ひらひらとこちらに飛んでくるゴーレムに、思わず目を奪われた。黒の教団で作成されている、コウモリの形を模し、音声の即時送受信、録音、画像通信が可能な黒い通信機だ。廊下を飛び回り、やがてラビを見つけると一直線に飛び込んでくる。結構勢いがあったため、慌てて両手で受け止めた。
「な、なんさ……?」
エクソシストは一人に一体ゴーレムが支給されるが、今飛んで来たやつは、ラビの記憶力に掛けて明言しよう、誰のものでもない。困惑していると、ゴーレムから楽しげな声が流れ出してきた。
『あ、ラビさんの元に辿り付きましたね! さすが、我が科学班の叡智を尽くした産物です! まぁ、私は開発に貢献していませんけれどね……』
「……エル?」
声には聞き覚えがあった。あの少女の声だ。『ピンポン、正解です』と笑う言葉の後ろには、星が舞っている様子を幻視するくらい楽しげだ。
『今日、月食が見られるんです。もしお暇でしたら、屋上で一緒に見ませんか?』
「おー、行く行く。ちっと待ってなー」
軽く返事をする。
そのまま向かおうとして、ふと思い至った。
短い夏は過ぎ、秋の現在。このまま外に出るには心もとない服装だ。
それに――エルを思い浮かべた。――あの子はきっと着のみ着のまま出て来ているだろう。
一度部屋に戻り、毛布を数枚抱えては、階段を登り屋上へ。夜風は想像通り、少し肌寒かった。
宵闇に浮かび上がる、エルの白衣。それを目印に歩み寄る。
「――エル」
声を掛けると、エルはパッと振り返った。
「あら、早かったですね、ラビさん」
「そうかぁ?」
そうですよ、とエルは頷いた。
「私などに気を遣う必要なんてありませんよ。優先すべき事柄を、優先すべきです。……まぁ、嬉しかったですけどね」
付け足すようにそう言って、エルは小さく笑い声を漏らした。胸中を言葉にしようとしたラビは、途中で取り止め軽く首を振る。
エルの隣に腰掛けた。毛布を手渡すと、エルは「ありがとうございます、気が利きますね」と笑って肩に掛ける。
「月食、って言ってたよな」
「えぇ、そうです。月食、ご存知ですか?」
「……太陽と地球と月が一直線に並ぶことによって、月が地球の影になる――だよな?」
「その通りです」
エルは静かに頷いた。
「今日は皆既月食が見られるので。月が全て隠れる現象を皆既月食、一部分が隠れる現象を部分月食と呼びます。月食は満月の時、日食は新月の時にしか起こらないのが特徴ですね。満月のたびに起こるわけではないのは、月の軌道面と、地球の公転軌道面が五度ほど傾いているためです。日食・月食の起こる日付と場所の計算には、膨大な計算式を要しますが、しかしその計算式をきちんと解くと、神秘的でミステリアスな日食や月食が、実際はただの現象であり予測可能な事象であることが明らかとなるのです。これってやっぱり凄いですよね!」
「うん、そうだな」
楽しそうなエルを見ているだけで、こちらも楽しくなってくる。相槌を打った。
ふ、とエルが言葉を止める。途端に、静寂を強く感じた。段々と更けていく夜に、目を凝らす。
「……私の故郷は、ベルンケールというこじんまりとした村なんです。山の中腹にありまして、放牧で栄えた小さな村。標高が高いから、地上よりもほんの少しだけ、空に近いんです。……まぁ、黒の教団の屋上と、どっちが近いかと言われると少し困りますけど」
始まったお話に少し驚いたが、話を聞く体勢を崩しはしない。
「……空に近付きたくって。ほんの数メートル、数十メートル、数百メートルですけれど、大気圏まで百キロメートルだと考えると、そのゼロコンマ1パーセント以下しか近付けていませんけど……はは、空って、本当に遠い」
エルはそう言うと、両腕を空に伸ばした。
人間のその手は短くて、決して空に届くはずもない。
「母が、病気で倒れたと連絡が来ました。私を育ててくれた、唯一の肉親です。私は、故郷に帰ります」
ラビを見て、エルはにっこりと微笑んだ。
「私のこと、忘れないでくださいね」
月明かりが、掻き消える。「あ」と隣で楽しげな声が聞こえた。
みるみるうちに辺りは暗さを増してゆく。月が赤褐色に塗り替えられる様を眺めながら、これが自然現象とはな、と思わず感慨に耽った。
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