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「颯、迅とケンカでもしたのか?」
忍田さんの自宅にて、スーパーの惣菜コーナーで買った唐揚げに箸を伸ばしていた俺は、唐突に投げかけられた言葉に思わず目を瞬かせた。
「ケンカ? なんで?」
ケンカなんてしてないよ? と首を傾げる。それでも忍田さんはなんだか訝しげだ。そんな疑うような眼差しで見られても、こちらこそ戸惑ってしまう。
「……いや。そうじゃないなら、いいんだ」
私の考えすぎか、と忍田さんは穏やかに笑うと、味噌汁のお椀を手に取る。考えすぎも何も、俺と迅はごくごく普通の友達で、ケンカのようなケンカだって一度もしたことがない。一回胸倉掴まれたけど、大したことないし。
先日の大規模侵攻で家族を失った俺を引き取ってくれた忍田さんは、親切に俺の面倒を見てくれている。世話を焼かれるのはなんだか申し訳なくて「ほっといていいよ」とも言ったのだが、それでも忍田さんは俺のあれやこれやが気になるらしい。忍田さんの迷惑にならないよう、俺も早く自立して『しっかり』したいんだけど。
「俺と迅、そんな仲悪そうに見える?」
冷めた唐揚げにレモンをかけながら、忍田さんに尋ねた。「そうは思わないが」と言った忍田さんは、ふとそこで言葉を切る。
「ただ……お前と話しているときの迅の雰囲気が、なんだか……少し、今までと違う気がして」
「ふいんきが?」
首を傾げた。ふいんき、と言われても。
「雰囲気、な」
「ふいんき?」
「だから、ふ、ん、い、き」
「えっ何? ……いてっ」
その時、ぴりりと額の傷が痛んだ。思わず包帯越しに手を当てる。忍田さんは心配そうな目で俺を見た。
「大丈夫か? 傷はそう深くはなさそうだったが、なにせ頭だし」
まさか植木鉢が降ってくるとはね、と忍田さんは眉根を寄せる。
「大した怪我じゃないって、忍田さんは心配しすぎなんだよ」
へらっと笑ってみせた。こんなのどうってことないのに、忍田さんってば優しいんだから。
「なら、いいが……友達を庇っての事故だと言うから大目に見るが、当たりどころが悪かったら死んでいたかもしれないんだぞ」
忍田さんの言葉に、パチパチと目を瞬かせた。
「そうだね」
「まったく……今後はちゃんと気をつけなさい」
「はいはい」
忍田さんの声を聞き流す。
「ちゃんと聞きなさい」とお父さんのように言う忍田さんに、「忍田さんが心配するようなことは、何もないよ」と、俺は肩を竦めた。
病院は第二の家、なんて言う気には決してならないけれど、それでも祖父母の家よりは過ごした時間は長いだろう。私、那須玲にとって、病院はそれくらい身近だった。
なにせ昔は、小学校にもまともに通えないだろうと言われた程だったのだ。保育園も、日数で言えば半分も通ったかは怪しい。みんなと混ざって身体を動かすこともできなくて、保育園に行った日であったとしても、教室の中からずっと、みんなが鬼ごっこをしたりボールを蹴ったりしている様子を、ただじっと眺めていた。
楓ちゃん──鷹月颯の双子の妹、鷹月楓と出会ったのは、そんな時。
『うらやましいの?』
羨ましい?
──うん、羨ましい。健康な身体を持つ普通の人が羨ましい。思いっきり走って全力で笑える、そんなことが羨ましくてたまらない。
『それとも、さみしいの?』
楓ちゃんが続けた言葉に、思わず呼吸を止めていた。
──さみしい?
あぁ、そうか。
私、さみしいんだ。
友達が、欲しかった。保育園もたまにしか行けない。一瞬仲良くしてくれた子も、次に登園したときはもう別の子と仲良くしている。前の遊びとはまた違う、別の遊びに夢中になっている。その子の眼中に、もう私はいなくって。
それを見るたび、置いていかれた気分になった。
『かえでちゃん、なにやってるの?』と楓ちゃんの元にやってきた颯ちゃんは、はらはらと泣いている私を見て、びっくりした顔で楓ちゃんに問いただした。
『かえでちゃん、このこ、どうしたの? かえでちゃんがひどいこといったの?』
『かえで、そんなことしないもん』
『ねぇ、れいちゃん、なかないで? かえでちゃんがごめんね?』
『かえで、そんなことしないもん!』
──次の日から、保育園に行くのが待ち遠しくなった。
二人に会えると思うだけで、心のうちに元気が湧いた。
保育園に行けなくておうちで寝ている日でも、二人は家まで様子を見に来てくれた。起き上がれない時でも、玄関から聞こえる二人の賑やかな声に、そっと癒されたりもしたのだ。
大好きだった。大切だった。何よりも誰よりも、大事だった。
ずっと、三人で一緒にいられると、根拠もなくそう思って──
思って、いた。
病院の定期検診は、何度通っても慣れそうにない。
平日をまる一日潰して、冷たい聴診器を当てられ、機械に挟まれ、言われるがままに息を止め、痛みに耐えながら血を抜かれる。それで、結果が『要観察』なのだから、もう本当に嫌になってしまう。
お母さんには「タクシーで帰ってきなさいよ」と言われたけれど、今日は天気も良い。穏やかな日差しの下、自分のペースで歩いていると、少しは気分も晴れる気がした。
柔らかな日差しの下にいると、なんだか時間がゆっくりと過ぎていく気がする。優しい風に吹かれていると、世界が穏やかに緩やかに、何の滞りもなく回っている気分になる。
何の問題もないと、そんな澄ました顔をして。
つい先日、異世界からの大規模侵攻がこの市を襲っただなんて、気を抜くと忘れてしまいそうなほどに。
──楓ちゃんがもういないことを、忘れてしまいそうなほどに。
「……あれ? 玲!」
聞き慣れた声にびっくりして、目を見開いては振り返った。
「……颯ちゃん?」
「やっぱり、玲だ」
中学の制服姿の颯ちゃんは、ぱっと表情を明るくさせては駆けて来る。明るい金髪は、黒の学生服だと際立ってよく目立つ。颯ちゃんの額に巻かれた真白の包帯に、ついつい息を呑んでは「どうしたの、それ?」と尋ねた。
「ん? あぁ、ちょっとぶつけたの」
「ぶつけたって……」
「平気だよ、だいじょうぶ。玲こそ私服じゃん。どうしたの?」
平日だというのに私服の私を見て、颯ちゃんは心配そうに首を傾げる。「病院の定期検診に行ってきたの」と説明すると、颯ちゃんは納得したように頷いた。
「定期検診? じゃ、具合が悪くて学校休んでるわけじゃないんだよな?」
「具合が悪かったら、こうして外を歩いてないわ」
そっか、と颯ちゃんが苦笑する。その笑顔はいつも通りで、私は僅かに、ほっとして──いつも通り?
お父さんとお母さんが亡くなって。
楓ちゃんが、いなくなって。
──いつも通りなはず、ないのに。
「……あの……颯ちゃん、その」
ん? と、颯ちゃんは目を瞠った。邪気のないその目に、思わず口ごもっては言葉を探す。
「……最近、どう? あのね……うちのお母さんも、お父さんも、颯ちゃんのこと心配してるの。だからいつか、うちに……」
「玲、一体何のことを言ってるの?」
颯ちゃんは、私の言っていることが心底よくわからないと言うように、目を瞬かせては首を傾げた。
思わず、呼吸が止まる。
なんとか絞り出した声は、きっと少し、震えていた。
「……ほら。その……颯ちゃん、ひとりで無理してないかなって。あの……ネイバーの、大規模侵攻で……」
それ以上は、言葉を続けることができなかった。
あぁ、と、颯ちゃんは乾いた声を零す。そんな颯ちゃんは、初めて見た。
私の知っている鷹月颯は、泣き虫な男の子だった。人の痛みにとっても敏感で、私の具合が悪いときは、私よりも苦しそうな表情で目を潤ませているような、そんな優しい子だった。
見知らぬ他人の死にも、びくりと肩を震わせて。青ざめては頭を押さえて蹲り、そのまま立てなくなってしまうような、そんな子だった。
ネイバーの大規模侵攻から、日もそう経っていない。きっと颯ちゃんは沈んでいるだろう。ううん、沈んでいるなんて言葉じゃ足りないほど、深く深く傷ついて、身動きも取れなくなっていてもおかしくない。
だから、どう声を掛けようかと悩んでいたところだったのに。
颯ちゃんを傷つけてしまわぬよう、慎重に言葉を探していたのに。
大勢の人、のみならず──颯ちゃんのお父さんもお母さんも、亡くなったというのに。
「だいじょうぶだいじょうぶ。面倒見てくれてる人もいるし、玲に心配されるようなことは、何もないよ」
──だいじょうぶなわけ、ないでしょう?
息を呑んだまま黙った私に、颯ちゃんは困った顔をする。
「ねぇ、玲、どうしてそんな顔するの? ごめんね玲、お願いだからそんな顔しないで?」
──ごめんね、れいちゃん
眉を下げてこちらを伺うその顔は、以前と変わらない颯ちゃんだった。
以前と同じ、優しい颯ちゃん。
なのに、何かが違う。
決定的な何かが、どうしようもなく違ってしまっている。
「……なんで……?」
どうしてそんな、普通の顔で笑えるの?
本当は、すぐにでも逢いたかった。
颯ちゃんのお父さんとお母さんが亡くなってしまったと、楓ちゃんが行方不明だという知らせを受けて、すぐに、すぐに逢いたかった。
電話をしても誰も出なくて。おうちに行っても誰もいなくて。家の中は真っ暗で、誰かが帰ってきた形跡もなくて。
私が女子中へと進学したことで、颯ちゃんと学校で会うこともできなくなった。小学校の頃の共通の友人を辿って、颯ちゃんがちゃんと学校に行っていることを確かめた。
「親戚のおうちに引き取られたのかも」と言ったお母さんは「颯ちゃんだって、環境が変わって大変なの。玲に連絡できる状況じゃないの」と、泣きじゃくる私に言って聞かせた。そう言ったお母さんも目を真っ赤に腫らしていて、私は思わず歯を食いしばっていた。
颯ちゃんの方が、大変なんだ。
お父さんもお母さんも、楓ちゃんだっていない中、新しい生活はどれだけ大変なことだろう。慣れないこともいっぱいあって、私どころじゃないに決まってる。
慣れてからでいい。少し、笑えるようになってからでいい。それからで、いい──そう、思っていた。
なのに、なんで?
なんで私は、いつも通りに微笑む颯ちゃんを見て、こんなにも不安で堪らない気持ちになっているの?
「……颯ちゃん……」
よろめくように、一歩、颯ちゃんに歩み寄る。私の足取りを見た颯ちゃんは、慌てて距離を詰めると手を伸ばした。
「玲っ!?」
腕に抱き留められ、顔を上げる。
颯ちゃんの学生服からは、知らないおうちの匂いがした。
「だいじょうぶ、具合悪いっ!?」
「……ぁ……っ」
だいじょうぶ、と咄嗟に呟いて、突き放すように身を離した。一歩、二歩。遠ざかった距離に、颯ちゃんは驚いた顔をしたあと表情を曇らせる。
その表情を見て、胸の中に後悔が広がった。
颯ちゃんなのに。昔からよく知ってる、大好きで、大切で、とっても、とっても大事な──
「……颯ちゃん、なんで、笑えるの」
私は、颯ちゃんに傷ついていて欲しかったのだろうか。
つらい思いを引きずったままの颯ちゃんに「玲、玲」と縋られて、声も限りに泣きじゃくって欲しかったのだろうか。
お父さんもお母さんも、双子の妹さえも喪った颯ちゃんに「玲はどこにもいかないで」と、手を伸ばして欲しかったのだろうか。
「……なんで……? 何を言ってるの、玲……?」
颯ちゃんは困惑した表情を崩さない。それが嫌で、どうしようもなく嫌だった。
傷ついていて欲しかった。
深い哀しみから立ち直れない彼を、望んでいた。
──あぁ、嫌だ。
恋は、あまりにも残酷だ。
自分の醜い感情を、これでもかと突きつけてくる。
「お母さんも、お父さんも、楓ちゃんだっていなくなっちゃったんだよ。もう、帰ってこないんだよ。悲しくないの。さみしくないの。苦しくないの。怖くないの。私は……私は……っ!!」
「楓は死んでない」
颯ちゃんから発せられた冷たい声に、思わず息を呑んでいた。
「楓は死んでないよ。俺は知ってるんだ」
まっすぐな目。狂気的なまでに信じ切った目。
生まれて初めて、颯ちゃんのことを怖いと思った。
「楓は死んでない。俺の楓が、死ぬわけがない」
──なんで。
なんでなの、颯ちゃん。
なんで、どうして、変わってしまうの。
何が──あなたを変えてしまったの?
「颯?」
投げかけられたその声に、颯ちゃんは勢いよく振り返った。思わず私も、颯ちゃんの肩越しに声の主を見る。
「何やってんの、こんなとこで」
青いジャージに白いシャツ。歳は、私たちより二つか三つ上くらい。額にゴーグルを載せたその人は、飄々とした笑顔を浮かべては、颯ちゃんに対して手を振った。
「迅」と呟いた颯ちゃんは、軽く肩を竦めて彼に向き直る。
「別に。友達と会ったから、ちょっと喋ってただけ」
「ほうほう、友達とな。こんな可愛い女の子と友達とは、やれ颯も隅には置けませんなぁ」
「やめろ! 玲をそういう目で見るな!」
颯ちゃんは歯を剥いて、その人から私を背に庇うように立ちふさがった。「そんな警戒しなさんな、とって食うわけでもないっていうのに」と苦笑したその人は、他人の警戒心を解く笑みを浮かべて私を見下ろす。
「ハジメマシテ。おれの名前は迅悠一って言うんだけど……きみら、友達にしては随分と距離近いね?」
「あ……えっと、那須玲、です……颯ちゃんとは、その、幼馴染で」
「『幼馴染』」
その人は──迅さんは、その言葉を復唱する。口元は、変わらず穏やかな笑みが浮かんでいた。
でも、私を見下ろす迅さんの瞳は、凍えるように冷たい。
どくりと心臓の鼓動が鳴る。色素の薄いその目に射竦められ、目をそらすこともできないまま、ただ息を止めてはその目を見返した。
──ふ、と、迅さんは小さく息を吐く。今度はおちゃらけた表情を浮かべ、颯ちゃんに視線を移した。無邪気に笑うと、颯ちゃんの金髪をガシガシと乱暴に撫でる。
「こんな可愛い子から『颯ちゃん』って呼ばれてんの、お前? はぁー、羨ましいねぇ青春ですねぇこのこのっ」
「だぁーーーーっっやめろ! やめろってばぁ!」
「はっはっは、颯ちゃんってば可愛いやつめ」
「お前が颯ちゃんって呼ぶなぁぁっ!」
颯ちゃんが眉根を寄せて怒鳴っても、迅さんの笑顔は崩れない。はっはっは、と颯ちゃんの背中をばしばし叩くと、ふと颯ちゃんの耳元に口を寄せた。
「幼馴染なら──大事にしないといけないな」
聞こえたその声に──私に向けられた言葉でもないのに、何故だか私は、背筋に冷たいものが走る感覚を覚えていた。
「当然だろ? 何、今更なこと言ってんの?」
颯ちゃんは訝しげに迅さんを見上げる。迅さんは軽く首を傾けると、横目で颯ちゃんを見下ろした。
「颯がわかっているのなら、それでいいんだよ」
「は?」
明らかに『わかっていなさそう』な表情で、颯ちゃんは首を傾げる。うっすらと満足げに笑った迅さんは、そのまま颯ちゃんの肩に手を置いた。
「お前、今日の買い出し当番だろ? おれ防衛任務上がって小南と交代したから、ちびで非力な颯ちゃんを手伝ってやろうかなって思ってさぁ」
「ハァ!? 余計なお世話だし!」
「ハイハイ、人の好意は素直に受け取っておいたほうがいいぞ。ホラ、いつまで油売ってる気だ? それじゃあね、幼馴染の、那須玲サン」
迅さんはひらりと手を振ると身を翻す。あっと迅さんの姿を目で追った颯ちゃんは、思い出したように「そうだ」と声を上げては私に向き直った。
「玲にはまだ、言ってなかったっけ」
金髪が、陽の光に照らされてきらきらと光る。
「あのね、俺、ボーダーに入ったの」
颯ちゃんは、にっこりと無邪気な笑みを浮かべた。
「それじゃあ玲、気をつけて帰ってね」
そう言った颯ちゃんは、私に向かって手を振ると、少し先で足を止めて待っている迅さんの元へと駆けて行く。
その背中に、思わず手を伸ばした。
──いかないで
颯ちゃん、行かないで。
──颯ちゃんを、つれていかないで。
「…………っ」
指が、颯ちゃんの背に届くことはなく。
迅さんの元に辿り着いた颯ちゃんが、私を振り返ることもなく。
「颯ちゃん、帰ったらおれがソロ練付き合ってやろーか」
「だーかーらっ、お前が颯ちゃんって呼ぶなよ!」
颯ちゃんが、怒りに喉を震わせる。
軽やかな笑い声を零した迅さんは、静かに私を振り返っては微笑んだ。
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