「 クリスマスの休暇が終わった。年が明け、ぼくはホグワーツに戻る。紅のホグワーツ特急の一室に身を沈め、ぼくは静かに目を閉じた。
「…………」
目を開け、すぐさま身を起こす。
「英語……勉強、しなきゃ」
この休みで遅れた分を取り戻さないといけない。時間が足りないのなら、睡眠時間を削ったって。
全然、足りない。何もかも、ぼくには足りていない。足りていない人間に、休むことは許されない。
文字を追う。文字を追う。文字を追う。
──じんわりと、頭が痛んだ。
ぼくを迎えるレイブンクロー寮は、普段通り冷たかった。同級生に囲まれた寝室で、ゆったりと眠れるはずもない。流石にカーテンで区切られたパーソナルスペースにまでちょっかいを出してくる輩はいないが、それでも気を休める場所などない。
「ん……ぐ」
ぐっと両腕を上げて伸びをした。周囲を見回せば、重いカーテンの隙間から仄かな光が差し込んでいる。日が昇ったのか、と目を瞬かせた。
少しだけ眠ろう、と机からベッドに移動する。ベッドに横になると、身体が落ち着いた。ふぅ、と小さく息を吐く。
「…………」
目を閉じれば、あの日の情景が浮かんでくる。
狭く薄暗い物置に、眩く輝く純粋な魔力。血塗れで誰もが倒れ伏す中、ぼくだけがただ、無傷で立っている。噎せるほどの、血の香り。
魔力なんてなかったら。
魔法なんてなかったら。
才能なんて、なかったら。
──ぼくが、加害者だ。彼らを傷付けたのは、ぼくに他ならない。
それを決して、忘れてはならない。
引きずり込まれるように、眠りに落ちていた。
◇ ◆ ◇
「……あー……」
寝起きは、最悪だ。でもそんなことは、最近いつものことだった。気分が良いはずもない。
「…………」
ゴロン、とベッドに横になった。周囲を見回す。群青色で統一されたレイブンクロー寮、同じ寮だというのに、どうしてここまで雰囲気に差があるのだろう。
いや、そんなことは分かりきっている。その理由は、もうとっくに知っている。
「お前、寝起き悪いよな」
シャッとカーテンが引かれ、アリスが顔を覗かせた。朝の挨拶よりも先に、ぼくのむすくれた表情を見て苦笑する。
「そんなことはないんだけどね、本当は」
「どうだか。自己申告なんて、もっともアテにしちゃあいけないことじゃねぇか」
「その通り。だからこそ客観的に見てあげることが大切なんだ。だけど客観的に見て『君は可哀想な奴だね』とレッテルを貼られることが我慢ならなかった、ただそれだけの話だよ」
何の話だ? とアリスが目を瞬かせる。
「夢の話さ」と多くは語らず首を振った。
「確か、幣原って言ってたっけ? どっかで聞いたことあるんだよな、その名前……どこだったかな……」
「珍しい名前だから、妙なものと記憶が関連付けられているんじゃない?」
欠伸を一つ零して、身を起こす。既に制服姿のぼくを見て、アリスは呆れたようにため息を吐いた。
「お前、すげぇ凶悪な面になってんぞ。外に出られんのかよ」
「自覚はあるさ。だから大丈夫」
「なにが大丈夫だって言うんだ」
ぼくは表情を一転させ、にっこりと普段通りの明るい笑みを浮かべてみせた。声を元の調子に戻す。
「ほらアリスっ、早く行こう! 今日はぼくの兄貴の、初めてのクィディッチの試合なんだからっ! ……どう?」
アリスは、ぼくの急激な変化にポカンとしていた。ぼくはテンションを少し落とすと、にやりと笑う。
「ざっとこんなもんさ」
「……本当、お前って……」
アリスも苦笑した。「用意してくるから、ちっと待ってろ」と言い、カーテンを閉める。
「……ふぅ」
群青色に包まれて、息を吐いた。
「……あいつも、このくらい出来れば楽だったろうにな」
声に出さず、囁いた。
ハロウィン以降、ハリーとロンとハーマイオニーはとても仲良くなったようだ。なんでも、ハロウィンの日にハリーとロンが、トロールからハーマイオニーを助けたらしい。色んな意味で仰天した。……本当に、無事で良かった。
そして今日は、ハリーがグリフィンドールのシーカーに選ばれて初めてのクィディッチの試合の日だ。スリザリンVSグリフィンドール、因縁の対戦とも言われるこの二寮の戦いに、直接は関係のないはずのレイブンクローやハッフルパフも盛り上がっている。
「頑張れ、ハリー……」
ぼくはレイブンクローの観客席に座り、祈るような気持ちで眼下の選手達を眺めていた。隣では、アリス・フィスナーが熱心に双眼鏡を覗いている。クィディッチが好きなのか、と尋ねたら、魔法界の子供でクィディッチが嫌いな奴はいない、と怒ったように言われた。ロンも熱心に語っていたし、そんなものなのかなぁ、とマグル育ちのぼくとしては頷くしかない。
審判の笛が鳴り、選手が一斉に空へと舞い上がる。試合開始だ。
『さて、クアッフルはたちまちグリフィンドールのアンジェリーナ・ジョンソンが取りました──何て素晴らしいチェイサーでしょう。その上かなり魅力的であります』
『ジョーダン!』
『失礼しました、先生』
解説は、グリフィンドールの双子のウィーズリーの仲間、リー・ジョーダンのようだ。ぼくは始業式の日にコンパートメントで聞いた、彼がタランチュラを持っているという話が今だに忘れられない。……今もいるのかな、タランチュラ。ジョーダンの荷物と共に、グリフィンドール塔に。もしかしたら一緒に寝てたりして。……うわ、身の毛がよだつ。
リーの監視をしているのは、我らが変身術教授であるマクゴナガル先生。本人たちは狙ってないのだろうが、リーとの掛け合いはボケとツッコミのようで、まるで漫才だ。時折笑いが巻き起こっている。
『ジョンソン選手、突っ走っております。アリシア・スピネットに綺麗なパス。オリバー・ウッドはよい選手を見つけたものです。去年はまだ補欠でした──ジョンソンにクアッフルが返る、そして──あ、駄目です。スリザリンがクアッフルを奪いました。キャプテンのマーカス・フリントが取って走る──』
「ねぇアリス、ハリーはどこ?」
「あそこだ。ほら、結構上だな。シーカーは攻撃されやすいから、安全地帯でスニッチを探してんだろ」
言われた方向に目を凝らすと、確かにハリーだ。……というかアリス、よく分かったな! いくら双眼鏡を持ってるといえ、今の主役はチェイサーだというのに。視野が広い。この辺り、持って生まれたものというか、運動神経の差ってものを如実に感じるな。ちょっと悲しいよ、ぼくは。
『ジョンソン選手、飛びます──ブラッジャーがものすごいスピードで襲うのを躱します──ゴールは目の前だ──頑張れ、今だ、アンジェリーナ──キーパーのブレッチリーが飛びつく──が、ミスした──グリフィンドール 先取点!』
グリフィンドールの観客席から大歓声が聞こえた。よっしゃ、とぼくも拳を握り締める。ハリーが嬉しさのあまり、空中で二、三回宙返りをするのが見えた。
『さて今度はスリザリンの攻撃です。チェイサーのピュシーはブラッジャーを二つ躱し、双子のウィーズリーを躱し、チェイサーのベルを躱して、ものすごい勢いでゴ……ちょっと待ってください──あれはスニッチか?』
リーの解説を聞き付けたハリーが、稲妻のように飛んでくる。スリザリンのシーカーも飛ぶが、ハリーの方が速い。
ハリーが手を伸ばした──そこで、マーカス・フロントがハリーに体当たりを食らわせる。堪え切れずにコースを外れ吹き飛ぶハリーに、ぼくは思わず立ち上がった。グリフィンドールの観客席から、怒りの野次が飛ぶ。
「フロントのくそったれ……」
思わず呟く。アリスが大きく頷いた。
一旦試合が止まった。審判はフロントに注意をすると、グリフィンドールにフリーシュートを与える。そして試合が再開した。
『えー、誰が見てもはっきりと、胸くその悪くなるようなインチキの後……』
『ジョーダン!』
『えーと、おおっぴらで不快なファールの後……』
『ジョーダン、いい加減にしないと──』
マクゴナガル先生が声を震わせる。リーは納得いかなそうな声音だったが、しぶしぶ試合の実況を始めた。
「……おい、あいつはどうしたんだ?」
突然アリスがぼくを揺さぶった。
「あいつって?」
「お前の兄貴だ」
「ハリーが?」
アリスが双眼鏡をぼくに押し付ける。言われるがままにアリスの指差す方を見て──息が止まった。
「……ハリー!?」
箒が変な揺れ方をしている。どう考えても、ハリーの意思でないことは確かだ。
「他の奴なら、箒のコントロールを失ったって思うんだが……」
アリスが呟く。ぼくはハッとして双眼鏡を教師の観客席の方に向けた。
誰かが箒に呪いをかけているのは明らかだ。まして、ハリーの箒はニンバス2000。あの箒に呪いを掛けれるのは、とても強い魔法力の持ち主しかいない。となれば、教師か──
「…………っ!?」
口元を動かし、ハリーを真っ直ぐに見据えて呪文を詠唱しているのは、二人。スネイプ教授と、クィレル教授だ。即座に、先日のハロウィンでのことが脳裏に蘇る。
「お、おいっ、アキ!?」
アリスに双眼鏡を投げ返すと、観客席から駆け下りた。アリスがぼくに声を掛けるが、そんなものに構ってはいられない。
「それでも、一体どうして……!?」
何が狙いなのか。一体この学校に、何が隠されているというのか。嫌な予感が、胸を過ぎる。
「……って、うわぁっ!?」
「……きゃっ!?」
考え事をしながら走っていたからだろうか、突然飛び出してきた子と、正面からぶつかってしまった。衝撃に、思わず尻餅をつく。
「ごめん! 怪我はな……」
ぼくの言葉は、途中で途切れた。
長いストレートの銀髪に整った顔、大きな灰色の瞳、スリザリンの制服。間違える筈もない、彼女──アクアマリン・ベルフェゴールだ。
思わず息を呑むぼくに、同じく彼女も驚いたように目をぱちぱちとさせた。
「……幣原……」
「え?」
彼女の言葉は、ぼくには聞こえなかった。思わず聞き返したぼくを無視して、彼女は自力で立ち上がる。彼女が踵を返して駆け出したのを見て、ぼくも自分のするべきことを思い出した。慌てて彼女に追い縋る。
しかし、聞こえてきた大歓声に、彼女は足を止めた。つられて立ち止まると、フィールドを見上げる。爆発的な歓声の中、聞こえてきたのは「グリフィンドールの勝ちだ!」や「ポッターがスニッチを取った!」という声だった。ということは、ハリーは無事だったのか。ほっとする。
『グリフィンドール、170対60で勝ちました!』
ジョーダンの声が、観客席で聞いていたものよりも遠くで聞こえる。そんな中、彼女はくるりとぼくに向き合った。大きな灰色の瞳に射竦められ、動けなくなる。
「……ハリー・ポッターの弟、アキ・ポッター……」
「え……?」
静かな冷たい声が、鼓膜を震わせる。大騒ぎの観客席から次元を切り離されたようだ。ぼくと彼女が向かい合う、ここだけが、時間の進みが違うようにも思えた。
彼女は真っ直ぐ、ぼくに近付いてくる。
「……あなたは……何を知ってるの?」
「何をって……」
「……何かを見つけて、ここまで来た。そうでしょ?」
彼女の背丈は、思っていたよりも小さかった。ぼくより少し低いくらいで、西洋人としてはかなり小柄な方だ。手を伸ばせば届きそうな距離で、彼女はぼくを見上げた。
「……好奇心は、猫をも殺す。ただの興味本位なら、近付いては、駄目」
銀色の髪が、ふわりと揺れた。それに、目を奪われる。彼女がぼくに背を向けたのだと気付くまでに、時間が掛かった。
「ま──待ってよ! 君は──」
そのまま歩き去るだろうと半ば覚悟していたが、しかし幸運にも彼女は立ち止まった。
「……何?」
「……君こそ、何を知ってるの?」
「……私?」
「君こそ、何をするつもりで、ここに来たの?」
彼女はちょっとだけ振り返って、小さく笑う。その笑顔に、見惚れた。
「……多分、あなたと、同じ」
「えっ……」
絶句する。
彼女はぼくの表情を確認すると、そのまま歩き去っていった。
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