「秋、お前は魔法使いなんだよ」
──それは、からりとよく晴れた十月のある日のこと。
生まれて初めて足を踏み入れた父の書斎で、父から突然夢見がちなことを聞かされたぼくの口からは。
「……うん。ちょっと、お医者様を呼んで来るからね」
「違うから、秋! 父さん頭おかしくなったわけじゃないからね!?」
──思わずそんな、ごくありふれた言葉しか出てこなかった。
「父さん、こういうのは当人には案外わからないって言うじゃない。だいじょうぶだよ、ぼくは父さんに何があっても、変わらず父さんのことが大好きだからね、うん」
「そう言いながらそろそろと部屋から出て行こうとするのはやめようね秋!」
そうっと後ろ手で書斎の扉を押し開けようとするも、慌てて駆け寄ってきた父にひしっと抱き締められ、脱出はあえなく阻止された。ちっ!
思わず扉に向かって叫んだ。
「母さん! ねぇ母さん! 父さんがおかしくなっちゃったよー!」
「父さんは至って正常だから! あと秋、この部屋は防音魔法が掛かってるので扉を開けない限り内側の声は外には聞こえない」
「ねぇ父さんほんとどうしちゃったの!?」
母と比べて父はずっと普通の人だと思ってたのに! いや、友達の両親と比べると、あれ? なんかぼくの両親ってちょっとヘンかな? ってついつい考えてしまうことはあったんだけど! まさかこんな形で思い知ることになるなんて!
「秋、父さんはお前が常識的な感覚をちゃんと持っていてくれてとっても嬉しい! でもね秋、お願いだから父さんの話を聞いてくれ、五分だけでいいからぁぁ」
そう言いながら、父はぼくに縋り付く。その姿が我が父ながらあまりにも哀れで、ぼくは思わず足を止めた。
「……わかったよ。で、何? ぼくがマホウツカイだって話?」
「そう、秋は魔法使いだ」
ようやくぼくがちゃんと話を聞いてくれるとわかったのか、父はぱぁっと笑顔になった。
「僕も魔法使いだ」
「…………」
「あ、母さんも魔法使いだよ」
ぼくの視線が母のいる居間へ移るのを見て、父はそう付け足した。
……いや、そんなことを何度も言われても。
魔法使いて。
魔法使いて!
「ファンタジーでしょ……」
「あ、まだ信じてないなー?」
いや、今ので信じる奴がいるとでも?
父は仕方ないなーなんて言いながら、楽しげに懐から木の棒っきれ──父が言うには魔法の杖──を取り出しぼくに向ける。瞬間、もの凄く嫌な予感がしたぼくは、反射的にその場から飛び退いた。
嫌な予感は見事的中。棒っきれから飛び出した青い閃光は、さっきまでぼくが立っていた場所に焼き焦げを残す。思わず青褪めた。
「実の息子に何してんの!?」
「いや、僕の息子なら、何か物が動いたり変身したりしても手品とかを疑うだろうしさぁ。それならいっそのこと、自分の身体に異変が起きれば信じるんじゃないかなって」
「だからって息子を攻撃するかなぁ!?」
叫ぶぼくを尻目に、父は物凄く楽しそうな顔で棒っきれを振った。途端、本棚のベールが一瞬で巻き上がる。綺麗に納められていた本は、次々見えない手に引っ張り出されたかのように抜き出され、雪崩を起こしながらも重力に従い落ちてくる。
……落ちてくる?
落ちてくる!
思わず悲鳴を上げると、頭を抱えてうずくまった。身を強張らせ、目をギュッと瞑る。
──しかし、いくら待っても予想した衝撃は訪れない。
え、と顔を上げかけたところで、コツンと頭に軽い衝撃。ぶつけたところを擦りながら周囲を見回すと、床には薄い絵本が一冊転がっていただけだった。
「え、じゃあ……」
今のは、と言いかけたところで、ぼくは大きく目を見開いた。
「嫌だなぁ、僕が大好きな息子を傷つける訳がないじゃないか」
ぼくが目にしたもの。
それは、座り込んだぼくの頭上から三十センチほどの高さでふわふわと浮かんでいる大量の本と、杖を振り上げたまま得意げにぼくを見下ろしている父の姿だった。
「これで、少しは信用したかい?」
ぼくの十一歳の誕生日は、そんな衝撃で彩られた。
◇ ◆ ◇
ぼくには、常々不思議だと思っていることが三つある。
一つ目は、夜眠っている間、まるで誰かの人生を体験しているかのようなリアルな夢を見ること。
二つ目は、双子の兄であるはずのハリー・ポッターと、ぼくの見た目が全く似ていないこと。
そして、三つ目は──
「……あはは」
思わず乾いた笑い声を上げた。隣のハリーも、諦め切った笑みを浮かべてぼくを見返す。
「……笑うしかないよね、この状況」
「全く、本当に……」
容姿が一切似ていなくとも、育った年月は歳の数分。アイコンタクトもなしに、ぼくらは声を揃えて叫んだ。
「「ワケ分かんね──!!」」
従兄弟のいじめっ子、ダドリー・ダーズリーとその愉快な仲間達に学校中を追い掛け回され、食堂の外にあった大きな容器の陰に飛び込んだら、気付けば学校の煙突の上に腰掛けていた、なんて──
「は、は、は……」
笑うしかないというか、笑えないよ。
腰掛けている場所以外の足場はない。恐る恐る宙に浮いた足の先を眺め、その高さに目が眩んだ。ヒッと思わず喉が鳴る。端的に言って、滅茶苦茶怖い。
「……ここから落ちたら、死ぬよね」
ハリーがポツリと呟いた。
「……運が悪かったら」
「じゃ、僕らは確実に死ぬね」
「……まぁ、そうかも」
そんなにはっきり言うなよ。
「とりあえず、救助が来るまで待つしかない。下手に動いたら真っ逆さまだ」
「バーノンおじさん、怒るだろうな……」
虚ろな声でハリーが笑った。わぁ怖い。
バーノンおじさんは、ぼくらの従兄弟であるダドリーの父親だ。ぼくらにとっては伯父に当たる人であり、一応の保護者でもある。物心ついた頃には、ぼくとハリーは既に伯父夫婦に引き取られていた。両親はずっと昔に自動車事故で亡くなったらしい。その話を持ち出すと、おじさんもおばさんも苦虫を五十匹くらい噛み潰したような顔になり家中にブリザードが吹き荒ぶため、我が家ではその話はタブーなのだった。
ハリーは大きくため息をつくと、髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。
「今度は何日物置に閉じ込められるかなぁ……」
「……嫌なこと言わないでよ」
「どうせ確定の未来じゃない。あーあ……」
それは確かにそうなんだけど。それでも、未来を直視したくない時だってあるでしょうが。
ぼくらが問題を起こすと、おじさん達は罰としてぼくらを物置に閉じ込める。ぼくらだって問題を起こしたくて起こしている訳じゃないのに、何度弁明してもおじさんは聞く耳を持ってはくれないのだ。煙突に腰掛けていて突風が吹いたら確実に飛ばされるという今のこの現実だけでもお腹いっぱいなのに、未来の悪夢までも思い描きたくない。間に合っています。
「あーあ、誰にも知られずにここから降りられたらいいのにな……」
ハリーがぼやく。その言葉にふと、昨夜の夢が蘇った。
「魔法でも使えたらいいのにね。そう言えばぼくね、今日は父さんに『お前は魔法使いだ』って言われる夢を見たんだよ」
「あ、またいつもの『秋くん』? 今日はまた、随分と突拍子もない話だね」
「そう、幣原秋。でしょ、ぼくも驚いちゃった」
ぼくが眠る時に見る夢は、人とは違って少し変わったものらしい。夢というのは毎回てんでばらばらなものを見るのが普通らしいが、ぼくは違う。『幣原秋』という、日本に住む一人の少年として人生を生きる、そんな妙に一貫性のある夢を見ているのだ。毎晩、毎晩。
ぼくはハリーに、幣原秋が父親に「お前は魔法使いなんだよ」と言われたり、魔法を掛けられそうになったり本を降らされたりしたことを話して聞かせた。ハリーは、ぼくの言葉ひとつひとつに律儀に反応を返してくれるから、こちらも凄く話しやすい。元来聞き上手なんだ、ハリーは。
「しかし、いつ聞いても面白いなぁ、アキの夢は」
「ふふっ、ありがと、ハリー」
それからぼくらは、ひとしきり『魔法が使えたら何をするか』について話し合った。どうせ、救助が来るまで暇なのだ。現実を直視して絶望するよりも、今だけは空想の世界に浸っていたい。
ハリーは「ダドリーに豚のしっぽを付けるかな。そうしたらほら、どこからどう見ても豚そのものだろ?」なんて黒い発言をしたり、ぼくは「魔法が使えるのなら、きっとあの家から逃げ出すことだって簡単なはずだよね。ハリーと二人で一緒に生きていけたら幸せだろうなぁ」と提案したりして盛り上がる。
ふと、呟いた。
「魔法が使えたら、か……」
本当はちゃんと分かっている。本当は魔法なんか使えっこないってこと。魔法なんて、ファンタジーの中だけのものなんだって。
でも、そんなつまらない現実は無視して、ぼくらはただひたすら『もしも』の話を熱く空想する。
いつか、誰かがぼくらを助けてくれる日を。
この辛くてどうしようもない現実から逃げ出せる日を、ぼくらはただ、待っていた。
──いくら待ったって、誰も助けてはくれないことくらい、わかっていたけど。
誰も助けに来ないのならば、いっそ自分から抜け出してしまえばいい。何もせずに現状に文句だけ言っているよりも、ずっとずっと前向きだ。ハリーと手を取り合い、遠く離れた見知らぬ地へ。おじさんもおばさんもいない地へ、どこまででも。
──そんなの、理想だ。夢物語だ。
世の中はそんなに甘くない。家出なんかしたら、子供の足じゃすぐに見つかってしまう。家に連れ戻され、更に酷い罰を受けるくらいなら、いっそのこと。
そうして、ぼくは選びたくもない停滞を選択するのだ。
それからおよそ三十分後。近所の人の通報により、ぼくらは無事にレスキュー隊に保護された。
その後物置に一週間閉じ込められたのは、言うまでもない。
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