九月一日。日本では、入学式や始業式などは四月に行われるのが通例だが、ここイギリス──というよりも、欧米諸国は九月始まりが基本らしい。
イギリスに来る前に、小学校の友人とはお別れの挨拶はしてきたのだが、それでも短い人生の中、彼らと過ごした時間の割合は大きい。新しい環境に足を踏み入れることに対するドキドキワクワク、高揚感はもちろんあるけれど、それ以上に誰も知る人がいない異国の地ということで、不安感がそれ以上に勝るのだ。おまけに言葉が通じないときた。気が滅入らない訳がない。
「秋、こっちこっち。九と四分の三番線はこっちだよー」
そんなぼくの気持ちを歯牙にもかけずに、母はどんどん先に進んで行く。カートは父が引いてくれているので荷物はないが、どうにも人が多く、小柄なぼくはすぐに人に流されてしまう。それでも頑張って両親に追いつくと、両親は切符も確かめずに足を止め、九と四分の三番線はここだと断言した。
「はぁ?」
思わずぼくの口から疑いの言葉が漏れる。ここだ、って、目の前は煉瓦で出来た壁なんですけど。というか、九と四分の三番線って何? なんで分数入ってんの?
眉を寄せ父を見上げると、父は「いや、別にお前をからかって遊んでいるわけじゃないんだよ」と、慌てたように両手を振った。うーん、怪しい。母はぼくの両手を取ると、さりげなくカートを握らせた。父に聞いても埒が明かない、そう思い母に矛先を変え、口を開きかけたその時。
「実際自分でやってみるのが一番だよ」
言うが早いか。
あろうことか母はぼくの背中を思い切り押したのだ。ぼく一人だったら煉瓦にぶち当たる前に自力で止まっただろうが、ぼくの手には先程母に握らされたカート。慌てて思いっきり後ろに引っ張るも、加速がついたカートは子供の体重ごときではほとんどその速さを変えず。
気付けば目の前には煉瓦。
来たる衝撃に備えて、ぼくは身体を強張らせ、目をぎゅっと瞑り──
「…………あれ?」
しかし待てども衝撃は訪れず。恐る恐る目を開けたぼくの目に真っ先に飛び込んで来たのは、紅色の蒸気機関車。思わずぽかんと目と口を開けたぼくの肩に、ぽんと手が乗せられた。
「言った通りだろう?」
振り返ったそこには、まるで悪戯が成功したことを喜ぶような、無邪気な父の満面の笑顔。ぼくは大きく息を吐いて、肩を落とした。
「……心臓に大変よろしくない……」
ホームの上には『Hogwarts Express,11 o’clock』と文字が書いてある。このくらいの英文ならばぼくにも読めるぞ。『ホグワーツ行き特急は十一時出発』って意味か。時計を確かめると、出発まではまだまだ時間がたっぷりあった。道理で、プラットフォームにはまだ人が少ない訳だ。
「まずは空いてるコンパートメントを探さなきゃだね。この時間なら人もまだあまり来てないし、大丈夫でしょ」
空いているコンパートメントは、程なくして見つかった。重いトランクを押し上げていると、後ろから父がひょいと手助けをしてくれた。あんなに重いトランクを軽々と持つだなんて、ぼくも父くらいの歳になれば、出来るようになるのだろうか。
機関車──ホグワーツ特急に乗り込み、コンパートメントの中から窓を開けると、母はコンパートメントの中を覗き込み、目を輝かせてキョロキョロと見回していた。
「母さん、ホグワーツは父さんと母さんの母校なんでしょ? この蒸気機関車だってコンパートメントだって、見慣れたものなんじゃないの?」
「秋、歳月の流れというのは残酷なものだよ」
母が珍しくも真顔で断言する。う、と思わずたじろいだ。父も感慨深げな声を漏らしている。
「……外見はあんまり変わってないよな。せいぜいペンキ塗り直した程度かな」
「あ、でもほら、中身はちょっと違うみたいだよ。ほら、私たちの時はこんな上等な座席じゃなかったもん」
それからしばらく、両親はぼくが目の前にいることも忘れ「懐かしいー」だの昔語に突入しだした。会話に入れないぼくは、両親の会話をBGMに、外に身を乗り出すとプラットフォームを眺める。先ほどよりも、人は随分と増えたようだ。たくさんの荷物を抱えた人やらふくろう、猫、ヒキガエルといったペットやらでごった返すプラットフォームは、物珍しくて見ているだけでも面白い。そういえば、入学案内書には『ふくろう、または猫、またはヒキガエルを持ってきてもよい』と書いてあった(正確には父に読んでもらった、だ。ぼくは英語が読めないから)。
ペットかぁ……ぼくは昔から、何故だか動物に嫌われる性質で、小学校の頃に見学に行った動物園では驚くほどに切ない結果をもたらしたことがある。そんなぼくにはハナからペットなんてものには縁がないのだ……動物、好きなんだけどなぁ。
ぼんやりと人を見ていたぼくは、ふと聞こえた金切り声にその方向を向いた。幼い女の子二人が、何やら言い争っている。金髪の子と赤毛の子だ。姉妹なのか友達なのか、顔立ちがほとんど似ていないので見分けが付きにくいが……でも何を言っているのかさっぱり分からない。赤毛の少女の手にはカートが握られているが、金髪の少女の方は軽装だ。金髪の少女の方が年上らしいのに、ということは姉妹の片方だけが魔法使い──いや、魔女か。そうか、そういうこともあるのか。さぞかし苦労しそうだ。
やがて金髪の子は、赤毛の子に向かって何事かを吐き捨てると、赤毛の女の子に見せびらかすように両親の元へ駆けて行った。赤毛の子は、ひどく傷ついた顔をしてその場に立ち竦んでいる──
その時、ピリリリリと笛が鳴った。そろそろ発車するのだ。赤毛の女の子は、一人トボトボと汽車の方へ歩いて行く。
「あ、もうこんな時間だね。じゃあまたね、秋。クリスマス休暇に帰っておいで」
母の声に、ぼくは女の子から視線を反らした。
「分かったよ、母さん」
「大変だろうけど、頑張れ、秋。どの寮に入れられたか、手紙を書いて送ってくれ」
「手紙ってどうやって送るの? 父さんたち、日本に戻るんでしょ? ふくろうでも海を渡るのは厳しいと思うけど……」
そもそも、ぼくが望んだとして、ふくろうはぼくの言うことを聞いてくれるのだろうか。しかし、大丈夫、方法はある、と父は胸を張った。ぼくは首を捻る。
「今度その方法でお手紙送るから、それを真似てくれたらいいんだよ」
汽車がゆっくりと滑り出し、両親の姿がコンパートメントの中から見えなくなる。ぼくは慌てて窓から上半身を乗り出すと、両親に向かって手を振った。父と母は、ぼくに向かってにっこりと笑うと揃って親指を立てる。『グッドラック』ってことか。
汽車が角を曲がると、二人の姿が見えなくなる。それでもまだ窓の外を眺めていると、不意に背後から声が聞こえた。ぼくは慌てて振り返る。
小柄な少年だった。肩まで黒髪を伸ばし不機嫌そうな顔でこちらを見ている。サイズの合わない大人用のコートを羽織っているため、すごく不格好に見えた。
「……──……?」
男の子はぼくに聞き取れないくらいの早口で何かを言い、隣の席を指差す。うーん、つまり、座ってもいいかって聞いてるのかな?
「あ、いいよ……じゃなくて、OK」
「…………」
彼は小さな声で何事かモゴモゴと呟くと(多分Thank youと言ったのだろう)ぼくの向かい側に座るとすぐさま着替え始めた。多分一刻も早くその不格好な服を脱ぎたかったのだろう。
ぼんやりとその子の着替えているところを見ていたら、何見てんだという目で睨まれた。ぼくは慌てて目を反らす。折角だし、ぼくも着替えてしまおうと上着を脱ぎ、ローブを身につけた。
……うわ、何と言うか、やっぱり『違う』ところに来たんだなぁと感慨に浸っていると、先程の少年は着替え終わった途端にコンパートメントの戸を開け、すぐさま外へ出て行ってしまった。どうやらここには、荷物置き場兼着替えに来ただけらしい。
残された荷物とおざなりに畳まれた洋服を見ながら、このコートに縮ませ魔法でもかければマシになるのではないかなぁとふと思う。しかし、杖を取り出しかけたところで、やっぱり止めとこうと元通りに杖を仕舞い込んだ。人のものだし、やるならその人の許可を取らないと……そしてぼくは、許可を取るのになんて言ったらいいか分からない……。
はぁ、とため息をついて、ぼくは手荷物の中から英語の教材を取り出した。今日中に全て覚え込んでしまいたい。意気込んで単語をぶつぶつ唱えていたとき、ガラリとコンパートメントの扉が開いた。ぼくは顔を上げ、さっきの男の子が帰ってきたことに少し驚く。そして──ぼくは目を見開いた──さっき見かけた赤毛の女の子が、男の子の後ろに佇んでいた。
その子の手を引きながら、男の子は入って来る。男の子は女の子を自分の隣に座らせると、またもなにかしらぼくに呟き、用は済んだとばかりにそっぽを向いた。それを受けて、女の子はぼくににっこりと微笑みかけ、ぼくにいくつか言葉を発した、ような気がした。
『ごめん、ぼく、日本から来たから英語が話せないんだ』
絶対使うだろうからと念入りに覚えた例文が、口をついて出る。少女はへぇ、と驚いたような顔をし、男の子の方も女の子ほどではないにせよ小さな反応を零した。
『じゃあ、簡単な英語なら分かる?』
『……少しは』
驚いたことに、この女の子はぼくとコミュニケーションを取ろうとしているようだ。確かに、単語を区切り一音一音はっきり発音するだけで、さっきまでよく分からない音でしかなかった英文も、きちんと聞き取れ理解することが出来た。感動ものだ。
ホグワーツに着くまで、ぼくら三人は拙いでも自己紹介をした。まず、ぼくが少しでもきちんと聞き取れるようにはっきり発音してくれるほど優しい赤毛の女の子は、リリー・エバンズ。興味なさそうなそぶりをしながらも、リリーに適切なフォローを入れる黒髪の小柄な少年は、セブルス・スネイプだと名乗った。
ぼくが理解できるまでリリーは何度も根気よく教えてくれ、おかげでまともに自己紹介が済んだ時には、窓の外が真っ黒に染まっていた。
◇ ◆ ◇
日曜の朝、バーノンおじさんはやつれた顔で、しかし嬉しそうに朝食の席についた。
「なんで、今日はおじさんの機嫌がいいんだろ?」
「日曜は郵便の配達が休みだからじゃない?」
ハリーは落ち込んだ様子で答えながら、スクランブルエッグを作っていた。しかし内心荒れてんだろうなーってことが、乱暴に卵を掻き混ぜる後ろ姿で分かり、思わず苦笑いをする。
おじさんは、郵便が来ないという事実に大いに満足しているのだろう、パンと間違えて新聞にマーマレードを塗っていることにも気付いていないようだ。
「今日はいまいましい手紙なんぞ──」
そう言った瞬間を見計らったかのように、暖炉から手紙が何枚も何枚も降ってきた。それらは、まるで手紙自身に意思があるかのように、自由自在、縦横無尽に部屋中を飛び回る。その数に一瞬呆然と突っ立ったぼくとハリーだが、ハッと気付くと大チャンスとばかりに手紙に飛び付こうとした。しかしバーノンおじさんも負けてはおらず、「出て行け、出て行くんだ!」と叫びながら、ぼくらの腰のあたりを捕まえて廊下に放り出す。
床と接触したところを擦りながら、ぼくらが体勢を立て直していた頃、おじさんとおばさん、それにダドリーも廊下に避難してきた。
おじさんはキッチンへ続くドアを入念に閉めると、ドアに背を向け全員を見回す。
「これで決まりだ」
おじさんは平静を装おうとしていたが、弾みで口ひげを半分ほど引っこ抜いてしまった。目撃したぼくは思わず噴き出し掛け、息を止めて身を震わせる。
「みんな、出発の準備をして五分後にここに集合だ。家を離れることにする。着替えだけ持ってきなさい。問答無用だ!」
そう言ってみんなを睨みつけたバーノンおじさんの形相は凄まじく、ぼくは笑いを堪えるのに手で口を押さえなければならなかった。
それから十分後、板を張り付けていたドアをこじ開けると、ぼくらは車に乗り込み、高速道路やら田舎道やら山の中やら、まさしく色んな場所を走り回った。
「一体どこに向かってるんだろう?」
何度目かも分からない急カーブを切った時、ハリーがぼくに囁いた。
「さあね……おじさんにも、分かってないのかもしれない……」
一日中走りに走った後、車は大きな町はずれの陰気なホテルの前でやっと止まった。信号以外では初めて停車したんじゃないか。車内でダドリーが泣き喚くのに閉口していたぼくは、やっと解放された、とホッと胸を撫で下ろした。
ダドリーとハリーとぼくは、三人まとめてツインベッドの部屋に放り込まれた。双子だから、という意味の分からない理由で、ハリーと二人同じベッドで眠ることを命令されたぼくらだが、それもいつものことなので気にしない。まだ身体も小さいから、大人用のベッドに二人でも苦しくはないのだし。
「ハリー、寝ないの?」
ハリーは窓辺に腰掛け、じっと下の通りを眺めている。ダドリーの高いびきを聞きながら、ぼくはハリーに問いかけた。しかしハリーは、ぼくに生返事をするばかり。どうやら物思いに沈んでいるらしい。
諦め一人、ぼくはベッドに潜り込むと、肩までシーツを引っ張り上げた。
さて、今日は一体、どんな夢を見るのだろうか。
次の朝。ホテルの食堂で朝食を摂り終わった頃、ホテルの女主人がぼくらの元へとやってきた。困惑した表情で、一通の封筒を振りながらも口を開く。
「ごめんなさいまっし。ハリー・ポッターとアキ・ポッターという人はいなさるかね? 今しがた、フロントにこれとおんなじもんがそれぞれ百ほど届いたがね」
ハリーとぼくは手紙を掴もうとしたが、おじさんはすかさずぼくらの手を払い退けた。
「わしが引き取る」
ぼくらの恨みがましい視線を背中に受けながら、おじさんはさっと立ち上がると、女主人に付いて食堂を出て行った。
「パパ、気が変になったんじゃない?」
おじさんは海岸近くで車を止めると、一人で姿を消してしまった。その隙に、と、ダドリーは哀れっぽくペチュニアおばさんに訴える。
「今日は月曜だ。今夜は『グレート・ハンベルト』があるんだ。テレビのある所に泊まりたいよう」
雨粒が、車の屋根を打つ音が聞こえる。雨が降り出したのだ。ぼんやりとフロントガラスを叩く雨を眺めていると、はっと何かに気付いたように、隣に座っていたハリーが身じろぎをした。どうしたの、と目で問い掛けると、ハリーはぼくの肩に頭を乗せ、ぼくの耳元に近付き囁いた。
「ぼくらの誕生日。明日だ……」
あっ、とぼくは思わず声を上げた。ぼくの声に、ペチュニアおばさんが苛立ちを含める視線をこちらに投げ掛ける。ぼくは慌てて愛想笑いを浮かべた。その時バーノンおじさんが上機嫌で戻ってきたため、おばさんはぼくから上手い具合に意識を移した。ホッとする。
「申し分のない場所を見つけたぞ。来るんだ。みんな降りろ!」
おじさんの号令で車から下りる。
七月だというのに、外はとても寒かった。ダドリーからのお下がりのTシャツは、半袖のはずなのにぼくが着たら七分丈のようになってしまう。今まで散々いまいましいと思っていたそのTシャツに、たった今初めて感謝した。
おじさんは海の彼方に見える島を──島? 岩の間違いか──指差している。小さな掘っ建て小屋がちんまりと乗っかっている島だ。もしかして、今夜はここで一晩を明かすのだろうか。……いや、思ってないよ? 別にすげぇ楽しそう! とか思ってませんよ?
「今夜は嵐が来るぞ!」
バーノンおじさんの言葉に目を輝かせたのは、どうしてだかぼくだけのようだ。いや、だって楽しそうじゃないか。小さな無人島に一つの洋館(はさすがに無理だけど)、そして嵐。まるで殺人事件が起こりそうな雰囲気。名探偵に会いたい。
「このご親切な方が、船を貸してくださることになった」
こちらによたよたとした足取りで近付いてきたよぼよぼのおじいさんは、不気味に笑みを浮かべながら、木の葉のように浮かんでいるボロ船を指差した。更によし! と、ぼくは舞台道具が増えたことにこっそりガッツポーズをする。
そうすると、次の日の朝はきっと、起きたら誰かが殺されていて、きゃー! と生き残った人たちは我先に船置き場まで走っていくのだ。しかし、船は前日の嵐で流されてしまっていた、という、まさしく最高のシチュエーションが堪能出来る、ということだ。その場合、死体となっているのはぼくらの中の誰かなのでは? というツッコミには耳を貸したくはない。
「……アキ、もう皆、先に行っちゃったんだけど」
「ぅあ!」
気付けば辺りにはハリー一人。おじさんたちはもう、随分と遠くまで行ってしまっている。少し妄想の中に潜り込み過ぎたようだ。
「ぼく、誕生日にこんなレアな経験出来て嬉しいよ……」
みんなに追いつくよう小走りで前を行くハリーに、ぼくは幸せ一杯な表情で呟いた。ハリーは一瞬信じられないものを聞いたとばかりに目を見開くと、頰を引き攣らせながら言う。
「……アキのセンスは、十年間ずっと一緒にいたぼくにも理解出来ない……!」
「えっ、ぼく、そんな変なこと言った?」
「何と言うか……ははは」
ハリーは力なく笑いながら、ぼくから顔を背けた。
「食料は手に入れた。一同、乗船!」
船の中は、さすがに凍えそうなほどの寒さだった。それには閉口したが、しかし寒さ以外は楽しい人生初の船旅であった。しかし、ここでも目を輝かせているのはぼくだけのようだ。皆は寒さで辺りを見る余裕もないらしい。勿論、ぼくも凄く寒い。寒いのも暑いのも苦手なのだ。ハリーに後ろから抱きつき、暖を取る。その際ハリーから上がった声には、聞こえない振りをした。温もりにはぁ、と息を吐く。ハリーはこちらを振り返ったが、何も言わずにぼくの好きにさせてくれた。
船から降りると、広がる光景に目を瞠った。
「あれが小屋……かぁ……」
嵐でも来たら屋根吹っ飛んでいくんじゃない? と訝ってしまうほどのボロ家だ。近くへ行けば行くほど、そのオンボロさに自然とため息が零れる。
中は、外見通りというか、かなり酷かった。どこにいても隙間風は吹いてくるし、暖炉は湿っている。寒がりのぼくとしては、結構きつい。どうして七月で寒さに震えなければならないのだろう。
バーノンおじさんが用意した食料(ポテトチップス一人一袋、バナナ五本)を無言で食べる。おじさんはポテトチップスの袋に火を付けようとしたが、燻ってチリチリと縮んだだけだった。それでもぼくは、小さな暖かさを求めて暖炉の前に陣取った。
「今ならあの手紙が役立つかもしれんな。え?」
おじさんが楽しそうに笑う。ぼくは大きく頷いた。どうせ読めない手紙なら、煮るなり焼くなり好きにして構わないし、むしろ暖炉の炎となってくれた方が、今のぼくには嬉しい。それでもハリーは、不満げに眉を寄せた。気持ちは分からないでもないけど、寒さには耐え切れないんだよ、ごめんねハリー。
夜になると、嵐は今まで以上にひどく、その威力を増してきた。おじさんとおばさんはダドリーのためにソファの上にベッドを作り上げると、自分たちは奥の部屋のベッドに収まってしまう。一方ぼくらといえば、せいぜい床の柔らかそうなところで、薄くボロい毛布一枚に苦労して二人潜り込み、お互いの体温でどうにかして暖まろうと四苦八苦するという。なんだこの格差。
「寒いね……」
「そうだね……」
あまりの寒さに眠れるわけもなく、ぼくらは誰も起こさないくらいの囁き声で、他愛のない話をし合った。
「あと十分で、僕らの十一歳の誕生日だ」
ハリーが、蛍光塗料で針が光るダドリーの腕時計を見つつ言った。
「去年の誕生日のプレゼントは何だったっけ?」
「僕、コートを掛けるハンガーとおじさんのお古の靴下だったよ」
「ハンガーはまだ使ってるけど、おじさんの靴下は使い道ないよね? もしかして履いた?」
「まさか。アキへのプレゼントは確か、ヘアゴム一個だったっけ?」
「そう。あの時はよし勝った! って思ったなぁ」
「どうして?」
「だって、ぼくにヘアゴムをくれたってことは、この髪を認めてくれたってことでしょ?」
まぁヘアゴムは使ってないけどね、と言いながら、ぼくは笑って髪を解いた。黒髪が肩に流れる感触を感じる。
「髪、長くなったね」
「でしょ?」
「でも、どうしてそんなに長くするのにこだわるの?」
「……、願掛け、かな?」
「願掛け?」
「そう。幣原秋に近付けますようにって」
理想なんだね、とハリーは呟いた。そう、とぼくは頷いて、ちらりとダドリーの腕時計を見る。
──あと五分。
「……ねぇ、何か今、外で軋まなかった?」
ハリーが少し怯えた声で囁いた。ぼくは耳を澄ませる。
「屋根が落ちてくるのかも」
「もしかして、そっちの方が暖かかったりしてね」
ぼくはふふっと笑った。
「……ねぇ、バースデーケーキ、作ろ」
「え? でも、どうやって?」
きょとんとするハリーに、ぼくは指で地面の砂に大きく楕円を描いた。納得したようにハリーは頷くと、文字の部分を書き始める。その間に、ぼくはケーキの土台を描いた。
最後に十一本の蝋燭を描いたところで、ダドリーの腕時計がピピピと鳴り、時刻が変わったことを──ぼくらの誕生日が来たことを知らせてくれた。ぼくらは顔を見合わせて笑うと、声を揃えて言う。
「「ハッピーバースディ、ハリー、アキ」」
軽く手を合わせた。
「今年の抱負は?」
「今よりいい生活を送る」
「そんなのすぐ叶うさ」
「アキは?」
「幣原秋の手がかりを見つける」
そんなのあるの? とハリーが怪訝そうに尋ねた。さあね、とぼくが返した次の瞬間──
ドーンッと大きな音に、小屋中が震えた。
ぼくとハリーは一瞬で飛び起きる。その音の発信源であるドアを見つめ、身構えた。
誰かが、ドアをノックしている。
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