手に馴染むその扉を、ぼくはゆっくりと押し開けた。部屋に足を踏み入れる。
大きな窓からは、太陽の光がさんさんと降り注いでいる。
庭には花が多く植えられていた。それらは全て枯れていた。
テーブルは真っ二つに折れていた。
食器は全て割れていた。
棚は全て倒れていた。
小さな雑貨は全て棚から落ちていた。それらは全て砕かれていた。
奥の部屋へと行ってみた。部屋中をぐるりと囲む本棚から、本は床に全て落ちていた。それらは全て破かれていた。
そして、その中央に────
「秋? 秋!」
揺さぶられて、ぼくはハッと目を覚ました。
リィフ・フィスナーが、ぼくを覗き込んでいる。開いたカーテンの隙間からは、眩しいばかりの日の光が差し込んでいた。
「珍しいね、寝坊なんて」
「ん……ごめんね、ありがとう」
「早く支度しなよ? 今日は忙しいんだからね」
はぁいと頷き、ぼくは慌ててパジャマを脱ぐと服に袖を通した。
今日はホグワーツ特急でホグワーツから家へと帰る日だ。早めに朝食を食べて帰省の用意をしなければ、汽車に乗り遅れてしまう。
手早く髪を括るとリィフを追いかける。その頃にはもう、先程見た夢のことなどすっかり忘れてしまっていた。
キングズ・クロス駅は多くの家族連れで賑わっていた。紅のホグワーツ特急からは大きなカートを引いた生徒が次々と降りて行って、九と四分の三番線で待つ家族の元へと駆け寄っていく。
そんな様子を横目に、ぼくはコンパートメントの中でセブルスとリリーに向き直った。
「じゃあ、また新学期で」
「ああ」
「またね、秋!」
そう笑い合い、ぼくらも汽車から降りる。二人の姿が見えなくなるまで手を振った後、ぼくも両親を探してカートを手に歩き出した。
「んー……」
四年生も終わったものの、ぼくの身長は人と比べて小さめだ。だから自然、ぼくの周りには人の背丈で壁ができていて、周囲を碌に見渡すことも難しい。
今までどのように両親を見つけていたんだっけ……と考え、思い出した。今まではいつも、両親がぼくを見つけてくれていたんだ。
……列車の近くにいた方が、両親にとっては見つけやすかったかな?
今更ながらそう思ったものの、もう遅い。汽車からはもう随分と離れてしまったし、今から重たいカートを手にこの人混みの中をUターンするのは骨が折れる。
後少し経てば、人の量も減るだろう。そうすれば見通しもぐっと良くなるに違いない。
それまで待つのが得策かと、ぼくは待合室へと入った。どこも混み合っているものの、たまたま一席だけ空いている席を見つけ、ラッキーとばかりに腰を下ろす。
両親と会うのも、何だか随分と久しぶりだ。今年度はクリスマスにも帰らなかったから丸一年ぶりか。
ちらりと隣のカートに視線を向けた。この中には、先日の魔法魔術大会でぼくが優勝したときに貰った盾が入っている。
両親をびっくりさせたくて、まだ優勝したことは話していない。きっと驚くだろう。喜んでくれるだろうか。きっと喜んでくれる筈だ。
……もしかして、まだ両親はイギリスに到着していないのだろうか?
一人静かに待っていると、そんな不安がむくむくと湧き上がってくる。
日本まではいつも飛行機で帰っている。その飛行機が遅延したとか故障したとか、そんな不具合があったのかもしれない。
首からいつも下げているロケットを引っ張り出して中身を確認するも、新しいメッセージは入っていないようだった。むぅ……と唇を尖らせつつも、ロケットをいつもの通りに仕舞い込む。
──もしかして、事故にでもあったのかもしれない。
そう思い始めたのは、待合室の椅子に座って優に三十分は経った頃だった。ロケットにメッセージを入れることすらできないくらい、緊急なことが起きているのかも……。
そう考え始めると、段々と良くない方向へと思考がズレていく。ブンブンッと頭を振って、嫌な考えを追い払った。立ち上がり待合室を出る。
プラットフォームにいる人の数は、予想通り随分と少なくなっていた。その中でぼくは、両親の姿がないかキョロキョロと探す。
ホグワーツ特急もホグワーツに帰ってしまったようだ。周囲を見回すも、両親らしい人の姿はどこにもない。端から端まで探しても見当たらない。心細さに唇を噛んだが、顔を上げた。
いつまでも九と四分の三番線に留まっている訳にもいかない。今度はキングズ・クロス駅を探してみよう。もしかしたらホームで会えるかもしれない。
駅を探して、それでもいなかったら……。
──いいや、ちょっと一人で心細いだけだ。大丈夫、ぼくはもう十五歳なんだから。
駅の柱に寄り掛かるフリをして、九と四分の三番線を通り抜ける。辺りに人気はなく、見られた雰囲気もない。そのことに安堵しつつカートを押した。
キングズ・クロス駅はイギリスの主要駅だ。様々な路線が入り組んでいるのもあってとても広い。
その時、背後から駆け寄ってくる足音が聞こえてぼくは振り返った。駆け寄ってきた人物が思いも依らない人だったので更にギョッとする。
「え……ライ先輩!?」
ぼくの傍まで走ってきたライ先輩は、膝に手をつき苦しそうに喘いだ。しかし息を整える間もなく顔を上げると、長めの前髪の間からぼくを険しい眼差しで見つめ「……秋」と口を開く。
「えと、その、一体どうしたんですか……?」
「……本当に」
────すまなかった。
ライ先輩は掠れた声で呟いた。
その声は、思わず聞き逃してしまいそうなほど小さくて、ぼくはどうしてライ先輩がぼくに謝るのか、意味が全く分からなくて、咄嗟に「えぇ?」と尋ね返した。
しかし、答えが返ってくることはなく。代わりにライ先輩はぼくの手をぐいっと掴んだ。ぼくを自分に引き寄せると、右の踵をカツンと左踵に当て、その場でクルッと回転する。
これは──この動作は、姿くらましの術────
「何が……起こってるんですか」
ぼくの問いかけに、ライ先輩は短く答えた。
「お前の両親が──死んだ」
その言葉を最後に、ぼくの視界は急速に暗転していく────。
◇ ◆ ◇
学期の最終日、期末試験の結果が発表された。なんと『魔法生物飼育学』が合格していたのには驚いた。
ハーマイオニーも、授業を途中放棄した『占い学』以外は全科目良い点が取れたようだ。ハーマイオニーのことだからきっと大丈夫だと思っていたものの、それでも何だかホッとした。
この日の大広間は、グリフィンドール寮が優勝杯を獲得したお祝いとして赤と金色に彩られていた。普段青と銀色のレイブンクローの中で暮らしているぼくとしては、何となく目が痛くなる。
それでも素晴らしい料理を前にすると、そんなことも些細なことだと思えてしまうのだ。ここにリーマスさえいれば、と思った。
「そういや、もういいのか?」
「ん?」
突然アリスにそんな言葉を投げかけられ、ぼくはローストビーフを頬張りながら顔を向ける。アリスはしばらくじっとぼくの顔を見ていたものの、やがてフッと笑って顔を逸らした。
「だって今年、お前ずっと忙しそうだったし」
「……あー……あはは……」
無意味にかぼちゃジュースのストローをくるくるさせる。やっぱりアリスには隠し通せてなかったか。
「ごめんごめん、来年度はもっと構ってあげるからさ」
「ハ? 何様のつもりだコンニャロ」
アリスはぼくの頭に手を伸ばすと、そのまま勢いよくぐしゃぐしゃにする。あーあーあー、だから髪括ってる時にそんなことさぁ……ま、いいや。ぼくは寛大なのでね、許してあげますよ。
……そう、
「
ホグワーツ特急を待つ間、ハーマイオニーは宣言した。ぼくは驚きつつも納得して頷く。
「あぁ、それがいいと思うよ。
「その割には、アキは平然としていたように見えるけど?」
「ぼくはほら、いろいろと慣れてるからね。理不尽なことが唐突に降っ掛かってきたりとか日常茶飯事だから」
ハーマイオニーは面白そうに笑った。
彼女の晴れやかな笑顔も、思えば久しぶりだ。随分と
「散々迷惑を掛けてごめんなさい、アキ。あなたがいたおかげで、気持ちの面ではかなり楽だった」
「だったらいいんだけど。ハーマイオニーの役に立てて、嬉しいよ」
ぼくもハーマイオニーに笑みを返す。
ハーマイオニーもロンも、ぼくが幣原に──リーマスやシリウスの友人である幣原秋に作られた存在であるということについて、ほとんど手放しで受け入れてくれた。ぼくに今まで通りに接してくれる。その反応は、不覚にも……涙が出そうなほどに、感情を揺さぶられた。
その時、ハーマイオニーが悪戯っぽい目をぼくに向け囁いた。
「そう言えばアクアのことだけれど、知ってた? あの子、マルフォイと婚約を解消したんですって」
あぁ……そう言えば、この前アリスがボヤいていたっけ。「あのお嬢サマは、マジで何考えてやがんのか分かんねぇ」とサジを投げていた。ぼくも考えたけど、何で彼女達が婚約を解消することになったのかはよく分からない。
この一年でドラコはパンジーと親密になったようだけれど、恋人とかじゃないみたいだし……それに、あの婚約はアクアの方から解消したようだし……うーん。
「アキ、チャンスよ! 私の目に狂いはないわ、あの子多分アキに気があると思う。今年一年、アキと一緒にいる機会が多かったけど……あの子、私があなたの隣にいるのを見つけた時、いつもちょっと不安そうな顔するの」
「……いや、どうだろうね。そうだったら、そりゃ嬉しいけど」
ぼくは苦笑いを浮かべてみせた。誰にも気付かれない程度に目を伏せる。
──ぼくはアキ・ポッターだ。でも同時に幣原秋でもある。
自分の親ほどの歳である『ぼく』を、アクアは受け入れてくれるだろうか。
それに……きっとぼくは、幣原秋として、やらなければならないことがあるのだろう。
そんなぼくが、アクアと……?
アキ・ポッターは、アクアのことが好きだ。我ながら心底惚れ込んでいると思う。
でも一方、幣原秋としては、そりゃぼくの友人であるアクアマリン・ベルフェゴールの存在くらいは知っているだろうが、彼女に対し特別な興味も何もないだろう。
自分の身体が、幣原秋と意識を共有するものだと知ってしまった今──今までのように心のままには振舞えない。独り言すらも下手には漏らせない。
心の中までは覗けない、というのは少し嬉しかったけれど──それでも、常に監視されているような息苦しさは付き纏う。
それに──正直なところ、自分自身のことで手一杯で、とてもアクアに回せる分は残っていない。自分でもまだ、幣原秋を完全に受け入れることはできていないのだ。
毎晩『夢』で見ている幣原秋と、ハリーが話してくれたあの日の幣原秋は、まるで別人のようだった。
ぼくの知る幣原秋は、あんな奴じゃない……あそこに辿り着くまでに、一体何があったのか。その部分が抜け落ちている。
「アキ?」
ハーマイオニーがぼくの顔を覗き込んだ。どうやら心配させてしまったみたいだ。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「いや、大丈夫。別に何ともないさ、平気だよ」
「そう……ところであなたは、来年の授業はどうするの?」
「あぁ、そのこと。それなんだけどさ、フリットウィック先生が、折角だからこのまま──つまりまぁ、十二科目だね、履修し続けてみないかって。
笑って肩を竦める。ハーマイオニーは尊敬するような同情するような視線を向けた後「アキならきっとできるわ。実際、私より頭も良いものね」と頷いた。
「ハーマイオニーより頭が良い? 言い過ぎだよ。ぼくはもう実際、幣原秋として一度習ってるから……」
ポロリと零した直後、失言だったとすぐに気付いた。『幣原秋』の名前を聞いた瞬間、ハーマイオニーの表情が強張ったのが分かった。
「……うん、まぁ、そんな感じだよ」
ふわっとした言葉で締める。ハーマイオニーは今の間を振り払うように無理矢理笑みを浮かべてみせると、やって来たハリーとロンに大きく手を振った。
「あなた達、遅いわよ! どうして昨日のうちにトランクに荷物を詰めておかないの?」
「うわぁ、ハーマイオニー、どうして分かったんだい?」
「あなたのことなんてお見通しよ」
そんな言葉を交わしながら、ぼくらは空いていたコンパートメントに入って腰を下ろした。
「ハリー、アキ、夏休みは絶対に僕達のところに来て、泊まってよ。僕、パパとママに話して準備して、それから
「ロン、
去年の夏休み、ロンがダーズリー家にとんでもない電話を掛けてきたあのことを言っているのか。
「今年の夏はクィディッチのワールドカップだぜ! どうだい? 泊まりにおいでよ、一緒に見に行こう! パパ、たいてい役所から切符が手に入るんだ」
「へぇ、ロンのお父さんって凄いねぇ」
素直に感心する。流石は魔法省勤め。
だとしたら、リィフも切符を手に入れられるのだろうか。でもリィフのことだ、また休みもなく仕事漬けかな……? アリスだけなら、あるいは……。
そんなこんなでお昼過ぎ。ふと窓の外を見たぼくは、ギョッとして思わず声を上げた。
それはちっちゃなフクロウのようだった。自分の身体よりも大きな手紙を咥えているものだから、空気に煽られまくっていて今にもどこかに飛んで行ってしまいそうだ。
窓を開けたハリーは、シーカーらしい俊敏な動きでパッとそのふくろうを捕まえてみせた。コンパートメントの中に入れてやると、そのふくろうは凄い勢いで天井辺りをブンブン飛び回る。
「僕宛てだ……シリウスからだ!」
ハリーが嬉しそうに叫んだ。目を瞠ったぼくらは「よ、読んで!」とハリーに詰め寄った。
その手紙にはシリウスの現状と、ファイアボルトを贈ったのは自分だという告白、そしてハリーとぼくのホグズミード行きを許可する旨が書かれた羊皮紙が入っていた。
「ん? なんだこれ、もう一枚入ってた……アキ宛だ。はい」
封筒の中をもう一度見たハリーは、ぼくに一枚の羊皮紙を渡した。ぼくの名前が書かれている。
ぼくは黙ってその羊皮紙を開いた。
『親愛なるアキへ
君本人とは結局話せなかったものだからね、こうして手紙を送らせてもらった。
今まで、私の代わりにハリーを守ってくれてありがとう。私は君の後見人でも何でもないが、幣原秋の友人として、君をこれからも見守っていきたいと思っている。
親代わり、と書こうとしたが、気恥ずかしくて止めたよ、思わず。君は私の学生時代の姿も知っているんだろう? なら、下手に大人ぶったところで無駄なだけだ』
そこまで読んで初めて気が付いた。
夢で、ぼくは毎日幣原秋の人生を追体験している。それはつまり、幣原に視覚と聴覚が筒抜けな現状と同じじゃないか?
いや、
『また会おう、アキ。君に会えて、よかった』
「…………」
『ここからは秋へ』と書かれているところで、ぼくは手紙を折り畳んだ。いくら自分自身だとしても、他人の手紙を見るのは失礼かと思ったからだ。
ハリーもロンもハーマイオニーも、手紙の内容は尋ねてこなかった。その距離感の取り方が、なんだか心地よく感じた。
キングズ・クロス駅は相変わらず凄い人混みだったものの、ぼくとハリーはすぐにバーノンおじさんを見つけることができた。ウィーズリー夫妻を遠巻きに見つめる姿が、もうマグルオーラ全開だったからだ。
ぼくとハリーはまず真っ先にモリーおばさんに駆け寄った。ぼくらが抱き締められるのを見て、おじさん達はますますウィーズリー夫妻から距離を取った。
ロンとハーマイオニーに「また今度!」と手を振り、ぼくらはバーノンおじさんの方へ歩き出す。その時、ロンが叫んだ。
「ワールドカップのことで電話するからな!」
ぼくとハリーは振り返り、了解とばかりにロンに手を振った。
ハリーの手に握られていたシリウスからの手紙を見て、バーノンおじさんは心底嫌そうな顔で口を開いた。
「そりゃなんだ? またわしがサインせにゃならん書類なら、お前はまた……」
「違うよ。これ、僕の後見人からの手紙なんだ」
「後見人だと? お、お前に後見人なんぞいないわ!」
「ううん、いるんだ」
ハリーは弾んだ声で言う。
「父さんと母さんの親友だった人なんだ。殺人犯だけど、魔法使いの牢を脱獄して逃亡中だよ。ただ、僕らといつも連絡を取りたいって。僕らがどうしてるか、知りたいんだって。幸せかどうか確かめたいんだってさ」
バーノンおじさんの顔が恐怖で歪んだ。
ぼくとハリーは顔を見合わせクスクスと笑うと、共にカートを引いて駅の出口へと向かう。
どうやら、今年の夏休みはかなり居心地が良さそうだ。
──────fin.
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