「それで、ラビは本当に良かったんですか?」
アレンにそんなことを言われた。一体何のことか、さっぱり分からなかった。
「ラビがいいのなら、それでいいけど……」
そう言ったリナリーは、なんだか少し不満そうだった。
「お前はそれで、良かったのか?」
――一体ユウまで、どうしちゃったんさ。
エルがいなくなって、一月が過ぎた。
ラビは変わらぬ日常を、過ごしている。
「あ……」
自室で新聞を見ていた折、ふと見つけた記述に、思わず声が零れた。
同じく新聞を読んでいたブックマンは、突然声を漏らしたラビに訝るような視線を投げかける。なんでもない、と愛想笑いをして、ブックマンには見えないように背中を向け、もう一度記事を見つめた。
「彗星、か……」
時間と方角を確かめ、夜に屋上へとひとり上がった。
季節は、冬に向かっていた。屋上だからか地上よりも数割増しで吹き抜ける風は、冬の冷たさを身に纏っている。吐いた息は、白かった。
手には双眼鏡。実視等級にして四等から五等の彗星は、肉眼では観測がし辛いようだ。双眼鏡を目に当て探すも、この広い空の下、曖昧な方角だけでは簡単には見つからない。
ここにエルがいたら、全く苦労することなくお目当ての対象を見つけられただろうに。
しかし、無い物ねだりをしたって仕方がない。いないものは、いないのだ。どころか彼女は、もはやラビのことも覚えてはいない。
それが幸せだ。それこそ、幸せだ。
エルと自分は、何でもない。ラビの過去を、ブックマンの持つ宿命を、エルは何一つとして知らない。ただ『エクソシスト』としてラビを見ていた彼女は、ブックマンというものの本質を理解してはいない。
ブックマンは、名前を捨て、過去を捨て、未練を捨て、ただ歴史を観測し続ける流浪の民だ。執着するものは、何も持ってはいけない。繋ぐのは、その場限りの絆のみ。他のものなど
――何も、要らない。
「今更何言っても遅いんさ……」
全ては終わってしまった後だ。アレンもリナリーも神田も、退団した科学班員の処遇は知らない。知らないからこそ、そんなことが言える。
葉書のひとつも出せ?
――相手はもう、自分のことを覚えてもいないのに?
引いた尾を持つ星を見つけ、お、と双眼鏡を止めた。青みがかった銀色の尾は、思っていたよりもはっきりと見える。
『ラビさん、ご存知ですか? 彗星の尾というのは、彗星自身が太陽に近付いた故に表面が蒸発し、それによって発生したガスや塵が、太陽風や太陽からの放射圧により、太陽とは反対方向に吹き飛ばされるが故のものなのです』
彼女が隣にいたら、きっとそう言っていただろう。目をキラキラと煌めかせ、心の底から楽しそうな口調で、口元を緩めて言うのだろう。
もう、あの声を聞くことはない。
そのことは少しだけ、残念なようにも思えた。
ある程度気が済んで、身体が冷え切るよりも先にと屋上を後にする。かじかむ手をポケットに突っ込むと、階段を降りた。
もう夜も更けた時間だ、辺りは人気もなく静まり返っているだろう――そう、思っていたのだが。
「なんか、騒がしいな……」
ざわめきの方向へと足を向ける。
階を下ると、喧騒も近付いた。夜だというのに、電気が明明と付いている――のは、いつものことだから不自然ではないのだが、こうも騒がしいのは珍しい。
また忙しさにゾンビ化した班員がコムリンでも作り出したか。音の出所は、通信班の居室だった。苦笑混じり好奇心混じりに歩み寄り、通信班に通づる扉を開け――
「どうだ、イケるか!?」
「駄目です、繋がりません!」
「反応を、ニコル!」
「通信、応答なし! 完全に反応が途切れました!」
忙しなく飛び交う切羽詰まった言葉たち。普段は忙しいながらも、どこか柔らかな雰囲気が漂っていた。張り詰めた空気に、思わず立ち竦む。そうだ、ここは戦場の第一線だ。平和な場所では、全くない。
この地球上で平和な場所など、存在しない。
――一体、どうして忘れていたのか。
軽く背中を押された。よろめいたラビの隣を通り過ぎる、一人の影。コムイだった。ラビに一瞥を向け、顔面を戻すと鋭く真面目な声を出す。
「――報告を」
コムイの言葉に、部屋のざわめきが刹那で止んだ。ピンと張られた緊張の糸、その上を滑るような声で、報告が為される。
「な、
「ニコルが最後に残した言葉は」
報告者は、一瞬息を呑んだ。瞳をコムイから地面に向けると、口を開く。
「――『AKUMAだ』と」
「……聞いていたか、ラビ」
名前を呼ばれ、弾かれるように顔を上げた。こちらを真面目な瞳で見据えるコムイと、目が合う。
「突然で悪いが、任務だ。一つの村が壊滅するかしないの瀬戸際だが、行ってくれるね、ラビ」
「――当然さ。それが、エクソシストってもんだ」
胸中の動揺を押し隠し、頷いた。助かるよ、とコムイは薄く微笑む。
知らない筈がないだろうに、コムイが言葉にすることは、なかった。
――任務地であるベルンケールが、ラビと懇意にしていた元科学班員エル・シェフィールドの故郷であるという事実に。
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