心がたゆたう。
安心感のある心地良さは、例えるならば子供の頃、どこへ行くにも手放さなかったあの柔らかな毛布。大好きだったあの毛布を、持っていなくても平気になったのは、一体いつのことだっただろう。記憶が遠い。
──微かに歌が聞こえる。
どこか懐かしい異国の歌。どこのものかも知れない遠い歌。
それから? ──淡い匂い。
シャボンの泡? 卵焼き? そうじゃない、そんなものでは例えられない。
それでも多分、例えるならば花の香り。淡く儚く、されど凛と麗しい一輪花。
──母さんの匂い。
何かに導かれるように、ぼくはそっと目を開けた。
「……母さん」
歌が止む。
母は柔らかく微笑むと、ぼくの顔を覗き込んだ。澄んだ瞳と目が合う。
「ごめんね、起こしちゃった?」
大丈夫だよ、とぼくは答えた。
「何の歌なの?」
「不死鳥の歌だよ。輪廻の歌。廻り巡る、運命の輪の歌」
はぁ、とぼくは曖昧に返事をした。
母が何を言っているのかよく分からないのはいつものことだ。少し変わった人で、いつまでも子供っぽい。物の捉え方が、ほんの少しだけ他の人と違う。つまりはきっと、マイペースな人なのだ。
「どうしたの? 秋」
ぼうっと母の顔を見つめていると、母ははにかんだように笑って首を傾げた。
「……母さんは」
「ん?」
「母さんは、イギリス出身なんだよね」
言葉が軽い。ふわふわとする。
────眠い。
「そうだよ?」
「……お父さんやお母さんに、会いたくないの?」
しばらくの沈黙。
寝起きでなかったら違和感を抱いたであろう無言の時を、しかしその時のぼくは感じ取ることができなかった。
「お母さんの家族は、秋と直さんの二人で充分だよ」
やがて返ってきた答えに、ぼくは深く考えることなく頷いた。
とろとろと再び眠気が襲ってくる。
「おやすみ────秋」
大好きだよ。
そう言って、母はぼくの額にキスを落とす。そっと微笑んで、ぼくはゆっくりと目を閉じた。
「……あと、何回……」
意識が落ちる直前に感じていたものは、震えた声と、泣き出しそうに歪む顔。
そして、あくまでも優しくぼくの頭を撫で続ける、母の温かい指先だった。
◇ ◆ ◇
「「……っ!」」
ぼくらは咄嗟に後ずさると、扉に背をつけ手を握り合う。階下からは、シナリオ通りのダドリーの台詞が聞こえてきた。
生き物────だった。生き物としか表現できない。長い耳にぎょろりと大きな緑の瞳。背丈はぼくらの胸くらいか。手足は棒のように細く、ボロ布を纏ってベッドの上に立っている。こんな生き物、幣原の記憶を探ったところでお目に掛かったこともない。
その生き物はベッドから飛び降りると、床に額がつくほど深々とお辞儀した。ハリーはおずおずと声を掛ける。
「あ──こんばんは」
「ハリー・ポッター!」
甲高い声に、思わず肩を竦めた。
……絶対今の、下まで聞こえた。
「ドビーめは、ずっとあなた様にお目に掛かりたかった……とっても光栄です……」
「あ、ありがとう」
ドビーと名乗ったその生き物は、ハリーに向かってもう一度深く頭を下げると、ぴょこんとぼくに向き直りゴルフボールのような目をキラキラと輝かせた。
「それから……アキ・ポッター様。お噂はかねがね伺っておりました……お会いできて身に余る光栄です」
「ちょ、ちょっと、なんでぼくの名前を知ってるの?」
ぼくはハリーのような有名人ではない。髪の色くらいしかハリーとは似ていないから、兄弟だということすら誰にも気付いてもらえない。加えて当然、ぼくにこんな知り合いはいない。
ドビーはぼくに対しても深々と頭を下げると、尊敬する人を見つめるかのような熱の籠った瞳でぼくを見上げた。そんな瞳で見られる理由がわからないので、なんだか凄く居心地が悪い。
「アキ・ポッター様は、自分がどのくらい有名なのかご存知ないのです。ドビーめは、あなた様の名前を十年も前から知っておりました」
「……はぁ、どうも」
それはそれは。
ハリーはぼくの手を引っ張ったまま、壁伝いに机ににじり寄ると、崩れるように椅子に腰掛けた。ぼくも机の端に体重を預ける。
ちなみにぼくが近付いたせいで、机の上に置かれた鳥籠の中で眠っていたヘドウィグがパッと目を覚ましては、ぼくに疑り深い目を向けた。切ない。
「えっと……、君はだーれ?」
「ドビーめにございます。ドビーと呼び捨ててください。『屋敷しもべ妖精』のドビーです」
「あ……そうなの。あの……気を悪くしないで欲しいんだけど、でも……僕らの部屋に今『屋敷しもべ妖精』がいると、とっても都合が悪いんだ……あ、知り合いになれて嬉しくないってわけじゃないんだよ。だけどあの、何か用事があってここに来たの?」
「はい、そうでございますとも。ドビーめは申し上げたいことがあって参りました……複雑でございまして……ドビーめは一体何から話してよいやら……」
ドビーは困ったように項垂れた。ハリーは間を持たせるために、ベッドを指差し「座ってね」と優しく告げる。
途端、ドビーはわっと泣き出した。思わず扉に目を向ける。階下の雰囲気が一瞬張り詰めた、ような気がしたからだ。
「す──座ってなんて! これまで一度も……一度だって……」
「ごめんね、気に障ることを言うつもりはなかったんだけど」
慌てて謝ったハリーに、ドビーは涙に濡れた顔を上げた。
「このドビーめの気に障るですって! ドビーめはこれまでたったの一度も魔法使いから座ってなんて言われたことがございません……まるで対等みたいに……」
……なんか、ハリーが何かを言うたびに墓穴掘ってる気がする。
それでも、何とかドビーを宥めてベッドに座らせる。縮こまっている屋敷しもべ妖精を見ていると、なんだか切なくなってきた。
「君は礼儀正しい魔法使いに、あんまり会わなかったんだね」
ハリーが同情を込めて呟く。
こっくりと頷いたドビーは、唐突に立ち上がると「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子!」と叫びながら窓に激しく頭を打ち付け始めた。しこたま驚いて、慌ててハリーと二人がかりでドビーを止める。
「一体どうしたの?」
「ドビーめは自分でお仕置きをしなければならないのです。自分の家族の悪口を言いかけたのでございます」
「君の家族って?」
ハリーは興味津々といった面持ちだ。
「ドビーめがお仕えしているご主人様、魔法使いの家族でございます……ドビーは屋敷しもべです。一つの屋敷、一つの家族に一生お仕えする運命なのです……」
「その家族は、君がここに来てることを知ってるの?」
「滅相もない……ドビーめはこうしてお目に掛かりに参りましたことで、きびしーく自分をお仕置きしないといけないのです。ドビーめはオーブンの蓋で両耳をバッチンしないといけないのです。ご主人様にバレたら、もう……」
ドビーはぶるりと身を震わせた。想像して思わず背筋が寒くなる。
「酷い……」
ハリーも同意見のようだ。ぼくの言葉に小さく頷くと、再びドビーに向き直る。
「君を助けてあげられないのかな? 僕らに何かできる?」
しかし、この質問は軽率だった。ドビーがまたしても感動で頭を打ち付け始めたのだ。
「お願いだから、頼むから静かにして。おじさん達が聞きつけたら、君がここにいるって知れたら……」
ハリーが必死に囁く。ドビーは潤んだ目をぼくらに向けた。
「ハリー・ポッターが『何かできないか』ってドビーめに聞いてくださった……アキ・ポッター様も、お二人が偉大なお方々だとは聞いておりましたが、こんなにお優しいとは知りませんでした」
「……誰に聞いたの、それ?」
思っていたより随分と冷たい声が出た。ドビーは大きく肩を震わせる。
「それって、君のご主人様が言ってるのかな? ……誰なの? 一体どうして、ぼくらの話を?」
机から下りて近付いてきたぼくを見て、ドビーは怯えるように一歩下がった。
「あぁ、アキ・ポッター様。お聞きにならないでください。ドビーはドビーめの意志でここに参ったのです。ご主人様は関係ございません……」
「じゃ、誰かは聞かない。でも、何しに来たの?」
「アキ!」
ハリーがぼくの肩を掴む。ぼくはハリーを振り返った。ハリーが口を開くよりも早く、強い口調で言う。
「嫌な予感、しないかい?」
「え?」
「何かが起こる前兆って言えばいい? とにかく、何かが起こるんだ。そしてそれは──ぼくらの身に、容赦なく降り掛かってくる」
ハリーは黙り込むと、ぼくの顔をじっと見つめた。ぼくも迷わず見つめ返す。
「ハリー・ポッターは、ホグワーツに戻ってはなりません」
ドビーの声が、しんとした部屋に広がった。
「な、なんて言ったの?」
ハリーが呆然と呟く。
「僕、だって、戻らなきゃ──九月一日に新学期が始まるんだ。それがなきゃ僕、耐えられないよ。僕の居場所はアキの隣で、そしてホグワーツなんだ」
しかし、ドビーは激しく首を振った。
「ハリー・ポッターは安全な場所にいないといけません。ハリー・ポッターがホグワーツに戻れば、死ぬほど危険でございます」
「どうして?」
「罠です、ハリー・ポッター。今学期、ホグワーツで世にも恐ろしいことが起こるよう仕掛けられた罠でございます。ドビーめはそのことを何ヶ月も前から知っておりました。ハリー・ポッターは危険に身を
「僕だって、自分の身以上にアキのことが大切だ! なのに、ここに留まらないといけないのは僕一人だって!? なんでだよ!」
痺れを切らしてハリーが叫ぶ。
ドビーと目が合った。縋るような目だった。
「アキ・ポッター様なら……あなた様なら、なんとか止めていただけると思ったのです」
ドビーが囁く。
「あなた様は
「……どういう意味?」
ぼくも囁き返した。
途端前触れもなく、ドビーは叫び声を上げたと思うと壁に頭を打ち付け始める。ぼくらは二人がかりでドビーを引き戻すと、ドビーの腕をしっかと掴んだ。
「言えないのはわかったから! でも、君はどうして僕らに知らせてくれたの? もしかしてそれ、ヴォル──あ、ごめん──『例のあの人』と関係があるの?」
ドビーがまた壁の方へと傾ぐのを止めつつ、ハリーが尋ねる。やがてドビーはゆっくりと告げた。
「いいえ──『名前を呼んではいけないあの人』ではございません」
ドビーはそんな言葉を口にしながらも、瞳は意味ありげに輝いている。ぼくらは顔を見合わせた。
「『あの人』に兄弟がいたかなぁ?」
ドビーは大きく首を振る。ハリーはお手上げだと言わんばかりに肩を竦めた。
「それじゃ、ホグワーツで世にも恐ろしいことを引き起こせるのは他に誰がいるのか、全然思い付かないよ。だってほら、ダンブルドアがいるから、そんなことはできないんだ。君、ダンブルドアは知ってるよね?」
「勿論でございます。アルバス・ダンブルドアはホグワーツ始まって以来の最高の校長先生でございます。ドビーめはそれを存じております。ドビーめはダンブルドアの御力が『名前を呼んではいけないあの人』の最高潮の時の力にも対抗できると聞いております。しかし……ダンブルドアが使わない力が……正しい魔法使いなら決して使わない力が……」
──正しい魔法使いが使わない力。
その意味を察して背筋が凍った。
──ホグワーツで一体、何が。
つい思考に没頭してしまったその時、突然ドビーが電気スタンドを引っ掴み、自分の頭を殴り始めた。慌てふためいてドビーを黙らせるも、ほぼ同時に一階がしんと静まり返る。
「ダドリーがまたテレビをつけっぱなしにしたようですな。しょうがないやんちゃ坊主で!」
おじさんの大声と共に、不機嫌そうな足音がどすどすと近付いてくる。ぼくらがクローゼットの中にドビーを押し込んだ直後、扉が開いておじさんが顔を覗かせた。
「一体──貴様らは──ぬぁーにを──やって──おるんだ?」
おじさんはぼくらを交互に睨みつけると、唸るように怒鳴った。
「日本人ゴルファーのジョークのせっかくのオチを、貴様らが台無しにしてくれたわ……今度音を立ててみろ、生まれて来たことを後悔するぞ。分かったな!」
おじさんが部屋から出て行ったのを確認して、ぼくらはドビーをクローゼットから出した。
「ここがどんなところか分かった? 僕らがどうしてホグワーツに戻らなきゃならないか分かっただろう?」
ハリーは悲壮な表情だ。
「あそこにだけは、僕の──つまり、僕の方はそう思ってるんだけど、僕の友達がいるんだ」
「お二人に手紙もくれない友達なのにですか?」
ドビーが言いにくそうに呟く。え、と思わず声を上げた。
「多分、二人ともずーっと──え?」
ハリーも気付いたようだ。眉を顰めてドビーを見る。
「僕の友達が手紙をくれないって、どうして君が知ってるの?」
ドビーはもじもじと身体を揺すった。
「お二人はドビーのことを怒ってはダメでございます──ドビーめは良かれと思ってやったのでございます……」
「君が、僕ら宛の手紙をストップさせてたの?」
「ドビーめはここに持っております」
ハリーは素早く立ち上がったが、ドビーの方が早い。ハリーの手が届かないところまで逃れたドビーは、着ている枕カバーの中から分厚い手紙の束を引っ張り出した。
「お二人は怒ってはダメでございますよ……ドビーめは考えました……お二人が友達に忘れられてしまったと思えば、もう学校には戻りたくないと考えるかもしれないと。ハリー・ポッターがホグワーツには戻らないとドビーに約束したら、お二人に手紙を差し上げます。あぁ、ハリー・ポッター様、あなた様はそんな危険な目に遭ってはなりません! どうぞ、戻らないと言ってください」
「嫌だ! 僕らの友達の手紙だ、返して!」
「それならドビーは、こうする他ありません」
ドビーは悲しげに呟いた。
瞬間、ドビーの姿が消える。階段を駆け降りて行く足音に、ぼくは慌てて振り返った。ハリーと共に、ぼくも階段を駆け降りる。
キッチンの前でハリーは急ブレーキを掛けた。ぼくも足を止めると、ひょっこりとハリーの横から顔を出し──息を呑んだ。
山盛りのホイップクリームとスミレの砂糖漬けが、天井すれすれを浮遊している。あれはペチュニアおばさんが、今日のパーティーのために丹精込めて作っていたデザートだ。
「あぁ、ダメ……ねぇ、お願いだ……僕ら、殺されちゃうよ……」
ハリーが掠れ声を上げる。戸棚の上に腰掛けたドビーは、ハリーを真剣な目で見つめていた。
「ハリー・ポッターは学校に戻らないと言わなければなりません」
「ドビー、お願いだから……」
「どうぞ、戻らないと言ってください……」
「僕、言えないよ!」
ハリーは大きく首を振る。そんなハリーを見て、ドビーは悲しそうな顔をした。
「では、ハリー・ポッターのために、ドビーはこうするしかないのです」
反射的に左手を伸ばした。
ぼくは杖なしでも魔法を使える。ぼくなら、ドビーの暴挙を止められる。
──でも結局、ぼくは思い切れなくて。
退学処分と一時の叱責を、頭の中で天秤にかけた。
それは間違いなく『正しい』ことだ。
──正しいこと、なんだろうけど。
陶器の割れる嫌な音に、思わず顔を背ける。
自分の計算高さが、格好悪くて情けなかった。
ドビーがバチッと音を立て消える。バーノンおじさんがキッチンに飛び込んで来るまで、ぼくらは呆然とその場に立ち尽くしていた。
なんとかその場を取り繕ったおじさんは、とても立派だったと思う。苦しい言い訳でメイソン夫妻を誤魔化し切ったおじさんは、ぼくらを虫の息になるまで鞭で打ってやると宣言してモップを手渡した。ぼくとハリーはお互いの顔を見ないまま、黙々とモップで床を擦り続ける。
あそこでもっと上手くドビーから話を聞き出せていれば、こんな結末にはならなかったかもしれない──そんな後悔が酷く身に染みた。
しかし、本当の不幸はここからだった。本当にぼくらは不幸に好かれてる、ともすれば憑かれてる。
おばさんが食後のミントチョコを皆に回していた時のことだ。突如食堂の窓から舞い降りた巨大なふくろうは、メイソン夫人の頭上に手紙を落として去って行ったのだ。
メイソン夫妻は悲鳴を上げては、何やら喚きながら家から飛び出してしまった。どうやら滅茶苦茶ふくろうが嫌いだったらしい。遅れてメイソン氏も奥さんの後を追い、おじさん達に文句を言いたいだけ
……あー。
これはぼくら、死ぬかも。
メイソン夫妻に気を取られていたぼくは、おじさんが手紙をぼくらの目の前に突き出すまで、ふくろうが運んできた手紙の存在に気付いていなかった。
思わずハリーを振り返る。待ち侘びた魔法界からの手紙、しかしハリーの表情は蒼白で、喜びの色は微塵も窺えなかった。当然か。
「読め!」
おじさんが凄む。ハリーは震える手でそれを広げた。ぼくは横から覗き込み──不幸はどこまでもぼくらが大好きなことに絶望する。
それは魔法省からの、この家で呪文が使われたことに対する警告の手紙だった。
「お前らは、学校の外で魔法を使ってはならんということを、黙っていたな」
恐怖と絶望で身体が硬直する。頭が氷漬けになったようだ。普段ならいくらでも思いつくであろう上手い言い訳が、今は全く浮かんでこない。
「言うのを忘れたというわけだ……なるほど、つい忘れてたわけだ……」
おじさんは残忍な顔でぼくらに判決を下した。
「さて、小僧ども、知らせがあるぞ……わしはお前らを閉じ込める……お前らはもうあの学校には戻れない……決してな! 戻ろうとして魔法で逃げようとすれば、連中がお前らを退学にするぞ!!」
狂ったように笑いながら、おじさんはぼくらを二階へと引き摺って行く。
それはまるで、商談がご破算になったことに対する八つ当たりのようでもあった。
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