黒の教団科学班は、外部に漏れては非常にマズい大量の機密書類を扱う部署だ。そのため、退職手続きは非常に慎重なものとなる。その最もたるものが、職員の『記憶』。
科学班の退団者が『黒の教団』に関する記憶を喪失させられることを知る者は、とても少ない。黒の教団内で大きな権限を持つエクソシストや、元帥でさえも知る者はそういない――単純に興味がないだけかもしれないが。
エクソシストである一方、『ブックマンJr.』として生きるラビは、その数少ない人物のひとりであった。
「わざわざお見送り、ありがとうございます、ラビさん」
「これくらい気にしない。ちょうど暇だったんだし」
机の上には未記入の報告書を積んだままだが、そんなことをおくびにも出さずにラビは笑った。
思えば、白衣姿でないエルを見たのは初めてだ。ロングスカート姿の彼女は、普段よりも少しだけ大人びて見えた。
リナリーとアレンは、一昨日から任務に就いている。神田は在室していたが、わざわざ見送りに来るようなタマでないことは承知していた。コムイとリーバー、それに彼女と仲が良かったらしい数人の科学班員という、なんとも慎ましい見送り団であった。
両脇を警備の者に固められた彼女は、ラビに深々と頭を下げてから、汽車へと乗り込もうとする。
エルの肩を、とっさに掴んだ。想像していたよりも細い肩だった。
「さ……最後にもう一回、宇宙のことについて聞かせて欲しいさ」
咄嗟に出てきた声は、そんな言葉を成していた。
エルは、驚いたように振り返る。そうして、にっこりと笑った。
「……それでは、最後にひとつ、お話をしましょう。私たちの住む宇宙の物語です。
私たちは、太陽系という、太陽という恒星を中心とする枠組みの中の、地球という惑星で息をしています。その太陽系が位置しているのは、銀河系という、星が数億集まった集団の本当に端っこの方なんです。端の方なんですけど、でも太陽系は、銀河系におけるハビタブルゾーン――宇宙の中で、生命が誕生するのに適した環境と考えられている領域だと言われているんです。とっても広い銀河系の中でも、生命が生まれる環境となるとほんの僅か――太陽系の中でも、生命を育める環境は限られています。地球というのは、本当に恵まれた、素晴らしい惑星なのですよ」
手を掬い取られた。軽く首を傾げ、エルは微笑む。
「ラビさん。地球の未来は、あなた方エクソシストに掛かっていると言っても過言ではないんです。私には、私たちには、ただ応援をするしかありません。祈るしか、方法はありません。祈られるだけというのは、辛いでしょうが……きっと、私などの想像よりも、遥かに辛く、苦しいことなのでしょうが。戦場に送り出すことしか出来ない私たちに、何かを言う権利はないのでしょうが。
それでも、私は――世界のために戦う、あなたを尊敬しています」
ラビの手を握ったまま、エルはその手を額づけた。
「勝手な希望で、想いを押し付けてしまって、ごめんなさい」
誰にも聞こえないように――ラビにしか聞こえない程の小さな声で、エルは囁いた。
す、と手が離れて行く。一歩下がると、深々とお辞儀をした。傍に置いていたトランクを両手で持つと、汽車に一歩乗り込む。
「さようなら、ラビさん。今まで、お世話になりました」
最後に見たのは、彼女の柔らかな笑顔だった。
――エル・シェフィールド。十代女性。黒の教団本部科学班所属。物理・数学専攻。
彼女のデータは、本日十月六日付けでバックアップも含め全面破棄。
彼女が『黒の教団』で過ごした記憶は、彼女の脳から完全に消却された。
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