日本の片田舎。山と川という自然に囲まれた、こじんまりとした一軒家。辺りに人家はなく、この家に来るためには山を分け入る必要がある。
この山が神聖なものだということは、精神に直接作用する感覚ですぐに分かった。幣原直が、どうしてこんな山奥に家を建てたのかも。
幣原直は、きっと予期していたのだろう。
家の近くに邪悪なものを寄せ付けないための、聖域。
邪悪なもの──つまり、ヴォルデモート卿<じぶん>のような。
トム・リドルは杖を取り出し、無造作に振り上げる。途端、山が炎に包まれた。
悪霊の炎は勢いよく燃え盛ると、川を一瞬で干上がらせ、ほぼ全ての木々を炭化してはすぐに鎮火する。今の炎で複数の結界が吹き飛び、家を目視で捉えることができるようになった。口元に笑みを浮かべ、リドルは歩を進める。
家の場所は下調べ済みだ。去年の七月、日本に張り巡らせていた監視に巨大な魔力が引っかかった。強大で膨大な魔力──十中八九、幣原秋のもの。
それでも、最初は放置しようと思っていた。持つ魔力がどれだけ多くとも、それだけでは自分の敵となり得ない──全ては扱い方次第。
そう、ライ・シュレディンガーを今年捨て置いたように。
しかし、魔法魔術大会にてその力を発揮せんとするのであれば話は別だ。現在の不穏な情勢に併せ、前回から一対一決闘方式となった魔法魔術大会は、より実践的に魔法を扱う場となる。この大会で上位に入った選手は、闇祓いに直結する進路を選ぶ可能性が──すなわち敵となる可能性が高い。
焼け野原となった山の中に、無傷の家が佇んでいる。家の周囲には、大人が手を伸ばした高さほどの柵がぐるりと張り巡らされていた。入口のところは門になっており、手で押すと開く仕組みになっているようだ。
右手を門にそっと掛ける。ぎい、と金具が軋んだ後、想像以上に簡単に門は開いた。
門の中に足を踏み入れた瞬間、ぞわりと首筋を撫でられたような違和感が走る。何だ、と身構えて周囲を見渡すも、別段変わった様子は見受けられない。
門から家までの間には玉砂利が敷き詰められていた。足を下ろすたびに音が鳴り、その音が若干気に障る。ピリピリし過ぎだ、と意識的に息を吐き出した。
幣原夫妻を殺すために来た訳ではない。勿論、上手く動いてもらえない場合はやむなしと考えているが。
ドアベルを鳴らす。涼やかな音が響いた。
やがて、ゆっくりと扉が開かれる。
「やあ。待っていたよ、トム」
ローブの中で杖を握り締めていたリドルは、昔と変わらない笑顔でにこやかに微笑む幣原直に、彼には悟られない程度に脱力した。
……いや、待て。
『待っていた』と、今しがた幣原直は言った。
勿論、トム・リドルは幣原家を訪問する際に事前のアポイントなど取ってはいない。
もしかすると、周囲の山が燃え盛る様を見て己の仕業だと気付いたのだろうか。たとえそうだとしても、リドルのことを全く警戒する素振りもなければ、怯えすらも見せないというのは解せなかった。
学生時代、リドルが周囲に『ヴォルデモート卿』と呼ばせていたことを、直は知っている。いくら海を挟んだ島国だとしても、息子がイギリスのホグワーツに通っているのだ。イギリス全土を騒がす『ヴォルデモート卿』の噂を、直が耳にしたことがないとは思えない。
それなのに──。
「立ち話も何だからさ、入ってよ。あぁ、靴はそこで脱いでくれる?」
「あ、あぁ……」
直に言われるがまま、リドルは靴を脱いだ。靴箱の上にふと視線を遣ると、一輪の花が生けられた花瓶と、小さな透明の水晶、それに白く細かな結晶──塩だろうか?──が三角錐の形で器に盛られていた。
これは一体何だろう。些細な疑問を持つも、今考えるべきはそれじゃないと軽く頭を振り追い出す。僅かな段差を乗り越え、直が出したスリッパを履くと、直の後について歩みを進めた。
直は一切警戒する素振りも見せず、リドルの前で無防備に背中を晒していた。その様子が、逆にリドルに手出しを躊躇させる。
直は、リドルが見慣れない衣装をその身に纏っていた。紋付の羽織袴だ。腰に何かを差している。杖かと一瞬危惧するも、よく見れば扇子のようだった。
それが直の戦闘服であったとは、リドルはついぞ知らぬままだった。
「……直」
「話は中でもいいかい?」
直は人好きのする笑顔で振り返った。直の眼前に、リドルは杖を突きつける。
「……
「まぁ、落ち着きなよ。なんてったって久しぶりの再会だ。ゆっくりしていってよ」
杖を突きつけられているというのに、直の声はあくまでもニュートラルだ。直の方がリドルより背が低いため、自然と見下ろす形になる。
「アキナ、トムが来たよ。君も久しぶりだろう」
直は廊下の奥へと声を張り上げた。途端「はいはーい」と明るい女性の声が──幣原アキナの声が返ってくる。
能天気そうなこの声も、腹が立つほど昔と何一つ変わらない。
「……ね? こちらとしても、君と事を荒立てるつもりはないんだ。話し合いをしよう、トム。そうだろう?」
腰から抜いた扇子を、直は空いた手のひらに軽く打ちつけた。ぱしんと乾いた音が鳴る。
小さく舌打ちをし、リドルは杖を納めた。
「わぁ、本当にトムくんだ。久しぶりだねー。ようこそ我が家へいらっしゃいました。お茶出すからほら、入って入ってー」
一体何年間会っていないのか、そんな歳月の隔たりさえも一瞬忘れてしまうほど、直とアキナの二人は何一つ変わっていなかった。時の流れに一人だけ取り残されてしまったかのような、そんな孤独感をリドルはふと感じる。
──本当に、全く変わっていない。
リドルが通された先は、どうやら応接間のようだった。
畳ではなく板張りの部屋で、脚のある椅子とテーブルが据え置かれている。大きな窓からは太陽の光が燦々と差し込み、広々とした庭が窺える。庭には花が多く植えられていて、どれもきちんと手入れされているようだった。
食卓の上や棚の上にも、花が一輪ずつ飾られている。
「百合の花だな」
テーブルの上に生けられた白い花を見て、リドルは思わず呟いた。にっこりと笑った直は「綺麗だろう?」とリドルに椅子を勧める。直もテーブルを挟んだ向かい側に腰掛けたので、リドルもそろそろと腰を下ろした。
警戒を胸に秘めつつへやをぐるりと見渡す。隅の高いところに……あれは確か、神棚と言ったか。木で作られた小さな鳥居が載せられ、神前に捧げるよう、玄関で見たものと同じ透明な水晶と塩が盛られた器が置かれている。
何でもないものの筈なのに、何故かそれが無性に気に掛かった。
アキナがキッチンから、湯呑みを三つ持ってくる。湯気が立ち上る湯呑みをそれぞれに差し出した後、アキナ自身も直の隣の席に腰を下ろすと両手で湯呑みを引き寄せる。
湯呑みの中を覗く限り、どうやら緑茶のようだった。一旦は礼儀として、感謝の言葉と共に一口含む。紅茶とはまた違う、煎った草の匂い。不味いとは感じないものの飲み慣れないため、リドルは早々に湯呑みを置く。
直は先程から全く怯えた姿も見せず、またこちらを探るような雰囲気もなく、ただ美味そうにお茶を啜っていた。湯呑みの隣には先程手にしていた扇子が置かれている。気が焦れて、思わずリドルから口を開いた。
「単刀直入に言おう、直。僕の味方になって欲しい」
「……僕はいつだって、君の味方のつもりだよ、トム」
穏やかに微笑む直の目を、リドルはじっと見据えた。黒い瞳のその奥に隠された心を読み解こうとする。
しかし心に押し入る前に、直は視線を静かにリドルから外した。それが意図的なものか、それとも無意識的なものだったのかは、リドルには判別つかなかった。
「直、僕の言いたいことが分かっていない訳じゃないだろう。僕はずっと、お前に味方になって欲しかった。……来て欲しいんだ、直、アキナ。僕と共にイギリスへ行こう」
「……君と、共に」
「あぁそうだ。僕と一緒に英国魔法界を統べるんだ。そのためにも一緒に来て欲しい。なぁ、直……お前と僕は、友達だろう?」
「……友達」
リドルの言葉を復唱し、直は目を閉じた。そして再びゆっくりと開く。
「ねぇ、トム。好きな人はできたかい? 守りたいと思える人には出会えたかい?」
リドルから目を逸らしたまま、直はぽつりと問いかけた。
「は? 何をいきなり……」
「何か、何か、何でもいい。大事なものはできたかい? 命を捧げても良いと思える、そんな宝物には出会えたかい?」
どこか必死さすら感じる口調だった。
想像すらもしていなかった問いかけに、リドルは目を瞬かせるも、直に嘘をつく必要もないと素直に「いや」と否定の意志を言葉にする。
「何だ、気持ち悪い……そんな感情は邪魔なだけだ。何かに一途に盲目になるなんて、そんなことは愚か者のすることだ」
「…………」
「愛も恋も僕には必要ない。存在すら
「……あぁ、そうだね。分かった、ちゃんと言葉にするよ」
そう言って、直はことりと湯呑みを置いた。
「僕が命を賭けても守りたいものはこの世に二つある。何としても、何があっても守りたい人。生きていて欲しい人が二人いる。今、僕の隣にいてくれているアキナと、後もう一人──一人息子の秋なんだ。この二人だけは何が何でも守らないといけない。でも、二人のうちどちらかしか救えないというのであれば……僕は、秋を守ることにした。僕は、僕とアキナの血を受け継いだ最愛の息子、秋を守ろうと思う」
話がさっぱり読めずに、リドルはただ訝しげに眉を寄せた。
「お前達三人くらい、僕が守ってやるよ。簡単なことだ」
「……そうだねぇ。君ならそのくらい、とっても容易いことなんだろうね」
ふ、と微笑み、直はやっとリドルを見た。リドルがこれまで見たこともないような、静かで儚い笑顔だった。
「でも、君には守れない。君には何一つ守れない」
「……どういう意味だ」
自然、声が低くなる。直は小さく笑い声を漏らした。
「言葉通りの意味だよ。君には何も守れない。何一つとして、君は守ることはできない。自分が一番大事な君に、自分より優先する事柄がない君に、何かを守ることはできない。人を喪う悲しさを感じない君に、大切なものの価値が分からない君に、何かを守り通すことなど出来はしない。……はっきり言えよ、トム」
漆黒の瞳に鋭い光を滲ませ、直は言った。
「本当に欲しいのは、僕とアキナじゃなくって、秋だろう?」
「……っ」
一瞬、息ができなかった。
直の纏う殺気が、ピリピリと肌を灼く。
「秋を君なんかにやるものか。秋を君の、お前の道具になんてさせない。僕らの最愛の息子を、お前のちゃちな野望のためには使わせない」
「……っ、直……どうやらお前にはまだ状況が理解できていないらしい。いいか、お前に断る権利などない。僕に従え、直。従わないのなら……殺す」
杖を抜くと椅子を蹴って立ち上がり、直の鼻先に突きつけた。小さく息を呑んだアキナは咄嗟に身構える。そんなアキナを片手で制して、直はリドルを見上げた。
「トム、君は間違っている。魔法界を統べる? 自分に逆らう者を全て皆殺しにして、君は一体どこに向かうつもりなんだい? いい加減に気付いたらどうだ」
「直、お前やけに余裕だな。この僕に杖を突きつけられておきながら、よくそんな軽口が叩けるものだ。自分が死ねば
杖の照準を直からアキナに移す。直が表情を強ばらせたのを、リドルは見逃さなかった。
「…………」
「これが最後だ、直。よく考えて言葉にするんだな。……僕に従え。僕と共に来るんだ」
杖を下ろし、代わりに右手を差し出した。直は口を引き結んだままリドルを見上げていたものの、目を閉じると大きく息をつく。
「……そうか。君はどうしても『そう』なんだな」
「……何?」
「分かったよ、トム」
直は傍らの扇子を手に取り立ち上がると、そのまま素早く押し広げた。パッと艶やかな金色が視界に広がった瞬間、扇子の中から一枚の紙がハラリと零れる。
細長い紙には、黒と金で何かの陣が書き込まれていた。その紙を見た瞬間、何故だかぞくりと肌が粟立った。
咄嗟に身を乗り出し、直からその紙を奪おうと手を伸ばす。しかし、直がその紙をテーブルに叩きつける方が早かった。
キィンと硬質感のある音と共に、その紙を中心として魔法陣が空中に浮かび上がる。瞬間、神棚の上に置いてあった水晶が眩いばかりの光を灯した。リドルは思わずテーブルから後ずさり、杖を構える。
「……幣原家当主、幣原直が命ずる。森羅万象、この世に生きとし生けるすべての事物よ。我らの願いを、祈りを聞き届けよ」
直が早口で呟いた。途端に光はより強く青白い光を放ち始める。
「万物を司る象徴の精霊よ。我が
直の隣に寄り添ったアキナが、両手を胸の前で握り締めたまま囁いた。目を上げると強い瞳でリドルを見つめる。
「……っ、お前ら……」
ふと、嫌な予感がした。
杖を窓に向け破壊呪文を繰り出す。普通であればそこら一帯全てが消え去ってしまうほどの威力の魔法を受けて尚、窓ガラスはヒビすら入らなかった。
「何を……直、お前、何をした……!」
「結界さ」
幣原直はさらりと言う。右手には扇子を、左手には様々な刻印が描かれた札を持ち、印を結んだ。
「此処に来る前に、日本の魔術についてもっと勉強するべきだったね、トム。まずは地形。樹齢千年を超える杉の木を有するこの山自体が聖域だ。大きく囲むように流れる川も、一種の結界──もっとも、君がつい先程燃やし尽くしてしまったみたいだけどね?
家の門を押し開けた時、嫌な感覚はなかったかな? そう、家を囲む柵も一つの結界だ。
玄関で、君は水晶を興味深そうに眺めていたね。大正解、あれが最後の結界だ。家の四隅に配置してある。結界を発動させた今、もう君は外には出られない」
「……外に出られないのはお前も一緒じゃないか。そもそも結界というものは、外界から異物を遮断するためのものだろう? 既に内側へと入り込んだ僕には無意味な代物だ」
「分からないかな? この結界は君を入れないためのものじゃなく、君を出さないための結界なんだ」
どこまでも自然体に、幣原直は言葉を紡ぐ。
「どうして、と不思議そうな顔をしているね。君はもしかして、僕が玄関で君を迎えた時の『待っていたよ』も引っ掛かっていたりするのかな。最後だ、ネタばらしをしてあげよう。
幣原家は日本魔術界においては名家でね。特筆すべきはこの一点──数世代に一人の割合で、時に関連する異能力を持つ人間が誕生すること。僕もそう。幣原家当主幣原直は夢で未来を視ることができる。加えてアキナはヨーロッパで脈々と継がれた精霊使いの末裔。そんな僕らの息子なんだから、秋が人並み外れた膨大な魔力を持っていたとしても、そうそう不思議なことじゃない。
だから僕らは知恵を絞ってきた。将来的に、君は秋を狙うだろうと確信していたからね。
後、もう一つあるんだ。僕とアキナが二人揃って初めて組み上がる魔法。東洋と西洋の魔術コラボだ。これは、僕らが命を落として初めて完成する」
じわじわと、真綿で喉を締められている感覚がする。息苦しさに思わず喘いだ。
「僕らの最愛の息子、幣原秋。『秘密の守人』を改変することで、秋自身の座標を僕らの中に隠すことに成功した。これでお前は、秋がすぐ隣を通ったところで姿を視認することさえできない。秋が君を意識的に探していない限り、君は永遠に秋の居場所を知ることはできない──。
さて、話を最初に戻そうか。結界の話だ。この結界は、僕らが死なない限り壊れることなく、ずっとそこにあり続ける。君はここから一生出ることはできない。……ちなみに言っておくと、この結界を解く方法はない。例えるなら、解毒剤のない毒って感じかな。鍵穴のない錠か。だって、僕とアキナはここから出る気なんて全くないのだからね。
こんなに若い身空で両親を喪うことになるなんて、秋はどれだけ辛いだろう。あいつの悲しみを考えると、心が引き裂かれるように痛むよ。……最後に、秋に会いたかった」
そこで言葉を切り、直は大きく息をついた。
リドルは目を見開いたまま、今の話を反芻し、咀嚼したと確信した後、ゆっくりと口を開く。
「直、お前……死ぬのが怖くないのか」
「怖いさ。とっても怖いよ」
柔らかな口調だった。
「まだまだやりたいことはたくさんあった。好きな作家の新作はまだ読んでないし、この前食べた桃のゼリーはもう一回食べたいし、明後日は流星群が極大なんだ。アキナとおじいちゃんおばあちゃんになってもずっと仲良くしていたかったし、秋の成長をこの目で見届けたかった。秋が彼女を連れてきて、照れながら紹介するのを微笑ましく見たかったし、孫をこの腕で抱きたかった。……でも、いいんだ。死ぬことよりも、僕は秋を失うことの方が怖いから」
そして、リドルを真っ直ぐに見つめる。
「トム、以上が僕の全てだ。君は僕の大切な友達だ。だからこそ、僕は君の足枷になり続ける。秋は天才だ。君に並び立つほどの能力を持っている。秋は両親が死んだことを嘆き悲しむだろう。そしてその怒りから、秋は全力で君の敵になり、味方になることはないだろう。君は秋を殺せないが、秋は君を殺すことができる。秋は君の野望を、全力で阻止しにかかるだろう。これが……友人の君に贈る、最後のプレゼントだ。
僕らを殺さない限り、君はここから出られない。僕らを殺せば、君は秋を見つけることができない」
直はにっこりとリドルに微笑んだ。
その表情はまるで、心を許した親友に向ける柔らかなもので。
「僕の勝ちだ、トム」
いいねを押すと一言あとがきが読めます