イギリス魔法界で一番と謳われるこの通りは、ダイアゴン横丁と呼ばれているらしい。九月一日の新学期より二週間前。ぼくらは日本から遠く離れたこの地、イギリスまではるばるやって来た。これから二週間、ぼくらはダイアゴン横丁の入口であるパブ兼宿屋『漏れ鍋』で過ごすらしい。両親は、ぼくを見送ってから日本へ帰るのだと言う。
父と母は、ここに来てから傍目にも分かるくらいに楽しそうで、ぼくよりもワクワクしているようだった。学生時代振りだー懐かしい! と、息子のぼくを放置して思い出話に花を咲かせることもしばしばだ。まぁ、構わないんだけど。
一方、ぼくはと言えば──
「秋ー、せっかくのイギリスだよ? 初めてのダイアゴン横丁だよ? もっと楽しそうにしようよー」
「後でね。これ覚えてしまってから。あいまいみー、ゆーゆあゆー、ひーひずひむ、しーはーはー……」
英語に必死だった。
いや、本当。切実過ぎて、どうすればいいのかさっぱり分からない。こんな有様じゃ、授業はおろか友達とお喋りも出来ない。というかそもそも友達を作ることすら難易度が跳ね上がっている。時間を見つけ、父も親身になって(罪滅ぼしとも言うかもしれない)ぼくに色々と講義してくれているのだが、何と言っていいのか──端的に言えば、父には教師の才能がないとだけ。それなら、話があっちこっちに飛んでいくことにだけ気を付ければいい母の方が、随分マシな先生だった。
「悪夢だ……」
「秋ー? 行くよー」
「はいはい!」
半ば八つ当たり気味に大声を出す。瞬間、パチッと白い火花がぼくの周りで散ったが、気にしないことにする。少し精神が不安定になると、すぐさま魔力のコントロールを失ってしまうのがいけない。
両親に連れられ行ったダイアゴン横丁は、確かに凄く面白かった。目玉が二個しかないことを悔やんだのは、後にも先にもこれきりだ。面白いものを一つたりとも見逃したくなくって、瞬きする間も惜しみきょろきょろと辺りを見回す。そんなぼくの手を引く両親は、やがてとある大きな建物へと辿り着いた。
「ここは?」
「グリンゴッツと言う。イギリス魔法界唯一の銀行だ」
「かーわいい小鬼さん達がわんさかいるんだよー」
「母さんに騙されるなよ秋、お世辞にもかわいいとは言い難いぞ」
「えー? なんでよ、すっごいかわいいじゃない!」
「……母さんのセンス、意味わかんない……」
そんなことを言い合いながらも、買い物がてら色んなものを見て回る。ホグワーツの制服に、大鍋、望遠鏡に、様々な種類の薬草に、教科書。どうしてぼくは英語が分からないのだろう? 見るだけでもこんなに楽しいんだ、意味まで分かればもっと楽しいに違いないのに。
「後は、杖か……」
父が、購入品目のリストを確かめながら呟いた。ふと遠い目をする父に、母も倣う。
「杖かぁ……」
「杖だねぇ……」
「……父さん母さん、どうしたの?」
母は虚ろに笑いながら、ぼくの頭を撫でた。かなり怖い。
「防御魔法を……」
「そんなんで防ぎ切れるかどうか……」
父と母が呟く言葉に、ぼくは首を傾げた。
その言葉の意味を、ぼくは間もなく知ることとなる。
年季の入った木造りの扉を押し開けると、どこか奥の方から、ちりんちりんと鈴の音が鳴った。小さな店内は、杖が入っているのであろう細長い箱で壁中が埋め尽くされている。静まり返った店内は独特の雰囲気があって、ぼくは思わず黙り込んだ。しかし父は、そんな空気も読まずに声を張り上げる。零れた流暢な英語に、慣れてもいいだろうに思わず目を瞠った。
「────」
不意に、存外近くで声が聞こえた。気付けば目の前に、小さな老人が立っていた。彼はにこやかな笑顔を浮かべぼくに二言三言話し掛けたが、その言葉は英語なためぼくにはさっぱり分からない。しかし父が何事かを言うと、その老人は納得したように頷き、口を開いた。発された言葉が日本語であることに、思わず驚愕する。
「はじめまして、幣原秋さん。私はギャリック・オリバンダー。ここダイアゴン横丁で杖作りをしております。あなたの父君も母君も、共にこちらで杖を買われていかれました。あのお二人は有名でしてな、色んな面白い逸話がありますわい」
「それは息子には聞かせないでください、教育に悪い」
父は顔を顰めて首を振る。母に視線をやると、母は照れたように微笑んだ。さっぱり分からない。
「秋は、何の因果か魔力の量が半端じゃないんです。お覚悟の程、よろしくお願いします」
「それはそれは……分かりました。秋さん、杖腕はどちらです?」
「あ……左、です……」
オリバンダーさんは、どこからともなく巻尺を取り出すと、ぼくの肩に当て寸法を測り出す。作業をしながらも、柔らかな声で話を続けた。
「オリバンダーの杖は一本一本、強力な魔力を持ったものを芯に使っております。父君は不死鳥の尾の羽、母君は一角獣のたてがみでしたな。どれも皆それぞれに違うのじゃから、オリバンダーの杖には一つとして同じものはありません。他の魔法使いの杖を使っても決して自分の杖ほどの力は出せないわけですな。お分かりですか?」
ぼくはこっくりと頷いた。オリバンダーさんは微笑すると作業を止め、奥に入っていくつかの箱を取り出すと脇に置く。その内の一つの蓋を開け中から杖を取り出すと、ぼくに差し出した。恐る恐る伸ばした手の指先が、杖に触れる。
瞬間、店の窓が砕け散った。幾度とない力の暴発で、これくらいの破壊には慣れてしまった(嫌な慣れだ)ぼくだが、それでも音と申し訳なさに身を縮める。
「ご、ごめんなさい……」
「何、構いませんよ。それではこちらはどうでしょうかな。楓の木に不死鳥の尾羽根……」
割れた窓を気にも止めず、すぐさまオリバンダーさんはぼくに次の杖を進めてきた。本当にいいのだろうかと躊躇いつつも、差し出された杖を手に取る。
途端、オリバンダーさんの説明を掻き消すほどの轟音。背後の壁一面に詰まった杖の箱が、勢いよく雪崩を起こしたのだ。オリバンダーさんはちらりと振り返ったが、しかし振り返っただけだった。次の杖を差し出してくる。
「それではこちらはいかがかな? 樫の木に……」
この杖も触れた瞬間、置いてあった花瓶その他諸々の小物が全て粉々に砕け散った。
「…………」
「じゃ、じゃあこちらはどうかの?」
なかなかオリバンダーさん、打たれ強い。
しかし次の杖もまた、合わないようだった。爆音を立て、店の扉が豪快に吹き飛ぶ。一拍遅れて、女性の悲鳴とざわめきが聞こえてきた。両親が慌てて外の様子を伺いに行く。大丈夫だろうか、怪我していなかったらいいのだけど。
「店の扉を吹き飛ばされたのは初めてですわい……」
オリバンダーさんは、少し呆然とした声で呟いた。首を振ると、すぐさま違う杖を用意してぼくに差し出してくる。えぇ、まだやるの? この有様で? と、テーブルに積み上がった杖の箱の山を見て思うも、しかしぼくにはどうしようもない。一刻も早く決まってくれと祈るのみ。
椅子が粉々になりカウンターが砕け天井が軋みいろんなものの破片が空中でタップダンスを踊り出す中、オリバンダーさんはまたも新たに杖を箱から取り出した。
「松の木、ドラゴンの心臓の琴線、二十七センチ。扱いにくいがとても強い魔力を持つ」
「おいおいオリバンダーさん、こいつにそんな強力な杖持たせたら国が一つ滅びますよ!」
父が叫ぶ。しかし、とオリバンダーさんは追い縋った。
「この杖は強い魔力を持つ者しか持ち主と認めてくれん。この子にはちょうどいいのかもしれん……」
……隣でそんな怖い話をしないでよぉ。
杖を差し出すオリバンダーさんの手も、微かに震えている。ぼくは息を止め、ついでに目もぎゅっと瞑って、杖にそうっと指を触れさせた。
しばらく経っても轟音も爆音も響かないことに、詰めていた息をひっそりと吐き出す。目を開けると杖を持ち上げ、握り締めた。それでも、何も起こらない。
オリバンダーさんは大きく息を吐くと、一転期待に満ち溢れた表情で「振ってみなされ」とぼくを促した。言われた通り、ぼくは杖を軽く振り上げる。
──脳裏に浮かんだのは、ぼくが生まれる前からある、とある怪獣映画。歩くだけで街は容赦なく破壊される、あれ。あの怪獣が軽く足を上げたら、きっとこうなるのだろうか。
「……あはは」
見上げれば空。イギリスはいつも天気が悪くて、それは今日も例外ではなく、雨が降る一歩手前の様相を呈していてそれが
──というか、どうするの、これ。
屋根は吹き飛び壁のレンガは崩れ、一階のここからでも二階の住居が見て取れる。誰がやらかしたのか? と聞かれれば、満場一致でぼくのせい。イエス、実行犯。
「……懐かしい……」
母が目を細めながら呟いた。
……って懐かしいって何!? もしかして以前言っていた「秋が初めて魔力を現した時は家が半壊した」ってやつか!? あぁ……それは、うん、そうだよな。こんなにとんでもないのなら、魔力封じようって発想にも至るよなぁ。分かる、分かるよ。癇癪起こして泣いただけで家が半壊するとか、考えるだけでうんざりしちゃうもんねぇ……。
「……弁償」
「……大丈夫じゃ」
本当かよー……ぼくもう泣きそうだよー……。
「さて、もうこれ以上壊れることはないだろうし……」
「いや、これ以上やったら秋はここを更地にしてしまいますよ!」
「それでもわしはこの子の杖を合わせるのが仕事じゃ!」
オリバンダーさんの目は本気だった。しかし、父が言うのももっともだ。ここが更地になるのもきっと時間の問題だろう。
オリバンダーさんは、今度は物凄く慎重に、杖を選びに行った。箱を手に取っては見極めるようにあちらから、こちらから眺め、ふるふると首を振っては棚に戻す。手出しが出来ないぼくはそれをぼんやりと眺め、両親はこっそりと杖を振っては店の修理を始めていた。あぁ、う……申し訳ない、ぼくのせいで。
オリバンダーさんは、ある一つの箱を手に取りしばらく立ち尽くしていた。棚が崩れた際、埋まっていたのが飛び出してきたのだ。オリバンダーさんはその箱を手に、こちらに近付いて来ると、カウンターにそっとその箱を置いた。思わず、目が吸い寄せられる。オリバンダーさんがそうっと埃の積もった箱を開けると、中からは一本の杖が、静かに佇んでいた。
「……こちらはどうかのぉ、紅葉の木に不死鳥の尾羽根、二十五センチ。気まぐれだが忠誠心は強い」
オリバンダーさんの声が、どこか遠くで響く。まだ促されていないというのに、ぼくはその杖に手を伸ばしていた。
触れた瞬間、何かが脳に繋がるような衝撃が走る。神経と杖が、しっかりと接続されたような、なんとも言えない心地。震える指で摘み上げ、握り込むと、杖腕にじんわりとした暖かさが染み渡った。
軽く振ると、ふわりと杖先から色とりどりのシャボン玉が零れた。シャボン玉ではないのだろうが、ぼくの語彙で一番当て嵌まるのはこれだった。右手で触れても、シャボン玉のように弾けて消えたりしない。ゆったりと落ちてゆくシャボン玉は、床に触れる間際で静かに粒子となって溶け消えた。
誰に言われなくても分かる。
これが、これこそが、ぼくの杖だ。
「……決まって、よかった……!」
オリバンダーさんはぐたりと疲れたようにその場に座り込む。ぼくの元に駆け寄ってきた母は、ぼくの頭を優しく撫でると微笑んだ。
「よかったね、秋」
ぼくも、にっこり笑って頷いた。
数日後、オリバンダーさんから手紙が届いた。なんでも、戦車に攻撃されてもビクともしないよう、建物を改築したのだという。小物は全て撤去、窓は防弾ガラスにモデルチェンジ済み。
「……あっはっは」
もしかしなくても、
「秋のせいだな」「秋のせいだね」
「だよねぇ!?」
やっぱり修繕費払うべきですかね、父さん。
◇ ◆ ◇
指先で、弾けた赤い火花を弄ぶ。
幣原秋の持つ不思議な力──魔力──と呼ばれるものは、なかなかに面白い。
ぼく、アキ・ポッターと幣原秋。外見も年齢も性別も、名前はファーストネームのみだけれど、全く同じ。性格に関しては、向こうが純粋過ぎるのかぼくがちょっと、ほんのちょびっとだけど歪んでいるのか、少々異なるのだが、まぁこれは育った環境だろう。……考えると気分がどんよりするので、あまり深く突き詰めないようにする。
更に極めつけは、昨日来た手紙。
あの奇妙な一致で、ぼくはとうとう実験してみるまでに至ったのだ。
幣原秋と、アキ・ポッターがそこまで似ているのならば。
魔力だって、ぼくにもあるんじゃないか?
そう──幣原秋に宿る『魔力』を確かめてみよう、と思った。
「……しかし、まぁ」
本当に出来るとは思っていなかった。
ピン、と人差し指で火花を弾く。ふわりと宙に舞い上がった火花は、トイレの真っ白な天井に当たると姿を消した。
そう、現在ぼくはトイレにいる。どうしてトイレかと言われると、この家の中で誰にも(ハリーにさえも)見られず一人になれる場所が、トイレかバスルームしかなかったからだ。いやぼくもそれってどうなのよ雰囲気的にとは思ったものの、しかし場所がないのだから仕方がない。ペチュニアおばさんが潔癖症だから、衛生面では問題はないんだけれど、何と言うか……何と言うかさぁ。
それでも、誰にも──ハリーにも見られたくなかったのだ。
それなら、幣原秋の父親が言っていた『ホグワーツ』や『ダイアゴン横丁』も──『魔法使い』だって、現実に存在するのではないか?
今までずっとファンタジーの存在だと思っていた『魔法』が、こうして実在するのだ。どうせなら綺麗に収まって欲しいと思う。
ならば──それならば。
もしそうならば、ぼくとハリーに来たあの手紙は、ホグワーツ魔法魔術学校からの入学案内書だ。
「…………」
確かめないと。あの手紙が果たしてそうなのかどうかを。なんとかして、あの手紙を読まなければいけない。
そう決意し、強く拳を握ったその時、ドアを勢いよく叩かれ、ぼくは飛び上がった。
「早くしてくれよ! トイレはお前の専用じゃないんだぞ!」
慌ててドアを開け、ダドリーのパンチを華麗に避けると(ちょっと掠めてヒヤリとした)、今ぼくとハリーが寝起きしている部屋に駆け込む。今思いついた考えを伝えるため、ぼくはまだ眠っているハリーを揺すり起こした。
その日の朝は、みんな黙り込んでいた。バーノンおじさんとペチュニアおばさんはしきりに顔を見合わせているし、ダドリーはぼくらに部屋を取られたことのショックが抜けていないようで、どこか上の空だった。駄々をいくら捏ねても、我侭が通らなかったのは、ダドリーにとって初めての経験だっただろうから。だから、普段通り、いや普段以上に元気なのは、ぼくと、さっきぼくの夢やら何やらを聞いたハリーだけ。
誰も口を開く人がいないからか、カタン、という郵便配達の音がやけに大きく聞こえた。ハリーとぼくは顔を見合わせる。
おじさんはぼくらに郵便を触らせまいと思っているのか、ダドリーに郵便を取りに行かせた。予想していたことだけど、ちょっと落胆する。やがて玄関先から、ダドリーの大声が聞こえた。
「また来たよ! プリベット通り四番地 一番小さい寝室 ハリー・ポッター様、それとアキ・ポッター様──」
ぱっと隣でハリーが駆け出した。弾丸のようなスピードだ、なんだあの反射神経。遅れてぼくもその後に続く。しかし、バーノンおじさんが一番早かった。
細い廊下での手紙を巡ってのバトルは、全員がダドリーのスメルティングズの杖をいやというほど食らった後(絶対取り上げてやると誓った)、バーノンおじさんが勝ちを奪い取った。ぼくらの手紙を鷲づかみにすると、息を切らしながらも命令する。
「物置に……じゃない、自分の部屋に行け」
そしてダドリーをも追っ払うと、バーノンおじさんはキッチンに入って行った。
「やっぱり今日も来たね、あの手紙。アキの予想通りだ」
「だね。あとはあの手紙を、どうやって受け取るか、だけど」
物置より少し広くなった二階の部屋をぐるぐる回りながら、ハリーは何やら考えている様子だった。歩きながらも口を開く。
「やっぱり、郵便配達の人から直接受け取るのが一番確実だと思うんだ。目覚まし時計を使って、明日は六時に起きる。そしてプリベット通りの角のところで配達を待つんだ」
「でも目覚まし時計って、そんなのあったっけ?」
あるよ、とハリーは、ダドリーのガラクタが積み上げられている山から一つのガラクタを抜き出した。
「結構壊れてるけど」
「……あの、ハリーさん、それ『結構壊れてる』のレベル?」
ハリーの手に握られている目覚まし時計は、嵌まっていた透明なプラスチックは砕け針は全て外れ、中身の機械部分は一部露出していて、それはもうえらいことになっている。いやいや……これはごみ箱行きのレベルでしょ。
「直せるよね?」
ハリーの笑顔に、ぼくは文句を封じられた。ぐっと言葉に詰まって、その『元目覚まし時計』に目を向ける。
「直せるよね?」
「いや、ここまでの破壊は……」
「直せるよね?」
「……努力します……」
弱いぞぼく! 切ないぞぼく! でも原則、弟は兄には逆らえないのだ。
「大丈夫、アキがやらなきゃいけない家の仕事は、全部ぼくがやっておくから。アキは一日中それに専念してていいよ。リミットは今日の夜までね、それじゃあスタート!」
ハリーが鼻歌混じりで部屋から出ていくのを、ぼくはじと目で見送った。大きくため息を吐くと、気を取り直してぼくは目覚まし時計の修復に没頭した。
なんとか目覚まし時計と呼べるまでそのスペックを回復させたそれは、きっかり六時にけたたましく鳴り出した。
ぼくらは慌てて飛び上がりアラームを止め、ほっと一息ついてからすぐさま服を着替えてから、おじさんおばさんを起こさないようにと電気も付けず、息も潜めてひっそりと階段を下りた。抜き足差し足忍び足で廊下を渡り、玄関にやっとの思いで辿り着いたところで──
「ウワーヮヮヮァァァァァ!」
前を歩くハリーが、いきなり大声を出して跳び上がった。ぼくはびっくりして一歩下がると、身体を強張らせる。弾みで小さな火花が一つ散った。感情が高ぶったりすると魔力が飛び出すのは、ぼくも幣原秋も変わりはないようだが、それはともかくとして。
「は、ハリー!? どうしたの……」
「な、何か踏んづけた……!」
小声で怒鳴るという芸当をそれぞれが人知れず成し遂げていた時、廊下と玄関の電気がパチリと付いた。白色光に照らされたそこに現れたのは、寝袋に包まり目をらんらんと輝かせたおじさんの姿。ぼくたちの行動を読んで先回りしていたのか。そして、どうやらハリーが今しがた踏ん付けたものはバーノンおじさんの顔だったようだ。……二人に合掌。
それから三十分、ぼくたちは冷たい廊下で正座をしながら、バーノンおじさんの説教を聞くこととなった。ぼくらは二人ともしんみりしょぼくれた顔をしていたが、腹の中では次の作戦をしっかりと組み立てていた。
やがておじさんは怒鳴り疲れてのどが渇いたのか、ハリーに紅茶を淹れてこいと命令する。ハリーが立ち上がりキッチンへと姿を消したのを見計らって、ぼくはバーノンおじさんに尋ねた。
「ねぇ、もしかしてその手紙って、ホグワーツの入学案内書だったりする?」
どうやら当たりのようだった。直球で尋ねるのも、なかなか良いものだ。おじさんは目を見開き口髭をわなわなと震わせ、顔色をさっと蒼白に変える。
「当たりなんだ」
「なんで、貴様それを……まさか、読んだのか?」
「届いた手紙? 読んではないよ。でも」
知ってるんだ、とぼくは言った。
「……思い出したのか?」
おじさんは内緒話をするかのように声を潜めた。え、とぼくは訳が分からず聞き返す。
「お前は……」
ちょうどその時、ハリーが紅茶片手に戻って来た。黙り込んだおじさんに、こちらも口を噤む。
「どうしたの? アキ」
「いや、ちょっと……えっと、足が痺れて……」
誤魔化すために吐いた言葉だったが、事実だった。ずっと正座していたせいか、微かに足の指先を動かしただけで全身に走るなんとも言えない感覚。すっごく気持ち悪い。
ハリーはやれやれと言った顔をして、ぼくの両手を引っ張り立たせてくれた。それでも痺れが今の衝撃でぇ……。
一人悶えていた時、郵便配達の音が聞こえた。ぼくとハリーははっと玄関のドアを見る。
カタンカタンという音が聞こえた後、バーノンおじさんの膝の上に郵便が吐き出された。
その中に、見覚えのあるホグワーツからの封筒が六通。
「僕の……」
ハリーが言い終わらないうちに、おじさんはぼくらの目の前で、封筒を粉々に破り捨てた。
おじさんがさっきぼくに言おうとしていたことは何なんだろう? と、ぼくはドリルで釘を打ち込むチュイーンという音をBGMに、狭い部屋の中をぐるぐる回りながら考えていた。おじさんは、今日会社を休んでまで、家の郵便受けを釘づけにすることに意義を見出しているようだ。
ぼくの考えていた通り、あの手紙はホグワーツからの──ホグワーツ魔法魔術学校からの入学案内書だった。
でもおじさんがあの時言った『思い出したのか』というのは、一体どういう意味なんだろう?
今まで十年ちょい……もうすぐで十一年になろうとするぼくの生涯、記憶を失ったことも、それを取り戻したことも、断言できる、ない。でもおじさんは『思い出したのか』と確かに言った。
それは何が主語だった? ……ホグワーツのことだ。
すると、ぼくは……?
「……わけわかんなくなってきた」
半ば思考することを放棄して、床に座り込むと昨日途中になっていたオーディオの修理に取り掛かる。手を動かしながら、今日のバーノンおじさんとの話はハリーにしないぞ、と心の中で呟いた。
どうしてかは、分からないけど。
言ってはいけない気がした。
その日ぼくは初めて、ずっと一緒に生まれ育ってきたハリーに隠し事をした。
金曜には、十二通もの手紙がきた。
郵便受けに入らないので、ドアの下から押し込まれたり横の隙間に差し込まれたりトイレの小窓からねじ込まれたり……なんだろう、ここまで来ると、絶対に読ませるという差出人の強い意思がひしひしと伝わってくる。
おじさんは今日もまた会社を休むと、玄関と裏口のドアの隙間という隙間に執念深く板を打ち付け、間違っても手紙がねじ込まれることがないようにした。
これで手紙は入ってこなくはなったが、しかしこちらからもあの板を剥がさない限り出られはしない。
夏休み中のぼくらや専業主婦のペチュニアおばさんはいいとしても、バーノンおじさんは仕事をどうするつもりなんだろう?
土曜日。二十四通の手紙が卵の中に隠され届いた。むしろここまで来たら、差出人の悪意というか悪戯心というか、いやお前実は結構楽しんでんじゃないの? という気持ちが透けて見えるような気がしなくもない。
バーノンおじさんは郵便局と牛乳店にクレームの電話を入れ、ペチュニアおばさんはミキサーで手紙を粉々にした。
「おまえらなんかに、こんなにメチャメチャ話したがっているのはいったい誰なんだ?」
ダドリーが驚いてぼくとハリーに問い掛けた。少なくとも普通の神経を持ってる奴じゃないことは確かだね、とぼくは肩を竦める。
「僕らだってそれが誰なのか知りたいよ」
ハリーは苛立ち混じりに答えた。
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