「もう行くのか?」
「うん。一旦、日本にも帰らないといけないから」
「あぁ、お盆か」
「そのあたりはあまり気を遣っていないけど。……ありがとね、ジェームズ」
ぼくの言葉に、ジェームズは「どういたしまして」と微笑んだ。
八月、第二週目。ぼくは、一ヶ月ほどお世話になったポッター家で、最後のお別れをしていた。
シリウスは、ぼくがいなくなることが不満のようで、数日前からちょくちょく文句を口にしていたっけ。「俺が来て入れ違いじゃないか」「そんなに俺のことが嫌いか」違うと言っても拗ねて聞く耳を持たないシリウスに、ジェームズは笑って呆れていた。
「ユーフェミアさん、毎日美味しいご飯をありがとうございます。フリーモントさんも、ぼくを実の息子のように扱ってくれて、とても嬉しかった」
二人と抱き合って、お礼を告げる。
「また、いつでも来なさい」
彼らの笑顔が、炎の中に融けていく。
目的地を叫ぶと、視界は真っ黒に塗りつぶされた。
「……懐かしい、なぁ」
思わずそんな声が漏れた。
イギリスから、飛行機と列車を乗り継ぎ、十数時間。最寄り駅からトレッキングと洒落込み、山を登って一時間。ぼくは自宅の前に来ていた。
一年前は干上がって枯れていた川は、わずかではあるが水量が復活している。
しかし焼けて丸裸になった山が元通りになるのは、一体この後何年掛かるだろうか。
息を吸い込み、吐き出した。門戸を押し開き、足の裏で鳴る玉砂利の音を聞きながら、歩みを進める。
扉の前で立ち止まると、ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。回すと、やがてカチリという音と共に、鍵が開く。
家の中は、最後に見たときと変わらず、綺麗なままだった。一年間誰も立ち入らなかったせいか、うっすらと埃が積もっている。
リビングの窓を開けると、ぶわっと風が吹き込み、室内の埃を全て攫っていった。思わずコホコホと咳き込む。
「無茶苦茶だなぁ、ぼくの魔力も……」
こいつらを手懐けるのは、並大抵じゃないな。こういうときなんかは、ぼくの意志を先読みしてくれるから、楽といえば楽なのだけれど。
「ただいま……父さん、母さん」
僅かに微笑んだ。当然、返事はない。期待もしていない。
庭の花たちは、手入れする人がいなくなったからか、皆枯れてしまっている。可哀想だとは思うが、学生のぼくにはどうしようも出来ない相談だった。
父の書斎に入ると、ぐるりと天井まで続く本棚が出迎えてくれた。何の気無しに、近くにあった一冊を手に取ると、昔よく座っていた、父の机の正面に位置するソファに腰掛ける。
やがて読み疲れ、ふと天井を見上げた。何の変哲もない、真っ白の天井。父が生きていたときは、天井がガラス張りのように透けて、空が見えるようになっていたっけ。
昔なら到底出来なかったことが、今のぼくには簡単に出来る。
天井の透過率を、限りなく百パーセントに。それだけで、今までと変わらぬ天井になる。
父が生きていた頃と、変わらない天井に。
「…………」
パタン、と本を閉じた。本をソファの上に置いたまま、ぼくは書斎を出る。背後で本が今まで通り本棚に収まるのを、最後まで確認しないまま、ぼくは扉を閉めた。
リビングで杖を振る。途端、庭の花々が色鮮やかに咲き誇った。記憶通りの花たち。
ぼくは花には詳しくないから、それぞれがどんな名前を持っているのか詳しくは知らないのだけれど……それでもきっと、この花は、母が愛した花なのだ。
二階に登った。二階は、ぼくの部屋と、両親の寝室がある。
足の向くまま、自分の部屋に入った。瞬間、窓が勝手に開き、埃が一斉に外に出ていく。
ベッドに倒れ込むと、小さく息をついた。ホグワーツのとはやっぱり違う、家の毛布の肌触り。
あぁ、帰ってきたんだな、と感じる。
枕をぎゅっと抱きしめ、頭だけを起こしてベッドサイドを見上げた。
写真立ての中に、写真が一枚。ぼくは、あまり写真というものが好きじゃない。だから、両親が撮りたい撮りたいというのも全て逃げ回ってきたのだけれど……今となっては、少しくらいは撮らせてあげてもよかったな、と思う。
だからこれが、(物心つく以前を除いて、だが)──ぼくら家族の、唯一の写真だった。
右に父。左に母。二年前の──ほんの、二年前の夏休み。
「……この頃にはもう、死期を悟っていたのかなぁ」
写真の父に呼びかけても、当然返事は来ない。ただただ、優しい笑顔でこちらを見つめているだけだ。
「……父さん、母さん」
写真を見つめて、ぼくは静かに目を伏せた。
◇ ◆ ◇
(……当たってしまったなぁ)
シリウスは自室のベッドに横たわったまま、まんじりとせずに自室の天井を見上げていた。
銀の壁を紅と金で覆ったそれは、ホグワーツの懐かしいあの頃を想起させる。
あの頃を──悪戯仕掛人や秋と笑いあっていた、あの頃を。
(当たるつもりじゃ、なかったのに)
もういい加減大人だ、自分の置かれている状況くらい理解している。何も考えず突っ込んでいくほど子供でもない──シリウスが『何も考えず突っ込んでいくほど子供でもない』と思っていることを秋やリーマスやハリーが知れば腹を抱えて笑うこと請け負いだが、シリウスは知らない。かつての無謀無策無鉄砲からは卒業したものだと思っている。
「なんで、戻って来てしまったんだろうな」
この家に。
その時、軽いノックの音がした。シリウスは寝転がったまま「誰だ?」と声を発する。
ノックの主は答えずに、そのままシリウスの部屋の扉を押し開いた。
「……って、アキか。どうした?」
少年の姿を視認し、シリウスは身を起こした。普段は後ろで一つに結ばれている髪は、夜だからか解かれている。
「シリウス」
にっこりと笑って、少年はシリウスに歩み寄った。
ふわり、と、どこからともなく風がたなびいている。その風はさらさらと少年の髪を揺らした。
「……いや、違うな。君は──」
ギシリ、とベッドのスプリングが軋んだ。少年が腰かけたのだ。
「……秋だ、そうだろ?」
「あぁ……久しぶり、シリウス」
大きな目を細めて。唇には笑みを浮かべて。
幣原秋は、微笑んだ。
「……あ、っは」
思わずシリウスも、笑みを零していた。手を伸ばして、秋の頭に乗せる。
「君と、会いたかった」
「ぼくもだ」
昔と変わらないその感触を、懐かしむように。
指を滑らせた。
「あの日──以来じゃないか」
「……そうだね」
色んな話を、しよう。
十四年の、積もる話を。
いいねを押すと一言あとがきが読めます