ピーター・ペティグリューは、そろそろふくろう試験なのだから勉強したかった。
彼の親友の二人、ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックは、勉強している様子すらないのに抜群の成績を誇っている。ジェームズなんて、今まで一度も学年主席の座を誰にも譲ったことがない。一体どんな頭をしているのか、ピーターには到底同じ人間だとは思えなかった。
そして、この二人に対して「勉強したい」と言い張ったところで、鼻で笑い飛ばされるだけだということも重々承知していた。
『はぁ? 勉強したい? わざわざふくろう試験のために? 必要ないだろ、そんなもん』
『試験休みこそ、悪戯仕掛人の本領発揮という時さ。ペティグリューはその真意を分かってないねぇ』
──この、頭がすこぶるよろしくていらっしゃる二人には、僕みたいな勉強しなければ点数が取れない、いや、勉強したって点数が取れない劣等生の気持ちなど分かるものか!
……こういう時に役に立つのは誰か、ピーターはよく知っていた。幣原秋だ。
幣原秋。レイブンクローで努力家で勤勉な彼ならば、ピーターの試験勉強の邪魔をするジェームズとシリウスをまとめて叱ってくれるだろう。秋の言うことなら、ジェームズとシリウスは聞く──悲しいかな、ピーターが拳を振り上げ叫ぶよりも。
だからこそ、あの二人は、秋の前では
そう──セブルス・スネイプに対し、今日もまた、悪質な悪戯を仕掛けるようなことを。
「へっへーん、この前の逆襲さ! 今日こそ覚悟するんだなスネイプ、いやいや泣きみそスニベリーちゃん? ……っとぉ!」
踵からいきなり吊り下げられたスネイプは、一瞬だけ驚いたようだったが、しかしそれも一瞬だった。すぐさま我に返ると、宙吊りのまま杖を抜き、ジェームズに呪文を浴びせかける。校内を飛び交う踵吊りの呪文に、スネイプもまた慣れてしまったようだった。
ピーターは、シリウスとジェームズの後ろに隠れて物事を伺う。ジェームズとシリウスは、持ち前のその素早い反射神経で呪文を避けたが、その隙にスネイプは踵吊り呪文を解除すると、油断なく杖を突きつけつつ、ジェームズ、シリウス、そしてピーターを見据えた。その視線が恐ろしくて、ピーターは自然と目を逸らす。
「ルーピンはいないのか? 珍しいことだ。だがしかし、集団で掛かってくるしか能のない腰抜けだということに変わりはないがな。そんなに一対一が怖いのか、腑抜け」
スネイプがせせら笑う。それに黙っているようなジェームズとシリウスじゃない。
「なぁに、獅子は兎を狩るのも全力を尽くすというだろう? いや、兎じゃなくて……コウモリかな? 育ち過ぎたコウモリみたいじゃないか、なぁ相棒?」
「……いや、その表現はよく理解出来ないが」
「相棒!? なんてこった、信じていたのに!」
ジェームズが大げさに天を仰ぐと「神は僕を見捨てたのか……」とさめざめ嘘泣きをする。
セブルスはその様子を睨みつけていたが、やがて冷笑を浮かべた。
「はっ、詰まらぬ小芝居はもういいか? 貴重な時間を浪費したくはないのでね、左様、グリフィンドールの諸君。ふくろう試験で将来詰めば、貴様らもこのような詰まらぬことをやろうとは思うまいよ」
「試験前に切羽詰まって勉強する? そんなの自己管理が出来ていない証拠じゃないか。授業内容と教科書さえ全部覚えていれば楽勝だろうに、あんな試験」
平然とジェームズは言ってのけるが、果たしてそれは何人を敵に回す発言か。少なくとも今、ジェームズの背後にいる自分は敵に回った、とピーターは確信した。
スネイプは眉をぎゅっと寄せ、不快さを隠そうともしていない。
「……なんで貴様などが学年首位を」
「さぁね。才能なんじゃない? 才能なき者に用はないよ、とっとと陰気な地下牢にお帰り?」
「貴様が先に呪文をかけたんだろうが!」
歯噛みしながら叫んだスネイプの言葉に、心の奥でピーターは同意した。
足音も荒く、セブルスは背を向ける。そこを逃すようなジェームズやシリウスではない、すかさず杖を向けるが──しかしそれは、スネイプの言葉によって阻まれた。
「ところで明日は満月だな。ルーピンは息災か?」
その二言が適切に離れてさえいれば、何とも問題はなかっただろう。問題は、その二言が一呼吸の間に再生されたことだ。
スネイプは振り返る。その顔には、憎悪と歪んだ喜びが刻まれていた。
「……スネイプ。お前……」
「僕が何も気付いていないと思ったら大間違いだ。貴様らの悪事を全て重ね合わせると、一体どれくらいの謹慎になるだろうな? おまけにルーピンの……」
「黙れ!!」
鋭く、シリウスは叫んだ。杖先から火花が飛ぶのに、スネイプは口を閉じる。
「……必ず尻尾を暴いてやる。その時が貴様らの命日だ。天下を取ったような自慢げな顔で校内を歩けるのも今のうちだぞ」
そう吐き捨てると、スネイプは今度こそローブを翻し、姿を消した。
ジェームズとシリウスは杖を下ろすと、互いに目を合わせる。
「どう思う?」
「……ブラフだといいな、あぁ」
ピーターは黙っていた。ブラフではないことは──スネイプが何らかのことを掴んでいることは──リーマス・ルーピンの『秘密』について、既に確信に近いある程度の推論を持っていることは、ピーターにとっては明らかだった。
ピーターは、ずっと人の顔色を伺って、様々な情報を集めて、今までなんとか生きて、生き延びてきたのだから。
普通の人達が何気なく生きる日常も、ピーターにとっては戦場だった。弱い自分が生き延びる術。強い者の陰に隠れること。
幣原秋に負けず劣らずの苛められっ子だったピーターには、いつの間にかそんな生き方が染み付いていた。
「…………」
ピーターは、ただ黙って目を伏せた。
明日は満月だったな、と、考えながら。
◇ ◆ ◇
あんなに先のことだと思っていた三大魔法魔術学校対抗試合、二つ目の課題は、いつの間にかすぐそこまで迫ってきていた。
ハリーは果たして、第二の課題のヒントを手に入れられたのだろうか。そして、それに対する対策は立っているのだろうか。心配で仕方がなかったが、ダンブルドアとの約束が、ぼくを身動きとれなくさせていた。
ハリーの様子を知りたい。でも、ハリーたちに面と向かって──ないしは遠回しにでも──尋ねて進捗を聞いたところで、ぼくが「ふうんそうなんだ、じゃあね」と言って立ち去ることはあまりに不自然だ。
ぼくはいつだってハリーに対して力を貸すことを惜しまなかったし、それをハリーも知っている。そんなぼくが急に態度を変えたなら、怪しむのは当然のことだ。
だって、ハリーがぼくに対してそんな態度を取ってきたら、ぼくだって不審に思うもの。
遠目から伺う限りにおいて、だが──ハリーの展望は、あまりよくなさそうだった。ハリーとロン、それにハーマイオニーは、毎日図書館に篭っては様々な呪文の本を漁っていた。その様子を見るに、おそらく『課題の内容は分かったが、それの対策が見つからない』といったところだろう。
ダンブルドアが、ぼくに対して「ハリーに手を貸すな」と言った意味を、ぼくは分かっている──。
ハリー・ポッターの名前がゴブレットに入れられたということは、誰かがハリーの命を狙っている、ということだ。でも、恐らくは、課題でハリーが死ぬことを願ってのものではないだろう──もしものことがあるかもしれないと思って、保険としてぼくはハリーにあの銀のブレスレットを贈ったわけだが──ならば、ゴブレットを騙した犯人は、必ずハリーを手助けしてくるはずだ。
そこを見極めたい、というのが、恐らくはダンブルドアの狙いだろう。そして、そのダンブルドアの狙いに、ぼくの存在は非常に邪魔なのだ。
しかし、第一の課題で、ハリーは見事自分の強みを生かしてみせた──あんな方法でドラゴンの卵を奪うなんて、思いもしなかった。
あれは、誰かに入れ知恵されたものじゃあないだろう──呼び寄せ呪文は四年生の呪文学の必修だし、そこから箒を呼び寄せ、ハリーの強みを生かすことは、ゴブレットを騙した犯人より、むしろ実際に授業を受けている生徒の方が思いつくハードルは低いのだから。
恐らく、ダンブルドアもそう考えている。
だから、第二の課題でいくらハリーが煮詰まっていようとも、ぼくは今ここで手を出してはいけないのだ。
煮詰まっているときこそ、今この瞬間こそ、犯人が一番ハリーに近付きたがる頃合いなのだから。
そこを逃しては勿体ない。
そう、歩きながらぼんやりと考えをまとめていたぼくだったが──気配に、思わず足を止めた。
気配というか。感覚的に分かる恐怖心というか。
「……アキ・ポッターか。息災か?」
元闇祓い、現闇の魔術に対する防衛術教師──
マッド -アイ・ムーディが、目の前に立っていた。
(どうしてこうなった?)
ぼくは心の中で、全力で首を傾げていた。
何故だかぼくは、ムーディの部屋に連れてこられていた。去年まではリーマスがいた部屋だ。
もっとも、リーマスがいた頃にあった闇の生物たちはもうおらず、代わりに様々な魔法の物品がところ狭しと置かれていた。壁には『敵鏡』が掛けられ、靄のような物体を間断なく映し出している。ハリーの持っているものよりふた回りは大きい『かくれん防止器』はくるくると回り続け、様々な形の銀細工は小さく音を鳴らし続けている。
そして──ぼくは目を瞠った──少し空いた引き出しから覗いているのは、『忍びの地図』ではないか? 確かハリーが持っていたはずだが、一体どうしてここにあるのだろう。
「先日夜の散歩をしていたポッターから借り受けたものだ──お前の兄が、スネイプの奴から逃げ果せるのに力を貸した、その時にな」
ぼくの視線に気付いたか、ムーディは引き出しを閉めた。
そして、ぼくの前に淹れたばかりの紅茶を差し出す。
ぼくの身体は、先ほどからずっと警報をガンガン鳴らし続けていた。激しい胸騒ぎがその証拠だ。
しかし、今はそんな身体の指示に従うのは、あまりにも勿体なかった。
どうして、ここまで自分の身体がムーディを拒否するのか、それを知りたい。身を刺すこの違和感は何なのかを確かめたい。
「毒なんて入っとらん──もっとも、警戒せよ、油断大敵とは、わしが言い続けておることだがな」
喉の奥で、ムーディはくつくつと笑った。ぼくは受け取った紅茶に一瞥もくれず、ムーディをまっすぐに見つめる。
「要件は、何ですか?」
「要件? まっこと奇妙なことを聞くな。え? 姿を変え、師弟の恩をも忘れてしまったか、幣原秋よ」
『幣原秋』──その言葉に、ぼくは身体を硬くした。
どうして知っている?
「目の前の紅茶が毒と思うか──試してみるといいだろう。幣原、お前ならばそれも容易」
「…………」
ぼくはムーディを睨みつけると、カップの取っ手を掴んだ。一息に飲み干すと、ソーサーの上に振り下ろす。
カップとソーサーがぶつかり合い、ガチャンとやかましく音を立てた。
「ぼくは幣原秋じゃない、アキ・ポッターだ……ホグワーツ魔法魔術学校四年、レイブンクロー寮のアキ・ポッターだ。そこを忘れないというのであれば、お話をお伺いしましょう」
「……なるほど。幣原ならばそのような愚行は起こすまい。確かに別人だな、アキ・ポッター」
しばし、ぼくらは睨み合う。
先に目を逸らしたのは、ムーディの方だった。懐から小瓶を取り出すと、蓋を開けぐいと煽る。そして蓋を閉めると、元通りに仕舞い込んだ。
「すまなかったな、アキ・ポッター。しかし、幣原について話すことは構わんか?」
ムーディが何を考えているか分からないが、ぼくはひとまずこっくりと頷いた。
「左様、わしが知っているのは、訓練生上がりの幣原だ。通常は三年掛かるはずの訓練生を、異例の一年そこらで実践に組み込んだ。組み込んだのは、わしだ。クラウチが目をつけ、わしが第一部隊に突っ込んだ」
へぇ、そうだったのか。それは知らなかった。
「初めてお前を見たとき、わしは三ヶ月も保たんだろうと思った。三ヶ月も保たずに殺されるか、もしくは頭がイかれて自殺するとな。
それは、仕方のないことだった。闇祓いの半分は最初の一年で死ぬ。残りの半分は、いつの間にか姿を眩まして故郷に逃げ帰る。それをも残った奴は、大体がイかれるものだ。
誰もが気が狂わんばかりの時代の中、お前は酷く『まとも』な奴に見えた。だから、これから犯す罪に、十字架の重さに、耐えられるようには見えなんだ。
だからこそ、一番苛烈で過酷で最前線の第一部隊に突っ込んだ。せめて、じわじわと狂っていくより一気に狂って死ぬがいい。お前の力は、当時の魔法省にとっては垂涎ものだった。せめて狂うなら、その武器を使ってから狂え。じゃなきゃ宝の持ち腐れだ。そう思った。
しかし、お前は狂わなかった。殺されもしなかった。自殺はしたがな、あぁ。だが『黒衣の天才』として、あの時代を闇祓いとして生きた人間として、為すべきことを為してから死んだ。それは讃えるべきことだろう」
──違和感。違う、と直感が叫んだ。
あなたが『初めてぼくを見た時』、それは『不死鳥の騎士団』の初会合のときだ。
──忘れているだけかもしれない。だけれども。
黙っている方がいいだろう、と、ぼくは口を噤む。
ぼくの内心に気付かぬまま、ムーディは自身の両手を見据えた。
「アズカバンの半分はわしが埋めた。四分の一ほどは、お前が埋めただろう。だが、アズカバンにぶち込んだ数よりも多く、人を殺めた。捕らえるためでなく、殺す目的で、杖を振った。それでもわしは、まだ恵まれた方だった。お前よりかはな、幣原」
ぼくは幣原じゃない、と言いかけるよりも早く、ムーディは「おっと、アキ・ポッターだったな」と訂正を入れた。ぼくは開きかけた口を閉じる。
「だが、わしの見込みが甘かった。お前は存外、莫大に重い十字架に耐えた。たとえ感情を殺し心が死んだとて、昏い双眸に光を灯さなくなったとて、それでも進み続けるとは、わしは想像していなかった。お前は、想像していたよりも強かった。誰もがお前に期待した。お前が、お前こそが、この世界を救ってくれるヒーローなのではないかと」
ムーディはそこで、義眼ではない方の目を細めた。
「闇祓いの誰もが、十字架を背負っていた。重い十字架を背負う奴が、誰より一番強かった。奪った命、奪った未来、そして世界の期待を、あのときの闇祓いは一心に背負っていた。魔法界の未来のために、進み続けるしかなかった。立ち止まることは許されなかった。戦場での迷いは、即座に『死』に繋がる。
そんな中を、お前は先頭に立って進み続けた。折り重なる敵と仲間の屍を振り返ることなく、足を動かし続けた。戦争の英雄、『黒衣の天才』として」
幣原、と、ムーディは語りかけた。
「お前はもう十分に戦った。そろそろ、お前の選びたかった道を選んでもいい頃だ。
もう誰も、お前を責めない。立ち竦んで蹲ったとて、誰も文句を言わない。もう、お前を縛る十字架は存在しない。ただただ、お前が幻想の十字架を追っているだけだ」
ムーディは言う。
「お前の思い込む使命はまやかしだ。その足枷は妄想だ。お前が見る夢はまぼろしだ。お前自体が、幻影だ」
ムーディは言う。
「お前の望みを叶えることを、もはや誰も邪魔しない。お前を縛る鎖は空想だ。お前の敵は迷妄だ。お前は生きる屍だ。お前は十二年前から、ずっと泡沫の夢を見続けている」
ムーディは言う。
ムーディは言う。
ムーディは言う。
「……幣原の望みって、何なんですか」
ぼくは口を開いた。ムーディの青い義眼が、じっとぼくを覗いている。
果たして、彼は言った。
驚くほど、簡単に。
「死ぬことさ」
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