夕暮れと朝焼けを切り取ったような世界の真ん中に、その階段は
階段は果てのない夜の帳を映した
階段は幾千、幾万、永遠にも連なっていて、
──否。元は、沢山の道があったのだ。
枝分かれし、回っては、途中で進めなくなった細い道。人の力では飛び越せない空虚が立ち塞がっていて、先へ進むことを諦めた道。光が眩しすぎて辟易し、引き返した道だって。
選ばなかった道はやがて、静かに確かに廃れて行く。結果、後には一本の道しか残らなくなる。
階段を上る僕の周囲には、花の冠毛のような仄かな光を放つ球が、幾つも幾つも漂っている。その球は映写機のように未来の場面を虚空に投影していて、僕が望めばより鮮明な情景を見せてくれる。
少し歩き疲れた僕は、息を吐いてその場に座り込んだ。途端に光の球が数個寄ってきて、他人の未来を勝手に垂れ流してくる。興味ない他人の人生を視たところで何にもならない。手を振り光を追い払ったところで、少し離れた場所で瞬く暗黒の光に気が付いた。
暗褐色の血液に似た色合いのその光は、まるで心臓のように脈打っている。
この光が誰のものか、僕は知っている。
しばらくじっと光を見つめた後、僕はゆるりと光に手を伸ばす。光は手の中で何度か瞬いた後、パシャンと弾けて虚空に消えた。
静かに立ち上がり、僕は歩みを再開する。無限に連なるように思えた階段は、しかし途中で途切れていた。崩壊した階段からは深淵が覗いている。
あぁ、と小さな声が、肺腑の奥から零れ出た。
なるほど、ならば。そうでしかないのであれば。
彼の友として、僕が為すべきことは。
「秋にだけは──僕の最愛の息子にだけは、手を出させてなるものか」
秋が幸せでいられるなら、僕は他に、何もいらないのだから。
「直さん、直さん。大丈夫?」
アキナの声が耳に差し込む。そこで意識が覚醒した。
ハッと目を開ければ、愛する妻、アキナが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。どうやら魘されていたらしい。心臓は全速力で走った直後のように早鐘を打ち、前髪は寝汗に濡れている。
身を起こし、震える手で水の入ったグラスを『呼び寄せ』る。一気に煽ると目を伏せた。意識を集中させて気配を探る。二階の子供部屋で眠っているであろう秋の気配を探知し、何事もなく無事でいることに安堵した。
「ごめん……起こしちゃったかな」
誤魔化すように笑ってみせるも、アキナは僕を案じる眼差しを崩さない。昔から、僕の嘘を何でも見抜いてしまう人だった。
「夢を見たの?」
アキナの温かい手が頬に触れた。伝わる温もりに、思わずため息をつく。
「……アキナ。驚かず、聞いてくれ」
アキナの手に自分の手を重ねる。彼女の目を真っ直ぐに見つめ、僕は静かに告げた。
「どうやら僕は、殺されるみたいなんだ」
◇ ◆ ◇
聞くところによると、どうやらリィフはホグワーツへの赴任が決まった頃合いで「屋敷に誰もいなくなるから」と使用人のほとんどに暇を出していたらしい。そして見事に呼び戻すことを忘れたまま、夏休みに突入してしまった──と、そんなところか。
慌てて連絡を入れたものの、使用人にもそれぞれ生活がある。今日明日になんて集まる筈もない。いや、お貴族様の強権を発動させれば即座に馳せ参じるのかもしれないが、そんなことはしなくていいとアリスが首を振ったため、使用人の皆様には各々のタイミングで戻ってきてもらうこととなった。
という訳で、ぼくのフィスナー家での最初の仕事は『屋敷の掃除』だった。
「客人に掃除をさせるだなんて!」と反対したリィフに「寝る場所だって埃塗れなんだぞ! 今更貴族ぶんな阿呆!」とアリスが一喝。ぼくもこれまでのダーズリー家での生活で磨きに磨かれたこの掃除のスキルが生かせるならと快諾し、今に至る。
……いやしかし、この屋敷は本当に広い。親子二人暮らしだということを考えると間違いなく持て余すだろう。
一人で一体何部屋使えばいいのやら。中には住み込みの使用人のための部屋もあるらしい。うーん、お貴族様だ。常識が違うぜ。
一年弱の間で積もった埃や汚れは中々の強敵だ。使用人が戻ってくるまでの間、ひとまず生活する上で最低限の場所──台所や寝室、居間や玄関など──のみを重点的に掃除することとなった。
こと掃除や炊事といった家事全般に関して言えば、リィフよりアリスが数枚、数十枚上手だった。アリスは普段面倒臭がり屋な癖に、こういうところは凄く細かい。
まぁぼく自身も日頃から若干潔癖なきらいがあるので(幣原に影響されているのかもしれない、あいつも実はペチュニアおばさんと張れるくらいの潔癖症だし)アリスの細かさには割と共感を覚えている。
拭き掃除を終えたぼくは、使い終わった雑巾を手に広い廊下を歩いていた。
……どうして個人の家の廊下なのに自動車がすれ違えるほど広いのだろう。ダーズリー家の廊下なんて、人がギリギリすれ違えるほどの広さしかないんだぞ。バーノンおじさんとダドリーの組み合わせの場合、すれ違うことすら厳しいんだぞ。
その時、一つの扉が開いているのが見えた。誰かいるのかなと中を窺う。
ちょっとした物置のような部屋だ。テーブルや本棚といった家具類から、古びた箒、幼い子供の遊び道具のようなおもちゃ(もしかして幼い頃のアリスが使っていたのだろうかと想像してみたものの、うまくイメージできなかった)、本や雑誌や衣装やら、いろんなものが雑多に積み上げられている。アリスが見たらマジギレしそうだな。
「おや? アキじゃないか」
視界の隅で何かが蠢いた。と思うと、やがてゴソゴソとガラクタの山からリィフが這い出してきた。
シャツもズボンも埃に塗れて哀れなことになっている。どれも上等な仕立てだろうに、気の毒なことだ。……思い返せば、リィフの机の上はいつも汚かったなぁ……。
「リィフさん、その格好のままでアリスの前に出ないでくださいよ」
「おや、本当だね。しかしあいつは少し細かすぎると思わないかい? 一体誰に似たのやら」
「少なくとも、リィフさんじゃないと思いますけどね」
恐らくリィフは反面教師だろう。
そんなぼくの内心を気にもせず、リィフは「ちょっとこっちに来てくれないか?」とぼくを手招きした。見ると、リィフの手には何かが握られている。
近寄ったところ、それは写真のようだった。リィフから手渡されたその写真に、ぼくは深く考えずに目を向ける。
瞬間、思考が止まった。
「秋は写真を撮られることが好きではなかったからね。あまりないんだ、あいつの写真。どうだい、君にそっくりだろう?」
写真の中の幣原は、夢の中で見る彼よりずっと大人びていた。ホームパーティーか何かだろうか。服装もホグワーツの制服ではなく、黒のクラシカルなローブを纏って柔らかく微笑んでいる。
幣原の隣には今よりも若いリィフの姿があった。夢の中のリィフと今のリィフ、その中間くらいだろうか。幣原の肩に手を回しては、楽しげに笑っている。
「アキ。君は幣原秋について、何か知ってるようだったね」
気付けば、リィフがぼくの顔をじっと覗き込んでいた。
「──かつての光。魔法界の仮初の英雄『黒衣の天才』幣原秋。彼がこの世を去ってもう十年になる。当時の熱狂ぶりが嘘のように、彼は時代の闇に埋もれていった。彼について書かれた本もないし、彼を知る当時の者も
「……えぇ、知ってますよ」
口の端を吊り上げぼくは笑った。
この辺りでリィフに伝えるのも悪くない。それに、ぼくもリィフには聞きたいことがある。
ぼくの『夢』の話を、リィフは静かに聞いていた。リィフは相変わらず聞き上手だなぁ、相槌を打つタイミングが絶妙だ。
語り終わったぼくの顔を、リィフはどこか困惑した表情で見返した。
「……不思議な話だね」
「全く、その通りですが」
「君の夢のことを知っているのは?」
「ある程度いますよ。アリスだって、ぼくが『幣原秋』の夢を見てることは知ってますし。でも意味を本当に理解しているのは、リィフさん、あなたで三人目です」
スネイプ教授とダンブルドア校長、そして──リィフ。
「……幣原は死んだと聞きました。自殺だと」
「……あぁ。私も調べさせてもらったよ。遺体の血液、歯型、指紋、全て本人のものと一致した。間違いはない」
淡々と答えるリィフだったが、その表情は沈んでいた。友人の死の状況を語っているのだから無理もない。
その傷口を抉るような真似になってしまうけど──それでもどうしても、ぼくはリィフに聞きたかったことがある。
「幣原が死んだ理由に、心当たりはありますか?」
今度こそはっきりと、リィフは苦い顔をした。
──当然だ。この質問はあまりにも、不躾で配慮に欠けている。
でも、リィフは優しいから。
他人の好意までも計算に入れた。この問いでリィフが気分を害しても構わないとすら思った。
それほどまでに、ぼくは理由を知りたかった。
幣原秋が、この世界に見切りをつけてしまった理由を。
「……先程の話を聞く限り、君は秋がまだ四年生の時までしか知らないんだったね」
「そう……ですね」
「なら、その後のことについて、私が知っている限りのことを話そうか。……どうせセブルスは、何も喋らなかったのだろう?」
よく分かっていらっしゃる。
何度探りを入れても、教授は一切口を割らなかった。ぼくの夢の状況をただ聞くだけで、これから未来がどうなるか、一言たりとも口にしなかった。
何も知らないなんて、ありえないだろうに。
幣原のことを語るたび、教授の瞳に懐かしむ以外の感情が浮かぶことをぼくは知っている。憎しみとも愛しさともつかぬ、執着の色。
「秋とセブルス、この二人が親友同士だったことは私もよく知っている。加えてグリフィンドールのリリー・エバンズ──ハリー・ポッターと君の母親か──と、三人で一緒にいることが多かったことも。
君達の関係が明確に変わったと僕が気付いたのは、確か七年生の頃だった。秋とセブルスが正反対の道を歩み始めたんだ。秋は闇祓いになると言った。彼の両親は『例のあの人』に殺されたから、その復讐をするのだと秋は言っていた。その言葉通り秋は闇祓いに合格して、そして──」
一瞬迷うようにリィフは言葉を切った。小さく息を吐き、続ける。
「闇祓いは魔法省の管轄だ。だから私と秋は、部署は違うものの同じ職場で働く者同士だったんだ。お互い忙しかったから、そう会えはしなかったがね……でも忙しい合間を縫って、秋は私の結婚式にも来てくれたよ。幼いアリスを抱き上げたこともある」
へぇ、それは驚きだ。いずれ夢でアリスを抱き上げる情景を見ることになるのだろうか。そんな夢を見たんじゃ、しばらくアリスの顔をまともに見れなくなりそうだ。
……なんて、くだらないことに一瞬意識を飛ばしてみたものの。リィフの沈んだ表情に、続く言葉を察してしまう。
「秋は凄く優秀な闇祓いだった。生まれ持った膨大な魔力に加え、彼ほど魔力を精緻にコントロールできる魔法使いを私は知らない。『例のあの人』でさえも、彼と直接向かい合うのは避けたと言われていた。『黒衣の天才』──世間からはそう持て囃され、連日彼の名が日刊預言者新聞の誌面を飾っていた。きっとそれは、不利な戦況を国民に悟らせないための政府の策でもあったのかもしれないね。
秋は皆の希望だった。秋なら『例のあの人』を倒せるかもしれない、秋がいれば大丈夫だと、世論はそのように傾いた。その通り、彼の魔法は多くの人の命を救ったよ。……同時に、多くの敵の命を奪うことにもなった」
ねぇ、アキ? とリィフは微笑んだ。無理矢理笑顔を浮かべたような、ぎこちない表情だった。
「幣原秋はあの戦争の英雄だった。じゃあその英雄は、戦争が終わった後どのように生きれば良かったのだと思う?」
ぼくはその問いに、答えを返すことができなかった。
「稀代の英雄、時代に愛された存在。『例のあの人』に匹敵するとも評された魔力をその身に抱いた彼は、新しい時代の幕開けには不必要な、むしろ障害となる人物だった」
「……幣原が第二のヴォルデモートとなることを、恐れたんですね」
ぼくの呟きに、リィフは微かに表情を慄かせた。思えば『例のあの人』を名前で呼んでしまっていたのだった。申し訳ないと思わずリィフを窺ったものの、リィフはぼくを咎めることなく再び話を続ける。
「その通りだよ、アキ。悲しむべきことに、幣原秋は誰よりも善良だった。残念なことに愚かでもなかった。全てを、彼は知っていた。周りの思惑も、自身の罪も、何もかもに気付かないような真似は、彼にはできなかったのだろう」
それは──理解できる。
「……僕は、どうすれば良かったんだろうな」
リィフはぽつりと呟いた。
「気付いていた筈なのに、気付いてやれなかった。救えた筈なのに、救ってあげられなかった。あいつの笑顔の裏側を、僕は察することができた筈なのに──助けてと伸ばされた手に、僕は気付くことができなかった。その結果が──あれだ」
思い出す。
教授が見せた新聞記事を。
『……自殺だ。ビルの屋上から、飛び降りた』
そう告げたスネイプ教授の声音を、あの眼差しを、思い出す。
絶望に満ちた、あれは。
「……君にアリスのことで怒鳴られた時、まるであいつに怒られているような気がしたんだ」
「あ……あの時は、無我夢中で……すみません」
「いや、いいんだ。あれで私も目が覚めた。……秋が生きていたとしたら、あいつも君のように僕を怒鳴ったことだろう」
そう言って、リィフは一瞬どこか懐かしむような眼差しを浮かべた。
その後ぼくに向き直ったリィフは、ニコリと微笑んでみせる。
「私とアリスを向かい合わせてくれてありがとう、アキ」
その誠実な声に、ぼくも素直に頷いたのだった。
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