ふくろう試験が終わって、ホグワーツ特急が出発するまで、一週間ばかり時間があった。その間、何もすることがなかったから、ぼくは悪戯仕掛人たちと共に小部屋にこもって、『忍びの地図』に没頭した。
悪戯仕掛人からは(というか、ジェームズとシリウス、ピーターからは)、それぞれ地に額を擦り付ける勢いで謝られた。謝るだけじゃない、それぞれがこの前のホグズミードで買えるだけたくさんのお菓子や本や日用品やらをお詫びの品としてプレゼント──というよりは『押し付けて』きて、ぼくとしては苦笑するほかない。
それに。
いくら物を贈られたところで、心を込めて謝罪を受けたところで、ぼくに対してそれを行うのは色々と間違っていると思うし──なにより、もう何をどうこうしたところで、ぼくとセブルスとリリーの三人が一緒に笑い合うことは、もう──ないのだろうから。
気晴らしに、小部屋から出た。東塔の屋上に出ると、風に当たる。
手すりに体重を寄り掛からせ、ぼくは大きく息を吐いた。空の青色に眉を寄せると、腕に頭を乗せる。
一人になれるのは、久しぶりだった。
酷く、疲れていた。
「…………」
リリーのことは、好ましく思っている。それは──事実だ。
優しくて、可愛くて、表情をくるくると変える様は愛おしくて。
認めよう。今まで目を逸らしていたことを。
いつからだろうか知らないが、ぼくは彼女を好きになっていたことを。
認めたくはなかった──だってぼくは、セブルスと争いたくはなかったから。
リリーの親友として、ぼくはずっとただ、彼女を、見ているだけで良かったんだ。
見ているだけで、ぼくは本当に、良かったのに。
風が、髪を揺らす。そんなことにすら、苛立ってしまう。
左の人差し指を軽く振る、それだけで、風はピタリと収まった。乱れた前髪を、乱暴に整える。
好きな人と付き合えたら、問答無用で幸せになれると思っていた。ぼくの両親は、お互いがただそこにいるということに、いつも幸せそうだった。
だけど、現実はどうだ。
恋愛って、こんなにも訳が分からないものなのか。
こんなにも、ただただ辛くて苦しいものなのか。
──こんなもの。
「幣原くんじゃーん」
そんな言葉を掛けられ、ぼくは振り返った。
振り返って、誰だ? と目を瞬かせる。
女子生徒だった。首にグリフィンドールのネクタイを巻いている。栗色のショートヘアを揺らしながら、女子生徒は笑った。
去年、魔法魔術大会で優勝したぼくの名前を知っている人は、案外多い。こうして親しげに話しかけてくる人も何人かいる──がしかし、ぼくはあなたの名前を知らないんだ! と、声を大にして言いたい。
「バーサ・ジョーキンズ。来週卒業予定の七年生。見ての通りグリフィンドール。卒業後は魔法省勤務が決定してるー」
幸いなことに、彼女は自分からサクサクと名乗ってくれた。オマケに色んな情報付きで。バーサ・ジョーキンズ先輩。ふぅん。
「……えっと、ジョーキンズ先輩。何か用ですか」
警戒しつつそう尋ねると、ジョーキンズ先輩はにへらっと笑った。
「そんな硬くならないならなーい。幣原──えっと、秋くん。だよねぇ」
右手をふらふらと振りながら。
ジョーキンズ先輩は、楽しげに口を開いた。
「フローレンスと付き合ってるんだー?」
その言葉に、ぼくは目を見開いた。無意識に、ローブの中の杖を握っていた。
フローレンス。リリー・エバンズのミドルネームだ。女の子の友達から、時折そんな名前で呼ばれているのを聞く。
リリーがぼくと付き合ってることは、ぼくらの間だけの秘密だった。幸いにも、ぼくらはそれまでもよく一緒にいたし、ぼくの見た目からも、ぼくらがそういう関係だと思われたことは、今まで一度もなかった。
「怖い顔しないでよー、せっかく可愛い顔してるのに。ほらほら笑って笑ってー」
「…………」
ジョーキンズ先輩は人懐っこい笑顔で笑ったが、笑みを浮かべられる状況ではなかった。
やがて、ジョーキンズ先輩は笑みを消すと、むぅ、と唇を尖らせた。
「無反応なのつまんなーい。久しぶりのゴシップなのに」
「……どこで、それを」
ぼくの言葉に、ジョーキンズ先輩はにぃっと笑った。
「先週の木曜日さぁ、アンタの姿を見つけて、暇だったし追っ掛けたのよ。なぁんか切羽詰まったような顔してるし? こりゃあなんかあるぞ! と、私の第六感がピピピルピ。大正解だったね──君、温室の陰で、フローレンスにキスしてたでしょ」
気付いたら、杖を抜いていた。
「コンファンド!」
力を全く制御せずに叫んだ錯乱呪文は、久しぶりにぼくに、酷い結果をもたらした。まともに食らったジョーキンズ先輩は、ふ、と虚ろな瞳になると、その場に力なく倒れこむ。
彼女の無事を確認する余裕は、ぼくにはなかった。
何も見たくなかった。何も考えたくなかった。何もかもが嫌だった。ぼくを取り囲む、全ての現実から、目を逸らしていたかった。
自棄っぱちで、ぼくはその場から逃走した。
◇ ◆ ◇
ハリーの言葉を、現魔法省大臣、コーネリウス・ファッジは信じなかった。ヴォルデモートが復活した、という事実は、彼が受け入れることが出来る枠には入り切れなかったようだ。
クラウチ・ジュニアは、吸魂鬼のキスにより、死よりも酷い姿となった。
ぼくを哀れんだ、彼の魂は、永遠に失われてしまった。
クラウチ氏の遺体は、『禁じられた森』の奥の奥で発見された。色々と問題の多い父親だったが、最期は、息子のためを思って、他人に容易く発見されない場所で逝ったのか。
そう思うと、酷く遣る瀬無い気分になった。
シリウスとスネイプ教授は──これは一体どんな喜劇なのかよく分からないが──握手をしたようだ。
この話を聞いて、しばらくぼくは笑い転げた。この二人が、握手とは! 信じられない。
「約束でしたからね」
冗談だとしか思えないあの約束も、ならば、守られるべきだろう。
「スネイプ教授」
教授は、ぼくが研究室に訪れることを、予期していたようだった。
苦虫を噛み潰したような表情ではあったが、部屋の中へとぼくを促す。
初めて訪れたときと、何一つ変わらない部屋。少しだけ、本が増えただろうか。しかし、その程度。相変わらずの、借りぐらしの様相の部屋。
「死に急いだそうじゃないか」
開口一番、スネイプ教授はそう言った。苦々しい口ぶりだった。ぼくは苦笑する。
「嫌だなぁ。ぼくの黒歴史を、会った誰もが言うんだもの。なんでこんなに知れ渡ってるんだろう?」
「そりゃあ、貴様が有名だからだ、アキ・ポッター。足して二で割れば、恐らくは丁度いい社交力になるだろう」
誰と足して二で割るのか、スネイプ教授ははっきりと明言しなかった。
そんなこと、言わずとも誰かなんて、はっきりしている。
「死ねなかったと思うぞ。飛び降りたところでな」
「えっ?」
驚いて、目を見開いた。教授は無表情に続ける。
「あいつが言っていた。『三度飛び降りたが、三度とも失敗した』と。一番最後に、あいつにたまたま会った時にな。その莫大なまでの魔力が、貴様の身を守っている。だからおいそれと死ねないはずだ」
「…………」
なるほど。
幣原がぼくを作ったのは、自分が死ねないからでもあったんだ。
死ねなくて──でも、この世界と対面し続けることが、苦痛で仕方がなかったから。
だから、世界に代わりに向き合ってくれる存在を、ぼくを作り出し、その中で眠りにつくという道を選択したのか。
「ぼくはアキ・ポッターで、幣原秋じゃない……そんなこと、自分でも分かってたはずなのに。いつの間にか、誰かに言ってもらわないと、分からなくなってた。ぼくと秋の境界線が曖昧になって、いつの間にか、何も見えなくなっていた」
目の前に、紅茶が置かれた。淹れたばかりのほかほかだ。ぼくは歓声を上げて、お礼を言うと口を付けた。相変わらず、教授が淹れるお茶は絶品だ。
そう言えば、幣原と味覚は繋がっていないんだっけか。
ざまあみろ、幣原め。君が味わうことがない教授の紅茶は、ぼくが独占しているんだ。
「……私も、誰もが、貴様にあいつの姿を重ね過ぎた。自分を通して、誰かが他の人間を見ていることなんて……自分を見られないことを、誰もが嫌がることくらい、知っていたはずなのにな」
そう教授がポツリと零すのに、慌てて両手を振った。そんなことで気に病まれちゃ、敵わない。
「幣原秋の望みが、死ぬことだとしたって……ぼくは、あいつの望みは絶対に叶えてなんてやらないんだ。だって、ぼくはまだ生きていたいんだもの。生きて、幣原が死んだ歳も平然と越えてやるんだ。ヴォルデモートなんてけちょんけちょんにしてやって、お爺ちゃんになって、孫や曾孫に囲まれてさ、そしてやっと、いい人生だったなぁって言って、死にたいんだ。そこまで幣原秋は死なせない。生きて生きて、ぼくなんか作り出すんじゃなかった、こんなに素晴らしい世界を、ぼくが体験したかった……って、思わせてやるんだ」
そう、強気に微笑んだ。
「……そうだな。貴様ならそれも、簡単にやってのけることだろう」
スネイプ教授も、僅かに微笑を浮かべる。
「……だからさ、教授。──いや、セブルスも」
ぼくの言葉で。
アキ・ポッターの言葉で。
手を差し伸べた。
「過去に囚われないで──囚われすぎないで。目の前のぼくを、ちゃんと見てよ。幣原秋じゃなくってさ、ぼくを、ハリーをちゃんと見てよ。ハリーはジェームズでもリリーでもない、ハリー・ポッターだ。ぼくが幣原秋じゃなく、アキ・ポッターであるのと同じように」
スネイプ教授の瞳が、驚いたように見開かれた。ぼくの差し出した手を、凝視する。
「……今すぐ変われ、なんて、無理だと思う。リリーと秋が死んで、囚われるなって言う方が無茶だし……あいつだって、秋だって、過去からがんじがらめになっている。君と秋は、お互いがお互いの存在に対して囚われてる、足を引っ張り合っている。でもさ……そろそろ、前を向いてもいいはずだ」
聞こえているか、幣原秋。
聞いていなくったって、続けるぞ。
「君と秋が前を向いて歩み続けることを、ぼくは心から、願ってるよ」
そう言って。
ぼくは静かに、右手を下ろした。
やっぱり、手を取ってはもらえなかったなぁ、と思いながら。
「……私は、なんで貴様なんかを、秋が作り出したのかと、常日頃から不思議に思っていた」
そう、教授は呟いた。
「貴様と秋は正反対の人格をしている。秋は普段から謙虚で控えめで、あまり自己主張をしない奴だった。貴様と違って。そう、目立ちたがり屋の貴様や貴様の兄とは違って」
「教授、悪意が、悪意がだだ漏れてる」
「貴様らと違って……あいつは、優しすぎた。優しすぎて、だからこそ……声を上げずに、ただ耐え続けた。貴様なら、大声を上げるだろうときを、あいつは見過ごした。あいつだけじゃないな……誰もが、私も……誰もが、全て、気付いたときには手遅れだったんだ。……あの時、あいつの手を取っていれば」
未来は違っていたのかもしれないな。
「…………」
「秋が貴様を作り出した理由が、分かる気がするよ、私には」
穏やかで、でも沈鬱げなその表情を見て、ぼくは出てくる言葉を押し留めた。
「……ご馳走様でした、教授」
言葉少なに立ち上がると、一礼して、ぼくは研究室を出た。
教授は、過去に想いを馳せる瞳を、ずっと虚空に彷徨わせていた。
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