「スネイプ」
それは、日曜の日暮れのことだった。ふらふらと廊下を歩いていたセブルス・スネイプは、目の前に立ち塞がった人影に、ふと足を止めた。顔を上げる。
「何の用だ」
唸るように呟けば、三人組はせせら笑った。無遠慮に、一番屈強そうな一人が、セブルスの胸倉を掴み上げる。抵抗出来ずにセブルスは、両手に持っていた荷物を落とした。
バラバラと地面に散らばる本や筆記用具の音を、そしてそれらが他の二人に蹴り飛ばされる音を、醜い耳障りな笑い声を聞いて、セブルスは眉を寄せた。
三人組がその身に纏っているローブの裏地は、自らと同じ緑色。──そして、おそらくは一つか二つ歳上だ。
そのことに気付いて、セブルスは、絶対に抵抗する素振りを見せないこと、声を上げずにただただ嵐が過ぎ去るのを待つこと、決して彼らに何も喋らないことを、自らに課した。
「何の用か、分かってない訳じゃあないだろ? 『穢れた血』と長年付き合っていると、輝かしい脳みそまでも鈍重になっていくのかい? それとも、元々がそんなに愚鈍なのかな?」
周囲に目を凝らすも、辺りは人っ子ひとりいない。その程度の狡猾さくらい、スリザリン生なら誰もが持ち合わせているということを、自身もスリザリン生であるセブルスにも身に沁みて理解していた。
ぐ、と、ただただ耐えて彼らの気が済むのを待つことを、セブルスは覚悟する。
心を殺して、耳を塞ぐのは、セブルスの得意とするところだった。
物心つく前から、暴力は身近にあった。父は酔うと母と自分に手を上げる人物だった。マグルで、到底尊敬出来る人物ではない。母はいつも、そんな父に涙を流していた。冷え切った家族仲で、セブルスは生まれ育った。
だから、セブルスにとっては、幣原秋の両親のような親がいるなんて、信じられないことだった。穏やかな父親に、ほんわかと優しい母親。
現実味がない、と思うほどに、幣原秋の両親は、セブルスにとって理想だった。
空中に持ち上げられ、首が絞まって息が出来なくなる。それでもセブルスは、考えに頭を浸し続ける。
それが、セブルスなりの自己防衛だった。現実を直視しないこと。それが、セブルスにとって心を守る唯一の術だった。
こんな両親の元で生まれ育ったからこそ、幣原秋のような、どこまでも善良でお人よしで、純粋な笑顔を浮かべられるような人間が出来上がるのだ、ということを、あの時セブルスは悟った。同時に、自分はどんなに頑張っても、幣原秋にはなれないということも。
誰にでも愛され、そして愛された分だけちゃんと愛し返せる、彼のような人物には、逆立ちしてもなれないのだと。
自分は、何もしなくても人が集まってくるような人物にはなれない。
自分が今持っているもので勝負出来るほど、自分の手持ちのカードは強くない。
だからこそ──闇の魔術という強いカードを求めるのは、ある意味で真理であった。
「何度言わせれば分かるかな? 『穢れた血』と関わるなって。これは君のためにも言っているんだよ? スリザリンの品位を落とすような真似、君もしたくはないだろう?」
空中で手を離され、地に這い蹲った。息が止まる。耐えず飛んでくる暴力の嵐に、セブルスはただ、目を閉じた。
自分は弱い。秋よりも、リリーよりも。そんな自分が、あの二人を守りたい、だなんて──なんてお笑い種。
ならば、あの二人に並びうるほどの力が欲しい。二人の背中を追うのではなく、せめて、肩を並べて歩きたい。
そのためなら──そのためなら、セブルスはなんだってやるだろう。
悪魔に魂までも──売ってみせるだろう。
それがどんなに愚かしい行為なのかに、気付くこともなく。
「本当、『半純血』の癖に、取り入るのが上手いよな。ルシウス先輩、ベルフェゴール先輩しかり」
腹を、強く踏みつけられる。髪を乱暴に引っ張られ、無理矢理起き上がらされたところを、再び突き飛ばされた。
一体、こんなことをして何になるというのだろう。セブルスの意見を変えさせたいのなら、もっと他に手を打つべきだ。暴力では、セブルスは変わらない。痛みや暴言に、セブルスは慣れ過ぎていた。
むしろ、生ぬるい、とまで思う。
これなら、マグルの父がやることと何ら変わりはない。むしろ父の方が、生命の危機を感じる分、彼らに勝る。
そもそも、暴力を以って他人を支配しようとするなんて、高尚な魔法使いが取るやり方ではない。
こんな下賤な連中は、セブルスにとって眼中にもない存在だった。
マグルと同じく、歯牙にも掛ける価値のない存在。
単純な腕力を、それも一対多数で弱者に対し振るうことに、一体どれだけの価値が存在するというのか。
「ここまでされて、まだあの『穢れた血』と関わろうとするなんて、そこまであの女が大事かよ、スネイプ」
あぁ。
大事だ──と、セブルスは思う。
誰よりも何よりも、大切な存在だ。
「じゃあ、あの女──壊しちゃおうか?」
その言葉に、初めてセブルスは顔色を変えた。セブルスの表情の変化に気付くことなく、彼らは下卑た笑い声を上げる。それはいい考えだ。気の強そうな美人を組み敷くのは大好きだ──そういう、耳を覆いたくなるほどの品のない言葉に、セブルスは杖を掴み半身を起こす。しかし瞬時に、杖ごと蹴り飛ばされ、セブルスは地面に蹲った。
「何、正義ヅラしてるんだい? 闇の魔術に頭の先までどっぷり浸かった奴が、今更誰かの物語の主人公になれるとでも? ねぇ、『半純血のプリンス』君?」
かろうじて目を開けると、その言葉を発した人物は、いつの間にかセブルスの教科書を手に取っていた。
パラパラと、彼は教科書を──正確には、セブルスが記した余白の落書きを──見遣る。
「凄いねぇ、流石だねぇ。闇の魔術とミックスさせて新たに呪文を作り出すなんて、一体どこまで深く沈めば出来ることなんだろうねぇ。例えば──『セクタムセンプラ』」
閃光に、思わず目を瞑った。全身を刀で滅多に切り裂かれたような鋭い痛み。顔に、腕に、足に、身体に、全身から、まるで
ローブが、みるみる血で染まる。床に血だまりが出来た頃、やっと彼は反対呪文を唱えてくれた。
身体の傷は癒えても、身体はジクジクと熱を持ったように痛み続ける。また、失われた血液は戻ってこない。身体を起こしたら、目眩がするだろう。
「──いい呪文だね、本当、素晴らしい呪文だ。何より、この反対呪文でしか癒えない、というところが最高だ。……君は暴力じゃあ意見を曲げないみたいだけど、君自身が考案した呪文だと、一体どうなるんだろう──試してみようか。何度今の呪文を繰り返したら、君が音を上げるのか。それとも、出血多量で君が昏倒するのが先か」
杖を振り上げる彼らの目に宿るのは、狂気。
痛みを堪えるように、セブルスは身を強張らせ──
「何をしている!」
鋭い声が、廊下を響き渡った。蜘蛛の子を散らすように、と言ったが早いか、見つかったと分かった瞬間、彼らは素早く走り出し、あっという間に角を曲がって姿を消してしまう。
声の主──幣原秋は、左手に杖を持ったまま、三人組が消えた方向をじっと睨みつけていたが──もう追いつけないと悟ると、ぱっとその表情を泣き出しそうな悲しげなものに変えた。
セブルスの元に駆け寄ると、「大丈夫!?」と、その大きな瞳を揺らす。
「あぁ……大丈夫だ」
「でも、血が……」
「傷自体はもう消え失せている」
秋はそれでも、セブルスを心配するようにあらゆる場所に目を走らせた。心配する必要はない、とセブルスは右手を振り、立ち上がろうとするも、足に力が入らずその場に尻餅をついた。
「セブルス!」
秋は座り込むセブルスに、右手を差し出した。
しかし、秋は純粋な好意のみで、ただただセブルスを心配するあまりの行為だと分かっていても、セブルスはその手を取ることは出来なかった。
同情されたようで──憐れまれたようで。
自分の考えすぎだということくらい、気付いている。秋は、そんなことを考える人物じゃないことを、一番自分がよく知っているはずだ。
「……自分で立てる」
そう口にして、セブルスは秋から目を外した。秋は、少し驚いたようだったが、すぐさま手を引っ込めると「……ごめん」と呟く。
セブルスは足を引きずりながら、寮までの道を歩いた。
思っていた通り、あの純粋で優しい少年は、セブルスの後を追ってくることはなかった。
◇ ◆ ◇
ハリーら代表選手四人は、新聞記者の取材と杖調べの儀を受けたということを、ハリーから聞いた。シリウスが無事だということ、そして、シリウスが直接会って話したいということも。二週間後の十一月二十二日を、ぼくらは待ち侘びた。
ハリーの味方は、とても少ないようだった。特に、ロンがハリーのそばにいないというのは大きな痛手だ。ハリーがロンをどれだけ精神的に頼りにしているのか、ロンはさっぱり気付いていない。
ぼくが付きっ切りでハリーのそばにいたかったが、寮が違うぼくらにとって、それは無理な相談だった。
まるで、秘密の部屋の再来だ、と思う。
噂で、ぼくがハリーの名前をゴブレットに吐き出すように仕向けた、というものも耳にした。様々な噂が飛び交う中では、悪くない方だと思う。ぼくはハリーが望むのだったらなんだってしてあげたいし、実際にゴブレットを『錯乱』させようと思えば……多分、やって出来ないことはないのだろう。なるほど、悪くない読みだ。
唯一外れているのは、ぼくがハリーを危険な目に合わせるわけがない、ということを分かっていないところか。
「……ねぇ」
ぼくの周囲ですら、ハリーが自己顕示欲で名前を入れたと思っている人とそうでない人の比率は、甘めに見積もったところで三割程度だ。むしろ、三割もいてくれることに有り難みを感じるべきなのかもしれない。
「アキ?」
ぼくとハリーは、いっそのこと露悪的に、時間さえ合えばよく行動を共にするように心がけた。
ハリーだけを矢面に立たせるよりは、せめて矢の矛先を分担したい、という裏の思いもあった。
「ねぇ、聞いてるの、アキ!!」
ローブのフードを後ろからぐっと引っ張られ、ぼくの思考はそこで中断した。ぐぇ、と情けない声が喉から漏れる。
よろめきかけた身体をなんとか戻して振り返ると、そこには怒った表情のアクアが立っていた。
「あ、アクア……」
「……ずっと呼んでるのに、どうして気付かないのかしら?」
「う、ごめん……」
考え込むと周りが見えなくなるのは、ぼくの悪い癖だ。反省する。
でも、一体どうやって直せばいいのだろう、分からない。
それにしても、久しぶりにアクアと出会った気分だ。もしかして、始業式の日にホグワーツ特急で会ったのが最後なのか。
あの日のことを思い出すと、もう大分時間が経ったはずなのに、まだ顔が熱くなる。あんなことを喋るつもりじゃなかったのに。
記憶力には自信があるぼくだけど、あの時激情任せに叫んだ言葉はよく覚えていない。一体自分は、あのとき何を口走っただろうか。変なことを言いはしなかったか。
「……またぼぅっとしてる」
気付けば、アクアがぼくを覗き込んでいた。その距離の近さに、ぼくは慌てる。
「別にぼぅっとなんてしてないさ。……それより、一体どうしたの? ぼくに何か用事でも?」
ぼくの言葉に、アクアは一瞬逡巡した。しかし迷いを断ち切るかのように頭を振ると、決心した顔でぼくに向き直る。
……うん、だから、近いって。この子はぼくを殺す気か。
「……今度の土曜、空いてるかしら」
「うん? 土曜? 予定は入ってない気がするけど……」
でもなんだろう、今度の土曜、何かあったような気がするんだけど。なんだったっけ……。
ぼくの言葉に、アクアは少しだけ表情を和らげた。「……よかった」と弾む口調で呟くと、「じゃあ、土曜、入り口で待ってる」と微笑み、ぱっと駆け出して行った。
その後ろ姿を見て、はっと雷に打たれたような衝撃がぼくの頭のてっぺんからつま先まで駆け巡る。
「土曜って……ホグズミードじゃん……っ」
来たれ、ぼくの時代よ。
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