なんてちっぽけなことは存在しないんです。ただ、ただ、ただっ広い空間が広がっていて……この地球、私たちには随分と広く感じますけれど、太陽という恒星の重力で動かされている九つの惑星の、たったひとつでしかないんですよ。しかもそんな太陽系も、もっと大きな視点で見れば、天の川銀河のほんの外れに存在しているんです。本当に端っこなんですよ、ド田舎ですよ? 信じられます?」
エルの口調がおかしくて、思わず笑う。つられたようにエルも笑った。
「もしかすると、私たちと同じような生命体が暮らしている惑星は存在するかもしれません。空って、ずっと私たちの頭上に広がっているのに、全くなんにもその実態については解明されていないんですよ。私たちが宇宙のことについて判っていることは、たったの五パーセントと言います。他の九十五パーセントは未知の世界なんです。なんにも知らない世界が、ずうっと遠くの遠くまで広がっていて……私も、その謎の一端に手を触れてみたいんです」
――エルは、大きな夢を語る。
ラビには考えもしたことのない、それは随分と大きく、平和な夢だった。
AKUMAとの対戦、ノアについて、ハートのイノセンス等、考えること、頭を悩ませて止まないことは数多い。しかし、そんな悩み事が吹き飛ぶくらいに、エルが今語ったことはスケールが大きかった。
「……あっ、エクソシスト様は、こんな何の役にも立たない私の研究なんて、興味ないですよね……ごめんなさい。私、自分のことになると、ついつい語り過ぎちゃうところがダメで……自覚は、あるんですけど……」
ふと我に返ったのか、みるみるエルの元気が萎んでゆく。暗くなっていく声音に、明るく返した。
「いいんじゃねぇの? それで」
「……えぇー、でもだって、宇宙なんて分野、現実世界じゃ何も役に立たないんですよ……特にここ『黒の教団』では、即戦力が求められているので、私の本来の専攻は、まったく求められるものじゃないんです。だから、こうして時間が空いたときにひとり……まぁ、今日はラビ様もいらっしゃいますけど……」
エルは小さな声でごにょごにょ呟くが、シンと静かな屋外では、その全ての声が聞き取れる。
「アンタはそれで、いいんじゃねぇの。皆が皆、至急のことやってちゃ、それはそれで息詰まるし……オレは、そういう奴がひとりくらい居ても、いいと思うさ」
いつもいつも、戦いのことばかり考えていられない。少しは気を紛らわせたり、息抜きをしないと、いつか潰れてしまう。
「……なぁ、じゃあアンタ、星とか宇宙とか、結構詳しいの?」
「そんな……私なんかは、まだ全然何も知らないひよっこみたいなものでして、その、そんな期待に応えられるかどうか……」
「あー、そういうのいいから」
曲がりなりにも、『黒の教団』の科学班の一員として働いているのだ。彼女が言う『何も知らない』は、一般人の『かなり知っている』レベルだろう。
「星の光で、どうして影は出来ないんさ?」
ラビの素朴な疑問に、エルは気負うことなく口を開いた。
「こう、夜空いっぱいに星があると、光は全方向から当たりますから。影が打ち消しあって見えないだけで、影自体はあるんですよ」
「……へぇえ」
成る程、確かにその通り。
「「あっ!」」
今流れた星に、二人の声が重なった。思わず顔を見合わせる。
「流れ……ましたね」
「流れ……たな」
ふふっと、どちらともなく笑い合った。
――ここまで時は穏やかに流れることもあるのだということを、ラビは初めて思い知った気がした。
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