いつだって、それこそ深夜にだって人がいるボーダー本部も、年に二回だけは、人気がなく静まり返る日というものが存在する。
そのうちの一日が、今日、大晦日たるこの日だった。
ボーダーは、防衛任務などで拘束はされるものの、それでもプライベートや学校行事を優先させてくれる組織だ。未成年が多く所属している組織だから、というのもある。だから今日なんて日は特に、子供は家族と過ごしなさいとばかりに、シフト表には初めからバツ印が付けられていた。それを偽善などとは言うまい。偽善だろうがやらないよりマシだ。
「あー、疲れた……」
廊下を歩きながら、思わずそんな声を零した。
普段は賑やかで明るいボーダーも、今日ばかりは電気が抑えられているのか薄暗くて寒々しい。通信室オペレーターも、ワーカーホリックエンジニアも、今日ばかりはみんなみんなおやすみして、家族の元に帰っている。我が鷹月隊の面々も、とっくの昔に追い返した。
大晦日と元旦は、原則として隊員にシフトは入れないものなんだけど、それでも『例外』は存在する。俺みたいなのもそのひとり。だって、家族も帰るアテもないからヒマなんだもの。そんな感じの隊員が交代で防衛任務を担当し合って、今俺の分が終わったってワケ。普段よりカバーする範囲は広いし任務の時間は長いし、割とくたびれるものだ。その分お賃金はいいんだけど。
誰とも会わないまま、鷹月隊の作戦室に到着した。鍵を解除し扉を開ける。
「ただいまー……はぁ……」
電気をつけて足を踏み入れると、「ナー」という鳴き声が聴こえては、我が鷹月隊の隊員ナンバー5、その名も『ニャア』が俺の足に額を擦り付けてきた。一年ほど前、オペレーターの雨雫澪が拾ってきては、そのままなし崩しにうちで飼っている猫だ。思わず笑みを浮かべてはその場にかがみ込む。
「あーっごめんな誰もいないなんて思っちゃって、ニャアがいるもんな、あーニャアお前なんでこんなに可愛いんだろうな。ニャアーただいまだぞーっ帰ってきたぞー!」
ふかふかの毛並みを撫でては、床に這いつくばるように腹ばいになり、目線を合わせては両手でニャアの顔を包んだ。わしゃわしゃと暖かくて柔らかな毛並みを撫でる。
「うわぁぶちゃむくれた顔もかーわーいーいー、あーもう俺ニャアがいるだけで生きていける、ねぇニャアどうしてお前はそんなに天使なの? 天使じゃん、ニャアマジ天使、俺の前に舞い降りた一筋の奇跡」
誰もいないから、思う存分愛でまくり可愛がりまくり。こっちは任務終わりで疲れてるし、もう尚更癒しが欲しいわけ。
「あー癒される……お前最高の隊員だよ、もうめっちゃ仕事してる、俺の疲れを癒すっていう最高の仕事してる、可愛くて役に立つとか最強じゃね? こんな生き物作った神様天才じゃね? 神様マジでこの世に猫という生き物を作ってくれてありがとう……食べちゃいたいくらい可愛いね……あぁ最高……」
思う存分もふもふして、お腹に頭を埋めた。あー最高……一生こうしてたい……暖かい……このまま寝たい……。
カラン、と、何か軽いものがぶつかる音がふと聴覚を刺激した。なんだろう、聞き覚えのある音がした……具体的に言えば、ぼんち揚げをこたつのテーブルに落としたような、そんな軽い音……。そういや、なんだかどこかから視線を感じる、ような……。
恐る恐る、顔を上げる。
こたつに入った迅悠一が、俺とニャアを凍りついた顔で凝視していた。
「「……………………」」
「ナー」
ニャアが鳴く。腹が減ったか。ご飯の時間過ぎてるもんな。でももうちょっと待ってくれ。
「……ゴホン」
咳払いしながらニャアを離して立ち上がった。そのまま一旦部屋を出る。扉を閉めて、もう一度。
「ただいまー。あぁ疲れた……って迅!? あれっなんで迅がいるの!?」
「ごめん、颯……」
「やめて! 気まずい顔で謝んないで!」
「これ読み逃しちゃダメなやつだったのに読み逃した……先に声かければ良かったな……そしたらこんな未来にはならなかったのに……」
「マジやめて!! ホントやめて!! いっそ笑えよ頼むから!!」
慮られると逆に辛いだろーが!!
とりあえずは、ニャアにご飯をやるべく動き出した。水を新しいものに変え、冷蔵庫に入れている猫缶を開ける。
「……なんでいんのー……びっくりした、ほんとびっくりしたんだから俺……」
フラッシュバックのたびについつい蹲ってそう零せば、心の底から申し訳なさそうな迅の「驚かせようと思って……ごめん……」って言葉が返ってくる。謝られるとそれはそれで恥ずかしさで死にたくなるなと思いながら、足にまとわりついてくるニャアを避けつつご飯の皿を置いた。食いつくニャアを尻目に、迅のいるコタツへと向かう。
靴を脱いで上がると、コタツに両手も突っ込んだ。掘りごたつだけどついつい膝を抱えてしまう。あまりにも恥ずかしい。
「ごめん……」
「うるさい」
「颯が猫をそんなにも可愛がってるなんて、全く考えもしなくて……しかもめっちゃ好きじゃん……大好きじゃん……愛してんじゃん……」
「うるさい」
「犬猫とか小動物とか、俺、お前はそんな好きじゃなかったと思ってたんだけど」
「そういうのって『死にやすい』から、視えるとキツイだけで、可愛いなと思うのは思うんだもん……」
ニャアは可愛いからいいのだ。ニャアは天使。可愛いものを可愛いと言って何が悪い。今のところすくすく元気に育ってくれてるからそう心配はしちゃいない。まだ一歳になるかならないかくらいだから、寿命も遠いし。
「俺、隊に鍵掛けてたよね……?」
「あー、実は忍田さんから鍵借りてて」
「もうやだ、いい加減にして、消えたいもしくはお前が消えて」
「だ、大丈夫だから、猫は俺も可愛いって思うし、恥じんなって」
「うるさい、消えろ、もしくは記憶を抹消しろ」
……トリガーの柄で殴ったら記憶飛ばないかな。
「颯、飛ばないから、そう物事はうまく運ばないから」
何か視えたか、迅は青ざめた顔でそう言った。なんだ、無理か。
「何しに来やがったんデスカ」
「いや、颯が年越し一人ぼっちだったから、付き合ってやろうかなーって思って……去年もそうだったじゃん」
「あれ、そうだっけか」
「なんだよ忘れてんなよ」
「ごめん、去年の年越しは酔っ払った風間さんと諏訪さんに絡まれてレイジさんに助けてもらったことしか記憶にない」
酒解禁した二十歳組に両脇から酒の入ったグラスを無理矢理握らされては「俺の酒が飲めないのか」ムーブに付き合わされたことしか覚えてない……。
「それ年明けの話でしょ」
「……あれー?」
「全く……まーお前のふわふわ脳みそちゃんには期待なんてしてねぇけど」
でも丸っと忘れられてると兄ちゃんは悲しいよ、そう言いながら迅はコタツの上のミカンを手に取ると剥き始めた。なんとなくつられて俺もミカンに手を伸ばす。何が『兄ちゃん』だっつーの、迅に年上ぶられるとなんかムカつくんだよ。
「紅白でも見る?」
そう言ってモニターを顎でしゃくった。普段はランク戦のログしか流してないが、一応はテレビも見られるモニターだ。たまに澪が撮り溜めた朝ドラを消化してたり、律がニチアサを観てたりする。
「え、見たいの?」
剥いたミカンを四つに割りながら迅は言う。その言葉にしばし考え込んだ。
「……見たいか見たくないかで言うと、実際のとこ、あんまり興味ない」
「デショ。それにあそこの会場、老若男女問わず人多いし、お前苦手じゃん」
苦手なことはしなくていーよ、今日くらいは。迅はそう言って穏やかに微笑む。
「……別に、苦手じゃないよ? 普通にテレビくらい見るし、音楽だって聴くし」
音楽なんて、現代社会で生きていたら聴かない方が少ないじゃないか。コンビニだって、街中だって。どこへだって、今流行りの曲が聴こえてくる。テレビを消したって逃げられやしない。
いや、迅の言いたいことはわかってる。わかってるんだ。俺のサイドエフェクトについて。相手を見ただけで、声を聞いただけで、その相手が近々死ぬかどうか、死ぬのだとしたらいつ、どうやって死ぬのか、それだけをただひたすら視せてくる『予死視』のサイドエフェクト。テレビ越しだろうが、電話越しだろうが関係ない。どこの誰であろうが構うことなく、無差別にただ『視える』このサイドエフェクト。
「……あー、うん。わかった。んじゃ、やめとく」
「うん、それがいい」
迅悠一がそう言って笑うから、俺も、まぁいっか、なんて思ってはミカンを口の中に放り込んだ。
「大みそかには、紅白って絶対見なきゃいけないのかって思ってた」
「そんな道理はないだろー?」
「言われてみれば、確かに」
なんで、今まで見てたんだっけ。大体誰かが付けてるから、それをぼんやり見てたんだ。
家族がいた頃は、母が好きだったから。コタツでみんな揃って、俺と楓は宿題をしながら。父は消防士だったから、たまに出動要請が来て、そのたびに俺と楓は『えー』と不満を言うのが常だった。『助けてって言ってる人を助けなきゃね』って、そう言って俺たち双子をあしらう父に、母が『早く行きなさい!』って声をかけて……。
「颯、蕎麦食お、年越し蕎麦。なんかないの?」
迅の声に、揺蕩っていた意識がふわりと掬い上げられる。
「蕎麦……あ、こないだ柿崎さんからカップ麺の蕎麦もらったの、箱で。それならあるよ」
「箱……えっマジか」
「マジマジー。なんだったかな、まぁおすそ分けって。柿崎さんいい人だよね」
「まぁあいつ以上にいい人なんていないわなー……柿崎は『柿崎さん』なのになぁ」
「あ? なんだよ」
「なーんも。もう慣れてるしー」
意味わかんね、と肩を竦めた。
コタツから降りて靴を履き、台所へ。カップ麺と二人分の箸、それにお湯呑みを持ってコタツまで戻る。
「ほい、迅」
カップ麺を放った。ん、と苦もなくキャッチした迅は、そのままポットに目を向ける。そこで「あ」と声を零した。
「颯ー、湯がない」
「えっマジ?」
「マジー。悲しい未来が視えた」
「それは悲しいな、回避しねーと」
「はいよ、回避頼んだ」
「任された」
ポットが渡ってくる。もらうと同時に湯呑みを受け渡した。流しで水を入れては戻る。迅がポットをコードに繋げるのを見ながら、もう一度コタツに潜り込んだ。
「迷惑ではあるけど、たまにこうやって役には立ってくれんだよな、サイドエフェクトって」
「手の届く範囲であればな」
湯が沸くまで待つがてら、もう一個ミカンに手を伸ばす。そこで、ニャアがコタツのところまで上がってきた。辺りをうろうろした後、コタツの中に潜り込もうとしたので、引きずっては腹の上に乗せ、小さな頭をぼすぼすと撫でる。掘りごたつだから、ニャアが落ちると出て来られないんだ。
「俺、毎年ちゃんと初詣も行ってたんだぜ」
そう言うと、迅は「げっ、マジか」と苦笑いした。
「お前、新年早々よくあんなとこ行けるね」
「それも『行かなきゃいけない』って思ってたんだよなー俺。この時期って結構しんどいんだよね、餅詰まらせて死んじゃうおじいちゃんおばあちゃんがたまに視えてさ」
「あーわかる。どうしようもないよね」
「ちょっとさすがにそれは厳しくて、初詣のときはいっつも『さっきのおじいちゃん助かりますように』とか、そういうことばっか考えてた。普通は『成績上がりますように』とか願うんだってね。だから俺成績悪いのかな」
「いや、そこは関係ねーと思うぞ」
湯が沸いたのを契機に、カップ麺を開ける。お湯を注ぎ入れながら「侘しいねぇ、颯ちゃん」と迅が笑った。
「俺がいなかったらマジぼっちの年越しじゃん。実力派エリート様に感謝だな」
「ちゃんを付けんなっつーの。別に侘しくねーもん、明日からはみんな用もねーのに来て好き勝手振舞ってくんだから。今日はせっかくの休憩タイムだったんだって」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
「兄貴ぶるな、何様だ」
「実力派エリート、迅悠一様だ」
「えっニャア、今の迅の言葉の意味わかった? そうだよなーわかんないよなー、何言ってんだろなー痛ってぇ蹴るなよ!」
「蹴ってませーん俺じゃないですー」
鼻を鳴らして、迅はカップ麺のふたをぺりりと開けると、澄ました顔でぱちんと両手を合わせた。
「柿崎、いただきまーす」
「うう、柿崎さん、いただきまーす」
ほかほかの蒸気が上がる中、少し固めの麺を箸でほぐす。年越しそばなんてそんな風情のあるものじゃない、ほんとただのカップ麺だ。
「なんで柿崎には『さん』なのに、俺には『さん』付けてくんねーの?」
「は?」
厚揚げから顔を離す。迅は少し不本意げな顔で「だから、呼び名ー。もう今更だけどなー」と箸を振った。行儀悪いぞ。
「柿崎と俺って同い年なんだけど。嵐山とも」
「……何、妬いてんの?」
いひ、と意地悪く笑った。普段からかわれてる分、今が好機だとばかりにお返しだ。
まさか俺からお返しされるなんて思いもしなかったのか、迅はきょとんとして目を瞬かせた。その顔は驚くほどに無防備で、普段の薄ら笑いが解けている。その顔を見ると少しすっとした。
「……妬いて……え、そんな、妬いてるなんてことは……」
迅がふと考え込む。いつもと違って一本返せたぞ、といい気分になりながら蕎麦を啜った。膝の上のニャアは、いつの間にかすうっと寝入っている。ぬくい。
「まー安心しろよー、俺も、お前のこと結構好きだよ。一緒にいてこんなラクなやつ、そういないし。迅って空気みたいな感じ、あっつーことはつまり、いてもいなくてもおんなじってこと? あははっ存在感ー! 実力派エリートの存在感ーっ!」
「……っ、調子に乗んなよバカ颯が!」
「おー照れとる照れとる、なんだねそんなに嬉しかった?」
「お前……っ」
今にも迅が俺に掴みかからんとした時、ニャアがくぁっと牙を見せて欠伸をした。思わずふたり、一斉にニャアを見下ろす。
「……ごめん、ちょっと煽りすぎた」
「あーうん、俺もちょっと血が上った」
「普段と逆だな、なんか」
「だな。いつもごめんな」
「別にいいよ……謝られると逆に気持ち悪い」
迅がすごすごと元いた場所に戻ったので、俺もニャアを抱えたまま体勢を整えた。伸びる前にとカップ麺を食べ切ると、小さく息を吐く。
どこか遠くから、除夜の鐘が聴こえてくる。もうすぐ、年が明けるのか。
普通は大勢人がいるボーダーも、今日ばかりは誰もいない。しんと静まり返った中、響くは何処か、遠い場所での鐘の音。
「……俺、こんな楽な年越しって初めてだ」
その音に耳を傾けながら、ついぽつりとそう零した。
「今日くらいは、少しくらい休んだってバチは当たんないよ」
……バチ、ねぇ。
「……いいのかな」
呟いて、迅を見る。迅は俺の言葉を、静かに静かに肯定した。
「いいよ」
そんな一言で、ふっと肩の荷が降りる気分にもなる。
「あけましておめでとう、颯」
そう言って、あなたがそう、笑うから。
「……あけましておめでとう、迅」
つられて、思わず微笑んだ。
「ところで颯、今年の抱負は?」
「んー、いきなり言われてもなぁ……あ」
「お」
「『留年しない』とかどうよ」
「ドヤるな。……ま、頑張れよ」
「えっちょ、ここは『颯は留年しないよ、俺のサイドエフェクトがそう言ってる』じゃねーのっ?」
「…………いや、ほんと、過信してんなよお前?」
「えー」
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