「ゲームをしよう」と言ったのは、一体誰だったか。
兎にも角にも、ぼくら──ぼくとハリー、ロン、そしてアリスは、ゲームをすることになった。
場所は、聖マンゴにあるぼくの病室。ここでの入院生活も、もう二ヶ月になる。幣原秋がぼくの中から消え、使い物にならない左腕をさっぱり切り落とし、今はもっぱら体力の回復と傷の治りを待っている状態だ。
ぼくの体調が安定したら、義手を嵌める手術をするらしい。それこそ魔法でちちんぷいぷいっ☆と出来ないものかと思ったが、出来ないものに文句を言っても仕方がないだろう。なによりライ先輩にも「無理だ」と断言されてしまった以上、どうしようも出来ない。医学関連にはあまり興味が湧かないのだ。
それから「どうして魔法では出来ないのか」を医学的様々な観点においてライ先輩から滔々と講義を受け(全く、学者に向いている人だよ、それすなわち教育者には向いていないという意味でね)クタクタになったのがつい先日。二度と医者には逆らわないと感じたものだ。そもそも、あまりお世話になりたいものではない。
それはともかく、話を戻して。
「ゲームって、一体何をするのさ」
そう尋ねたぼくに対し、ハリーは無言でどこからともなくトランプを出すと、慣れた手つきでカードを切り始めた。
「ポーカーはどうかな。……もちろん」
ハリーはにっこりと微笑んだが、後ろに般若が見えた気がして一瞬身震いをした。
何だ、今のは。気のせいか?
「当然、最下位には罰ゲームがあるからね」
◇ ◆ ◇
ぼくは、ゲームが苦手
レイブンクロー以外の寮生からは「得意そうなのに」とか言われるけれど、チェスではアリスやロンに勝てた試しがないし、同室組で夜の空き時間によくゲームをやったりするのだが、あれがまた……なかなかエゲツない。レイブンクロー生特有の底意地の悪さというか、悪賢さというか、他寮生には見せられないレベルの腹黒い探り合いが行われるのだ。
もっともぼくだって負け通しではない。嘘をつくのは大得意だし、負けず嫌いも相まってそれはもう、智略謀略策略はかりごと、裏切り同盟潰し合いエトセトラなんでもござれ……何度枕が飛んで来て、こちらも何度枕を同室メンバーにぶん投げたことか。
枕であるというあたり、ぼくらの優しさを汲み取って欲しいものだ。無理だろうけれど。
ともあれ。
ハリーが淀みのない手つきでカードをシャッフルし、ぼくらに配ってゆく。五枚手元に揃った時点で、それぞれ手に取った。片手、しかも利き腕ではないため少し苦労しながらもカードを内に向ける。
ぼくの手札は、配られた時点でKのワンペアが既に揃っていた。悪くない手札だ。そのまま机に伏せ、順番を待つ。
「ビッド」
右隣のハリーが宣言しながら場にチップを出した。まぁ、まずは様子を見よう。
「コール」
同数のチップを出した。
序盤であるため、淡々とゲームは進んで行く。
誰もドロップすることなく一巡し、ハリーが手札を二枚替えた。
ぼくの順番が回ってきて、こちらも二枚を場に捨てると、新しい二枚を手に取り、伏せていた全てのカードを開く。新規にKがもう一枚手元に来ていて、腹の中でよし、と頷いた。Kのスリーカードとは、なかなかいい手札なのではないか。
「ドロップ」
一巡したハリーが呟いた。手札を伏せる。
「コール」
一巡し、手札を開いた。結構自信はあったのだが、結果はロンが7のフォーカードで一人勝ち。
いや、これは勝てないよ、仕方がない。
「運が良かったんだね」
ロンは勝ったというのに控えめなコメントをして、それから二戦目に移った。
粛々とゲームは進む。
「ちょっと!」
ぼくが大声を出したことで、ゲームが止まった。
テーブルを右の拳で叩く。反動で、伏せていたカードが軽く飛び上がった。
「仕組んでるでしょ、君ら!」
「そんなことないよー」
ハリーが笑顔で言う。見慣れた笑顔すら胡散臭い。
「仕組んでないんだったら、一体どうしてこうも強い手が頻出するのさ! 絶対フォールスカットだ、ディーラーの交代を要求する!」
ハリーは肩を竦めると、カードを素直にアリスに手渡した。
アリスは軽くカードを切りながら「疑い深い奴だな、ったく」と軽く笑い、カードを配る。
「お前の運が悪かった、ってことじゃねーの?」
結果を先に言うと、ぼくは負けた。ボロ負けした。完膚なきまでに負けた。
今までこんな手応えのない勝負をしたことがない、それほどまでに何もさせてもらえずに終わってしまった。手に入れたチップを積み上げ数える必要さえない。
「そういうことにしておくよ。さぁ、罰ゲームは一体何?」
今回のゲームの勝者、ハリーに尋ねる。
ハリーは少し考える素振りをして、そうだ、とばかりに口元を吊り上げた。一枚のカードを取り出すと、ぼくに差し出す。
「このカードに書かれた指示に従ってね」
そのカードを受け取りながら、あぁ、やっぱりさっきのポーカー、イカサマがおおっぴらにまかり通っていたのだなということを、ぼくは確信したのだった。
◇ ◆ ◇
ぼくに手渡されたカードに書かれていた内容は「指定された場所に行き、花を受け取ること」だった。あらゆる場所でいろんな人が、花を持ってそこにいるらしい。その花を受け取るだけかと聞いたら、少し違うのだという。
「君はその花を受け取るために、花を持っている人からそれぞれ一つ『命令』を聞かなきゃいけないよ。花は全部で二十人が持っている。全部集めることが、今回の罰ゲーム」
ハリーは物凄く楽しそうだった。ぼくとしては不本意だ。やけに手が込んでいるな、という印象を持った。わざわざそんなに沢山人手を集めてぼくに罰ゲームをさせる意味って、一体何だろう。
まぁ、考えていても仕方がない。病室を出て、てくてく歩いた。
まず指定された場所は、聖マンゴ四階のラウンジ。そこにいた人物に、目を瞠った。
「ウィル、レーン!」
よ、とばかりに二人はぼくに手を振った。それぞれ一輪の花を、白い紙に包んで持っている。
ホグワーツのレイブンクロー男子寮で、七年間ずっと同室であったウィル・ダークとレーン・スミック。卒業して、この二人は確か就職も決まっていたんじゃないのか。今頃は用意に追われていると、てっきりそう思っていたのに。
「久しぶり、アキ。なんだ、意外と元気そう」
「何で少し残念そうなの。ぼくが元気じゃ悪い?」
「正直なところ、もう少し静かな方がありがたいかな」
「何をっ!」
怒ってみせるも、全ては戯れだ。意味のない会話の応酬。
他愛もない会話を、いつだってしていたっけ。
「……で。そうだ、ぼくは君ら二人から『命令』聞かなくっちゃいけないんだっけ。さぁさぁ一体何だい何だと言うのだい。覚悟は決めているから早く言ってよね」
七年間ずっと同室だったのだ、気心は知れている。同時に、腹の中がどんなにどす黒いかも。どんな命令が来たところで驚くものか。
「んー、普段だったら、折角だから十七歳のいたいけな男子であるアキにミニスカメイド服でも着せて歩き回らせたいところなんだけどね」
レーンが笑顔でさらりと言う。その言葉に顔を引きつらせた。脳みそのどこの部分をどう捻ればそんなエゲツない罰ゲームを思いつくのだろう、理解に苦しむ。
見た目十七歳(実年齢ピー歳)の男がミニスカメイドとか、もうそれは兵器だろ。魔法警察の出動待ったなし、先生病院で不審者が! レベルだろ。
「でも、今日は少し違うから」
と、本をそれぞれ一冊ずつ手渡された。
「廃品回収。よろしくね」
「い……いいけど、それだけ?」
「そっ。処理、任せたからな」
それじゃあね、と、ウィルとレーンは手を振りながらラウンジを出て行った。右手が塞がっているため、こちらは手を振れずにただ見送る。
ふと目線を本の表紙に落として、思わず口を開けた。
「ちょっ、これ、嘘、四十年前に絶版になったラテン呪文学の超レア本じゃないっ、一体どこで手に……っ!」
慌ててぼくも二人の後を追ったが、既に姿はない。混乱しながらも、テーブルの上に無造作に置かれた花を抱える。
すると包み紙の間から、するりと一枚のカードが零れ出てきた。
◇ ◆ ◇
次に向かった先は、聖マンゴの食堂だった。
身分証を見せ中に入ると(食事制限のある患者さんが潜り込まないための処置らしい。そう言われれば納得だ)、奥のテーブルで手を振っているのは、久しぶりに見た三人組。
「遅いぞ、アキ!」
「コラコラ、言葉遣いには気をつけたまえよ、全く」
「そうだぞ。何せこの方は世界の殿下様、先のホグワーツの戦いでの影の功労者、アキ・ポッター様であらせられるからな!」
「何言ってんのか。おーい、アキ、逃げるなよ他人のフリしたい気持ちは分かるけどさ! ほらそこに座れって!」
フレッドとジョージ、リーの姿を認め瞬時に背を向けたぼくに対し、声が追い縋る。
ため息をついて足を戻した。まぁ今のはお遊びのポーズだ、本気で逃げる気はない。
「何してんの」
「『何してんの』じゃないぞ。もう忘れたのか? メイレイ、だよ」
「あぁ……命令ね……」
テーブルの横に置かれた紙袋には、確かに花束が三つ入っていた。頭を掻きながらも、四人掛けのテーブルの空いている席に腰掛ける。
「で、命令って、何」
「わー、すごい警戒してる。そりゃそうだけど」
「なんて酷い! 俺たちはただの善意の塊に過ぎないのに、どうしてそんな目で見られなければならないのか!」
「アキ、あぁアキ! あなたはどうしてアキなんだ!」
「知るかっ! 二代目悪戯仕掛人に対して警戒するなって方が間違っているでしょ、初代の悪戯仕掛人にはぼくはファーストキスを……」
あっ、ヤバイ、口が滑った。
運良く聞き逃してくれてはいないかなーと思ったけれど、基本的にぼくは運が悪い。
「ほぉ? んんん? 何何、お兄さんよく聞こえなかったなぁ」
「違うぞ相棒、その煽りじゃアキは逃げちまう。初代悪戯仕掛人と言えば、ハリーのおっとさんたちのことだよなぁ。さて、アキ。詳しく話を聞かせてもらおうか」
「お前ら止めてやれって、アキが可哀想だろ」
全く本当に、たびたびリーの優しさに救われる。
リーはそのまま、隣を通りがかった店員さんを呼び止めると「すいません、デザートメニュー上から下まで全部ください、と、後は紅茶のポットも四人分」と注文をした。店員のお姉さんは可愛らしい笑顔で頷くと、パタパタとキッチンに向かう。……って、え、待って待って。
「え、デザートメニュー上から下まで!?」
「お、アキ、耳聡いな」
「普通だよ!」
「じゃあ俺たちがさっきの言葉に興味持ったのも普通だな?」
「う……」
そう言われると弱い。
「……ところで君ら、仕事はいいのかよ。WWW の評判は聞いているよ、上々だそうじゃない。若きやり手さんは昼も夜もなく働き詰めかと思っていたんだけどね」
「ご安心なされよ、殿下」
双子の片方が誇らしげに胸を張る。もう片方が補足した。
「従業員を雇ったのさ。それくらいの給料を出す余裕は出来たからな。店を切り盛りしてくれる人を雇ったから、俺たちは研究に専念出来るって訳」
「まぁ市場調査の言い訳で、ちょいちょい店員としても働いているけどな。お客さんが俺たちの作ったものを見て目を輝かせてくれるのは、何にせよ嬉しいものさ。その反応が見たくって」
「あぁ、なんか分かるかも」
そうぐだぐだと喋っているうちに、店員さんがトレイを手に近付いてきた。挨拶の口上と共に、にこやかな笑みでトレイいっぱいの食材をテーブルに並べ出す。紅茶の大きなポットに四つのカップとソーサー、砂糖、そしてケーキを四つ。お姉さんが消えると、すぐさま違うお姉さんがこちらもトレイをいっぱいにさせてやって来てテーブルに並べる。
最初は歓声を上げていたぼくらだったが(甘いものは好きだからね)、入れ替わり立ち替わりやって来るお姉さんがのべ八回を超えたところで、少し不穏さが増してきた。テーブルの上には既に、乗り切れないほどの甘いものが積まれている。
「さぁ、アキ。これが俺たちの『命令』だ」
リーはにっこりと笑って言った。
「これ全部、ちゃあんと食べ切ってくれよな」
◇ ◆ ◇
甘いものは好きだ。
しかし、限度というものがある。
「うぅ……」
重たい胃を抱えてよろめきながらも、最後に双子の片方──多分ジョージ──かな? から受け取ったカードを見る。
長期病棟患者が集うヤヌス・シッキー病棟前の中庭に来い、と書かれたカードの右下には、青いクレヨンで星のマークが描かれていた。それだけで、なんとなしに誰がこの先にいるのかを把握する。
「おねえちゃん、おそいよ!」
「お兄ちゃんだって言ってるでしょ!」
中庭でぼくを待っていたのは、二人の少女。それぞれアリシア、エルと名乗る子達で、たびたびぼくを振り回すのが得意な子供らだ。アリシアは花束を、エルは柔らかな素材で出来たボールを持っている。
そのすぐ後ろには、ライ・シュレディンガー先輩。あまり表情が動かないため読み取り辛いが、穏やかな顔でぼくを見ていた。
と、アリシアとエルがわっとぼくにまとわりつく。
「おねえちゃん、遊ぼう!」
「おねえちゃんが鬼だからね!」
「いいけど一体何をするの? ってかぼくは『おねえちゃん』じゃなくって『おにいちゃん』だって!」
しかしアリシアもエルも聞く耳を持たない。ぼくの右手をそれぞれ掴むと「かくれんぼ!」「鬼ごっこ!」とそれぞれ別の提案をする。
「せめて統一してくれよ!」
ぼくの声に、アリシアとエルは顔を見合わせる。
じゃんけんに勝ったアリシアの「鬼ごっこ」を数十分ほどして、ぼくはようやっと解放された。
「ありがとう、おねえちゃん」
そう笑顔で言うアリシアの顔が、ふと曇る。
「もうすぐ、いなくなっちゃう?」
「……あー、えっと」
確かに、長期入院患者であるアリシアやエルと違って、ぼくは義手を繋いでしばらくリハビリすれば退院だ。何と答えようか、ライ先輩を見上げると、彼は静かにアリシアとエルに対して「そうだ」とすぐさま肯定した。
少し驚いた、もう少し、その……何だろう、誤魔化しや嘘が滲むと、そう思っていたから。
悲しがると思っていたアリシアとエルの反応は、しかし意外と淡白であっさりとしたものだった。
「なんだぁ。おねえちゃん、だまっていなくならないでね?」
「ちゃんとおわかれしていってね」
「う、うん……」
予想と違う反応に、ライ先輩を見た。
ライ先輩は小さく息を吐くと「この子達は『お別れ』を沢山見てきたからな」と零す。あぁ、そうか。そういうことか。
「この子たちを憐れむなよ。全ては自然の摂理だ」
「……神に逆らおうとするのが、研究者でしょう」
ライ先輩は少し目を瞠ったが、やがて柔らかに微笑んで「……そうかもしれないな」と呟いた。
「はい、おねえちゃん」
アリシアから花を受け取る。え、ぼくはまだ命令を受けていないのに。そう思って口を開き掛け、アリシアの笑顔に気がついた。
「あそんでくれて、ありがとう」
◇ ◆ ◇
次の行き先は、病院一階の面会室。
そこで佇む人物はちょっと予想外で、思わず目を瞠った。
「リィフ!」
手元の文庫本に目を落としていたリィフ・フィスナーは、ぼくの声に顔を上げると、その端正な顔に微笑みを刻んだ。手元の本をパタンと閉じ、背中を預けていた壁から身を起こすと、こちらに寄って来る。
リィフの動きにつられてか何人かの女性がこちらに視線を動かした。相変わらず、人目を惹く容姿だ。しかし再婚を彼は望むまい。どちらにせよ、リィフが幸せであればそれでいいのだ。
「やぁ、アキ。久しぶりだね。元気?」
「元気だよ。さっきも鬼ごっこに付き合ってきたばかりだ」
「お疲れ様、と声を掛けてあげよう。元気そうで何よりだ」
痛ましげな眼差しで、リィフはぼくの、今はない左腕を見た。ぼくに何と声を掛ければ良いのか、一瞬迷ったようだ。全く、彼は幾つになっても優しい。
「義手を嵌める手術をして、問題なく動くようになれば退院さ。実はねぇ、今フリットウィック先生から、呪文学教師の席を勧められているんだ。もういい年だからそろそろ引退したいんだって。ホグワーツで働き出したら、また連絡するよ」
リィフは少しホッとした顔をして、ぼくの出した話題に乗った。
「そうか、君らしいな。実際のところ君は、闇祓いよりもそういう教育や研究に適性があると思っていたんだ」
「同じことをライ先輩にも言われたよ」
「ライ先輩? あぁそうか、彼もこの病院にいるんだね」
「本当は研究所に所属している人なんだけどね、ちょいちょい様子を見に来てくれているよ。義手の話を持ってきてくれたのもあの人だ」
「そうか、少し挨拶でも出来ればいいんだけど」
「願えば来るよ。あの人はそういう人だ」
ぼくの言葉にリィフはきょとんと目を瞬かせた。
ぼくは多くは語らずに笑ってみせる。
「ところで、君も持っているんでしょ、花。と、命令。さ、今回の命令は何? 忙しい中よく来てくれたねぇ、ぼくの罰ゲームなんかのために」
「『なんか』じゃないよ」
今度はぼくが目を瞬かせる番だった。リィフはくすりと微笑むと、ぼくをテーブルに促す。
テーブルを挟んで対面する椅子に腰掛けると、リィフが杖を振った。瞬時に『出現』したのは、チェス盤だ。
「『君』とは初めてだね。……久しぶりに、一試合やろうよ」
◇ ◆ ◇
負かして『命令』完了とは、本当にそれでいいのだろうか。
まぁ、リィフがいいというのならば、いいのだろう、それで。
しかし、息子のアリスはぼくに勝ち星を譲ってくれないほど強いのに、その父親であるリィフはぼくより弱いとは、つくづくこの親子、全く似ていない。性格も含めて。似ているのは見た目くらいなのかもしれない。
はてさて、まだまだ指令は終わらない。受け取ったカードに書かれた次の場所は、なんと学校、ホグワーツだった。
まぁ、聖マンゴからホグワーツへは直通の暖炉がある。手続きを踏むのも慣れたものだ。数枚の書類にサインをし、受付のお姉さんも「あぁ、また君ね」みたいに慣れた応対をして、フルーパウダーをぼくに渡す。
正直煙突飛行での移動は苦手なのだが、ホグワーツの結界の維持面を見るとそうも言ってはいられない。箒よりも煙突飛行よりも、ぼくは『姿くらまし』の方が得意だ。しかしそう言うのは少数派なのだろうな、とも理解している。
『煙突飛行』にて訪れたホグワーツは、シンと静まり返っていた。既に夏休みに突入したからか。
少し前までは、戦禍に崩れた城の修復作業に結構な人数が残っていたのだが、あの戦いから二ヶ月が過ぎ、七月も終わろうとしている今となっては、戦いの跡もない。荘厳で綺麗な城が変わらず建っている。
指定された場所は『必要の部屋』だった。
足を踏み入れたそこは、えっと、何だろう……何と表現したらいいのだろう。クローゼット、それも女の子のクローゼットの中に迷い込んでしまったかのような錯覚を得た。
思わず部屋を間違えたかと踵を返しかけたぼくの腕を、ガシッと掴んで中に引きずり込む手。ジニーとルーナの姿があった。
「久しぶり、アキ」
「うン、久しぶりだね」
学校はもう夏休みだというのに、二人ともそれぞれ自寮のローブを羽織っていた。と、ジニーは「見て見て」と誇らしげに胸を張り、エンブレムの隣に煌めくバッジを見せつけた。
「ほら、主席バッジ! どうどう、凄いでしょ!」
「わぁ凄い! おめでとう、頑張ったんだね!」
拍手でもしたい気分だったが、生憎と片腕しかないため叶わない。
そうか、この二人ももう最終学年、七年生なのか。すっかり感覚を失っていた。
「ふっふん、一切主席を誇りもしなかったアキに褒められてもあんまり嬉しくないんだけどね」
「言っていることと顔が一致していないよ、ジニー」
やだ、とジニーは両手を頬に当てた。その様が可愛らしくて、思わずこちらも穏やかな気分になる。
同時に、ジニーと同じような赤毛の『彼女』のことをふと想起した。くるくると変わる表情を浮かべていた彼女も、そういえば主席だったのだ。今のジニーと同じように、幣原秋に対して主席バッジを誇って……しかし『彼女』とジニーは、いくら似ていても絶対に重ならないのだった。
「あのねぇ、アキ」
ふと、のんびりとした声が耳に入る。少し浮世離れした響きを持ったその声の主は、ルーナだった。
「ホグワーツの先生になるんでしょ? フリットウィック先生が、言ってたよぉ」
「え、嘘、もう広まってるの?」
ルーナはくすくすと笑いながら「そうだよ、知らないの?」と首を傾げる。知らないよ知るはずもないじゃない、と思わず頬が引きつった。
「だからさ、アキ」
こちらを吸い込むような瞳で、ルーナはぼくを見つめた。
「ちゃあんと、帰ってきてね。あたしたちが、ホグワーツの生徒でいるうちに」
約束だよ、と微笑んで、ルーナは小指を出した。おずおずとその小指に自身の小指を絡める。
「……一体どこで知ったのさ、『指切り』なんて」
「『ザ・クィブラー』に書いてあったよぉ。この約束を破ったら、えっと……千本の針を生きたまま血管に送り込まれるん……だっけ?」
「うわぁ、想像するだけで痛い」
誤解を敢えて訂正せず、ぼくも笑った。ルーナは「はい」とぼくに花を渡す。
「え、命令……」
「今のが、命令。約束、破っちゃ針千本、だからね」
わぁ、怖い。もしかしたら一番怖いかも。
花を受け取ると、今度はジニーがずずいっと進み出てきた。
「今度はあたしの命令、聞いてね? アキ」
「はいはい、分かってるよ。で、ジニーは一体何?」
「ふふっ、想像つかない? アキも大概鈍いなぁ!」
え、想像? 思わず周囲を見渡した。手掛かりとなるのは、ドレッサーの中に様変わりしたような『必要の部屋』だけれど……。
ジニーは、そりゃあもう満面の笑みでこう言ったのだ。
「アキって絶対、可愛いお洋服似合うと思うの」
◇ ◆ ◇
「酷い目に遭った……」
だから肉体年齢十七歳精神年齢ピー歳の男が許される衣装ではないと何度言えば分かるのだろうか。そして女の子に服をひん剥かれる男の気持ちも、彼女たちには少し察して欲しいものだ。
鏡で見た自分の姿が、案外似合っていて普通に可愛いことがこれはまた……これはまた精神を削岩機でガリゴリ削られているような気分にさせられる。記憶の奥底に封じ込めてお札を貼っておかないと。
さて。話を戻して。
次の目的地は、ホグワーツの大広間だった。
踏み入れたそこは、普段はみっちり生徒でわさわさしているというのに、流石に夏休みだからか人気はない。大広間は各寮のテーブルが取り払われ、代わりに決闘用の舞台が中央を走っている。
そこにいるハリーとロン、ハーマイオニーの姿を認め、ぼくは目を瞠ると駆け寄った。
「やぁ、アキ」
「ハリーたち、どうして?」
「そりゃあ、僕らだって君に『命令』したっていいじゃないか」
ロンが笑った。まぁそうだけど、と戸惑いながらも頷く。と、ハーマイオニーが口を開いた。キラキラした瞳でぼくの両手を取ると、笑いかける。
「そう言えば、あのね、アキ。私、来年もう一年だけ、ホグワーツにいようと思うの。ちゃんと卒業したくって。もう一年しっかり勉強してから、社会に出たい」
「ハーマイオニーはもう十分に勉強してきたと思うけどね……」
まぁ、彼女がそう言うのなら止める義理はない。
「ロンとハリーは、闇祓いになるんだっけ? 全く、よくやるよ」
「君はきっとそう言うと思った。でも、幣原が生きた時代と今の時代は違うからね。僕らは良い未来のために、生きることにするよ」
「君のやったことを否定は出来ないよ、あぁ。あの頃はそれが『最善』だったんだろう。僕らも、僕らが思う『今の最善』を貫くことにした」
二人の笑顔に、ぼくも苦笑を返した。
「……はぁ。ま、いいや。きっと何を言っても無駄なんだろうね。さて、そろそろ命令とやらを聞こうじゃない」
ハリーはちらりとロンとハーマイオニーを見遣ると、ぼくを取り囲む方向に足を踏み出した。身の危険を察知して、思わず一歩下がる。ロンが口を開いた。
「じゃあこれ、僕とハーマイオニーからの命令ね。じっとしていて」
「そして、逃げないでね」
「えっ、ぼく今から何をされるの!?」
たじろぐも、命令は命令だ。罰ゲームで逃げ出すような軟弱な男ではない。
硬派な男なら女の子に服剥かれて可愛らしいドレスなんて着せられないだろうと、そういうツッコミは全力で却下させてもらおう。
「いくよ? せーのっ」
一体何が来るのだ、と思わず身を強張らせた。
と、途端に三人から一斉に抱きつかれる。息苦しさと重みに喘ぎながらも、感じるのは暖かさだった。
「今までありがとう、アキ!」
◇ ◆ ◇
押し潰され、抱き潰され、やっとこさ解放されたぼくは思わず床に尻を付けた。
はぁ、と息を吐くと、右手を差し出される。
「アキ」
ハリーのその手を取ると、ぐいっと引っ張り上げられた。立ち上がる。
「僕からの命令も、聞いてよね」
「……あー、そっか。今のはロンとハーマイオニーだったね……いいよ。何?」
ハリーは背後の舞台を親指で指し示すと、にっこりと笑った。
「決闘してくれないか、アキ」
「……、……ぼく、杖持ってないよ」
この前砕いてしまって、それからもずっとドタバタしていて、オリバンダーさんも監禁から解放されたばかりだったから見繕ってもらうのも難しくて、ずっとなおざりにしていたのだ。
しかしハリーは動じなかった。
「杖なしで構わない。杖と利き腕がなし、で、いいハンデじゃない。それとも何? 杖なしで戦って、僕に負けるのが怖いの?」
「……よく言ったね。その言葉、違えないでよ」
望むところだ、とばかりに、ハリーはぼくの視線を受け止め、投げ返した。
壇に登る前に、右手の指を鳴らす。スニーカーの靴紐を魔法で硬く結び直すと、爪先で地面を叩いた。髪紐に手を触れ、乱れがないか確認する。
普段の目線より一メートルは高い壇上。そこから見る景色は、懐かしい。
対戦相手は、今目の前にいる彼でも、彼とよく似たその父親でも、なかったけれど。
「隠れていな。身の安全は保障しないよ」
ロンとハーマイオニーに向けて言うと、右腕を目線の高さまで上げた。ハリーもそれに倣う。
静かな緑の瞳を見て、ぼくは。
──あぁ、魔法界の未来も安泰だ、なんて、そんな爺臭いことを考えた。
◇ ◆ ◇
次の行き先を見て、誰がそこで待っているのかを、ぼくはすぐさま理解した。
『あの小部屋で待っている』と書かれた文字は、乱暴な癖に幼い頃の高度な教育を垣間見るほど綺麗だ。
東の賢者の石像は、かつてと変わらずそこにいた。杖はないけれど、指でも代わりになるだろう。
息を吸い込むと、かつての合言葉を記憶の湖から引き上げる。
「寿限無寿限無五劫の摺り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝る処に住む処薮ら柑子の薮柑子パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助! ……あー」
よく噛まずに言えたと自分を褒めてあげたいところだ。これ、噛んだら入れないんだよなぁ。ピーターと、後は何でも器用にこなしてしまう彼にしては意外なことに、ジェームズも苦手だったっけ。
「日本語発音は難しい!」と怒っていた。ならどうしてこんな合言葉にしたのかと問いたい。もう、無理なことだけれど。
石像が真っ二つに割ると、人一人が通れるほどの穴が開いた。
かつては随分と大きな穴だと思ったが、今見ると小さいものだ。そう背が高くないぼくだって思うのだ、中にいる彼らは特段だろう。
「……懐かしい、なぁ」
埃が積もっているかと思ったが、そんなことはなかった。
先にここに訪れていた『彼ら』が掃除をしたのだろう。
彼ら──シリウス、リーマス、ピーターの三人の姿を見て、ぼくは目を細めた。
「よぉ、アキ。やっと来たか」
「うん……久しぶり」
万感の思いを込め、そう呟いた。
◇ ◆ ◇
「待て待て待て! リーマス早まるな!」
「落ち着いてリーマス! 顔を上げてくれよぼく怒ってないから!」
「両手地面に付けないで、うわぁ大の大人が額づくの見るのって結構エグいね! 最近自分がちょいちょい土下座してたから人の土下座見る機会なかったけどさぁ」
ぼくとシリウス、それにピーターは、ぼくを見るなり地面に這いつくばって頭を下げようとしたリーマスを引き止めるのにひと騒ぎした。
シリウスとピーター、二人の大人の男に両脇を抱えられているというのに、それにも負けない物凄い力だ。満月はもう過ぎたはずだけどなぁ、と暦に思いを馳せる。
「もう、本当、君には申し訳ないことをしたと思って……君のことを一切考えていない言葉を、しかも意図的に、君が傷つくであろう言葉ばかりを吐き続けて、君の教師でもあったというのに、私は、僕は……」
「か、構わないから、リーマ……」
「これは『命令』だ! 君は僕からの謝罪を受けるんだ、アキ!」
そう言われて竦んだ。シリウスとピーターも呑まれたように目を瞬かせる。
一拍の隙を逃すようなリーマスではない。日本式の謝罪の方法は、きっとぼくと、そして幣原秋に向けるためだ。このためだけにもしかして異文化を学んだのだろうか。
……なんて、少し思考を逸らしてみたりもしたが、現実ぼくの目の前にそろそろ四十に手が届こうとするかつての友人がぼくに対して土下座をしていることは事実な訳で、内心では結構焦っていたりもする。
かと言って謝罪を止めてはいけないと先ほど『命令』されたしで、一体どうしていいやら困り果てているのが現状だ。命令を無視してリーマスの頭を引き上げるのも一つの手だが、彼はきっと納得するまい。
「……ぼくはね、怒ってないよ、リーマス」
迷った末、リーマスの後頭部を見つめながらぼくは呟いた。
少し薄くなったか、髪の毛は昔よりも細くなった気がする……男として切なくも仕方のないことだ。ぼくは親戚と殆ど会ったことがないから、自分が脱毛の家系なのか分からないけれど、髪の量はそう多い方じゃないから、少し心配ではある。『髪を縛る』という行為自体、頭皮にダメージを与えているとも聞くし……いっそのことばっさり切ってしまおうかなぁ。
閑話休題。
「……怒ってないと言うか、全く動じなかったと言えば嘘だけどさ。酷いことされた自覚はあるんだ。でも多分、いつかは突きつけられる命題だった。ぼくは、君がちゃんとこうして突きつけてくれたことに、感謝をしたい」
屈み込む。リーマスの髪を右手で掴んで(ごめんよ毛髪)顔を上げさせた。
目を合わせ、微笑む。
「幣原として生きることは出来ない。ぼくは君たちの友達ではない。たとえ記憶を持っていたとしたって、ぼくは幣原秋じゃない。……リーマスは決して、ぼくと幣原を同一視しなかった。幣原とぼくの関係を知りながら、ぼくはぼくだと見てくれた。それは、凄く嬉しかったんだ」
こうして今、ぼくがここにいるのは、かつてリーマスがぼくの全てを否定したからに他ならない。
「ぼくらだけだったら……ぼくと幣原だけだったら、決め切れなかった。どちらも、互いに生きて欲しいと強く望んでいたから。本当、変な奴だよ、幣原は。作り出した偽の人格にさ、使命埋め込んだだけの人形にさ……生きて欲しいと望むなんて。馬鹿だ。でも……」
思い出して、思わず笑った。
「アキ・ポッターが生きることを、許してくれてありがとう、三人とも」
◇ ◆ ◇
シリウスとリーマスの二人から花束を貰い、ぼくは次の目的地に向けて廊下を歩いていた。
ピーターは「さすがに僕は烏滸がまし過ぎる」と、この役目を拒否したのだと言う。ぼくはあまり気にしていないのだが、ピーターがそう言っているのなら、無理は言えない。シリウスは「俺がこいつを見張っておくから、安心しろよな」と笑っていたっけ。
そんなシリウスがぼくに下した命令は「今度うちに来て書類整理を手伝え」というものだった。付け加えて、クリーチャーの食事は想像していたよりも美味で手放せない、君も一度食べてみるといい、なんて捻くれた台詞を吐いていた。未来の約束が、今から楽しみだ。
続いて指定されたのは、レイブンクローの談話室。
アリスだろうか? と見当をつけていたのだが、その予想は三分の一しか正解していなかった。これが試験じゃ落第している。
こちらもまたレイブンクロー談話室にいたのは、アリスとユーク、それにドラコの姿だった。
「……いや、さすがにドラコは予想出来ない」
何せ他寮生なのだ。ドラコの姿を、なんだか久しぶりに見たような気がした。
最後に見たのは、確か……ホグワーツ最終決戦の時だ。その時も声を掛けられず仕舞いだった。この一年で随分と窶れた気がする、頬が痩けた。きっと心労に依るものだろう。
「アキ」
ぼくを呼ぶ声も、何だか恐る恐るだ。まぁ、ドラコには余計な気苦労を掛けた気もする。ヴォルデモートの隣にいた時、演技だとしてもちょっと手厳しく扱い過ぎた。
少し反省しながらも、普段通りの笑顔をドラコに向ける。
「久しぶり。怪我はない? ご両親も無事?」
「あぁ……健在だ」
「そう、良かった」
胸を撫で下ろした。
死喰い人の犠牲者は、決して少なくはなかった。地に伏す死喰い人はあらかた顔を確認し、ドラコの両親がその中に混じっていないことは把握していたが、ぼくの知らないところで何かしらに巻き込まれていた可能性は否定出来ない。
ちらりとドラコは、申し訳なさそうにユークを見た。彼は先のホグワーツ決戦で、両親を失っていたからか。
しかしユークは気丈に振舞っていた。もう彼も六年生、背もぼくと変わらないほど伸びていた。入学当初のあどけなさは薄れ、少年から青年へと変わりつつある。名門当主としての矜持と自負がそうさせるのか、その立場に立ったことがないぼくには分からなかった。親族を束ねる立場には、ついぞ立ったことがない。
そんなユークは、ぼくに当てつけるようなため息と共にこんな台詞を吐いた。
「アキ・ポッターから授業を教わるとか絶対嫌なんですけど……」
「おい」
なんだか色々と脱力する。『変わらない』とでも言えばいいのだろうか。
相変わらず、この子には始めから嫌われている。
ユークは灰色の瞳を軽く細めてぼくを見た。
「だってそうでしょう。遣り辛いことこの上ないし。あなた呪文学の成績自体は優秀でしたけど、果たしてそれは後輩を教え導く種類のものなんですかね? 教育なんて簡単なものじゃないですよ。教師にとって生徒なんて十把一絡げの存在かもしれませんが、僕らは個々人に未来のある存在なんです。分かっていますか?」
「き、厳しいな……」
「えぇ、厳しいです。でも、当たり前のことだと思います。僕らの未来を左右する、それほど大きな責任が発生する職業ですよ、教師なんて。……あなたは官僚になるのかと、思っていました」
思ってもいない言葉に驚いた。
だってそうでしょう、とユークは鼻を鳴らす。
「去年あなたがどれだけ色んなことをやって来たのか、レイブンクロー生である僕は知っているつもりです。理解しているつもりです。その功績全て他人に投げ渡して、そんな、無責任ですよ」
「……ふふ、ありがとう、ユーク」
褒めてませんけど、とユークがぼくを睨む。
姉と同じ灰色の瞳を見返して、笑った。
「君から認められているのはなんだか嬉しいんだけど、魔法省だってそんな脆弱じゃないさ。一度初速を与えてやれば、最初はゆっくりおずおずとでも、段々と安定して走れるようになる。ぼくがやったのは、車体とタイヤを整備して、背中蹴飛ばしただけだよ。未来は他の人が紡いでくれる。──そうだろ、アリス?」
「なんだ、忘れられてるのかと思った」
「おや、期待に添えず申し訳ないね」
アリスはくつくつと笑って、ユークの頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
ユークは唇を尖らせたが、それでも少し嬉しそうにアリスを見上げる。なんだこの対応の差は。涙が出そうだね。
「表舞台にお前の名は一切登場しない。親父に、忌々しいガマガエルに、その他有能な俊英才媛に、全てを割り振った。何というかさ……全てお前の手のひらの上で転がされてる気分だよ」
「心地よいかい?」
「馬鹿言え、腹立たしいわ。……見てろよ、お前の業績全て、俺の名前で塗り替えてやるから」
「だから、ぼくの名前で通した法案は一つもない筈なんだけどねぇ。……君がそういうのなら、安心するよ」
アリスなら、きっと大丈夫だ。それだけの信頼を、ぼくは彼に置いている。
認めるのはなんだか、少々気恥ずかしいけれど。
「で、そうだ、命令だよ。忘れるところだった」
そう、ぼくはその命令を受けに来たんだった。あぁ、とアリスやドラコも思い出したように宙に瞳を彷徨わせる。
ドラコは頤に手を当て悩んでいたが、やがて口を開いた。
「……あいつの言に従うのは、未だに気に食わないが」
「ん?」
あいつって、誰のことだ? 思わず首を捻り掛けるも、ドラコが続きを言う方が早かった。
「幸せになってくれ。それが、僕から君への『命令』だ」
思わずポカンと口を開けた。
ドラコをじっと見つめると、彼の青白い頬に段々と赤みが差していき、やがて頭を抱えてしまった。
「あーっ、もう、あまり恥ずかしいことを言わせるな! そんな分かり切ったことを言わせるんじゃない、というか君は今まで自分の幸せを蔑ろにし過ぎなんだよ少しは対価を受け取りたまえ!」
普段の彼とは口調が大分違うその様にぼくは仰天したが、アリスとユークは流石幼馴染、予想していたとばかりに笑っている。
「返事は!」
「は、はい!」
「よし!」
いいか絶対だぞ、とドラコは念を押す。唖然呆然としていたぼくだが、状況を脳が理解して思わず吹き出した。
笑い声を上げるぼくに比例するように、ドラコの顔が苦味を増して行く。
「じゃあ、次は僕ですよね」
そう言って歩み寄ってきたのは、ユークだった。
思わず身構える。一体どんな命令をされるのだろうか。
ユークはぼくに対して手を突き出すと(行儀の悪い仕草にドラコとアリスの双方から咎める視線を向けられていたが気にもしていないようだ)、淡々とした声で言った。
「ホグワーツのローブ、ください」
「……え?」
「鈍いですね。あなたが着ていたローブをくださいと言っているんです。もう用済みでしょう」
「いや、まぁそうだけど……でも、なんで? ローブ買うお金くらいあるでしょ……」
言い淀むぼくに、ユークは苛立ったように地面を踏み鳴らした。
「あぁ、もう! これは『命令』ですっ、僕の言葉にごちゃごちゃ言うことは禁じます!」
さぁ早く、と怒ったように言うユークは、子猫が毛を逆立て威嚇しているかのようで、なんだか可愛らしい。
しかし、そんなことを言ったら余計に怒ることは目に見えていた。大人しく呼び寄せ呪文で仕舞っていたローブを呼び寄せ、検分する。血染めのエゲツない状態だったので一応綺麗にはしたのだけれど(正確には担ぎ込まれた先の聖マンゴの職員さんがクリーニングしてくれた、だ。ありがたい、魔法使いの血は単体でも魔力を秘めているから消失呪文じゃ拭えないというのに)それでも確認のためだ。
と、ユークはぼくの手からローブを奪い取ると、さっさと羽織ってしまった。今は夏だから、ローブなんて着たら暑いだろうに。ユークは、丈の長さを確認するようにその場でくるりと一周すると、軽く鼻を鳴らした。
「……丈が変わらない」
「ま、そりゃあ背丈もそう変わりがないし……?」
それでもユークは不満そうだ。
と、アリスは何かを理解したのか、いきなり笑い始めた。なんなんだ一体もう。
「で、アリスは? なんか何となく色々と読めてきた感じなんだけど」
何でかはよく分からないけれど、皆ぼくを甘やかしたりなんだりしたかったのだろう。
もっとも、その好意を素直に受け取るぼくじゃない。だからこそ贈り手も、捻くれた手段を使ったのだ。
アリスはぼくの言葉を受け、ニヤッと笑ってみせた。
「お、そっか。んじゃ、俺が今からやろうとしていることも、予想ついてるってことか?」
「まぁね」
アリスだったら……何だろう、何をするだろう。
一番考えられるのは贈り物系統だろうか。値段を聞いたら飛び上がるようなものを渡しながら「拒否するなよ」みたいな……? アリスのことだから実用性の高いものだろう。となると箒、大鍋、稀少本か? そうつらつら考える。悪くはない線だろう。
「なら、俺の予想当てたら十ガリオンやるよ」
「……太っ腹だね。それほど自信があるの?」
「そういう訳じゃねぇけど、お前杖新しく買わないといけないんじゃないっけか。そのくらい奢ってやるよって言ってんだ」
「素直じゃないなぁ」
それでも思考に少し修正を掛ける。アリスがそこまで言うということは、ぼくの意表を突いてくるようなものだということだ。しかも結構な自信がある。
あぁクソ、ぼくは嘘は得意だけど他人の策略を見抜くような勘の良さは持ち合わせちゃいないんだ。幣原の頃から鈍い鈍いと言われ続けてきたし、改善される雰囲気も一切ないし。
「じゃあいいか。予想外してビビったらちゃんと言えよ」
「分かった分かった」
ということは、予想を口に出して事前に言わなくてもいいということか。それなら例え予想外だったって顔に出さずにシレッとしていればそれで済むのだ。なんだ、アリスも中々甘いなぁ。
ドラコとユークの顔を見ると、なんだろう、生温い目と言うか、何かを悟ったような瞳をしていた。
どういうことなのだろう、と首を傾げるも、視界が黒に覆われる方が早かった。次いでいきなり身体が持ち上がる。
「…………っ!?」
悲鳴を上げなかったのは、堪えたとかそういうことじゃない。単に呼吸のタイミングの問題だ。息を吸う時にアクションを起こされ、タイミングを見失った。
ぼくの身体を空中に浮かしたまま、アリスはぼくを強く強く抱き締める。左肩の傷口には触らないように、腕の位置は慎重に探っているのが分かった。
「……俺がさ、どれだけの思いでいたか、お前、分かるか?」
押し殺したそんな声が、すぐ近くで聞こえた。
吐息交じりのその声は、微かに震えも混じっている。
「俺が、そこまで薄情な奴に見えるかよ」
見えない。決して、そんなことを思えはしない。
ぼくは、何も言えなかった。
「お前が生きているってだけで、救われる奴もいるんだ……お前が誰かを救いたいと思うように、誰かだってお前を救いたいって、そう思ってんだよ」
そう言ってアリスは軽く鼻を啜った。
ぼくは少し苦労しながらも、アリスのホールドから右腕を引き抜くと、そっと彼の頭を抱き寄せる。金色の柔らかな髪の中に、指を通した。
アリスとこんな触れ合いをしたのは、初めてだった。抱き合うことも、顔を近付け笑い合うことも、アリスは嫌うから。密で過度なスキンシップを、アリスは遠ざける気質があったから。
「ごめん……ごめん」
静かに呟いた。
「何度謝っても、謝り足りないんだろうけど……本当に。本当に、ごめんなさい」
アリスの頭に触れたまま、手の甲に瞼を押し当てた。
涙が零れてしまう前に、抑え込む。
「いつも、君はぼくを心配してくれていたのに。気付けなくって、ごめんなさい……心配ばかり掛けて、ぼくは、本当に……」
ふと、背中を撫でられた。柔らかで暖かな手だった。
それがどちらの手なのか、振り返って確認することは、ちょっと出来そうになかった。
◇ ◆ ◇
目元が少し引き攣れた感覚を覚えるけれど、鏡でばっちり確認したから、きっと大丈夫だ。いつも通りのアキ・ポッターで、人と会える。
次の行き先は、クィディッチ競技場だった。一体誰が待っているんだ? と首を傾げる。
ご丁寧に「箒を持ってくること!」と書いてあったので、学校の箒置き場から一本拝借してきた。古いが言うことは聞いてくれるのだ。ぼくの魔力に、箒も『逆らったら木っ端微塵にされる』と感じているのかもしれない。
木っ端微塵にする気はないけれど、ぼくが願えば一瞬で木屑には変えられるからね、程度のことは思いながら、箒を御すのがコツだと思っている。もっとも、そんなこと考えているのはぼくだけかもしれないが。
しかし、久しぶりに箒に乗った。一年以上振りだろうか。
そもそもぼくはクィディッチ選手じゃないから、そうそう乗る機会はないんだ。しかも片腕だから、少々危なっかしい運転になるのは仕方がない。
始めはよたよたしていたが、競技場に着く頃まではなんとか普通に飛べるレベルまで勘を戻した。本当は、校舎からクィディッチ競技場まで箒での移動は禁止されているが、誰も見ていない今くらいは許されてもいいだろう。
そもそも、既に生徒ではないのだ。卒業の儀には出られなかったけれど。あれ、確か主席の生徒が挨拶するようになっていたけれど、今年は一体どうしたのだろう。女の子の主席は、同じくレイブンクロー生のクレアだったから、彼女が一人でやってくれたのだろうか。そう考えると、申し訳なかったなぁと思う。赤茶の髪をおさげにした、笑顔が可愛い女の子だった。あとでふくろう便でお詫びの手紙でも出そうっと。
競技場で待っていたのは、セドリックとチョウだった。それぞれ黄色と青色のクィディッチローブを纏っている。
ぼくなんかからすれば物凄い高さで、楽しげにクアッフルを投げ合っていた二人だが(カップルの情景としては微笑ましいのかもしれないが、しかし飛び交うクアッフルの速度がちょっとエグい)、ぼくの姿を認めると、すぐさま降りてきた。
「や、二人とも。チョウは随分久しぶりだね」
「あら、私ホグワーツの戦いに来てたのよ。知らなかったの?」
「えっ、そうなの!?」
全然知らなかった。いやまぁ、あの時のぼくに周囲を見渡す余裕がなかったことは確かだ。
そうだったのか、と小さく呟いた。
「聞く限り、君も散々な目に遭ったそうじゃないか。でもまぁ、元気そうでよかった」
セドリックはそう言って笑う。左腕がなくなったぼくに対し『元気そう』とは少し表現がおかしい気もするが、現実元気なのだ、ぼくは。不便だし、時折ないはずの左手を出そうとして脳が混乱したりはするけれど、それ以外はどうってことない。
「セドリック……そうだ、君とロクに話をしていなかった。前学期はどうもありがとう。今度また、詳しい話を聞かせてよ」
「あぁ、そう言えばそうだった。でも、ありがとうを言うのは僕の方だよ。君たちが助けてくれたから、今、僕はここにいるんだ」
セドリックは柔らかに目を細め、ぼくを見た。
「君に『命令』をしなくちゃいけないんだっけ」
「あぁ……ごめんね、なんか大掛かりなことに巻き込んじゃって」
「構わないよ。……僕の『命令』は、ただ一つ」
続けられた言葉にぼくは一瞬目を瞠ったが、やがて笑った。チョウもクスクスと笑っている。
「オッケー、分かった。きっと彼も、受けてくれるはずだ」
◇ ◆ ◇
ぼくの言葉に、ハリーは目を瞬かせた。
「セドリックとクィディッチ?」
「そ。君とラストバトルがしたいんだって」
三年の頃の、あの結果が不満らしい、と笑うと、ハリーも納得の表情になった。
やがて不敵な笑みを浮かべ「分かった、準備してくるから少し待って、って伝えてよ」と言い、姿を消す。
やがてクィディッチ競技場に、真紅のクィディッチローブを纏ったハリーが現れた。手には相棒のファイアボルト。
セドリックに歩み寄ったハリーは、固い握手を交わすと「じゃあアキとチョウ、審判をよろしく」と言う。ぼくは戸惑ったが、チョウはすぐさま頷いた。ま、ぼくがダメダメでも、チョウが何とかしてくれるだろう。我がレイブンクロー寮の元シーカー様であるチョウならば。
「今回使うのは、この金のスニッチだけね。上空十メートルからアキが手放す。その、きっかり三十秒後に、互いにスタート。それでいい?」
チョウの説明に、ハリーとセドリックは真剣な表情で頷いた。
ぼくとチョウは十メートルの高さまで上がると(どこにも目盛りがないのに、よく十メートルの大体の位置が分かるものだ。クィディッチ選手は凄い)、ぼくにスニッチを手渡した。
恐る恐る右手を柄から離すと、スニッチを受け取る。チョウが頷いたのを見て、せいやっと放り投げた。
瞬間チョウはぼくの手を掴むと、一気に急降下する。こちらの血の気も一瞬で引いた。左腕を失ったことを、初めてとも思う程強く後悔した。
地上に降りると、一気に身体が震え出す。あー、怖かった。物凄く怖かった。三次元の曲芸染みた動きは、ぼくには永遠慣れそうにない。
やはり『姿くらまし』が移動手段としては一番だ、次いで徒歩だ、そんなことを考えていたら、隣でチョウが鋭い声で「スタート!」と叫んだ。
半瞬後、紅と黄の閃光が爆風を散らし弾丸のような速度で飛んで行った。それがハリーとセドリックの姿であると理解したのは、少し遅れてからだった。
クィディッチってそういやこんなスピードだった。なんだか随分感覚が遠い。
「いいなぁ……」
チョウが隣でポツリと零した。
「行って來たら?」と軽く言うと、チョウは目を瞠り、そして蕩けるような笑顔を浮かべた。
「うん、行ってくるね! 審判よろしく!」
「え」
青の閃光を残して消えるチョウ。遅れてホイッスルが投げ渡された。
キャッチしながら、途方に暮れる。
「審判って、何すればいいのさ……」
◇ ◆ ◇
花は、全部で二十本ある。そう、ハリーは言っていた。
ぼくの手元には現在十八本。終わりは、近い。
次に示された行き先は、校長室だった。ガーゴイルの石像前で、少し迷った。
「……ダンブルドア」
まだ、この合言葉は有効のようだった。
ということは、この奥に待っているのは。
「……スネイプ、教授」
呼び方を一瞬迷った。幣原秋とアキ・ポッター、ぼくらを共に知る人とその呼び名は、シリウスやリーマス、リィフやライ先輩と言うように、徐々に統一して来た。
しかし、彼だけは、違う。ぼくはこの人を、幣原秋のように「セブルス」とは呼べない。
彼をファーストネームで呼ぶことが出来るのは、きっと、リリー・エバンズと幣原秋の二人きりなのだ。
ぼくでは、ない。
「……今まで色々、すみませんでした」
残酷な決断を下させたこと。
何年も何年も、孤独な迷宮に一人取り残したこと。
『許さない』その言葉で、彼の魂を永久に縛ったこと。
教授は、窓の外をじっと見ていたが、やがて目を切るとこちらに視線を向けた。
昏いその瞳は、しかしぼくをちゃんと見据えている。
「本当に、愚か者で、大馬鹿野郎だ、貴様らは」
「……ごめんなさい」
目を伏せた。色んなことをやらかした自覚は、ちゃんとあるのだ。
「でも、これがぼくらの思いつく『最善』だったんだ」
「ならその『最善』に、己の幸せもカウントしろ。そういうところが大馬鹿野郎だと言っているのだ。自己犠牲系破滅型馬鹿とでも呼んでやれば、少しは身に沁みるだろう。ナルシシズムに浸った愚か者めが、自分自身に見惚れた挙句湖に落ちて死ねばいいのに」
「う……」
凄い言われようだが、何一つとして否定出来ないところが悲しい。ぼくはナルキッソスのように水面の顔に心奪われるほど精悍な顔面をしてはいないのだが、いや、きっとそういう話ではないのだろう。
「貴様が素直に自分の幸せを受け入れていれば、こんな面倒な手段を取らずにきっと済んだんだ」
教授の声は淡々としていた。事実を並べる、ただそれだけの声音だった。
「でも……それでも、ぼくはあいつに、生きていて欲しかった……幣原に、秋に、ちゃんと世界を愛して欲しかった。生きて、生き抜いて、欲しかった。幸せでいて、欲しかった。ずっと、ずっと、永遠に」
「……本当に貴様は頑固だな。それは、秋も手を焼く訳だ」
「あいつがワガママ言い通しなんだ。なんだって力技で押し込めちゃって、ぼくの不平不満なんて、あいつは耳も貸さなくて。結局のところ、最後の悪足掻きにも、ぼくは負けちゃった。秋はもういない。死んだ人格が、死後の世界に行けるのかは分からない。魂を伴わない人格は、もしかしたら千々に消えてしまったのかもしれない。そう、考えると……目眩がする」
せめて、逝った世界で笑っていて欲しい。
リリーやジェームズ、そして両親や、欲を言えば、リドルと共に。
ぼくの願いは、とても不確かで曖昧だ。
消えた人格の行方など、どの書物を漁っても出て来ない。
「消えるものか」
しかし教授の言葉は、はっきりしていた。
思わず顔を上げると、教授は僅かに、けれど確かに、ぼくを見て微笑んだ。
「だって、あの秋だぞ」
「……っ、あは……違いない」
何も現実は変わっていないのに、その一言で、心が救われた。
そうだ。彼は幣原秋なのだ。彼が消えるはずもない。
秋が迷ったとしても、きっと死後の世界の彼らが、道標になってくれる。
「アキ・ポッター。私から一つ『命令』だ」
柔らかな声音で、手を差し伸べられた。
「あいつの墓を、作ってやってくれ」
暴かれたアレではなく、と言われ、ぼくは一瞬息を呑み、そして深々と頷いた。
◇ ◆ ◇
ラスト、一本の花を、誰が持っているのか。
歩く速度を、少し緩めた。会うのが、怖かった。
禁じられた森へ行く、少し手前で左に曲がる。
小道を辿れば、やがて開けた場所に出た。
「……アクア」
銀色の長い髪が、風に吹かれて舞った。
アクアは柔らかに、ぼくを見て微笑んだ。
「……もう、嫌われたかと思った」
思わず呟く。
アクアは軽く首を傾げ「……呆れたのは本当だけれど」と言い、笑った。
「この場所……」
「……あの花は、雪が積もっている頃しか咲いていないのね」
呼吸が止まる。覚えていてくれたのか。
ぼくが、アクアに告白した場所。四年生のクリスマスの日、ドレス姿の彼女に想いを伝えたのは、ここだった。
どうしようもなく、期待をしてしまう。別れを告げたのは、ぼくなのに。
『呆れた』、その言葉通り、アクアはぼくに呆れ果てているだろう。
どうして、この場所を選んだのか。その真意を上手く押し量れない。
「……アキ」
夕日に照らされ、彼女の銀色の髪が輝いて見える。
一番初めに出会った時よりも、随分と感情を表に出すようになった。一年生の頃は、こんな笑顔を向けられることなど、夢にも思っていなかった。
いや、夢には少しだけ、思い描きもしたけれど。そりゃあね……ぼくだって思春期の男の子でしたし。
「アクア……あの、ぼく」
しぃ、と、アクアは人差し指を唇に当てた。それだけで、声が出なくなる。
それは、魔法のようだった。
「……あのね、アキ。聞いて」
ぼくの右手を、アクアの白い手が掬い取る。柔らかで冷たく薄い手に包まれ、心拍が早まった。
アクアはぼくの目を見て、灰色の瞳をゆっくりと細めた。
「私、あなたのことが好きよ」
耳を疑った。幻聴じゃないかと、自分の脳みそまでも疑った。それは、ぼくの身には余るほどの幸せだった。
思わずアクアの手を振り解き掛けるが、ぼくの手をアクアが慌てて掴み直す力の方が強かった。そうでなくても、こちらは腕一本に対し、アクアは腕が二本あるのだ。
「いや……ダメだよ、アクア。ぼくは君に相応しくないよ」
「相応しい相応しくないって、誰が決めるの。私の旦那様は、私が決めるわ」
うぅ、と目を泳がせる。耳も塞いでしまいたかった。
片腕で、しかもその手はアクアに封じられている今、叶わぬ願いだったけれど。
「私はあなたがいいの。ううん、あなたじゃないと嫌なの。隣にあなたがいることが、私の幸せなの。ねぇ……私の幸せを、願っているんでしょう? アキ」
「……その言い方、ズルいよ」
「えぇ、私はズルいのよ。だって、スリザリン生なんだもの。……私は、私が欲しいもの全て手に入れたいの。アキと一緒に、未来を歩ませて。……ダメ、かな?」
……あぁ、もう。
そんなこと言われて、断れる男がいるというのなら、是非ともお目に掛かりたいものだ。
「……いっぱい、迷惑掛けるよ」
「えぇ」
「今まで以上に、絶対」
「覚悟の上よ」
「君にいっぱい、嘘も隠し事もしてきたよ。嘘つきなのは、ぼくの性格みたいだから……きっと、直らないよ。そんな不誠実な奴で、いいの」
「……面倒臭いわね、あなた」
「うん……ぼく、面倒臭い奴だよ。本当にそれでも、いいの?」
「いいから、わざわざこうしているのよ」
「…………っ」
上手く、言葉が出なかった。力の入る顔を見られたくなくって、顔を伏せ歯を食い縛る。
「困った人ね」とアクアは苦笑して、ぼくの頭をそっと抱き寄せた。
◇ ◆ ◇
アクアと手を繋いで、聖マンゴの病室へと戻ると、そこには今までぼくと会った人たちが勢ぞろいしていてガヤガヤと喧しかった。
シリウスとスネイプ教授は何かを互いに険しい顔で言い合っていたし、アリスもリィフに対して突っ掛かっている。ハリーとセドリックとチョウは、先ほどのクィディッチの話が白熱しているみたいだし、あ、今そこにジニーが加わっていった。ルーナはアリシアとエルと何やら意気投合しているし、誰もが好き勝手なことをしている。
ぼくらが入って来たことに一番初めに気がついたのは、ハリーだった。会話を切り上げると、優しい笑顔で近付いてくる。
「お帰り、アキ」
「ただいま……ハリー」
もらった花を出して、と言われ、出現呪文で取り出した。片腕じゃ抱えきれない花束を、テーブルに置く。
ハリーが杖を振ると、色とりどりの花は一纏めに窓枠の花瓶へと入っていった。
「包み紙をさ、広げてみてよ」
え、と首を傾げハリーを見るも、ハリーはぼくを見て笑うだけだ。
ひとまず一番手近な花の包みを広げると、その裏にはローマン体のフォントで、アルファベットが一文字印字されていた。
「R」と書かれたその紙に目を瞠っていると、アクアが、そしてハリーが、他の皆も、包みを開け始める。
やがて包みは、二十枚の紙となり、そして二十のアルファベットに変わった。二十のアルファベットが、やがて一つのセンテンスを形作る。
その言葉に、意味に、呆然とした。
『THANK YOU FOR BEING BORN』
「──『生まれてきてくれてありがとう』、だよ」
息が、上手く出来なかった。
「十八歳の誕生日おめでとう、アキ。成人のお祝いには、一年遅れちゃったけれど」
そう言ってハリーは、ぼくの右手に懐中時計を握らせた。そうか、今日は七月三十一日。ハリーの──ぼくとハリーの、誕生日。
成人のお祝いに時計を贈る習慣が、魔法界には存在する。幣原秋も、成人の頃には両親は亡くなっていたし、ぼくは誕生日の概念自体を忘れていた。
だから、初めての経験だった。
「ハッピーバースディ、僕ら」
──あぁ、もう、ぼくは。
この瞬間に死んだとしても、構うまい。
懐中時計を握ったまま、手の甲で目元を抑えた。と、ぼくは皆に揉みくちゃにされる。
抱き締められたり、背を撫でられたり、頭を軽く叩かれたり。
「……ありがとう」
ぼくの掠れた小さな声は、それでもきっと誰かに届いたのだ。
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