任務の報告書を渡すため、アレンと共に科学班の居室に足を踏み入れたラビは、一瞬部屋を間違えたのかと思った。
「……ですので、ブラックホールというのは誰もが憧れるロマンなのです!」
ひとりの少女が、椅子の上で立ち上がって演説をしている。その周囲には人が、少女の話に聞き入ったりうんうんと頷いたりしていた。その少女が、ラビが最近よく知る人物であり、科学班所属の研究員であり、マジモンの天文オタクであるエル・シェフィールドであることに気付き、ラビは大きくため息を吐いた。
アレンは、ラビほど早くに驚きから抜け出ることが出来なかったのだろう。唖然と目の前の光景を凝視している。さながら大道芸人と、その周りに佇む観客のようだ。それが科学班で繰り広げているなど、誰が予想するだろうか。
「……あー、アレン、ダイジョブか」
軽く肩を叩いてやると、アレンは我に返ったようだ。ラビを何とも表現しがたい顔で振り返ると、再び視線を少女に移す。
「……なんなんですか、アレ」
「んーと……話せばきっと長くなるんさ」
「ブラックホールとは現象ではなく単なる天体です。超高密度かつ超大質量の天体なのです。重たくなればなるほど、引き寄せる重力はとても大きくなりますよね。ブラックホールはその天体自体の質量の引力により、周囲のありとあらゆるもの、光さえも吸い込んでしまいます。そのため観測は不可視。ですがそこに存在することは間違いがないのです」
エルの口調には淀みがない。これだけの観衆に慄くどころか、楽しげに講義を始めている。人間の持つ三大欲求よりも知識欲が勝る変態が集う科学班、ラビとアレンがドアを開けたことにも、誰ひとり気が付いた気配がない。
ふと、ひとりの科学班員が手を挙げた。
「はい! ブラックホールに吸い込まれると出て来られないと聞いたのですが、それはどうしてですか!」
「いい質問ですねぇ。ご説明しましょう。それはですね、ブラックホールの持つある半径よりも内側では、脱出速度が光速を超えてしまうからです。光よりも速い速度を持つ存在はありません、今の所は。ですのでこの面よりも内側に入ってしまうと、決して抜け出ることは出来ないのです。この面を事象の地平線――イベント・ホライズンと呼ばれていますことはご存知ですよね。時空の特異点が、角速度を持たない、つまり回転していないシュヴァルツシルト・ブラックホールには中心に存在し、角速度を持つカー・ブラックホールではリング状に存在する、というのが今の定説です」
特異点って物理の法則が成り立たなくなると言われているとこだよな、イベント・ホライズンだって、あぁ、シュヴァルツシルト半径か、質量、回転、電荷のあの三つな、周囲でラビにも理解出来ないざわめきが広がる。一体何が周知なのだろう、科学者とは意味が判らない存在だ。
「相対論的観念から述べさせてもらいますが、こちらアインシュタイン方程式の一般相対性理論より、強い重力下の元では時間と空間が引き伸ばされます。ですので、ブラックホールの中に落ち込んだものを見ているとしても、こちらとあちらでは時間の進み方が違うのです。たとえ宇宙船がブラックホールに落ち込んだとしても、こちらからはまるでその宇宙船が静止しているようにしか見えないでしょう。どうです、皆さん、宇宙にロマンが湧いて来ましたよね!」
わかる、ロマンだよな、そんな声があちこちで上がるも、ラビとしては何がロマンだ状態だ。さっぱり意味が判らない。今までエルに幾度となく様々な天文現象を語られてきたけれど、彼女は手加減をしてくれていたのだ。本気を出せばほらこの通り、科学者でもなんでもないラビの理解の範疇を超えてしまう。
「へ……変な子、ですね……」
「……そうだなぁ」
一瞬否定しようと頭を巡らせたが、しかし否定できる材料が見当たらなかったのでやめることにした。
エルが椅子から降りたことで、コンサート会場のような盛り上がりも一旦の収束を見せる。靴を履いたエルは、戸口に佇むラビとアレンを見て「あら」と言ったように口を動かした。
「知り合いですか?」
アレンの問いかけに、もごもごと口の中で「まぁな」と呟く。こちらに歩み寄ってきたエルは、アレンの姿を目に留めて、僅かに目を瞬かせた。
「アレン・ウォーカー様ですね。初めまして」
「あっ、はい、初めまして……」
エルが深々と頭を下げるのに、つられてアレンも腰を曲げた。そんな様子を見るにつけ、この子は相変わらずだなぁ、との思いを強くする。それでも不快さはなく、むしろ『このままで生きていって欲しい』という暖かな気持ちを感じるのだった。
「ラビさんも、任務お疲れ様でした。お怪我はありませんか?」
「全然ヘーキ。心配してくれてサンキュな」
「え、ラビ、右足……」
言葉を漏らしかけたアレンを軽く肘で突いた。余計なことは言わないで欲しい。アレンは瞳を瞬かせて黙ったが、その銀灰色の目には『面白いものを発見した』という興味の色が見て取れた。残念だが期待しているものとは違うからな、の意味も込めて睨んでおく。
「コムイは? いないんさ?」
「今日は、班長様と外に出ていかれておりますよ。神田様が護衛として、着いて行かれておりました」
「あ、そうなんか」
一体どこに向かったのだろうと、ブックマンの好奇心が騒ぐ。がしかし一エクソシストである神田を連れて行ったということは、そこまで機密な外出ではないのだろう。何があったのかは後から神田にでも聞けばいい、そう考えて好奇心を沈めた。
「ラビ、僕にも彼女を紹介してくださいよ」
「あー……はぁ。エル・シェフィールドって科学班の子さ」
「失礼しました、まだ名乗っておりませんでしたね。ご紹介の通り、エル・シェフィールドと申します」
「アレン・ウォーカーです……って、そういえば知っていましたよね。アレンで構いませんよ」
「あら、それでは失礼しますね。それでは今後、アレンと呼ばせていただきます」
「僕も、それじゃあエルと」
アレンとエルのやり取りを聞きながら、あぁなるほどこういうやり取りをすれば名前を呼んでもらえたんかなとチラと思う。がしかし、ラビ自身の様付けを取るときはもっと多くの言葉を連ねたものだったし、そう考えるとエルのこの今の反応は、ラビやリナリーと出会ってある程度慣れたからこそのものなのだろうと考えると、なんというか――
「……漁夫の利」
「何か言いましたか? ラビ」
「なーんも」
首を振った。エルに任務の報告書を手渡すと「じゃそれ、コムイに渡しといてくれな」と言い、ヒラヒラと手を振り踵を返す。
「あっ、ラビ、待ってくださいよ! それではまた、エル!」
アレンが背後でそう言う声が聞こえる。足を一切緩めることなくラビは科学班を出ると、窓越しに空を見上げ、小さく息を吐いた。
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