学年末パーティーの次の日──つまり、夏休みに入る前日。先日の試験の結果が発表された。
各寮それぞれ掲示板に張り出され、上から成績の良い順で名前が並んでいる。名前のすぐ隣には、学年全体の順位。また、表の一番下には目立つ赤線が引かれて降り、進級か落第かが区別されている。しかし、落第することは殆どないらしい。その証拠に今年も、誰も赤線の下に名前は書かれていない。
ひとまず進級出来る、ということに安堵したぼくは、自分の順位を確かめるのもそこそこに(真ん中少し下くらいだった)そそくさとレイブンクローの群れから離れた。辺りを見回し、スリザリンの集団から一人ぽつんと離れているセブルスを見つけ、駆け寄る。
「セブルス! どうだった?」
「まずまずだな」
「まずまず? それって一体どのくらいなの?」
その場で弾みを付け、勢いよくジャンプしようとするぼくを、セブルスは慌てて押し留めた。早口で「学年で二位だ。そして飛ぶな、飛んでも無理だ」と言う。それは暗に「お前はチビだ」と言われているのだろうか。分かってはいるけれど、ちょっと虚しい。一般的にはそろそろ成長期が来てもいい頃合いなんだけど。
「って、凄いじゃないか! 知ってはいたけど、さすがはセブルスだね!」
笑顔でセブルスを見上げると、セブルスは何故だか釈然としない表情でぼくを見返した。そしてぼそりと何事かを呟く。聞き取れずに聞き返せば「別に……何でもない」と言われて目を逸らされた。向いた視線の先をつられて追うと、肩と首と背中に重たい衝撃が。
「いっ……リリー!」
「ハァイ、セブ、秋」
ぼくとセブルスの背に飛びついたリリーが、弾けるような笑みを零す。ぼくは踏ん張って耐えたけれど、セブルスは勢いを殺し切れなかったようだ。突き飛ばされ、床に両手と両膝を付いては悶えている。
「あー……大丈夫? セブルス」
薄い背中が心配になり、思わず声を掛けた。あら、とリリーは他人事のように口元に手を当てている。
「あらセブルス! ごめんなさい、大丈夫かしら!」
「リリー、白々しいよ……」
てへ、と可愛らしくリリーは片目を瞑った。その笑顔はとても可愛らしく、思わず全てを許せてしまいそうになるのだが、しかしセブルスはさすが幼馴染だ。立ち上がると、絆されることなくリリーに強烈なデコピンを食らわせる。哀れリリーは瞳を涙で潤ませ、額を押さえた。
「リリーは、成績どうだったの?」
「グリフィンドールで二位よ……学年じゃあ三位だったかな」
「わぁ、凄い頭いいんだねぇ! 二人ともさすが!」
心から拍手を送ると、何故かリリーもまた、セブルスと同じような表情でぼくを見つめた。そのまま無言で数秒佇むと、ふっと憂いが差したような眼差しで目を逸らし、ぼくの肩を軽く叩く。二人とも一体どうしたんだ。
「……えっと、セブルスが二位でリリーが一位……ってことは、一位の人は誰なんだろう?」
ぼくの何の気無しにした問い掛けに、リリーは物凄く嫌そうな顔をした。しぶしぶといった調子で口を開く。
「……ポッターよ」
「え?」
「ジェームズ・ポッター。グリフィンドール一の問題児。魔法薬学で一個単純な間違いをした以外は全問正解。腹が立つわ」
無表情でそう言い放つリリー。ちょっと怖い。ぼくとセブルスは顔を見合わせ、肩を竦め合った。
「何よりテストの点数で彼に負けるっていうのはショックね。負けず嫌いの血が疼くわ」
「……まぁ、自分が一番ではない、ということは若干苛立つことではあるが……」
リリーとセブルスの声を聞きながら、ぼくは辺りを見回した。遠くで何やら騒がしい集団、その中でも殊更輝かんばかりの存在感を見つけ、目を細める。
「……ジェームズ・ポッター。……ポッター」
口の中で、言葉を遊ばせた。
くしゃくしゃとした癖っ毛に、丸い眼鏡。いつか、湖に突き落とされてぐしょ濡れのぼくに対して声を掛けてきた、あの少年だ。
あの時は、ただただ怖かった。全てを見透かされているような気にさせられて、凄く怖かった。
では、今は?
「…………」
気になる人。
でも、遠い。
その距離に、ため息を吐いた。
ぼくが、ぼくなんかが彼と仲良くなるなんて、無理なんだと思い知る。
胸の中で、彼の名前をもう一度呟く。
拳を握り、小さく目を伏せた。
◇ ◆ ◇
スカートが埃で汚れるのも構わず、指を胸の前で組んで、膝をつき頭を垂れる少女。その姿は、例えばここが教会で、ステンドグラスが織り成す美しい光の中、レッドカーペットの上でのことだったならば、問答無用で『絵』になる構図だっただろう。
しかしここは、そんな厳かで厳粛で荘厳な空間ではない。学校であり、薄暗く埃っぽくて──そして、人間が一人命を散らした、場所なのだ。
「やっぱり、ここにいた」
ぼくは、静かに笑った。
彼女は、そっと振り返る。
「……ポッター」
「久しぶり──お嬢様」
ぼくの言葉に、彼女はむっとしたように眉を寄せた。その仕草に、ぼくは目を細める。
三階の廊下を下り、更に先。
みぞの鏡が置いてあった部屋での、お話。
「座ってもいい?」
彼女の隣を指差して尋ねると、彼女はちょっと考えて小さく頷いた。ぼくは、彼女から少し距離を取り腰掛ける。
流れる沈黙が、気まずい。普段無口な方ではないぼくだが、彼女につられてしまい、次の言葉が迷子になっている。そんな気まずさを払拭するように、強いてぼくは明るく尋ねた。
「ぼくを待っていてくれた、とか?」
「……いつ来るか分からないのに、そんな訳ないでしょ」
おちゃらけに、ざっくりと心に突き刺さる言葉が返される。そうだよなー、と項垂れたぼくの耳に「……けど」と前置きの言葉が届いた。
「いつか来るとは、思っていたわ。……そして、あなたと話したいとも、思ってた」
「……ありがとう」
照れ隠しに、笑う。と、彼女は無表情でコートのポケットの中を探った。出てきたのは、ぼくの杖。
「……杖、取りに来たんでしょ」
差し出された杖を受け取った。指先で軽く回すと、手首の力のみで振り上げる。薄いリボン状の光を眺めた後「ありがとう」ともう一度呟いた。
「ねぇ、もう一つ聞いてもいい?」
「……何?」
「ここで、何してたの?」
彼女は、しばらく無言で視線を宙に彷徨わせる。横顔を、ぼんやりと見つめた。
「……笑わない?」
「当たり前じゃん」
その聞き方が可愛らしくて、思わず笑った。彼女はむっと頬を膨らませてこちらを見たが、すぐに小さく俯いた。
「……クィリナスが、ここで死んだじゃない」
「…………」
「……だから、祈ってた。だって、死んだ後に誰からも悲しまれないなんて、そんな悲しいこと、私は嫌なの」
「……うん」
「……私は、決して彼と親しい訳ではなかったわ。……でも、知ってる。覚えてる。初めて会った時、頭を撫でてくれたこと。図書館で本を取ってくれたこと。……忘れない、忘れたくない、だって忘れたら、その人は永遠にいなくなっちゃう。私の元から、離れていっちゃうの」
「…………」
「……ごめんなさい、私、何言ってんのか、自分でも分かってない」
「……いや、言いたいこと、分かるよ」
つまりは、死者への敬意の払い方。どんな人間でさえも、その死を悼む誰かが必要だという考え方。
そして、そんな考え方を確立する程、彼女は身近に『死』を見てきたのだろう。
「……じゃあさ、ぼくが死んだら、君は、祈ってくれる?」
薄い灰色の瞳が、見返した。
「……何それ、自殺予告?」
「違うって!」
「冗談よ」
くすり、と彼女は微笑む。……全く、もう。
思わず、自分の首に手を当てた。襟と髪に隠れているが、まだ青く指の痕が残る首を、服の上から人差し指で撫でる。そっと、襟元を掻き抱いた。
「……祈って、あげる」
「……ありがと」
その言葉一つで、心が救われた気がするのは、どうしてだろう。
──やっぱり、ぼくは。
君のことが、好きみたいだ。
「……君のこと、さ」
「……何?」
「その……名前で、呼んでいい?」
照れ臭くて、目を逸らした。早口で続ける。
「えっと、ぼく、友達はやっぱ名前で呼びたいと思うしさ、ずっと苗字で呼び合うのってなんか他人行儀でヤじゃん、ってまぁぼくらそんなに親しくないかもだけどさ、これから仲良くなりたいっていうか……何というか……その……」
声がどんどん尻窄みに小さくなっていく。恥ずかしくて俯いた。明るい笑い声に、顔を上げる。
「……じゃあ、私も貴方のこと、名前で呼ぶべきなのかしら?」
「あぃ、ぃや、別にっ、そんな……そんなつもりじゃ……」
悪戯っぽい笑顔で、彼女はぼくの顔を覗き込んできた。思わず視線を泳がせ、身を遠ざける。
「……アキ」
「……う」
「耳、真っ赤よ?」
慌てて手で耳を覆った。……うわ、熱い。冷まそうと指で耳を摘む。
「……アキ、可愛い」
「やめてよ……」
あぁもう、ぼく、死ぬかもしんない。だってこんなに心臓バクバクしてるもん。
「……私の名前、呼んでくれるんでしょ?」
「……うー」
知らなかった。彼女ってこんな性格か。あ、いや、もう、彼女ではなくて……。
「……アクア、マリン」
呟いた。と、彼女は頭を振って否定する。
「……アクア。親しい人は、皆そう呼ぶ」
……うわ。やばい。今、きゅんってきた。
「……アクア」
名前を呼ぶ、と、ふ、と嬉しそうに彼女は──アクアは、頬を緩めた。
「……ありがとう、アキ」
「え?」
「……なんでも、ないわ」
そして、すっとアクアは立ち上がる。パンパン、と軽くスカートを払うと、くるりと背を向けた。
「帰る、の?」
「……ええ」
ちょっとだけアクアは振り返り、笑顔を見せる。そして小さく手を振ると、出口へと歩いて行った。彼女の姿が見えなくなるまで見送ってから、ぼくはため息をつく。天井を仰いだ。
「……なんで幣原秋を知ってたのか、聞き損ねたなぁ」
でも、そんな些細なこと、どうだっていいか。
「……アクア」
口ずさんで、照れて笑う。
彼女に一目惚れして、丸一年。
今までずっと足踏みしてきた訳だけど、──ここまで来てやっと、ぼくは最初の一歩を踏み出した。
……よね? そういうことでいいよね?
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