図書館の、禁書の棚の隣は、ぼくが半年間ずっと占領し続けた指定席だ。教師くらいしか滅多に立ち入らず。また教師も生徒がうじゃうじゃいる真昼間に図書館に訪れる気にはならないだろう。という訳で、普段は立ち入る人もおらず静かなものだ。しかし、今日だけは違った。
「秋、そこ間違ってるぞ。『時計回り』じゃない、『反時計回り』だ」
「ありがと、セブルス。えっと……?」
「綴りはこう……あとそれは……それはnか?」
「え、n、だよっ」
「癖字を直した方がいいわね、秋」
「そ、そんなに酷い……?」
いつもは四人掛けを一人で占領しているのだが、今日は慎ましやかに一人分の場所だけ。隣でリリーが、正面にセブルスが、それぞれこちらに身を乗り出してはぼくの勉強の進み具合をチェックしてくれている。
「あ、ごめん。今、何て?」
リリーの言葉が聞き取れず、慌てて聞き返した。リリーは仕方ないわねと言いたげに笑いながら、羊皮紙の端を引き寄せると、伝えたい言葉を書き記す。
いや、今日だけじゃない。明日も、明後日も、これからずっとずっと先も、ぼくらはこうして一緒に試験勉強や、ううんそれだけじゃない、色んな時間を積み重ねていくんだ。
それが、何よりも嬉しいと感じた。
◇ ◆ ◇
ノーバートのパック詰めを送るために、ぼくらは随分と多大な犠牲を支払ったようだ。チャーリーにノーバートを送ったハリーとハーマイオニー、そして何故かネビル・ロングボトムも見つかり、ぼくとドラコも合わせれば、この夜にベッドを抜け出した一年生は五人、アリスも含めれば六人だ。先生方の心労お察しする。
ぼくの──レイブンクロー寮の減点は二十点。だがしかし、この程度ならば授業で頑張れば取り返しの効く点数だったから、少しホッとした。寮の皆も「まぁ、アキちゃんならいいか」の一言で許してくれたし。……その真意が少しばかり気になるところではあるのだが。
聞くところによれば、ハリー達は一人当たり五十点も減点されてしまったらしい。ぼくも、大広間前のグリフィンドール寮の点数表示を見て、何かの間違いなんじゃないかと目を疑ったものな。三人とも物凄く落ち込んでいた。だって、あのハリーがぼくを見ても抱き付いてこないし駆け寄ってもこないのだ。本人達の落ち込みようを感じ取る。
アリスは、しばらく気まずそうにぼくと距離を置いていたが、しかし時間と共に少しずつその距離が縮んでいるのを感じるので、元に戻る日もそう遠くはないだろう。このまま何もなければ、の話だが。
そして、まぁ往々にして、タイミングの悪いことはそういう『ちょっと良くなった?』と思った頃合いに訪れるもので。不幸に憑かれているぼくとハリーは特に。
だから。
「おーいアキ! お前に罰則のことで手紙が来てるぞ!」
と、朝、大広間に姿を見せた途端叫ばれた言葉に、アリスが小さく呻いて頭を押さえたのは、まぁ当然のことであった。
「なぁ、今から俺も自首していいか?」
「何バカなこと言ってんのさ、ラッキーだったと思いなよ。それじゃ、行ってくるからね」
それでもまだうだうだと言っているアリスの背中を、一発思い切り叩く。
夜十一時。冬の寒さも段々と和らいできたが、夜はまだ冷え込む。ぶるりと身震いをして、コートの襟を引き寄せると、アリスに固く結ばれたマフラーを手繰った。
こんな夜遅くから罰則って、一体何をさせられるのだろう。考えるも、途中で思考を放り投げた。どうせすぐに突きつけられることになるのだし。その代わりに幣原のことを考えながら歩いていると、いつの間にか玄関ホールに到着していた。ぼくが最後だったようで、フィルチにハリー、ハーマイオニー、ネビル、そしてドラコと勢揃い。慌ててハリーの隣に並んだ。
「着いて来い」
ぼくが来たことを確認して、フィルチはランプを手に外へと繰り出した。ぞろぞろと、フィルチの後を追う。
ハリーは黙ってぼくの手を掴むと、ぎゅっと握った。その手は存外に冷たい。
「規則を破る前に、よーく考えるようになったろうねぇ。どうかね?」
フィルチは厭味っぽい口調で嘲った。うーん、と首を捻る。ぼく、あんまり悪いことしたって自覚はないんだけどね。何も行動を起こさず、ハグリッドがこっそりドラゴンを飼っていたことが発覚する方が恐ろしいし。そんなぼくの内心をさて置いて、フィルチはうっとりした口調で語り続ける。
「あぁ、そうだとも……私に言わせりゃ、しごいて痛い目を見せるのが一番の薬だよ──昔のような体罰が無くなって、全く残念だ。手首を括って天井から数日吊るしたもんだ。今でも私の事務所に鎖は取ってあるがね……万一必要になった時に備えて、ピカピカに磨いてあるよ──」
ネビルがヒィッと怯えた声を漏らした。フィルチはそれに、随分と満足したようだ。
その時、ぬっとハグリッドの巨体が現れた。大きな弓矢と、それにファングを連れている。ファングはぼくの存在にいち早く気付いたようで、既に牙を剥いて威嚇体勢だ。切ない。
「フィルチか? 急いでくれ。俺はもう出発したい」
ハグリッドの声に胸が踊る。ハリーも嬉しさを示すように、ぼくの手を握る手に力を込めた。しかし、そんなぼくらの表情を読んだのか、フィルチは意地悪く笑う。
「あの木偶の坊と一緒に楽しもうと思っているんだろうねぇ? 坊や達、もう一度よく考えた方がいいねぇ……君たちがこれから行くのは、森の中だ。もし全員無傷で戻ってきたら私の見込み違いだがね」
「森だって? そんなところに夜行けないよ……それこそいろんなのがいるんだろう……狼男だとか、そう聞いてるけど」
ドラコが恐怖に震える声を上げた。ネビルなど、今にも泣きそうだ。フィルチのニヤニヤ笑いが深くなる。
「そんなことは今さら言っても仕方がないねぇ。狼男のことは、問題を起こす前に考えとくべきだったねぇ?」
果たして本当に、森に狼男がいるものなのだろうか。満月の日以外はただの人間と変わらないんじゃなかったっけ? あれ、でもそれは何かあったような……。
うーん、と考え込んでいると、ハグリッドの苛立ったような声が降って来た。
「もう時間だ。俺はもう三十分くらいも待ったぞ。ハリー、アキ、ハーマイオニー、大丈夫か?」
ぼくらが頷くと、ハグリッドはにっこり笑顔を浮かべた。それを見て、フィルチが殊更冷たく声を掛ける。
「こいつらは罰を受けに来たんだ。あんまり仲良くするわけにはいきませんよねぇ、ハグリッド」
「それで遅くなったと、そう言うのか? 説教を垂れてたんだろう。え? 説教するのはお前の役目じゃなかろう。お前の役目はもう終わりだ。ここからは俺が引き受ける」
おぉ、ハグリッドが格好良い。でも元を辿れば、ぼくらが捕まる原因となったのはハグリッドがドラゴンの卵なんて貰ってくるからで……分かってるのかなぁ?
フィルチが捨て台詞を残し、城に帰って行く。それを見て、ドラコが縋るような瞳でハグリッドを見つめた。
「僕は森には行かない」
「ホグワーツに残りたいなら行かねばならん。悪いことをしたんじゃから、その償いをせにゃならん」
ハグリッドが厳しい口調で諭す。ハハ、と力なく笑った。
でも、たかが夜の森に入るだけなのにそんなに怯えるなんて。しかしそう思っているのは、どうやらぼくとハリーだけのようだ。他の誰もが、不安と恐怖で青褪めている。
ぼくは努めて明るく笑うと、手近にいたドラコの背中を勢いよくぶっ叩いた。転び掛けたドラコは「なっ、何をする!」とパッと振り返る。
「何怖がってんのさドラコ!」
「怖がってなど!」
「じゃあその顔は何だー、ビビっちゃってー」
頬を引っ張ろうとすれば「止めろ!」とドラコはぼくから逃げた。緊張はすっかり溶けたようだ。見れば、ぼくとドラコの微笑ましい戯れにハーマイオニーはクスクスと笑っているし、ハリーとネビルはどこか驚いたようにこちらを見ていた。
「だいたいさ。ここにいる皆、ぼくの呪文学の成績知ってるよね? それなりの危険から皆を護るくらいは出来るつもりだよ。だから大人しく終わらせて、早く寮に帰って寝よう。ね?」
胸を張って笑い掛ける。毒気を抜かれたように、ドラコはこくりと頷いた。ハグリッドに目配せをすると、ハグリッドは『よくやった』と言わんばかりにぼくの背中を叩く。衝撃で、膝がカクンと抜けた。
「よーし、それじゃ、よーく聞いてくれ。なんせ、俺たちが今夜やろうとしていることは危険なんだ(ハリーがぼくの手を握る手に力を込めた)。みんな軽はずみなことをしちゃいかん。しばらくは俺に着いて来てくれ」
ハグリッドにくっ付いて、ぼくらはぐるりと森の外周を歩いた。やがて森の外れに辿り着くと、ハグリッドは立ち止まり、森の中へと続く小道を指差す。
「あそこを見ろ。地面に光った物が見えるか? 銀色の物が見えるか? |一角獣《ユニコーン》の血だ。何物かに酷く傷つけられたユニコーンがこの森の中にいる。今週になって二回目だ。水曜日に最初の死骸を見つけた。皆で可哀想なやつを見つけ出すんだ。助からないなら、苦しまないようにしてやらねばならん」
「ユニコーンを襲ったやつが先に僕たちを見つけたらどうするんだい?」
ドラコはぶるりと身震いをした。
「俺やファングと一緒におれば、この森に住むものは誰もお前達を傷つけはせん。道を外れるなよ。よーし、では二組に分かれて別々の道を行こう。そこら中血だらけだ。ユニコーンは少なくとも昨日の夜からのたうち回ってるんじゃろう」
ハグリッドの声は真剣だ。あの綺麗な生き物が、何物かに傷つけられて痛みに足掻いていたなんて。
──一体、誰がこんなことを?
ハグリッドはぼくらを二つのチームに分け、そして手分けして捜索を開始した。ぼくと同じチームには、ドラコとネビル、そしてファングだ。今にも泣き出しそうなネビルにマフラーの端を掴まれながら(締められないかとヒヤヒヤする)、ユニコーンの血を辿って森を歩く。ファングの手綱はドラコの手にあり、ちなみにファングはずっとぼくを見て唸りっぱなしだ。全くもう。
「父上が、僕がこんなことさせられていると知ったら何て言うか……」
ドラコがぶつぶつ呟きながら、危なっかしい足取りで木の根っこを乗り越えた。もしかしたら、まともに外で遊んだこともないのかもしれない。お坊ちゃんだし。
「ネビル、大丈夫?」
「うん……平気だよ」
ネビルは青褪めてはいたが、ぼくの言葉に笑顔を返した。きっと素直で優しい子なのだろう。ネビルとは初めて話したのだけれど、仲良くなれそうで嬉しい。
「それに、僕、君のこと知ってたもん」
「え?」
「レイブンクローに、すごく魔法が得意な一年生がいるって。ハリーが、それは僕の弟なんだよって、よく自慢してるよ。すごく可愛くて頭が良くて優しいって」
ハリー! なんて恥ずかしいことを吹聴してくれているんだ! ここが暗くて良かった。顔が真っ赤になっているのを見られずに済む。
「あー……えっと、その……それ、本当?」
「うん。自慢の弟だって」
「……そっか」
自慢の弟、か。
──ごめん、ハリー。
一瞬でも、ぼくはハリーの弟ではないんじゃないかと考えた、あの日の自分を恥じる。
紛れも無い、ぼくだけが、ぼくこそが。
──ハリーの、弟。
それが、何よりも嬉しいと感じる。
「アキ!」
突然、マフラーの端を引かれた。カジュアルに首を締められ、思わずもがく。
「ネビル、マフラー離してっ!」
あああごめんねっ! とネビルがわたわたとぼくのマフラーから手を離した。咳き込み、喉をさすりながらじと目でネビルを睨む。
「ネビル……」
「ごごごごめんっ! でもほらそこ、なんかいる……っ」
思わず息を呑んだ。慌ててネビルが指差した方向に目を凝らす。杖を抜いて眼前に構えた。
しゅるしゅると、何か布のようなものを引き摺るような音が聞こえる。遅れて目が、暗がりで蠢く何かを見つけた。杖を向けながら、それが何かをじっと観察し──
「うわあああぁぁああああ!!!!」
ネビルの絶叫が響いた。何事か振り返ろうとしたところで、『それ』はぼくらの存在に気が付いたように音もなく離れていく。
「わぁああああああ!!!!」
ネビルの絶叫は続く。『それ』を追うべきか迷ったが、しかしネビルを見捨てるわけにはいかない。
「ネビルっ!? どうした大丈夫か!?」
ネビルはパニックに陥り泣き叫んでいる。両手を広げると、ネビルをぎゅっと抱きしめた。落ち着かせるように背中を叩きながら、全身を検分する。怪我はしていないようだ、ならどうしたのだろう?
そこで、何やら挙動不審なドラコを発見した。すぐさま勘付く。
「おーい、ドラコ」
低い声で名前を呼ぶと、ドラコはバツが悪そうな顔で肩を竦めて近寄ってきた。ちょいちょい、と手招きしてぼくの手が届く範囲にまで近付かせると、容赦なくドラコの頭を叩く。
「アリスに言い付けないだけ感謝してよね」
「悪かったってば……」
ガサガサッと木の枝が擦れる音に少し身構えたが、ハグリッドだった。ネビルが打ち上げた赤い火花に気付いたらしい。
ドラコを叱り付けてから、ハグリッドは組分けを変更した。ぼくとハリーとドラコとファング、という組になる。ようやくパニックから回復したネビルをハグリッドに預け、ぼくらはさらに森の奥へと向かった。
道は徐々に険しくなり、ついには道を辿ることも出来なくなる。飛び散っている血はだんだんと量を増していて、銀色の血を見るたびに胸騒ぎがした。
大きな樫の木が林立している奥、開けた平地に、それはあった。
純白に光り輝いているそれは、月の光を浴びて一層神々しい。こんなに美しい生き物を、初めて目にした。畏怖すら感じる神格を持つ生き物、それが無残に殺され、横たわっている。
吸い寄せられるように一歩を踏み出したハリーの足が、ふと止まった。咄嗟にぼくの前に立ち塞がる。どうしたのだろう、とハリーの肩越しを覗き──滑るような音に、思わず凍りついた。
暗がりの中から、全身をフードに包んだ何かが地面を這ってくる。真っ黒なその影はユニコーンに近付くと、傍らに身を屈めた。跪いて頭を近付ける。その唇が血に触れたことで、頭を殴られたような気分になった。
──ユニコーンを殺した理由。
まさか、血を飲むためだったのか!?
そんな魔法生物はこの森にはいない。とすれば他所から紛れ込んで来たのだ、この結界に縛られたホグワーツの中に、邪悪な存在が。
一体、どうして、どうやって。
ユニコーンを殺し、清廉な呪いを受けても構わないと思うような、そんな奴は一体誰だ。
こんなの、ぼくらじゃ太刀打ち出来ない。
「ぎゃああああァァァ!」
ドラコが絶叫して踵を返した。その後をファングが追う。
フードに包まれた影が頭を上げ、ハリーを真正面から見つめた。その影は立ち上がると、ハリーに向かってするすると近付いてくる──
慌ててハリーの前に出た。影に杖を向け、叫ぶ。
「Stupefy!」
赤い光線が、一直線に影へと飛んで行く。しかし影が軽く腕を払っただけで、魔法は打ち消されてしまった。そのことに思わず息を呑む。
背筋に寒気が走った。
影はぼくらに背を向けると、するすると木立の向こうに消えて行く。ゆらゆらと闇に紛れ、やがて完全に見失ってしまった。
「ま……待てっ!」
叫ぶが、もう遅い。
呆然と木立の奥を見据えて立ち竦んだぼくの手を、誰かが引いた。ハリーだった。ぼくの手も冷え切っていたが、ハリーも負けず劣らず冷たかった。
「い……今の」
「…………」
ハリーに、上手く言葉を返せない。
713番金庫からハグリッドが持ち出したもの。ニコラス・フラメル。賢者の石。三頭犬。ハロウィンの時に見た光景。
そもそもどうして、ダンブルドアは学校に賢者の石を持ち込んだんだ。グリンゴッツに置いておいたら盗まれてしまう、それを危惧したからだ、一体誰に? 一体誰に? 一体誰に?
賢者の石。生命増幅機。命の水。
ユニコーンの血を飲み呪われてまで、生き永らえたいと願う、その人物は一体誰?
この学校に、一体何が迫っているというんだ!?
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