視線を感じて、ぼくは振り返った。
「どうした? 幣原」
闇祓いの同期、パトリック・リオンが尋ねる。「いや……」と呟きながらも、首を傾げた。
「誰かいた、気がして」
「誰か?」
リオンが目を細め、ぼくの視線の先を見る。
「誰もいないと思うけど」
「……ヴィッガーは?」
「さぁ」
もう一人の同期、マーク・ヴィッガーに話を振ると、そっけない言葉が返ってきた。気のせいだったのか、と自分を納得させる。少し、敏感になり過ぎているのかもしれない。
広々とした訓練場に、ぼくらは座っていた。コンクリートの壁で周囲は覆われ、窓は一つも存在しない。魔法省の地下にあるそこは、魔法法執行部の持ち場らしく、ぼくら闇祓い他、魔法警察所属の者が、呪文やらを練習するための場所だった。
「そもそも、窓もない、出入り口はそこの小さな扉一つだけで、どこから僕ら以外の視線を感じるって言うのさ。ね、ヴィッガー」
「さぁ、どうでしょう」
ヴィッガーが杖を振ると、杖先から銀色の霞が零れた。その霞はやがて、銀色のクジラに姿を変えると、悠々と辺りを泳ぎ回る。「あぁっ!」と、リオンは慌てたように立ち上がった。
「幣原はともかく、ヴィッガーに先を越されるとは……」
「生温いですね、リオン」
ヴィッガーがせせら笑う。何を、と発奮したように、リオンも杖を取り出した。
「守護霊の呪文……ただでさえ難しい呪文なのに、これを無言呪文でとか、鬼か」
「このくらい出来て当然、そういう自負はあなたにはないのですか?」
ヴィッガーは時に容赦ない。リオンはその言葉にカチンと来たようだったが、ヴィッガーの言うことももっともだと思い直したらしい。
しかし、リオンが杖を振る前に、この部屋たった一つの扉が開かれた。
「あら、魔法を掛けるのですか? ではリオン、やって見せてくださいませ」
入って来たのは、アメリア・スミス女史。ぼくがホグワーツ五年生の頃、闇の魔術に対する防衛術の教鞭を取っていた人だ。まさか、今度は教官として、再びお世話になるとは思ってもいなかった。
「僕が無言呪文が苦手なの、知っているでしょうに……」
「苦手なところを集中的にねちっこく嫌らしくやるのが、訓練です」
リオンは数分粘っていたが、実体ではなく霞のような守護霊を出すのが関の山だったようだ。「声出していいなら出来るのに!」と叫んでいる。それじゃあ本末転倒だろう。
「何ですか、それ?」
スミス女史の手には、小さなトランクが握られていた。それを尋ねると、スミス女史はにっこりと微笑んだ。思わずギクリとするが、その笑みが最近よく見かける『何かいいものを(ぼくらにとってはよくないものを)持ってきたゾ♪』な類のものではなく、ごくごく普通の微笑みだったことに、ぼくら三人は揃って胸を撫で下ろした。
「トランシーバー、って知ってるかしら? はい、幣原、答えなさい」
「はぇっ、っと、無線電波の送信機と受信機が一体化された、マグルの通信器具……です」
急に指名され、目を白黒させるも、答えを口にした。「はい、ご名答」とスミス女史は口元を緩める。
「ですが、魔法界では無線機は使えないはずでは?」
ヴィッガーが首を捻った。
「電波が魔力に妨害されるからね。でも、そんな魔力に指向性を持たせたら、一体どうなるかしら。……その試作品よ」
カパリ、とスミス女史はトランクを開いた。
中には黒の、イヤリングだろうか? 耳たぶを挟むリングに、四角の薄くて小さな黒い板。イヤリングと言えば両耳対になっているものを想像するが、中に収められているものは一つずつしかないようだ。トランシーバーとしての役割なら、一つで十分、ということなのだろう。
「聞こえてくる音声は、自分にしか聞こえないようになっているわ。こちらから通信したい場合は、親指と人差し指で板の部分を摘んで、話したい人の名前を脳裏に思い描けばいい。声に出す必要はありません。応答するときも同じく、板を摘んで話す内容を思い浮かべれば伝わるわ」
スミス女史の説明を聞きながらも、右耳にトランシーバーをつけた。違和感があるかな、と思ったが、案外軽くて付けた感じも気にならない。むしろ、本当に付いているのかどうか何度も確認してしまいそうだ。落としても気がつかないかもしれない。
「これ、途中で落としたりしちゃいませんか?」
気になったのは、リオンも同じらしい。気がかりな表情で尋ねている。
「自分が意図しない限り、外れない仕組みになっているはずよ。ちなみに防水性だから、たとえシャワーを浴びる時でも外さないでね。闇祓い局の者は全員が付けることが義務付けられたし、これから連絡はほとんどこれですることになると思うわ」
その直後、トランシーバーから声が聞こえて来て、飛び跳ねんばかりに驚いた。目の前にいるスミス女史の声だ。
『さて、訓練生の諸君。今から一時間、魔法無しで
トランクの底からポンと飛び出してきた、見逃すほど小さな綿毛は、地面に着地するとむくむくと体積を変える。大型犬ほどになった綿毛は、様々な色に体毛を輝かせ始めた。
正直、凄く不気味。
「魔法無し!?」
『魔法無し、よ、幣原。リオンとヴィッガーも、魔法を使えばフルマラソンをダッシュさせられるものと思いなさい』
ぼくら三人は青ざめた。互いに言葉を交わす暇を惜しみ、広い訓練場に駆け出す。
『スタート!』
……なるほど、このトランシーバーはとっても役に立つようだ。
女史から相当離れたというのに、楽しげな声がすぐ近くで聞こえるのだから。
感じた視線は、もはや意識の彼方へとぶっ飛んでいた。
◇ ◆ ◇
まさか、ぼくの人生でもう一度ここに来ることになろうとは思いもしていなかった。
懐かしい、と感じる。ぼくであって、ぼくのものではない心が。
幣原秋の感情が、揺れ動いているのが分かる。
自然、顔を歪めていた。
門に手を掛け、押し開く。足裏に、玉砂利が擦れる感覚。
「……変わらない」
何もかも、変わっていない。積もった埃だけが年月を感じさせるものの、ただ、それだけだ。
取り残していた場所。時の流れから取り残された此処は、ただ静かに佇んでいた。
「……靴を、脱いでもらえるかな」
指を鳴らすと窓が一人でに開き、二十年篭った空気と共に埃が、風に乗って飛んで行った。
ダンブルドアとハリーの二人に来客用のスリッパを出すと、奥へと進んだ。
「日本だと言うから、畳に障子だと思っていたけど。違うんだね」
ハリーが周囲を見回しながら呟いた。
「畳に障子の部屋もあるよ。後で見せようか……でも、まずは、ダンブルドア先生」
「うむ」
ダンブルドアは重々しく頷いた。
「書斎を見せてもらおうかの」
わざわざ日本まで来て、ダンブルドアは何を探しているのか。
それは、一冊の本だと言う。
「恐らく多言語で、そして直筆で書かれたものじゃろう。のであるから多少は絞れる。一般の出版物ならば無視しても構わぬ」
「直筆、ですか?」
「そう。幣原直が書いたものじゃ」
幣原秋の──ぼくの、父親の。
ちらりと、地下室のことが脳裏を掠めた。あそこにも本棚があって、本が並んでいた。
父が手書きしたもので、そして今こうしてダンブルドアが求めるほど重要なものならば、あそこに隠してあるのかもしれない。
……行きたくないなぁ。
本心からそう思ったが、しかしそんなことも言っていられないだろう。
「……ダンブルドア先生、ちょっと」
ハリーには見せたくなかったのだけれど、しかし仲間外れの気配を敏感に察知したのか、ハリーは瞬時にぼくにぴったりとひっつき、会話の内容を聞こうとする。
こうなったハリーはどうすることも出来ない。大きく息を吐いた。知らないぞ。
「地下にちょっとした隠し部屋がありまして……」
「ほう?」
ダンブルドアが食い付いた。その部屋の実状をオブラートに包んだ説明をすると、ふむ、と腕を組む。
「案内してもらおうかの、アキ」
……まぁ、そう言われるとは思っていた。
回転する本棚の場所は、覚えていた。押すと、ゆっくりと本棚は動き、隠し部屋が姿を現す。実に簡単な仕掛けだ。
杖をついっと振ると、床が開き、奈落へと続く階段が姿を現した。
「ぼくの意見を言わせてもらうなら、ハリーはここにいて欲しいんだけど……」
しかしぼくの兄は、そんなか弱い主張に応じるような性格はしていないことは分かりきっていた。ぼくの言葉に、ハリーは瞬時に首を振る。
「そんな顔をしているアキを、僕が放っておくとでも?」
「…………」
そんなに酷い顔をしていただろうか。顔に手を当てると、ハリーは目を細めてぼくの頭を優しく撫でた。
「僕がいるよ。心配しないで、アキ」
「……うん」
ハリーの言葉に、温もりに、救われる。
階段を降りていった先に、小部屋。扉を押し開けると、全く変わらぬ惨状が目に入った。
壁に、床に、小物に、本に散った血は、今じゃ酸化し切って黒いインクを撒き散らかしたようにも見え、言われないと血とは分からないかもしれない。しかしぼくは、昔梓さんから言われた言葉が脳裏に焼き付いていて──それでも、隣でハリーが手を握ってくれていたから、随分と気分的には楽だった。
「なるほど、なるほど」
ダンブルドアは辺りを見回しながら、得心言った顔で髭を撫でていたが、本を手に取るとパラパラと調べ始めた。ぼくも気力を振り絞り、本に手を伸ばす。吐き気を気のせいと断定して、唾を飲み込んだ。
この吐き気は、
引きずられるなよ、アキ・ポッター。
お前は幣原秋じゃない。
──結果。
それらしい本は見当たらなかった。
「おかしいのう……必ずあるはずなのじゃが。アキよ、ここにある本をどこかに動かしたりしたことは?」
「そんな記憶は……」
首を捻った、その瞬間。
思い至った。
「あ……っ」
血の気が引く。
幣原梓。彼が。幣原の伯父が。あの人が。
あの時確か、ここから本を
持ち出していなかったか?
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