「ラビ、聞いていますか、ラビ!」
肩を揺さぶられ、我に返った。
「あ……」
汽車の中だった。
『黒の教団』権限で一本だけ走らせた汽車には、今から任務に向かうアレンとラビ以外に乗客はいない。窓の外は真っ暗で、時折掠める外の光は、きっと酒場か宿屋だろう。
アレンが、こちらに黒表紙の任務資料を差し出している。外の風景を見ていたラビの手から資料が滑り落ちたのを、拾ってくれたのだろう。礼を言って受け取った。
今回の任務資料は、普段よりも薄い。分厚さが優先順位を図る指標とはならないのだと、今更気が付いた。
「一体どうしたんですか。ラビが上の空なんて、珍しい」
「そう……かな」
そんな気もする。自分はおちゃらけて人の心の隙間に滑り込むのが得意なキャラクターだが、こと任務に関しては、不真面目な態度や上の空になることはなかった。それが『ラビ』を司るものだと理解していたから。
「……眠たいのなら、寝ていてもいいと思います。着く時間は変わりはしませんから。……そりゃあ、一刻も早く着きたいと気が急く気持ちは分かりますけど……ってラビ!? ちょっと、落ち着いてください!」
客室の窓を開け放ち、桟に足を掛けたラビに、アレンは慌てて縋り付いた。
「ん、止めないでくれねぇ? アレン」
「なっ、止めないでって……止めるに決まっているじゃないですか! 一体、何考えているんですか!? 猛スピードで走る汽車から飛び降りって、あなた気でも狂ったんですか!」
アレンが止めるのも、もっともだ。
もっともだとは思うが、止めはしない。
「悪い、先に行くわ」
太腿のホルダーから、対AKUMA武器『鉄槌』を引き抜いた。手のひらほどの長さのそれを、指の間で一度遊ばせ、握り直す。
そうして。
「大鎚小槌――伸」
汽車の窓から、躊躇なく身を投げ出した。
夜風に、団服がはためく。汽車よりも早く、目的地へと直線に伸びるそれは、もしかして上空に向ければ、それこそ月まで届くのではないかと思う――その高度に果たして生身の人間が耐え切れるのかはさておいて。
冷たい風が肌を切る。開いた翡翠の隻眼が即座に乾くも、瞬きをして目を凝らした。
場所と方角は、頭に入っている。
「…………」
額のバンダナに手を遣った。凍える指先で手繰り、目を伏せる。
嫌な想像が、脳裏を巡る。頭の回転を速める方法ならともかく、頭の回転を止める方法をラビは知らない。ざわめく胸中が、記憶をフラッシュバックさせた。
『母が、病気で倒れたと連絡が来ました。私を育ててくれた、唯一の肉親です』
彼女の声。活版印刷された、インクの並び。
『彼女のデータは、本日十月六日付けでバックアップも含め全面破棄』
――エルと別れ、二ヶ月余りが過ぎた。身体を壊したという彼女の母親。唯一の肉親――ならば、もし、もしも。
その母親が、エルの看病にも関わらず亡くなったとして。
黒の教団のことを何一つ忘れ去ったエルが、決して願わないと言い切れる?
「…………っ」
喉が渇いた。唾を飲み込む。
『私のこと、忘れないでくださいね』
あぁ、忘れない。
――何があっても。
辿り着いた村は、シンと静まり返っていた。
夜闇に村全体が沈む様は、時間帯も相まって生気が一切感じられない。鉄槌をいつでも振えるように構えたまま、足を踏み入れる。
人気はなく、どの家々も灯りが消えている。死体は見当たらないが、そもそもAKUMAに殺されると死体は残らない。
暗闇が、視界を妨げる。慎重に歩きながら、目を凝らした。
いくつかの建物に、戦禍の痕がある。中でも一番酷いのは、教会だったと思しき建物。
内部から破壊されたのか、破片は外側へと飛び散っている。元は絵画のような模様が施されていたであろうステンドガラスは粉々で、ラビのブーツの裏で音を立て砕けた。教会がAKUMA発生の起点となるのは、よくあることだ。
教会の前に、ズタズタになり中身が露出した機械が転がっていた。探索部隊がいつも背負っている通信機の、無残に破壊された姿だった。
そう、どれも、これも。
よくある悲劇に過ぎない。
気配に、振り返った。
一体――たった一体の、レベル一のAKUMAが、佇んでいた。変化《コンバート》済みで、元はどんな皮を被っていたのかは判別が付かない。
それで良かったと、今は思った。
目前のAKUMAを倒すことだけに、集中していられる。
たった一体でも、たとえレベル一の雑魚でも、村を一つ壊滅させることなど容易なのだと――理性だけでなく、感覚で思い知らされる。
「――――っ」
一瞬。半瞬。
刹那に、AKUMAが動いた。
AKUMAを破壊し終えても、いつもの任務に感じる「終わった」という達成感は感じられず、ただただ疲労感のみが重く残った。
暗闇は、まだ周囲に色濃く残っている。
気配を探るも、もうAKUMAは他にはいないようだった。もし他にもいるのだとすれば、戦闘中に身を現しているだろう。レベル一のAKUMAに知能がないと言えど、一対一より一対二の方が効率が良いことくらいは理解出来るはずだ。こと戦闘に関して、AKUMAは愚かではないのだから。
「はぁ……」
瓦礫に腰を下ろした。鉄槌を杖代わりに、息を吐く。項垂れたラビの耳に、微かな声が届いた。その声は段々と近付いて来ている。
「おーい、ラビ! 大丈夫ですか!?」
「エクソシスト様!」
一つは聞き慣れたアレンの声だが、もう一つは初めて聞く声だ。男の声。思わず腰を浮かし、近付く影に目を細める。
「……もしかして、ファインダーか!」
エクソシストとは真逆の白の団服は、闇夜でも溶けることなく存在を主張している。生きていたのか、とホッと胸を撫で下ろした。
意外と早かったな、というのが正直な感想だったが、アレンは「遅かった」と思ったようだ。辺りを見回すと「それじゃ……終わったんですか?」と戸惑い混じりの声を漏らす。
「おう。オレらの仕事は終わり。取っちゃって悪いな。ところで……」
ファインダーに向いた視線に気がついたのか、アレンが小さく頷いた。
「あぁ……戦いの音が聞こえたから、そちらに向かったんですけど、ちょっと道に迷ってしまって……そうしたら、ファインダーの方が」
「エルヴィン・ニコルと申します。エクソシストの方にご迷惑を掛けて、一体何と言えば良いのか……!」
年若い探索部隊員は、今にも泣き出しそうに顔を歪めている。彼の肩を軽く叩いた。
「いいんさ。AKUMAを倒すのはオレらの仕事なんだから。……生きてて、良かった」
強いて笑みを浮かべた。
「ところで、この村の人は――」
「エクソシスト様、ですか?」
声が、響いた。
一瞬、息が止まる。心臓も、きっと止まっただろう。
ゆっくりと、振り返った。
「……あぁ――」
肩から力が抜ける。肺から空気が零れる。指先が震える。緊張ではなく、安堵にだ。
エル・シェフィールドが、立っていた。
「あぁ、びっくりしたな」
「今のは一体何だったんだべ?」
「バカ、ふぁいんだー? って人が、あれは悪魔だと言っていたじゃないか」
潰れたと思っていた家の床下部分――地下から、わらわらと人が湧き出てくる。それに仰天していると、エルが落胆した声で「あぁ……やっぱり望遠鏡はごっそりやられちゃいましたか……」と呟いていた。
よく見れば、白く塗装を施された大きな円筒形の鉄の塊は、なるほど確かに以前見た望遠鏡に似ていた。もっとも、サイズは比べ物にならないほどこちらが大きいが。
「え、あの、エル……?」
エルを見て目を瞬かせるアレンに、肘を入れる。
幸いにも、エルはアレンの声に気が付かなかったようだ。探索部隊員が、何が起こったのかを説明している。
「AKUMAを発見して、本部に連絡したはいいんですけれど、逃げている最中に通信機を壊されてしまって。その時、彼女が匿ってくれたんです……何だか知りませんけど、望遠鏡? を設置しているから、その地下室を荷重を支えられるようかなり頑丈に作ってあるらしく。村の人達で息を潜めて逃げ込んで、エクソシスト様の訪れを待っていました……」
そんなエルは、地面に散らばる鏡の破片を見て落胆している。近付いて声を掛けた。
「……あの」
弾かれたように、エルが肩を跳ねさせた。
「わわわっ、エクソシスト様っ!? すみません、何かお邪魔だったでしょうか!」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……っふ」
知らず、笑いが零れた。そう言えば、この子はこういう子だった。思わず脱力してしまう言動の持ち主。
共に過ごした記憶は失われても――エル・シェフィールドという人物は、何一つ変わってはいない。
酷く、安心した。
「あ……明けの明星、ですね」
エルはふと、遠くを見て呟いた。その視線の方向を見る。
気付けば、夜は明けようとしていた。東の空が白んでいる。その中に輝く、オレンジ色の光がひとつ。
「そうそう、ご存知ですか? 明けの明星とは、つまりは金星のことなんです。金星って、太陽の惑星じゃないですか。だから、同じ惑星である地球から見れば、金星が太陽よりこちら側にある時と、太陽より奥側にある時があるんです。太陽よりこちら側にある時、金星は日が昇ってもまだ、そこに見ることが出来るんです。夜が明けても、太陽の光にも負けず燦然と輝く金星……とても、素敵だと思いませんか?」
本当に――変わらない。変わらなさすぎて、笑ってしまう。
笑い声は、やがて嗚咽に変わった。
「エクソシスト様!? どうされたのですか、お怪我でもされたのですか!?」
エルの声が、耳朶を震わす。ちがうんだ、ただ、うれしいんだ。掠れる声は言葉にならず、朝焼けに消えていった。
────fin.
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