朝の光がカーテンを揺らし、目を灼く光に意識が浮上する。眩しっ、と慌てて手を翳しながら起き上がった。周囲を見回し、あぁ、と息を吐く。
ぼくは元来結構な几帳面で、部屋の所定の位置に物がないと気が済まない性格だ。だから、普段からいつも部屋の中は綺麗に整理しているのだが──
「うっわぁ……」
何だろう。やっぱりここは『嵐が過ぎ去ったように』が表現として妥当かな? なんてどうしようもないことに頭を悩ませる程度には、起きた時に広がる惨状はショッキングだった。
惨状。
本も、文房具も、服も、小物も、全てが部屋中に散乱しているこの状況。
僅かに、風が漂っている。魔力を帯びた風だ。恐らくはこの風がカーテンを揺らし、ぼくを無理矢理にも起こしたのだろう。起きている間の魔力の制御は段々と出来るようになってきたのだが、寝ている時は、となると中々上手くいかないものだ。
「うぅう……父さんみたいにちょちょいって片付けられるようになればいいのにな……」
まだそこまでは出来ない。そもそも杖すら持っていないのだ。「今度お前の杖を選びに行こうな」と父と約束したのが、夏休みに入る少し前。ホグワーツは確か九月から始まるのだと聞くし、となるとそろそろだろうか。
パジャマから普段着に着替え、髪を手早く髪紐で括ると、よし、と気合を入れ直す。
「秋ー、朝だよー?」
ある程度部屋が片付いたかな、と言える頃合いで、階下から母の声が響いてきた。
「珍しいなぁ、今日は随分と遅いねぇ。どうしたの?」
「あっ、起きてるよ、大丈夫だから気にしないで!」
自分の力だというのに制御出来ない、だなんて、両親に知られるのは少し恥ずかしかった。部屋はひとまずそれなりに片付いたことだし、朝食の後でも構わないだろう。
「おはよう、父さん、母さんっ!」
居間の扉を開けると、ふわりと紅茶の香りが漂ってきた。紅茶だけではない、焼きたてのパンや、ほかほかのベーコンエッグに掛けられたケチャップ、そんな快い香りに、思わず大きく息を吸い込む。
「おはよう、秋。ほら、お前に手紙」
「手紙?」
父が差し出した手紙を受け取ると、しげしげと眺めた。褐色がかった手紙は、手触りも普通の紙とは少し違う。紫色の封蝋で封をされたそれは、どう見ても同級生からではない。宛名は流麗な英語の筆記体で書かれていて、本当にぼく宛てなのかを疑った。
封を開けたその中には、二枚の紙が入っていた。そのうちの一枚を広げると、ぼくは黙り込む。
「あっはっはやっと気付いたか。それはホグワーツからの入学案内書さ。秋、お前は九月から、父さんと母さんの母校であるホグワーツに通うんだ。どう、驚いた?」
父が『悪戯成功』とばかりの笑顔でぼくの反応を伺ってくる。しかしその期待に、ぼくは応えられそうにない。
「……あ、いや。驚いた、ことは驚いた……んだけど」
「なんだよ照れちゃって。もっと素直に驚きを表現したらどう?」
「いや、そのね。……………………読めないんだよ」
「……は?」
キョトンとした父の目の前に、先ほどの手紙を突きつけた。
「英文! ホグワーツからの入学案内書……だっけ? 何書いてあるのか判らない! いやちょっと嫌な予感はしていたんだけど、こうしていざ証拠を突きつけられてみると驚くものだね、さぁ父さん、ぼくに何か言い忘れたこと、あるんじゃない?」
父はしばらく手紙を眺めてから、重々しい声でぼくに告げた。
「すまない。ホグワーツはイギリスにあるんだ。言うの忘れてた」
「やっっっっぱりな!! ということは、ぼくは言葉通じない異国の地で魔法を学ぶってこと!? しかも九月一日とか、あとたった一月しかないじゃないそんな短い期間で英会話なんてマスター出来るか!!」
がくり、とぼくはその馬にへたりこんだ。と、肩に優しく手が乗せられる。顔を上げると、母が励ますような笑顔でぼくを見ていた。
「母さん……」
「大丈夫だよ、秋。お母さんはイギリス出身で、日本には結婚してから来たんだけど、今は日本語ペラペラでしょ? だから、その、ね。秋もきっと大丈夫だから! あー……直さんが秋に伝えてなかったのは、そりゃあ確かに悪いかなーって……思うけど……」
「あ、アキナだって言ってくれなかったじゃないか!」
「だっててっきり伝えているもんだと思っていたんだもの!」
悲しいかな、夫婦間の相互不理解。いや、親子間でもか。がっくりと落ち込んだぼくに、母が慌ててフォローの言葉を掛ける。
「その、秋、あんまり落ち込まないで! きっとなんとかなるよ、大丈夫だって!」
「……父さん、母さん」
じろりと両親を見上げたぼくに、父と母は揃って笑みを凍らせた。ぼくは大きく息を吸う。
「ふっざけんなぁっっ!!!!」
その直後、近くにあったものが大小、また使う使わないに関わらずどれもこれも粉々に砕け散ったことは、言うまでもない。
◇ ◆ ◇
目が覚めても、ぼくは起き上がることなく、今日見た夢を反芻していた。額に手を当て、薄暗い物置小屋の天井をぼんやりと見つめる。
しかし、幣原秋。英語が出来ずにあと一月でイギリス行きなんて、可哀想に。苦労することが目に見えている。出来ることならぼくが英語を教えてあげたいものだ。毎夜毎夜こんなに近くに感じているというのに、触れることも話すことも出来ないだなんて。そもそも向こうはぼくのことを認識さえもしていないだろう。
「でも、所詮はぼくの夢だしなぁ……」
幣原が苦労したところで、その少年は実在の人物ではない。いくらリアリティがあったとしても、それはぼくの夢でしかないのだ。
くすりと笑って、ぼくは隣のハリーを「朝だよ」と優しく揺り起こした。
朝食の準備のためにキッチンの扉を開けると、悪臭がむわんと漂ってきた。思わず顔を顰める。食事時には決して存在してはならない臭いに、一気に食欲が減退する。この異臭の根源は何だろうとキョロキョロ辺りを見渡すぼくに、ハリーはしかめ面で、洗い場に置かれた大きなタライを指差した。灰色の液体には、汚らしい布がぷかぷかと浮かんでいる。
「これ、何?」
「お前たちの新しい制服だよ」
ペチュニアおばさんが、ハリーにも負けず劣らずのしかめ面で言う。
「そう。こんなにビショビショじゃないといけないなんて知らなかったな」
「お黙り! ダドリーのお古をわざわざお前たちのために灰色に染めてあげているんだ。仕上がればちゃーんとした制服になるよ」
果たしてそれはどうだろうなぁ。あぁ、数ヶ月後の未来を直視したくない。しかし制服くらい買ってよなんて口走ったら、一体何日食事抜きになるのか分かったもんじゃないので、ぼくは口を噤んだ。
いつものように朝食の準備をしていると、バーノンおじさんとダドリーがキッチンに入ってくる。ぼくの「おはようございます」と掛けた言葉を無視して、二人は悪臭に盛大に顔を顰めていた。それでも、朝ご飯は食べるらしい。よくもまぁ食欲が湧くものだ、その辺りが体型維持に繋がるのかな、なんて戯言を考えながらシリアルを容器に移していると、郵便が投げ込まれた音が玄関から聞こえた。バーノンおじさんが唸るように言う。
「ダドリーや。新聞を取っておいで」
「ハリーに取らせろよ」
「ハリー、取ってこい」
「ダドリーに取らせてよ」
「ダドリー、スメルティングズの杖でつついてやれ」
ハリーは諦めたように玄関へと向かう。その最中、ダドリーが突き出した杖を軽々と避け、あたかも偶然のようにその杖に蹴りを入れてから、キッチンの扉を開け廊下に出て行った。ハリーの苛立ちを垣間見、ぼくは虚ろに笑い声を零す。ベーコンの焼き加減を確かめ皿に移すと、食卓へと運んだ。ダドリーは待ちきれないとばかりにベーコンへ食らいつく。
「小僧、早くせんか! 何をやっとるんだ。手紙爆弾の検査でもしとるのか?」
おじさんはフライドエッグを豪快に頬張りながら、機嫌よく笑った。今日のフライドエッグの味は上々らしい。この香りのせいでぼく自身の食欲は一切ないのが残念だ。しかし、手紙爆弾ってなんだよ、紙に液化爆液でも染み込ませているのか? ……ハリーならやりかねないな。やること結構無茶苦茶だったりするから、あいつ。
やがて戻って来たハリーは、おじさんに手紙を二通押し付けると、真っ直ぐぼくの元へと歩いて来て、手紙を隠すように手渡した。何? と視線で問いかけると、ハリーも首を傾げながら、今ぼくに渡した手紙と全く同じものをヒラヒラと振ってみせる。そして椅子に腰掛け、手紙の封を切った。
一体誰からだろう。ハリーから受け取った手紙をまじまじと見つめた。表面には、鮮やかなグリーンのインクでぼくの名前とここの住所、おまけに寝起きしている『物置部屋』の記述まである。気味の悪さに少しぞっとしながらも手紙を裏返すと、紫色の紋章が入った封蝋が押されていた。中央には大きく『H』の装飾文字、そしてその周りを囲むように、獅子、鷲、穴熊、蛇……。
この紋章に見覚えがある気がして、蝋を指でなぞった。紋章だけじゃない。この手紙自体に、何か既視感があるような──
思い出して、身体が震えた。
今日の夢だ。幣原秋が、父親から受け取ったホグワーツからの入学案内書。その手紙と同じもの──!
封を切るのももどかしく、中の便箋を取り出した。普通の紙より厚みがあり褐色がかっているそれは、夢で見たのと同じく二枚、入っていた。
ずっと求めていた幣原の手掛かりに、鼓動が高鳴る。
彼の手掛かりが、今まさにぼくの手の中にある。
幣原秋が読めなかった英文が、ぼくには読める──!
「マージが病気だよ。腐りかけた貝を食ったらしい……」
「パパ! ねえ! ハリーが何か持ってるよ!」
ダドリーの声に、はっとぼくは顔を上げた。ハリーの手紙がバーノンおじさんに引ったくられたのを見て、慌てて手紙をズボンのポケットの中に押し込む。
「それ、僕のだよ!」
「おまえに手紙なんぞ書くやつがいるか?」
バーノンおじさんはハリーにそう言ってせせら笑うと、無造作に手紙に目をやった。
バーノンおじさんの顔色が変わるのは一瞬だった。次の瞬間には、死にそうな声でペチュニアおばさんの名前を呼ぶ。すぐに駆け付けたペチュニアおばさんも、手紙に目を通すなり、これまた死にそうな呻き声を上げた。
「バーノン、どうしましょう……あなた!」
おじさんとおばさんは、二人顔を見合わせる。興味をそそられたらしいダドリーは、不機嫌そうにスメルティングズの杖でおじさんの頭を小突くと「ぼく、読みたいよ」と喚いた。ハリーも眉を寄せおじさんに詰め寄る。
「僕に読ませて。それ、僕のだよ」
「あっちへ行け! 二人ともだ」
おじさんはダドリーとハリーを一喝すると、ハッとした表情でぼくの方を見た。ぼくは思わず身体を竦める。いや、でもバーノンおじさんは、ぼくが手紙を持っていることを知らないはずだ。怯える必要はない、平然としていれば、それでいい。しかし、バーノンおじさんはツカツカとぼくに近付いて、右腕を突き出した。
「お前もだ、アキ……手紙を渡せ」
「ぼく、手紙なんて持って」
「ポケットの中身を全てひっくり返せ!」
なんでバーノンおじさんに見抜かれたのだろう? ハリーがぼくに手紙を渡すところは見られていなかった筈なのに。
ぼくは小さく舌打ちをすると、乱暴に詰めたせいでくしゃくしゃになっている手紙を引っ張り出した。すかさずおじさんはぼくから手紙を取り上げ、ハリーの手紙と中身の便箋の枚数が異なってないか確認すると(無駄にスキがない)低い声で「お前も向こうへ行け」とぼくに言う。
「僕の手紙を返して!」
「ぼくが見るんだ!」
「行けといったら行け!」
なおも言い縋るハリーとダドリーを怒鳴りつけると、おじさんはぼくら三人の襟首を掴んで部屋の外に放り出し、キッチンのドアを閉めてしまった。
ダドリーとハリーによる鍵穴の争奪戦を横目で見ながら、ぼくは壁に背をつけ、今日見た夢の記憶を手繰り寄せる。
あの紋章は、確か……ホグワーツ。
ホグワーツとは何か?
……ホグワーツ魔法魔術学校、イギリスに存在する、魔法を教える学校。
──いや、それはただの夢のお話だ! 現実に魔法なんてあるはずがない。そんな学校、イギリスに十年住んでいるけど今まで一度も聞いたことがない。
じゃあなんで、紋章が夢で見たのと全く同一なんだ?
──ただの偶然の一致に決まってる。幣原秋に拘るあまり、少し似たものを、夢で見たのと同じだと思い込んでしまったんだろう。
じゃああの手紙は一体何? 誰から送られてきたもの? どうやって、ぼくの寝ている場所まで突き止めたの?
──ぼくの仕事の依頼の手紙だったのかもしれない。学校で請け負っている内職の。基本依頼は口頭で住所は公開していないけど、住所録もあるし、調べようと思えば誰だって調べられる。切羽詰まった誰かが手紙を出したのかもしれない。夏休みにも入ったことだし。寝ている場所は、いつかぼくがどこかで話したのかもしれない。
それなら、なんでバーノンおじさんは、ぼくの手紙に気が付いたんだ?
そこで行き詰まったぼくは、はぁと息を吐いた。
知っているべきものを知らないような、気持ちの悪い違和感。
頭を振って、目をぎゅっと瞑る。
ぼくは一体、何を知っているんだろう?
その夜、初めて物置におじさんがやってきた。
おじさんの図体を視認すると、ハリーは座ってたベッドから跳びはねるように立ち上がり、おじさんに詰め寄った。
「僕の手紙はどこ? 誰からの手紙なの?」
「知らない人からだ。間違えておまえらに宛てたんだ。焼いてしまったよ」
「絶対に間違いなんかじゃない。封筒に物置って書いてあったよ」
「だまらっしゃい!」
ハリーにキレたバーノンおじさんの怒鳴り声で、天井からクモが数匹降ってきた。ぼくははぁとため息をつくと、内職であるレコーダーの修理を止めてぼんやりとハリーとおじさんを眺める。
おじさんは深呼吸すると、無理矢理顔に笑みを浮かべてぼくらを交互に見た。
「エー、ところで、おまえたちや……この物置だがね。おばさんとも話したんだが……おまえたちもここに住むにはちょいと大きくなりすぎたことだし……ダドリーの二つ目の部屋に移ったらいいと思うんだがね」
「どうして?」
ハリーが間髪入れずに尋ねる。またもおじさんはハリーに「質問しちゃいかん! さっさと荷物をまとめて、すぐ二階へ行くんだ!」と怒鳴った。ぼくはぽつりと呟く。
「あの手紙にぼくたちの寝起きしてる場所が書いてあったからでしょ」
おじさんは、ぼくの存在に初めて気がついたかのようにぎくりと身を強張らせる。ぼくを睨みつけて、何も言わずに物置を出て行った。
「荷物をまとめよ、ハリー。そんなとこで突っ立ってないでさ。おじさんの気が変わる前に」
ハリーは未だ憮然とした表情だったが、それでも床に腰を下ろした。荷物をリュックの中に詰めながら、溜まっていた文句を口にする。
「僕らに来た手紙なのに、勝手に焼いてしまうなんて」
「まぁまぁ。二階に住めるなんて、ついてないぼくらにしては信じられないくらいの幸運だよ? もっと喜ぼうよ」
「あの手紙なしで二階にいるより、手紙があってここにいる方がよっぽど嬉しい」
それに、とハリーは眉を寄せてぼくを見た。
「アキだって、二階に住めるってのに、嬉しそうじゃないじゃないか」
「……まぁねえ」
もう少しで、幣原秋に近付けると思った。その落胆を思い出してぼくは苦笑いをする。
「……でも、もしかしたら、今までの苛立ちとか何やらが、全部吹っ飛ぶくらいのいい知らせがあるかもよ?」
ぼくが言った言葉に、ハリーはきょとんと目を丸くした。
「アキ、君は一体、何を知ってるの?」
さぁね、とぼくは悪戯っぽく微笑んだ。
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