日本にあるぼくの実家は、閑静な片田舎にある。
辺りを見渡しても人家はなく、あるのは山と川ばかり。そんな自然に囲まれて、ぼくは生まれ育った。
小学校の友人達の家は、山を下った地域に点々と散らばっていた。ぼくが十一歳まで通った小学校は自宅から数キロ離れた場所にあり、子供の足では少しきついくらいだった。小学校はとても小さく、一年生から六年生までの全学年の子供が同じ教室で学んでいた。
父と母は大体家にいた。父はいつも、傍目からはよく分からない小物を弄っては書き付けたり、屋上に出て星を眺めては何やら占ったりしていた。母は庭で草花を育てたり、近所の人と交流しては困りごとに手を貸したりするのが好きなようだった。
両親が家からあまり離れたがらないから、旅行には一度も行ったことがない。二人の口から親族の話は聞いたこともないし、祖父母とも一度も会ったことがない。きっともう亡くなって久しいのだろう。
ホグワーツやダイアゴン横丁があるイギリスと、そして日本とを往復する日々。
どこかに行きたいと思ったことはない。この狭い世界でも、ぼくは十分に幸せだった。
──後に、全て理解した。
両親の行動の意味も、真意も、そして思惑も。
理解した時には、何もかもが遅かった。
初めは小さな違和感だった。
ぼくの朝は早い。まだ薄暗くて肌寒い早朝は、この世界に自分しかいないかのようにシンと静まり返っている。世界の全てを独り占めしている感覚が、ぼくは結構好きだった。
両親が起き出してくるまではまだ時間がある。親孝行とでも称して朝食でも振る舞ったら、二人は喜んでくれるだろうか。
……うぅん、ぼくにできるかな? 紅茶を淹れたりパンをトーストしたりするくらいなら問題ないけれど、目玉焼きを焼いたりスープを作ったりとかは少し不安だ……魔法薬学の授業で大鍋を火にかけたこともあるし、目玉焼きくらいなら……どうかなぁ?
頭の片隅でそんなことを考えながらも、服を着替えると髪を梳かして一つに括る。部屋の窓を開け放てば、ふわっと冷気が飛び込んできた。
七月。夏真っ盛りの筈なのに、それでも朝方はまだ冷える。昨日ホグワーツから戻ってきたばかりということもあり、日本の気候にも少し慣れないものがある。
「……と。そう言えば」
ふと思い立って、ぼくは部屋の隅にちんまりと置かれたトランクに近付いた。トランクはホグワーツから持ち帰ってきた時のまま、まだ開かれてすらいない。
どの授業も夏休みの宿題が山のように出ているものだから、早めに手を付けておかないと後から苦労する羽目になる。折角早起きしたのだし、山の一角でも削っておきたい。
トランクの蓋に手を掛ける。しかしいくら弄っても一向に開く気配がない。あれ? と思わず首を傾げた。
……これ、こんなに固かったっけ?
もしかしたら、輸送中に何かの拍子でぶつかって留め具の部分が壊れてしまったのかもしれない。だってホグワーツで荷造りをしている時は、当たり前のようにスムーズに開け閉めできていたのだから。
……やれやれ、仕方ない。
手で開けるのを早々に諦めたぼくは、机に置いていた杖を手に取った。
幸運なことに、ぼくは魔法使いだ。次の秋ではホグワーツの四年生となる。
家の外で魔法を使っちゃダメだとは言われているけれど、今、ここは家の中。父の結界に守られた範囲内だし、ちょっとくらいなら良いか。
「
トランクに杖を向け呪文を唱える。杖先から呪文の光が迸った直後、トランクは音もなくその口をパカリと開けた。ホッと胸を撫で下ろしては杖を下ろす。
目を瞑っても扱える魔法──それはそうなのだけれど、とは言えぼくの場合だと少々事情が違っていたりする。
なにせ、何の因果かぼくが生まれ持った魔力は他人の数十倍、数百倍だと言うのだ。人とどのくらい違うのか比較したことはないものの、それこそ魔法を学びたてだったホグワーツ一年生の頃はよく魔力の暴走を引き起こしていた。ホグワーツで魔法を勉強して丸三年、もう魔力の制御は手慣れてきていて滅多なことでは暴走なんて起きないものの、それでも魔法を使う時はいつも少し気を遣う。
その時、ふと頭の中で声が響いた。
《見つけた》
ハッと辺りを見回せば、開いた窓の外にいた鴉がじっとこちらを見つめているのに気が付いた。ぼくと目が合った瞬間、鴉はパッとその場から飛び立ってしまう。
……今の声は一体誰のものだ?
鴉が喋った……訳ないか。魔法使いの中には動物の言語を解する者もいるらしいが、ぼくにそんな能力はない。もし言葉が分かるのなら、ここまで動物に嫌われることもないだろう。
──与太話はともかくとして。
《見つけた》と、確かにそう聞こえた。
一体何を見つけたのだろうか。
それとも、ぼくが──何かに見つかったのだろうか。
何となく嫌な予感がして、ぼくはしばらく息を詰めて窓の外を窺っていた。しかし、世界は至って静かなものだ。朝の穏やかな陽射しと風は、普段と何も変わりない。
……ぼくの気のせい、だったのかな?
幻聴だったのかもと考え出すと本当にそんな気がしてくる。風の音が奇妙な感じに響いて人の言葉のように聞こえたのかも。いきなり妙な声がしたというよりそちらの方が納得が行く。
気味の悪い違和感を覚えながらも、ぼくは立ち上がると開いていた窓をそっと閉めた。
◇ ◆ ◇
驚くべきことに、我らが親愛なるバーノンおじさんとペチュニアおばさんは、ちゃんとキングズ・クロス駅でぼくとハリーを待っていた。
そんな彼らに「友人の家に夏休み中宿泊することになったのでぼくはダーズリー家には帰らない」なんてことを言うのは忍びないなぁ……とは、残念ながら微塵も思わない。むしろ一人残していくハリーのことが気掛かりで、ぼくはアリスの家にお世話になる旨をぱぱっと報告した後は、ひたすらおじさんおばさんに対してぼくがいない夏休み中のハリーの扱いをこんこんと説いていた。
三食きちんとご飯を与えること、買い物のおつかいでいいから毎日外出させること。お仕置きと称して部屋に監禁なんてもってのほか。
そんな基本的人権すら守られないというのであれば
ハリーには毎日『羊皮紙』で連絡をする旨を伝え、最後にもう一度抱き合ってしばしの別れを惜しみ合う。少し離れた場所で待ってくれていたアリスの元へと駆け寄ると、アリスはどことなく神妙な顔でぼくを見下ろした。
「……お前んち、ヤベェな」
「ヤベェっしょ。ひとまず釘はぷさぷさ刺しておいたから一旦は大丈夫。さ、行こうか。リィフさんはどこだろう?」
リィフはぼくらより一日早く、先にホグワーツから去っていた筈だ。魔法省から来たお役人は、流石に生徒と同じ汽車では帰さないだろうし。
「駅の外で待ってるっつってた。大体いつもそうだよ、ここいらはマグルも多いしな」
そう言ってアリスは駅の出口へと歩き出す。なるほどなと頷きながら、ぼくもその後ろに続いた。
今日のキングズ・クロス駅は、気を抜けば人の波に押し流されてしまいそうなほどに大勢の人間でごった返している。通勤・通学のマグルに加え、今日はホグワーツから帰ってくる学生と、その学生を迎える家族もいるのだ。
特に今日のホグワーツ生は荷物が多いから、余計に混雑して見える。そう考えると、出口で待っているリィフは頭がいい。
「ま、だからこそ俺は去年、父親の寄越した迎えに見つかることなく姿を眩ませた訳だがな」
アリスがニヤッと悪どい笑みを浮かべて呟く。
……前言撤回。リィフは自分の息子の性格をもう少し把握して行動するべきだ。
リィフって割と懲りないんだよな……息子に二度も長期間家出されてんなよ……。
「そういや聞いてなかったけど、アリスは去年の夏休みはどこで寝泊まりしていたの?」
「ん? あぁ、ちっと昔お世話になってた人のトコに転がり込んだり、後は公園や教会や、店の軒下借りたこともあったかな」
息子本人が望んだことではあるのかもしれないけれど、リィフも息子にホームレス同然の生活を送らせちゃいけないと思う。養・育・責・任!
「真冬じゃなくて良かったとは思うよ……」
「そうだな、真冬だったらせめて屋根は欲しいもんな」
誰が屋根の有無の話なんてするか、馬鹿アリス。
……こいつ滅茶苦茶良い家柄の坊ちゃんじゃなかったっけ……マジで屋根がないところで寝泊まりしてたのぉ……?
そんなアリスの言う通り、駅の出口ではアリスの父親リィフ・フィスナーがぼくらを待っていた。
ホグワーツで目にしていた煌びやかで豪奢な魔法省の制服とは正反対の、カジュアルでラフなワイシャツにジーンズ姿。短い金髪に
リィフはぼくらの姿を認めて「よっ」と爽やかな笑顔と共に右手を上げた。少し苦い顔をしたアリスは、それでも律儀に「おう」と頷く。この親子独特の距離感に含み笑いをした途端、アリスに軽く背中をどつかれた。無駄に鋭い奴め。
「おかえり……も何もないか。ついこの前までホグワーツで会っていたのだしね。アキ、来てくれて嬉しいよ」
「いえ。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
笑顔で答える。目を細めたリィフはぼくの頭を軽く撫でると「向こうに車を停めているんだ」と手招きした。
「へぇ。魔法使いでも車を運転できる人っているんだね」
魔法使いの移動手段といえば第一に『姿あらわし』だ。学校の外で魔法が使えない未成年魔法使いがいる家庭は『
そもそもマグルの文化に疎い魔法使いだって多い中、わざわざ運転免許を取ってまで自動車を移動手段として使う人がいるなんて。そんな物好きはアーサーおじさんくらいなものだと思っていたよ。ま、アーサーおじさんが持っていたあの車は運転免許があれば運転できるような代物ではないだろうが。
「あのなぁアキ、俺の母親はマグルだぞ? お前が想像してるほど、ウチは魔法魔法してねぇっつの」
「あぁ、そっか」
そうだった、アリスのお母様は
でも、アリスの家は《中立不可侵》と呼ばれる魔法界有数の名家だ。マグル界の中流階級に位置するダーズリー家とは、やはり結構違うんじゃないだろうか。
そんなことを考えながらも、ぼくはリィフに促されて車(黒のスポーツ系高級車で、確かに浮いたり消えたりする仕掛けはなさそうだ)の後部座席に乗り込んだ。
ちなみに言えば、てっきりリィフが運転してくれるものと思っていたぼくは、運転席にごくごく当たり前のように運転手が座っていたことに思いっきり肩透かしを食らったのだった。あー、ですよねー。ちぇっ。
車を降りてフィスナー家を見た途端、ぼくはポカンと口を開けた。
豪奢で細やかな飾りがあしらわれた門扉に、その奥には綺麗に刈り込まれた植え込みからなる広い庭が広がっている。広大な庭の中央には噴水が設置されて、色と季節のバランスを揃えた花々がなんとも優雅に咲き誇っていた。そのまま続いた先にはクラシカルで優美な、まさに『お城!』と言いたくなるほどの邸宅。
これってこれってもしかしなくても。
「……アリスってやっぱりお坊ちゃんなんだなぁ……」
想像以上のお屋敷に、庶民歴十二年のぼくはひたすら恐縮するばかりだ。ご貴族様、こえー。
アリスはぼくが驚いている理由がどうにもピンと来ないようだった。育った環境というものは恐ろしい。極々当然のように門の扉を開けると(まぁそりゃ、自分の家だし)「ほら、入れよ」とぼくの肩を軽く押した。
……ぼくとしては、家の庭に石畳が敷いてあるということも、庭に噴水があるということも、庭だけでプリベット通りがまるっと入りそうなことにも驚愕なんですけど。
そう言うとアリスは不思議げな顔で「でもマルフォイやお嬢サマの家はもっとでっかいぞ?」と平然と言い放った。思わず目が回る。マジですか。
……ぼくって、学校で物凄い人達と仲良くさせてもらっていたんだなぁ……。
庭に敷かれた石畳を歩いて屋敷を目指す。屋敷の入口前で立ち止まったリィフは、懐から鍵を取り出すと古めかしい錠前に差し込んだ。
カチャリと音が鳴ると共に、解錠の魔法陣が一瞬浮かび上がる。魔法で鍵が掛けられているのだ。年季が入った音で扉が開き、いよいよフィスナー家の中身が露わになった。
真っ暗な屋敷の中は、まるで何年も不在にされていたようにしんと静まり返っている。一対の階段は左右対称に配置されていて、ホールを広々と見せていた。高い天井には予想通り、豪奢なシャンデリアが飾ってある。
ぼくが人生初のお屋敷に胸をときめかせていた時、隣から低い声が聞こえた。
「なぁ親父様よ」
「なんだい我が息子よ」
「庭師はちゃんと雇っていたみたいだが──家の手入れは、一体誰がしてたんだ?」
「怒らないで聞いておくれ、我が息子よ」
「心配するな、もう怒ってる」
「すまん、忘れてた」
広いホールに足を踏み入れたアリスは、そのまま勢いよく振り返った。アリスの動きに合わせるように、暗闇にキラキラと光るものが……まぁ、十中八九埃だろうね……。
リィフに指を突きつけ、アリスは叫んだ。
「ふざけんな、このバカ親父っ!!」
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