「秋! 急いでってば!!」
「うぅ、ごめんリィフ……先行っていいよ!」
手を忙しなく動かしながら叫ぶと、リィフは仕方ないといいたげにため息を吐いた「遅れんなよ!」と言葉を残し、友人数人と共に部屋を出て行く。賑やかな話し声が遠ざかるのに、ほっと息をついた。
レイブンクロー男子寮。の一室で、ぼくは折角詰めたトランクの中身をひっくり返すという、まるで自分で掘った穴を埋め直しているかのような、身体というよりもむしろ心にクる作業に執心していた。目的は……。
「……髪紐、どこだよぉ……」
荷造りをした時に紛れた髪紐を探すため。
「どうして昨日、髪解いたままで作業したかなぁ……!」
昨日の自分に怒りをぶつけてみるも、時既に遅い。
いつもあるものがない、という事実は、いいようもない不安感をもたらす。違和感じゃない、不安感なのだ。
「なんでないのさぁ……」
独り言が口をつく。泣きそうだ。
「……ん?」
トランクの底に到達した時、何やら手に固く冷たいものが触れた。掴んで引っ張る。
銀色に鈍く光るそれは、ロケットのようだった。まだ新しい。指先で摘んで持ち上げる。チャラリ、とチェーンが擦れる音がした。
「……誰の?」
初めて見た。というか、ぼくは一つたりともこんな装飾品の類は持っていない。髪紐は除いてだが。
何気なく、蓋を押し開けた。
「……あ」
思わず、声が出た。
それは。
『秋へ。君はいつこのロケットの存在に気付くのか、お父さんと一緒に賭けをしています。ちなみにお母さんは、秋が一年生の間にだから、早く気付いてよね。直さん、私、ケーキがいいなぁ。スイーツバイキングとか素敵だよね』
『えー、早速母さんがもう賭けに勝った気でケーキケーキとうるさいので、もうどっちでもいいかという気分になってきてはいるが、お父さんはお前は気付かない派だからな。気付いても気付かない振りしててくれよ、優しいお前なら出来るはずだ。とりあえず今から母さんをケーキ屋さんに連れていくけど、大丈夫かな……万が一『全部下さい!』とか母さんに言われたら財布の中身が心許ない。あ、ちなみにこのロケットは父さんお手製の自慢作、世界にたった一つだけのものなんだよ。少し早いが、お前の十一歳の誕生日プレゼントとして、お前のトランクの奥の奥ーに放り込んでみました。単純にひっくり返しただけじゃ落ちない細工はしてあります、心配ご無用』
『秋へ。入学おめでとう。英語が分からない状態で放り出したのは、本当にすまなかった。ものすごく苦労すると思う。父さんも大変だったから。でもきっと、それ以上に手に入れられるものがたくさんあるからさ、頑張って欲しい』
『入学おめでとう、秋。知ってた? 学校ってねぇ、勉強するだけの場所じゃないんだよ。いっぱいいっぱい、楽しいこと見つけてね。
友達や先生、素敵な人、あなたの人生に影響を与えるたくさんの人と出会える場所なんだよ。いってらっしゃい』
『秋、ダンブルドアから話は聞いた。お前は全然悪くないんだ。だから、自分をあまり責めるなよ? 今はきっと、すごく辛い時期だと思う。でも、父さん達はお前が誰よりも優しくて強い子だって知ってるよ。いつか分かってくれる子も出来るだろう。クリスマスに帰ってきたら、色んな話をしような』
『秋、辛かったら帰ってきていいんだよ? 帰ってきたら、君が泣き止むまで、ずっとぎゅーってしてあげるから。でも君はきっと、頑張るよって笑うんだろうね。そしたらさ、これだけは忘れないでね。お父さんとお母さんは、いつでも秋、君のことを考えてるからね』
「……ぅわ……」
一体どんな仕組みなんだろう、そこから靄のような小さな固まりが、父と母の声を乗せて届いた。パタンとロケットを閉めると、シュゥッとそれは中に吸い込まれるようにして消える。
気付かなかった。
父さんと母さんの、想い。
ぼくへの、想い。
ぎゅっとぼくは、ロケットを胸に押し当てた。俯いて、目を閉じる。
暖かな想い、何よりも何よりも大切な想い。心がほっとする、想い。
──父さん、母さん。
今、確かに、受け取りました。
帰ってきたら、笑顔で、ただいまって言うね。
待っててね。
やっとの思いで髪紐を捜し当てた時には、学年度末パーティーはもう始まっていた。ドア越しに聞こえる校長先生の声に、躊躇する。
出来るだけ音を立てないように、細心の注意を払い、重たいドアをゆっくりと押し開き、狭い隙間に身体を滑り込ませ──
目の前で爆ぜた閃光に、度肝を抜かれる程驚いた。
慌てて口を押さえ悲鳴を上げそうになるのを堪えると、辺りを見回す。
大広間は大騒ぎだった。数々の色とりどりの花火が、広い大広間を埋め尽くさんばかりに縦横無尽に駆け巡り、こっちで爆ぜあっちで爆ぜ、賑やかな形相を醸し出している。怖がる人もちらほら見えるが、大半の人は面白がるように指差してその花火を見学している。
「レディース、エーン、ジェントルメーン!!」
魔法で拡声された声が響く。若い声、少年の声だ。
「我ら悪戯仕掛人、初のお披露目!! これから学校中を巡る噂の第一人者となるべくして生まれた我らの初の仕事!! 面白いことなら何でも我らにお任せを!! 年中無休二十四時間営業で承ります!!」
グリフィンドールの席で立ち上がり、その少年は杖をマイク代わりにして叫んだ。歓声と笑い、野次、何だあいつ、といった声が乱れ飛ぶ。笑いの渦の、中心の少年。
その、暴力的とも言える圧倒的な存在感に。
思わず、目眩がした。
『ポッター!!!!』
この凄まじい喧噪の更に上を行くかのように、マクゴナガル先生の怒り心頭な声が轟く。瞬時に場が静まり返った。花火も、まるでマクゴナガル先生の恐怖を察したかのように瞬時に地に落ちる。
『後で職員室に来なさい!! いいですね!? ポッターの他にも、ブラック、ルーピン、ペティグリュー!!』
げっ、と少年は肩を竦める。そして苦笑いでまた杖をマイク代わりに持ち直し、口を開いた。
「えー、……そんなこんなで僕らはまた罰則の日々へと戻るということですね。マクゴナガル先生は僕らにとって強敵です。いつか皆で手を取り倒しましょう! それでは、ありがとうございました!!」
わっと歓声と拍手が上がる。そそくさと一礼してテーブルから降りた少年は、あっという間に友人達に囲まれて姿が見えなくなった。ダンブルドア校長が代わって立ち上がる。
「素晴らしい余興をありがとう、ミスターポッター。さあ皆の衆、よく食べ、よく飲み、語るがよい!」
途端、テーブルに溢れ返る豪勢な食事。ガタガタッと席を立つ音に、皆の賑やかな喋り声。
ぼくはレイブンクローをそうっと通り抜け、スリザリンのテーブルでセブルスの姿を探すと、近寄っていった。
「セブルス」
「秋。隣、座る?」
うん、と頷いた瞬間、背中に強い衝撃が走る。慌てて足を踏ん張り堪えると、「だーれだっ?」と楽しげな声が後ろから聞こえた。
「リリー!」
「私も混ぜてくれない? グリフィンドールにいたくなくって」
リリーはちょいとグリフィンドールのテーブルを顎でしゃくると、眉を寄せた。
「あのヒーロー気取りの嫌な奴! 目立ちたがりでちやほやされるのが好きなのよ」
「さっきの人?」
ぼくが尋ねると、リリーは大きく頷く。その瞳には、強い嫌悪の感情が映っていた。珍しい、リリーがこんなに激しく嫌いな人をこき下ろすなんて。
「何かあったの?」
「あったも何も、第一印象から最悪だったわよ。ねぇセブルス? あぁもう、ポッターとブラック! 授業の邪魔はする、何か爆発させるのは日常茶飯事、夜にベッドを抜け出すのは当たり前! あんな問題児、初めて見たわ!」
ぷんすか怒って熱弁を奮うリリー。ぼくはセブルスと顔を見合わせると、小さく肩を竦め合った。そしてリリーの肩を抱くと、スリザリンのテーブルに腰掛ける。
「ま、落ち着いてよ。ほら、折角こんなに豪華な料理があるのに、食べなきゃ損損、ね?」
笑って、リリーの前の皿に料理を取り分けた。そして頭を軽く撫でる。
「……ありがと」
むぅっと不機嫌そうに口をへの字に曲げていたリリーだが、しかしお礼はちゃんと言える子。偉い。
セブルスが頬杖をついて、薄く笑いながら指摘した。
「リリー、今君、相当不細工な面してるぞ」
「なによぉ!!」
瞬時にリリーの拳がセブルスのこめかみを襲う。頭を抱えて悶絶するセブルス。しかしセブルスの言った『不細工』という言葉はやっぱり女の子にとって気になる部分なのだろう、ほっぺたを引っ張ったり押し付けたりして、顔の表情を戻すことに苦心し始めた。
まぁ今はリリーの心を、そのポッターくんとやらから離すことが重要だったから、その点を見れば成功だ。尊い犠牲もあったことだしね。
「……リリーは手癖足癖が悪い……」
セブルスが呻く。リリーは聞こえない振りをしてかぼちゃジュースを煽った。ぼくは小さく笑うと、目を細め、グリフィンドールのテーブルを見つめる。
どこにいるのかすぐに分かる、存在感。人を引き付ける、カリスマ性。
リリーの前では、大きな声じゃ言えないけど、さ。
お話、してみたいな。
友達に、なってみたいな。
小さく呟いたぼくの声を聞いたのは、軽く目を上げてこちらを見た、セブルスだけだった。
◇ ◆ ◇
ハリーを医務室に運び込んだ後、ダンブルドアに一礼すると、ぼくは駆け出した。階段を下ろうと足を掛けたところで、ふと一つの考えが浮かぶ。身体の向きを変えると、塔を駆け上った。
レイブンクロー寮の自室で、目的のものを引っ掴むと、向かうは魔法薬学教室である地下牢──の隣。一度罰則で呼び出された、スネイプ教授の研究室。
ノックをするのもまだるっこしい。ドアノブをぐいと捻ると、施錠されていないことを良いことに、そのままの勢いで飛び込んだ。
何かの調合中だったのだろうか、部屋に据え置かれた大鍋の中身を掻き混ぜていた教授は、突然の訪問者に随分と驚いたようだった。そんな教授に、ぼくは満面の笑顔で挨拶をする。
「こんにちはっ、スネイプ教授!」
「……っ、ポッター、何の用だ……って貴様、その怪我はどうした!?」
「え?」
言われ、自分の格好を見下ろした。
「……あらまぁ」
ローブが埃まみれで、所々に散る白が、黒地に程よい感じのアクセントになっている気がしなくもない。ズボンの膝は破れているし、縛られていた手首は擦れて血が滲んでいる。パンパンとその場でローブを叩けば、スネイプ教授は苛立ったように「違う!」とぼくを睨みつけた。ツカツカと近付いて来た教授に思わず一歩下がるも、構わず手首を掴まれ引っ張られる。
「すっ、スネイプ教授!?」
問いかけるも返事はない。研究室の奥、スネイプ教授の自室に無理矢理引き込まれると、教授はぼくを突き飛ばすように椅子に腰掛けさせた。机の引き出しを開けると、何かを探すように身を屈めている。
殺風景な部屋だった。研究室に置いてあったものよりも、二回りほど小さな机に本棚、それにシングルのベッドが一つ。ベッドの横にはサイドテーブルがあり、本が一冊無造作に投げ出されている。床は、きっと性格だろう、塵一つ、髪の毛一本さえも落ちていない。白いシーツにも皺一つ寄っておらず、まるでホテルかと思うほどに綺麗だ。
──というよりも、何と言うか──そう、この違和感は。
この部屋からは、生活感が極限まで削ぎ取られている。
自身の痕跡を残すことを厭うような、がらんどうの部屋は、確かにホテルそのもので。借り暮らしという雰囲気が漂っていて。
まるでスネイプ教授が、自身の居場所をここだと定め切れていないような、そんな危うさを感じ取った。
「ポッター」
名前を呼ばれ、慌てて正面を向く。と、スネイプ教授はぼくに手を伸ばすと、ぼくの頭をぐわしと鷲掴みにした。途端、目も眩むような激痛が走る。
「痛痛痛痛痛痛痛っ!?!?」
口から零れる、言葉にならない叫び声。指一本すら動かせない程の全身に渡る痛みに、頭の中が真っ白になった。
「ふむ」
スネイプ教授はぼくの頭から手を離すと、ハンカチを取り出し手を拭う。なんだぼくの頭はそんなに汚いって言うのか、とむっとしたが、しかし清潔そうな白いハンカチに赤い染みが付くのを見て、思わずぽかんと口を開けた。恐る恐る自身の頭に触れてみると、鈍い痛みと共にぬるりとした感触。頭を触った手を目の前に掲げて。
「……おお」
「おお、じゃないだろう!? 馬鹿なのかね君は! 自身の怪我くらい把握したまえ!!」
瞬時に厳しく言葉が飛んできた。真実なのでただただ肩を竦めるしか出来ない。
スネイプ教授は白い包帯を手に取ると、手慣れた仕草でぼくの頭に包帯を巻いていく。神経質な教授のことだ、包帯の出来栄えは間違いなくドクター並だろう。ぼくは頭を動かさないように注意しながら、教授を見上げた。そして、怖ず怖ずと口を開く。
「……あの、教授」
「なんだ」
殊更冷たい声が響いた。気圧されないように自分をしっかり持って、息を吸う。
「ハリーを助けてくれて、ありがとうございました」
「……助けたつもりなど、ない」
スネイプ教授の声は、少し掠れていた。ぼくは小さく微笑んで、目を伏せる。
「そう言うと思ってました」
「…………」
教授は何か言おうと逡巡したようだったが、結局口を開かなかった。
それが何故かは、どうしてだろう、聞かなくても分かるような気がした。
「そして──」
ぼくは笑みを浮かべる。小さく頷いて、目を閉じた。
深々と、頭を下げる。
「先日の暴言、すみませんでした」
言葉に、心を込めて。
伝えるんだ、ぼくの言葉で。
「教授は、幣原秋を救ってくれた」
ここで向き合わなきゃ、いつ向き合うっていうんだ。
「闇の中から、掬い上げてくれた」
拒否されてもいい。
怒鳴られてもいい。
避けられてもいい。
伝えなきゃ。
幣原秋の言葉を。
「ありがとうございました……っ!」
更に、深く。
感謝の意を、示すため、ぼくは頭を下げる。
英国にはない、この謝罪の仕方。
日本人の、謝り方。
幣原秋を通じての、知識──
「…………」
無言で──教授は両手の中の包帯を落とした。ぎゅっと拳を握り締め──
「この大馬鹿者が!!」
目の前に火花が散った。
痛みで意識が一瞬飛んだ、これは絶対飛んだ。声にならない叫び声を上げ、頭を抑えて悶絶する。
「包帯巻いてる時に頭下げる人間がどこにいる! 少しは考えろ!!」
「…………」
えー。
そこなのー?
「……ったく、貴様は……」
ぼやきながら、スネイプ教授はぐちゃぐちゃになった包帯を解き、もう一度新たに包帯を巻き始めた。ずきずき痛む頭を抱えながら、ぼくは教授を見上げる。
「……本当、嫌になるくらい、あいつにそっくりだ」
「…………」
「嫌になる。貴様ら兄弟は本当、思い出したくないことまで思い出させる」
馬鹿者が、と、教授は吐き出すように言った。ぼくは小さく笑って、口を開く。
「幣原秋の話、聞かせてください」
何も知らないのは、嫌なんです。
そう尋ねると、スネイプ教授は黙ってぼくを上から下まで眺めてから、ぼくの頭から手を外した。そしてくるりと背を向けると、すたすたと机へ歩いて行ってしまう。
かちゃり、という、鍵の錠が外れる音。がたん、と机の引き出しを開けると、程なく教授は一冊のスクラップブックを取り出した。そして、それをぼくに投げ渡す。
「……あ、あの……スネイプ教授?」
「読みたまえ」
スネイプ教授は不機嫌そうに眉を寄せ、ぼくの手の中のスクラップブックを指差した。
「はぁ……」
小さく首を傾げ、とりあえず言われた通りに表紙を捲る。
「……え?」
慌てて次のページを捲った。
次も、次も、次も。
これは──
「……幣原秋の名前が載った新聞記事、全てがある」
低い声で、教授は呟いた。
「学生時代の時の賞から、あいつが闇祓いに入部した時の記事、その後の様々な手柄まで、全てだ。多分──漏れはない」
「……ありがとう、ございます」
古ぼけ、色褪せた新聞記事。それが、一冊のスケッチブック、最後のページにまで、几帳面に貼ってある。
一人の人間について──ハリー・ポッターのように有名でもない、ただの一般人について書かれた記事は、こうもたくさん集まるものなのか。
──すごいな。
単純に、そう思った。
「さて」
その声に、ぼくは顔を上げる。
ことり、と、デスクの上に白いマグカップを置いた教授は(湯気が立ってるのでたった今注いできたものと思われる。……ぼくにはないのか)、回転椅子に座ると優雅に足を組んだ。
そして、膝の上に組んだ指を軽く置く。
「今度は我輩から質問だ」
「……そう来ると思ってましたけどね」
教授は神経質そうに、組んでいた人差し指を軽く動かしながら問い掛けた。
「一つ目、貴様は何処で、幣原秋の名前を聞いた? 二つ目、貴様と幣原秋の関係は? 三つ目、何故、貴様は我輩と奴について知っている?」
「……あいつは、ぼくの『夢』なんです」
「……どういうことだ」
「どうもこうも、そのままの意味ですよ。幣原はぼくの夢の中の住人でして………あぁ、夢ってのは、夜寝てる時に見るやつのことですけど」
「訳が分からん、一言で言え」
あぁもう、はいはい分かりましたよ。
「ぼくは、夢で幣原秋の人生を追体験しているんです」
だから、スネイプ教授と幣原秋の関係を知っていた。
そう告げると、スネイプ教授は驚いたように少しだけ瞳を見開いた。しかしその表情からは、他の感情は推し量れない。
「……それは、現在進行形でか?」
「ええ。だいたいほぼ同じくらいの速さで時間が流れていて……だから、幣原の『事故』のことも、スネイプ教授と、あとリリー母さんのことも、全部知ってます」
そう、まるで。
実際その場にいたかのように。
「……信じられん話だな」
スネイプ教授はやがて、ゆっくりと呟いた。
「ぼくもそう思います」
小さく頷く。
「……まるで、記憶だけを自分の子供に埋め込んだみたいじゃないか」
「え?」
スネイプ教授がぼそっと何やら言っていた気がして、ぼくは聞き返した。何でもない、と首を振られ、それ以上深入りすることが出来なくなる。
「一つ、ぼくからも質問があります」
ぼくはスクラップブックに目を落としたまま、問い掛けた。
「幣原秋は、今、どうしていますか?」
それは、ずっと前から、気になっていたこと。
気になっていて──でも、誰にも聞けなかったこと。
何となく、察しては、いる。
幣原について語る人の雰囲気、空気、言葉から──何となく、分かるんだ。
でも、もしかして──なんて、
期待、したりもするんだよね。
「……あいつは」
あぁ、そんな悲しげな目をしないでください。
分かった。分かりましたから。
そんな辛い目で、ぼくを見ないでください。
「あいつは、死んだ」
そんな目を、しないでください。
何で、スネイプ教授の感情が想像出来るのだろう。
こんな昏い、虚な、真っ暗で、がらんどうな目なのに。
何で、分かるんだろう。
幣原秋の時代とは違う、感情を悟らせない、虚ろな瞳。ぼくを見ているはずなのに、ぼくを見ていない目。
何でこの目を見て、悲しいって感じるんだろう?
「……ぼくを、見てくださいよ」
思わず、呟いていた。
これなら、あの日みたいに。
あの時みたいに。
思いっきり胸倉掴んで、感情剥き出しの瞳で、刺々しい口調で、
怒鳴られた方が、マシだったよ。
「心を閉ざさないでくださいよ……」
何で、ぼくは手を伸ばしているんだろう?
左手をそっと伸ばして、
まるで、友達にするかのように。
手を差し延べてしまうのだろう?
「ぼくは」
「 」
そこで、はっと我に返った。
今、ぼくは、何を言おうとしていた?
口の中に、言葉の残滓。
慌てて呑み込み、なかったことにした。
「貴様は……」
「いやはいすみませんごめんなさい! 立場弁えていませんでした教師と生徒の壁を乗り越えようとしてましたすみません!」
「誤解を招くような発言は止めろ!」
スネイプ教授は眉間に手を当てると、目をつぶって大きくため息をついた。そして、ぼくにスクラップブックの最後のページを開くように告げる。
「幣原秋が死んだ時の記事だ。あいつは仕事がよく出来たからな。闇の帝王側から相当恨まれてはいたようだが……詳しく調べた結果、事件性はどこにも見当たらなかった」
「……じゃあ、なんで……」
言いながら、最後のページを開いた。見て、思わず呼吸が止まる。
スネイプ教授が、静かに告げた。
「……自殺だ。ビルの屋上から、飛び降りた」
さぁっと、体温が下がる感覚。スクラップブックを持つ指先が、酷く冷たい。
見てられなくて。
でも、目が離せなかった。
──ああ、全く。
予想してたことだけど。
──やっぱり、ショックだ。
『リリー・エバンズ』と『幣原秋』。
ぼくの夢は、今はもういない人達が集う場所なんだ。
「……ありがとうございました。そして……ごめんなさい」
スクラップブックを閉じて、スネイプ教授に戻す。微妙な顔で、教授はぼくからそれを取り上げた。
「帰るのか」
「ええ。アリスが心配してると思いますし。……殴られるかもしれませんけど」
「フィスナーか? 奴なら昨日の昼間、色んな人に貴様の居場所を聞き回っていたぞ」
「あ、殴られるの決定だ」
小さく笑う。
「あ、それと、教授」
ポケットの中に手を突っ込んで、『それ』を手の平に握り込むと、悪戯っぽく笑みを浮かべて教授の前に突き出した。
「手、出してください」
素直に手を出したスネイプ教授に、ぼくは『それ』を握らせると「ぼくがこの部屋から出るまで、開かないでくださいね」と念を押す。ドアまで殊更ゆっくりと歩き──ドアを開けた瞬間、ダッシュした。
「……アキ・ポッター!!」
必死な声が追ってくる。ぼくは大きな声で笑いながら階段を駆け上がった。
「説明しろ! おいっ、どうして分かった!?」
「どうして、クリスマスに秋の髪紐を送ったのが私だと気付いたのだ!?」
声が、段々と遠ざかっていく。
そして──やがて、完全に聞こえなくなった。
「……あはは」
息が苦しい。足がもつれて、ぼくは階段の踊り場で倒れ込んだ。手もまともに付けず、しこたま妙な具合に肩やら膝やら肋骨やらを床で打つ。
きついなぁ。
死にそうだなぁ!
でも生きてるんだよなぁ!
幣原秋と違って、生きてるんだよ!
「……畜生……」
何で、何で、何で。
何で死んだんだよ。
何で、自ら命を絶ってしまったんだよぉ。
悔しいよ。
あいつが、この世界に生きる価値がないと考えたことが。
悔しい。
「お前は……ぼくの、憧れだったんだよ」
手を伸ばしても、届かない。
夢の中の、存在だったのに。
現実に、この世にいた。
生きて呼吸をし、笑い泣き怒り、そして。
ぼくがいるホグワーツで、暮らしていた。
憧れの人の。
背中が、見えたと思ったんだがなぁ。
ぼくの腕は短すぎて。
間を阻むものは強敵で。
届かなかった。
「……何寝てんだ、馬鹿」
怒ったような低い声が、降ってきた。
ぼくは、笑って見上げる。
「……ただいま、アリス」
アリスは眉をよせると、ぼくのそばに膝を降ろした。
そして、ぼくの襟を掴み、引っ張り上げる。
「何やってんだ、馬鹿」
「久しぶりに転んで、自分の駄目さ加減に涙目で落ち込んでました」
「ばーか」
殴ってやろうと思ってたが、テメェの顔見たらやる気なくした。
そうぼやいてぼくを座らせると、アリスは立ち上がった。ぼくは笑って、アリスに手を伸ばす。
「足が動かないから、おぶって」
「……ハァ」
頭の包帯のおかげか、アリスは何も言わずにぼくに背中を向けて屈み込んだ。ありがたく背負ってもらう。
「何か、あったのか」
「……まぁ、ね」
「続きは署で聞く」
「ぶ!?」
「冗談だ」
ぼくは、アリスの背中に頭を埋めた。
「……なぁ、アキ」
「……何?」
アリスは、静かな声で呟いた。
「前、話してたろ。お前の夢の住人『幣原秋』」
「…………」
「聞き覚えあるなと思っていたが、やっと思い出したよ」
「……思い出した?」
あぁ、とアリスは頷く。
「すっかり忘れていた。一度、しかも随分昔にアイツから聞いただけだったから……かつての闇の時代……例のあの人、闇の帝王を打ち砕いた英雄ハリー・ポッター、彼が生まれるまでの仮初めの英雄。民衆に必要とされたために照らされた、偽物の光……」
「闇祓いの異端、『黒衣の天才』幣原秋を」
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