七月も終わりに入った頃のこと。
ジェームズは、悪戯仕掛人──特にシリウスといると、それはもうどうしようもないほどに騒がしいが、ぼくと二人きりだとそうでもない。ぼくとジェームズの二人という、穏やかで平穏極まりなかった日常は、しかし、とある出来事により粉砕されることとなった。
とある出来事──もとい、シリウス・ブラックの来襲である。
「いやー、本当よかった、ジェームズんとこの住所知ってて。のたれ死ぬところだった」
「いらっしゃい、シリウス。ジェームズからよくお話は聞いてるわ」
「おっ、ありがとうな、ユフィおばさん!」
ジェームズの母、ユーフェミアさんが淹れてくれた紅茶に、調子よく感謝の言葉を述べて、シリウスは口をつけた。
シリウスが、ポッター家の暖炉からいきなり飛び出してきたのは、つい十分ほど前のことだ。
「家出してきた! 泊めてくれ!」と笑顔で叫んだシリウスを分厚い本の角で容赦なく殴ったジェームズは、頭を抑えてやれやれとため息をついた後、少し苦々しい顔で宿泊を許可したのだった。
「家出って、一体どうしてまた」
「いやー、レギュラスのヴォルデモート卿スクラップブックが、どうしても生理的に受け付けなくって。インセンディオったらブチ切れられての大喧嘩。親も当然ながら、優秀で出来がいい弟の方についてさ、もうこの家はどうしようもない、俺がいる価値がない、と思って飛び出してきたんだ」
「……軽く言ってくれるね」
猪突猛進さが、シリウスらしいというか、何というか、だ。
「でも、人のものを勝手に燃やすのはよくないと思うよ……」
「あんな気持ち悪いものを、誰もが目につくリビングなんかに置いておく方が悪いに決まってる。部屋の壁の、鳥肌が立つような新聞記事は見逃してやってんだから」
シリウスは軽く肩を竦めた。ぼくは僅かに目を伏せる。
ぼくの感情の機微に気がついたのかどうかは定かではないが、そこでジェームズが「その紅茶を飲んだら、母さんに手当てをしてもらおうか」と口を挟んだ。そう言えば、と、思い出したようにシリウスは頬の痣を撫でる。
「せっかくのいい男が、台無しだ」
「秋、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。君も少しばかり顔つきが男前になった気がするぜ」
「気休めどうもありがとう」
顔についてはもう、諦めの境地に達しているんだ。何年この顔と付き合ってきたと思ってる。何度男子トイレに行こうとするのをぎょっとした顔で引き止められたと……ううう。
髪型のせいか、女子とも未だによく間違えられるし。
「君はまぁ、その髪が似合ってるからいいよ。でもシリウス、君も髪を伸ばすつもりなのか? 僕、君は短髪の方がずっといいと思ってるんだけど」
ジェームズはそう言うと、手を伸ばしてシリウスの青痣を突っついた。「やーめろ」とシリウスは眉を寄せてジェームズの手を払う。
「飽きたら切るよ。はなっからそのつもりだ。秋ほどに伸ばす気はない」
「君も髪が伸びたよね、秋。最初に見たときは、まだ肩甲骨のあたりくらいまでだったのに、今はベルトに挟めるくらいだ。邪魔にはならないの?」
「そうそう邪魔じゃないよ。普段は結んでるしね。シリウス、伸ばしっぱなしは暑くない? 今は夏だよ、せめて括りなよ」
「犬になると常に毛まみれ状態だから、人間の方が涼しいんだけどな……」
シリウスがぼやいたとき、ユーフェミアさんが救急箱を持って現れた。久しぶりに見た、マグルの救急箱だ。
「あれ? ジェームズ、お前の母さんってマグル出身だっけか?」
「僕の記憶が正しければ違ったと思うがね。まぁ、これは母さんのモットーだ。『喧嘩して作った傷は魔法では手当てしない、自分の治癒力に任せてしばらく痛い思いをしなさい』というね」
「というわけだから、シリウス」と、ジェームズはニヤリと笑った。
「しばらく痛い目見て大人しくしときなよ?」
その言葉に、ぼくは心から同意した。
◇ ◆ ◇
鼻と口とをハンカチで覆い、左手には黒い液体入りのノズル付き瓶。臨戦態勢完了だ。
後はひたすら、部屋の至るところに蔓延っているドクシーを殺す、殺す。
「あらアキ、上手じゃない」
「昔取った杵柄、というものかな」
モリーおばさんに手際を褒められ、ぼくはにっこりと微笑んだ。ダーズリー家で培ったものが、まさかこんなところで生きてくるとは。掃除洗濯炊事は一通りこなせるしね、ぼくとハリーは。
「それじゃあ、アキは次の部屋に──」
おばさんの言葉を、ドアベルのカランカランという大きな音が遮った。途端、シリウスの母親の肖像画が大音量で叫び出す。
「不名誉な汚点、穢らわしい雑種、血を裏切る者、汚れた子らめ……」
「扉のベルは鳴らすなと、あれほど言ってるのに!」
シリウスが足音荒くも部屋から出て行った。その後ろを追いかける。
「加勢するよ、シリウス」
「あぁ、助かる、アキ」
肖像画の前で、ぼくは杖を取り出すと手元でくるりと遊ばせた。そして杖を振ると、肖像画に描かれた女性は声が出なくなったように口をパクパクとさせ、恨みがましい瞳でぼくとシリウスを見た。その隙にシリウスがカーテンを閉めてしまう。
「この呪文がずっと効けばいいのだけど」
「残念ながら、ぼくでも一日が限度みたいだ」
軽く肩を竦めた。シリウスは前髪を掻き上げつつも「やれやれ」と頭を振る。
玄関から入ってきたのは、キングズリー・シャックルボルトだった。禿げた黒人の魔法使いで、昨日ダーズリー家に来たうちの一人でもある。
「キングズリー、頼むからドアベルは鳴らさないでくれ、頼むから」
「おお、済まないねシリウス」
苦々しい顔のシリウスと対照的に、キングズリーは朗らかに言うと「君たち、同じ髪型してるから家族かなんかに見えるよ」と笑った。
ぼくとシリウスは顔を見合わせる。確かにぼくもシリウスも黒髪で、直毛で、下で一つに括ってるけど。けども。
「家族……」
「嫌そうな顔しないでよ、お揃いにしたのは君の方だろ、シリウス」
「思い当たらなかったんだよ! いつまでその髪型してんだ、飽きないのか?」
「君の髪こそ刈り上げてあげようか? きっとスッキリするだろうさ」
「君たちは本当に仲がいいねぇ」
ぼくとシリウスの会話に入り込んできたのはリーマスだ。にこやかな笑みで「お帰り」とキングズリーに告げる。
「あぁ、ありがとう、リーマス。ヘスチアが、今私と代わってくれたんだ。だからムーディのマントは、今ヘスチアが持っている。ダンブルドアに報告を残しておこうと思ってね」
「分かった。わざわざありがとう」
キングズリーはひらひらと手を振ると、ぼくににっこりと笑いかけ、踵を返して家から出て行った。
彼も忙しい人だ。闇祓いだと聞く。ひょっとすると、幣原と面識があったりするのだろうか。夢でそのうち会ったりするのだろうか。
「……いつまで俺はここにいなくちゃいけないんだ」
シリウスが低い声で呟くのに、目を向けた。
リーマスがたしなめるような眼差しでシリウスを見る。
「死にたいのか? 君の首には一万ガリオンの賞金が掛かってるんだ。ワームテールがヴォルデモートについた今、君の『動物もどき』の情報も筒抜けだ──ここにいるのが一番安全なんだ。外に出るなんて──」
「分かってるよ!!」
シリウスの怒鳴り声に、部屋がビリビリと振動した。リーマスは口を噤む。
「……悪い、八つ当たりした」
「いや……私も、君の気持ちを考えずに、悪かった」
シリウスはふてぶてしい笑いを浮かべてみせようとしたようだが、失敗したみたいだ。
捨てられた犬のような目で、小さく呟く。
「……ハリーが来てくれただけで、喜ぶべきなんだ……会えるはずも、分かってくれるはずもないと思っていた、ハリーに……また、リーマスや秋と会えて、心を交わすことが出来て、良かったのだと……」
ぼくとリーマスは、何も言えなかった。
「……ちょっと、頭冷やしてくる」
そう言って階段を上っていくシリウスを、誰が引き留められただろうか。
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