俯いて病室に入って来たリリーに、ぼくは声を掛けた。リリーは顔を上げると、大きく目を見開き、口元に手を遣った。
「リリー」
彼女の緑の瞳が、揺らいで潤む。本当に、彼女は優しい子だ。ぼくは静かに微笑んだ。
「リ……」
ぼくの言葉は、そこで途切れた。リリーに勢いよく飛び付かれ、勢い余って背後のベッドにダイブする。わ、と驚くも、ぼくを抱き締めたリリーは、小さく震えて泣いていた。
「秋! 秋……っ、ごめんなさい、私っ、もっと早く、あなたに……ごめん、ごめんね、秋……」
「……大丈夫、だから。落ち着いて、リリー」
リリーの赤い髪を撫でると、ベッド脇の椅子に座っているセブルスと顔を見合わせ、笑った。
「久しぶり」
これから、よろしくね。
「仲直りの証に、もう一度自己紹介をしましょうよ!」とリリーが提案したことで、ぼくらは再度自己紹介をすることになった。別に喧嘩をしていた訳じゃないので仲直りという表現は当て嵌まらない気もするけれど、でも言いたいことはなんとなく伝わった。
「じゃあまず私から! 私はリリー・エバンズ。一月三十日生まれで、寮はグリフィンドールよ。そうね、後は……」
「秋、言っておくがリリーはかなりの変人だ」
横からセブルスが口を挟む。ぷうっとリリーは頬を膨らませた。
「私、変人じゃないわよ!」
「どうだか。普通の子は『流れ星を捕まえに行こう!』と言って虫取り網持って木に登ったり、ブランコで空まで届くか何回も実験したり、カエルの卵をポケット一杯に持ってたりしない」
うっ、とリリーが言葉に詰まった。言い返せないらしい。……カエルの卵ポケットにって、まさか……ね。うん、深く考えないようにしよう。
「……さて。じゃあ次は僕の番だな。僕はセブルス・スネイプ、スリザリン寮だ。誕生日は一月九日、趣味は読書と、魔法薬学を少々。リリーと違って、至ってまともな──(リリーに頭を叩かれる)──失礼、至って常識人だからな」
「苦手なことは飛行術って、言わなくていいのかしら? セブ」
「うるさい!」
意趣返しとばかりにリリーがからかい混じりの言葉を掛ける。セブルスは微かに赤くなってそっぽを向いた。からかわれるほど苦手らしい。
「ほら、次、──秋の番だ」
セブルスが顔を背けたまま促す。と、リリーが身を乗り出してぼくの顔を覗き込んで尋ねた。
「え、というか、今気付いたんだけど……秋、私達が何言ってるか、分かってる? あっ、もし理解出来てなかったならホントにごめんなさい! あぁもう、なんで私は人の気持ちに気付けないんだろ……」
「あ、いや、大分分かってるから、大丈夫」
リリーが目に見えて萎んでいくのに、慌てて手を振った。と、二対の瞳がぽかんと見返してくる。
「……え?」
「だから、君達が何言ってるか、分かってるから」
話すのはまだ慣れていないため、頭の中で英文を思い浮かべてからになるから、少し反応速度は遅くなるけど。
「えっ、速……!? 半年で一つの言語をマスターなんて出来るの!?」
「いや、マスターは流石に出来ないよ。ごまかしごまかしで流してる感じ」
「それでも、相当な努力だよ」
セブルスが腕を組んで頷く。リリーがキラキラした目でこっちを見ているのが、なんだかくすぐったい。
「……言われてみれば、ちょっと妙な発音とかアクセントとかあったわね」
「あぅ、やっぱり……?」
自分では分からないものである。やっぱり外国語って難しい。
「秋、自己紹介しよ」
リリーが優しく促すのに小さく頷いて、ぼくは心の準備をすると、息を吸う。
「……えっと、幣原秋、レイブンクロー寮です。誕生日は十月十五日で、好きなことは読書、で、えっと……」
ぼくは躊躇って二人の顔を交互に見つめると、小さな声で呟いた。
「出来るなら、だけど……これからも、ぼくと仲良くしてください……」
堪え切れなくなって、思わず俯く。なんかすごくこっぱずかしいことを言った気がする。多分耳まで真っ赤だろう。
「……馬鹿」
と、そこで頭をげんこつで軽く殴られた。殴った張本人であるセブルスは、眉間に皴を寄せ、不機嫌そうに目を細めている。
「そんな当然のこと、今更改めて尋ねる馬鹿がいるか」
「……あは。ごめん」
「セブの言う通りよ! ねっ、秋。私達はこれから、ずっと一緒なんだもの。そうでしょう?」
リリーが拳を握って熱弁する。
二人の反応が何より嬉しくて、思わず涙が出そうになった。
堪えて、笑う。
「そうだね。……ずっと一緒、だよね」
『ずっと一緒』。
信じて疑うことのなかったこの言葉が壊れるのは、しかし、そう遠くはない日であった。
◇ ◆ ◇
「土曜日の夜零時っていう約束を変えることは出来ないの?」
「うーん、チャーリーにふくろう便を送る暇はないだろうし、確かに危険を冒さなきゃいけないけど、所詮マルフォイだ。違うかい?」
ハリーの言葉に、ぼくは苦笑いを浮かべた。
ノーバートのパック詰めを運ぶハリーとハーマイオニーを見送ってから、ぼくとアリスは目配せし合うと駆け出した。スリザリン寮の前で、ドラコを足止めするためだ。ハリーはああ言ったけれど、万が一ということもあるし、ハリーとハーマイオニーを退学になんてさせてたまるか。幸いドラコには、この計画にぼくとアリスまで加わっているということは知られてないのだ。
「スリザリンって何処だ!」
「そこの階段下って、地下!」
よぅし分かったと叫んで、アリスは手摺りを掴み──ってえええないだろそれは! ──勢いよく手摺りを飛び越え、空中で身を翻した。遅れて着地音。慌てて階下を見下ろせば、すでにアリスの姿は見当たらず、ただ走る音が聞こえるだけだった。
「ねーよそりゃ……」
どこのアクションヒーローだよ。
当然ぼくにはそんな芸当は出来ないので(当たり前だろ!)、ごくごく普通に階段を駆け降りる。地下牢の奥、迷路みたいな廊下を抜けて、スリザリン寮の入口に辿り着けば、アリスは既にそこにいた。白い湿った石が並ぶ壁の前で、眉を寄せ不思議そうにこつこつと石を拳で叩いている。
「……なぁアキ、ここが──」
「そうだよ」
走って乱れた息を整えながら、言葉を発した。
「スリザリン寮だ」
ふぅん、とアリスは頷き、ぼくに訝しげな顔を向けた。
「……で、なんでお前は余所の寮の場所を知ってんだよ。……まさか合言葉まで知ってる、とか言うんじゃねぇよな」
「まさか」
ぼくは曖昧に笑って目を逸らす。アリスが不審げにじと目を向けてくるのが怖いなぁ……。
「ま、ここでマルフォイの野郎を待てばいいんだろ?」
「そゆこと」
ぼくらは壁に寄り掛かり、ドラコが出て来たら飛び掛かろうと寮の入口を睨みつけた。三分待って、十分待って、十五分待って、三十分待って──
「……なぁ、もう零時十分過ぎたんだけど」
「おかしいな……」
絶対出てくると思ったんだけど、アテが外れたようだ。首を捻りつつも、壁に近寄りそっと触れる。少し考え「純血」と呟いた。ありえそうな単語を続ける。
「サラザール、勝利、蛇語、──狡猾」
途端にするするするっと石の扉が出てきた。音もなく開いた扉の先、談話室には、もう真夜中だというのに談笑しているスリザリン生が伺える。その中に、一人で本を読んでいるアクアマリン・ベルフェゴールがいて、思わず胸が高鳴った。自然を装い談話室へと入り彼女に近付くと、そっと後ろから小さな声で話しかけた。
「ドラコっている?」
「……っ!? 幣原……じゃない、ポッター……どうして、ここに」
普段氷のような無表情でいる彼女は、珍しいことにその顔に驚愕の色を滲ませた。何かを言いたげに、じっとぼくを見つめている。小さく笑って、ぼくは人差し指を唇に当てた。あまり目立つ真似はしたくない。
「ごめんね、話せば長くなるんだ、またの機会に。ねぇ、ドラコって今どこにいるか知っているかい?」
彼女は静かに首を振った。嫌な予感が胸を過ぎる。
「……三十分ほど前に出て行ったわ……夜に出歩くのは規則違反だから止めてって言ったのに」
やはり入れ違いだったか。奥歯を噛み眉を寄せた。これからどうしようか、どうやって追おうか。行き先は分かっているが、先回りの方法を。脳みそを回転させ、策を練る。
「……分かった。ありがとう」
「あっ……」
踵を返したぼくの袖を、彼女はパッと引っ張った。その手は反射的に伸ばされたもののようで、慌てたようにすぐさま離される。少し残念だなと思いながらも、ぼくは振り返った。
「どうしたの?」
「……えっと、あの。……ドラコは、多分、天文塔に向かってる。……あなたも、早く帰らなきゃ、先生に見つかったら、大変だから、ええと……」
彼女自身、何を言えば良いのかよく分かっていないような口ぶりだ。だがしかし、言いたいことは伝わった。思わず微笑んで、ハリーにするのと同じように頭を撫でようとし──手が止まる。
誤魔化すように自分の頬を掻いて、一歩下がった。
「ありがとう」
口元に笑みを浮かべて、応える。
「でも、行かなくちゃ」
ハリー達のためにも、ハグリッドのためにも。
彼女に背を向ける。彼女はもう、何も話しかけては来なかった。談話室から転がり出れば、そこには呆れた顔でぼくを見つめるアリスの姿が。
「お前、そんなに簡単に余所の寮の合言葉を……」
「ドラコはもう寮を出てる。すれ違いになったんだ、きっと」
アリスの言葉を遮り、早口で告げた。アリスの顔色が瞬時に変わる。
「……行くぞ」
詳しいことは何も尋ねずに、アリスは促す。うん、と頷き、ぼくらは駆け出した。
深夜徘徊を今まで教師に見つからなかったのは、ひとえにアリスのおかげだった。直感と危機察知能力は、軽く常人を凌駕している。一体どこでそんな能力が培われたのだろう、いつか聞いてみたいものだ。
だから、アリスが他のことに気を取られてしまったら、ぼくらはどうしようもない訳であり。
……この状況も大いに仕方がないかな、なんて思ってみたりもするのだ。
順を追って語ろう。
「いたテメェマルフォイ! お前何面倒事生み出してやがる馬鹿野郎!」
「っ、フィスナー!?」
天文台の階段の辺りで、ぼくらは無事にドラコを発見することが出来た。ホッと足を緩めるぼくと反対に、アリスは一気にスパートを掛け、叫びながらドラコの背中を蹴飛ばした。哀れ、ドラコは顔面から勢いよく地面に倒れ込みそうになるが、すかさずアリスがドラコの首根っこを掴んで引き戻す。ひぇ、と思わずぼくの喉から小さな声が零れた。なんだあれ、こっわい。
「テメェ分かってんだろうな、自分が何してるか。あ?」
ドラコはしかし、苦しそうに咳き込んでいて(背中蹴られたのだから当然だ、しかも蹴ったのはアリスだし)到底話が出来る状態ではなかったのだが、それに構うことなくアリスは詰問を続ける。酷い奴だ。
「アキの兄貴を陥れようとでもしたんだろうが、残念だったな。……何とか言ったらどうだ?」
「アリス、ちょっとストップ、落ち着こう」
あまりにもドラコが可哀想だ。二人の間に割って入ると、アリスからドラコを引き剥がす。ドラコは床に転がり、しばらく咳き込んでいたが、しばらくすると起き上がってアリスを激しい瞳で睨みつけた。
「フィスナー……そうか、アキがいるから、お前もポッターに肩入れするんだろう。つくづくお前は、僕とは合わない」
「奇遇だなお坊ちゃん、俺もお前とは合う気がしねぇよ」
「その呼び方をするな!」
……この二人、実はかなり仲悪い?
ため息を吐いた。「君が入るとごちゃごちゃする」とアリスを押しやると、床に尻餅をついているドラコと目線を合わせ屈み込む。
「ねぇドラコ。ぼくにとってハリーは、唯一の家族なんだ。ハリーがいなかったら、ぼくは何も出来ないよ。ハリーを退学にしようとドラコが企んでいたのなら、ぼくは悲しいな」
「うっ……い、いや、別に、退学にするつもりじゃ……」
「ドラコ」
「…………え、と」
「ね?」
「……わ、悪かった」
よろしい。ドラコがごめんなさいが言える良い子で良かった。
「……じゃあお前たちは、あの森の番人が何を育てているか知ってるのか?」
「一応は。アリスに特に懐いてるんだ」
「あぁ、フィスナーは妙な奴にばかりモテるからな」
「酷いなぁ」
今の言葉に僅かなトゲが仕込まれていた気がしたんだけど、気のせいかな?
「ドラコ、ぼくとしては、あのパック詰めを上手いことロンの兄さんに運べたらそれでいいんだ。ね? だから、寮に帰ってくれないかなぁ?」
「パック詰め?」
ドラコが首を傾げた。
「そうだ、帰れ帰れ」
「何をっ!」
「あーもうほら、喧嘩しないの」
はっ、とアリスとドラコは、お互い鼻を鳴らしてそっぽを向く。一体、どうしたもんかねぇ。
「とりあえず、もう寮に帰ろう。あんまり歩き回ってたら、見つかる可能性も高くなるし」
「あ……あぁ、そうだな」
言いながらも、ドラコはまだ未練がましそうに辺りを見回している。ほら、と頭を叩いて立ち上がらせると、ぼくらは見回りの教師に見つからないように物音を潜めて歩き出した。
「……フィスナー、お前、クリスマスに家、帰らなかったそうじゃないか」
「……だからどうした」
思い出したようにドラコが話題を出す。それに眉間の皴を深くしながら、アリスが声を低めて返した。
「家の人達は、てっきり帰ってくるもんだと思ってたらしい。……いい加減、大人になるべきだ」
「お前には関係ないだろ」
アリスの声に怒気が混じる。触れられたくないところのようだが、家の話みたいだし、どうも入れない。
「いつまで引きずってんだよ。意地の張り合いなんて、親とするもんじゃない」
「……うるせぇよ」
「だいたい、お前は……」
「うるせぇっつってんだよ!」
「アリス!」
ぼくが叫んだ時には、もう遅かった。既にアリスは、ドラコの胸倉を掴んで壁に押し付け、殺意のこもった眼差しで睨みつけていた。
「テメェが知ったような口利くんじゃねぇよ! これは俺の問題だ! 俺と家との問題だ!!」
「アリス、止めっ……」
割って入ろうと手を伸ばしたが、アリスの方が早い。胸の辺りを蹴り飛ばされ、思わず尻餅をつく。手加減しているのだろう、大して痛くはなかったことが、ちょっぴり悲しかった。
「お前に俺の何が分かんだよ! 俺はもう、あの家には堪えられねぇんだよっ!!」
「っ、お前もアクアと同じだ! 理由も中途半端に親を、家を嫌う! それらと真剣に向かい合おうともせずに!! 所詮は臆病も」
ドラコの声は、そこで途切れた。アリスがドラコの喉に指を食い込ませたのだ。アリスの目が細く眇められる。
一瞬で、辺りの空気が変わった。ぴりぴりと肌を刺す空気。
──殺意。
「止めろ!!」
鋭く叫んだ。無意識に抜いていたのだろう、左手には杖の感触が。杖先から、パチンと大仰に火花が弾けた。久しぶりの、魔力の雫。
アリスとドラコが、驚いたようにぼくを見た。
「……止めろ、アリス。やり過ぎだ。ドラコも、アリスがこの話題を嫌いなこと、分かってたはずだろ」
「……わーったよ」
ぼくの乱入によって頭が冷えたか、正気を取り戻したように、アリスはドラコの首から手を離す。ドラコはずるずると廊下に座り込むと、喉に手を当て小さく咳込んだ。
「……悪かったな、マルフォイ」
「いや……僕も、無神経だった」
決まり悪いように目を逸らして、アリスが呟く。ドラコも、それに応えるように軽く頭を下げた。ほっとした空気が流れた、その瞬間。
「何事ですか!!」
遠くからマクゴナガル先生の声が響く。ぼくらは揃って飛び上がった。
「今の声はアキ・ポッターですね!? お待ちなさい、動くことのないように! 他にも誰かいるのならば大人しく!」
うわ、バレてる。しかもぼく名指しかよ。
咄嗟に辺りを見回した。人一人隠れられそうな大きさの掃除用具入れを少し離れたところに見つけ、慌ててアリスの手を引っ張る。まだ混乱しているのか、いつもより動きが緩慢なアリスを無理矢理突っ込むと、杖を向けた。
「……悪く思うなよ。……Petrificus Totalus」
アリスを『凍結』させると扉を閉め、目くらまし呪文を掛ける。それから大急ぎでドラコの元へと戻ると、ドラコの手を掴んで引っ張り起こした。辺りを見回すが何もない、せいぜい窓が並んでいるくらいか。こんな高い塔で窓の外にしがみつくなんて正気の沙汰じゃない。仕方ない、ドラコは道連れだ。一緒に罰則を受けようじゃないか。
……別にアリス贔屓だとか、そんなんじゃないけど。まぁ、いつも一緒にいる方に肩入れしちゃうのは当然だよね。
アリスがマクゴナガル先生に見つからないよう、小さな声で複雑な呪文を唱えながら、ぼくは肩を竦めて目を閉じた。
ハリー達は、無事にノーバートを送ることが出来ただろうか。
疲れで左手の力が抜けて、杖が、ぼくの手から滑り落ちた。
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