八月の最終週。慌ただしくもぼくら幣原一家は日本を離れ、イギリスを訪れていた。『漏れ鍋』で新学期までの残り日数を過ごした後、ぼくはホグワーツへ、両親は日本へと戻る予定になっている。
……懐かしいな。去年のぼく、この頃は英語に必死だったっけ。英語の学習は今も続けているけれど、正直言って現状は、あの時の熱意からは程遠い。少し慣れが出てきているのだ。気を引き締め直さねばと思うあたり、ぼくってば真面目な奴だなぁと思う。ホグワーツに入学する前、日本にいた頃はもっと不真面目というか、ぽわぽわしてた気もするんだけどな。きっと大人になったんだよ、そういうことにしておこう。
というわけで、今日は家族全員でダイアゴン横丁にてお買い物だ。二回目だから、初めてここに訪れた時ほど落ち着きなくキョロキョロすることはない。ふふん、我ながら大人だなぁ。
「秋! ちゃんとついてこないと
「全く、落ち着きがないのは相変わらずだな」
「…………」
えっと、まぁ。
仕切り直し、と。
「父さんも日本からホグワーツに通ったんでしょ? ならさぁ、この、未知の世界に対するドキドキ感ってのが分かるよねぇ!」
「……え? ……あ、あぁ」
照れ隠しがてら父に同意を求めるも、父は戸惑った顔でどこかぼんやりした答えを返した。あれ? と思わず首を傾げる。父もホグワーツは母校のはずだ。初めて魔法界に触れて驚いたりワクワクしたりとか……しなかったのかなぁ……?
その時、母が何気ない足取りで、ふらっと目の前の露店に吸い寄せられて行った。一瞬きょとんとしたものの、父が「アキナ!」と母の名を叫びながら慌てて母の手を引き戻ってきたことで合点がいった。
「……アキナ、もう君も母親なんだから、そうふらっと消えちゃダメだろ。君の行きたいところにはちゃんと僕もついて行くから、一人で勝手にいなくなるのはやめてくれ」
懇願するような父の口調に、あぁ、今まで何度もこのやり取りを繰り返してきたんだろうなと容易に想像できてしまい、父の苦労が偲ばれる。
「それじゃ、手繋いで歩こうか。懐かしいね、恋人時代に戻ったみたい」
母はそう言うと、笑顔で父に右手を差し出した。父は戸惑ったように母を見た後、ぼくに目を向け「いや、秋もいることだし……」ともごもご呟く。
「秋はこっちだよ。ほら、家族全員で仲良くお買い物。ね?」
母は左手をひらひらとさせながら、ぼくを見てにこりと笑った。ぼくも笑顔を返しては、その手をぎゅっと掴む。ぼくらの様子を見た父も、小さく口元を緩めて母の手を取った。
「行こうか」
父の言葉に、母は笑顔で頷いた。
母と手を繋いで歩くのなんて何年ぶりだろう。小学校以前……いや、それも記憶がない。慣れない感覚がなんだかくすぐったい。歩幅を揃え、歩調を合わせ、一歩一歩踏み締める。
あぁ、家族なんだなぁって実感する。改めて思うと、なんだかちょっと照れ臭いけど。
「……ん?」
背後で感じた騒がしい気配に、ぼくは母に手を引かれたまま振り返った。
途端────
爆発音と共に、並ぶ露店の一つが吹っ飛んだ。
「…………」
一瞬呆然として、首を振っては気を取り直す。目を擦って人差し指で軽く額を叩き、改めて目を向けた。
立ち並ぶ露店のそのスペースだけが、まるで超局地的ハリケーンにでも遭ったが如く瓦礫と化していた。
「……わーお」
唖然過ぎて反応できねー。え、何が起こったの、今?
「……秋以外にもこんなことする奴、いるんだな」
父が感慨深げに呟く。何事もぼくを基準にするのはやめてよ父さん、ぼくは至って常識人……のつもり、なんだけどな?
その時、瓦礫の中から二人の少年が大笑いしながら這い出してきた。あ、と思わず目を瞠る。ジェームズ・ポッターと、そしてもう一人は誰だろう、育ちの良さそうなイケメン君。その店の店主であろう人が怒鳴り散らしているのも気にせず、彼らは笑い合ってはそのまま駆け出し、ぼくら家族の横を擦り抜けては、人混みの中に紛れて行った。
「……ポッターの息子だ……父親にそっくり」
小さな声で呟いた母は、父とぼくの手を引っ張って歩き出した。思わず転びそうになり、慌てて顔を正面に戻す。
楽しそうなあの笑顔をぼくも近くで見てみたいと、確かに願ったんだ。
◇ ◆ ◇
「飢える……」
掠れた声でぼくは呟いた。鉄格子越しに沈む夕日を苦々しく睨みつける。
ぼくらが部屋に閉じ込められて三日が過ぎた。雀の涙ほどの、十二歳の少年が食べるには到底足りない食事が一日三回。勿論おやつも夜食もない。
死ぬ。飢えて死んでしまう。
「紙って食べられるんだっけ……」
ハリーは虚ろな眼差しで部屋の本棚を見つめている。「やめとこうよ……退屈凌ぎがなくなると、それはそれで地獄だよ」と返し、ぼくはがっくりと息を吐いた。
夏休みが終わるまで、あと四週間も残っている。三日目ですら死にそうなのに、四週間なんて生き延びられる気がしない。それに、もし始業式まで生き延びられたところで、おじさん達が素直にぼくらをホグワーツに行かせてくれるなんて到底思えないし……。
簡単に言えば、絶望的。
はぁとため息をついた瞬間、ガタガタッと『餌差入口』の戸が震えた。浅ましくも、頭より先に身体が反応する。飢えた獣よろしくバッとベッドから身体を起こした瞬間、ペチュニアおばさんの手が覗いては、今晩の貴重な食料が差し入れられた。
缶詰が床につくより早く、ハリーはヘッドスライディングしては、掴んだ缶詰を高々と振り上げ久しぶりのきらきらした笑顔でぼくを振り返る。ぼくも拍手でハリーの健闘を讃えた。
受け取った缶詰スープの蓋を開け、一気に飲み干してしまいたい衝動を必死に抑えながらちびちびと啜る。早々に飲み切ってしまったハリーは、空になった缶詰を扉の近くに置くと黙ってベッドに横になった。
「……ハリー」
声を掛けるも返事はない。どうやら眠ってしまったようだ。起きていても腹が減るだけだし、賢明な判断とも言える。ぼくは諦めて近くに転がっていた本を手元に引き寄せた。
この部屋には本くらいしか娯楽がない。去年まで部屋の隅で山積みになっていたおもちゃは、夏休みにぼくらが帰ってきた時にはすっかり姿を消していた。ダドリーが引き取ったのか、はたまた廃品回収に出されたか……そんな中で唯一無事だったのがこの本棚だ。タイトルを聞けば誰もが知っているような、超がつくほど有名な本ばかりがずらーっと並んでいる。ダドリー坊やが大きくなったら読むかもしれないと思ったのだろうか。残念ながら、その思惑とは全然違う場面で活躍していただいている。
……しかし、暇だ。このままでは何ページ何行目に何の単語が載っていたかまで覚えてしまいそうだ。
空腹を紛らわすために活字を追うことに全集中を注いでいるものの、しかし危機的状況の時の集中力はハンパない。文庫本一冊くらいならば軽く脳内で再生できそうだ。シェイクスピアを一字一句暗記したところで何になるというのか。ぼくが将来お芝居の道に進むというなら別だけど。
ため息をついてページを繰る。
「……見るがいい。不幸なのはただわれわればかりではない。この広大な世界という劇場では、今われわれが演じているこの場面などより、さらに悲嘆に満ちた芝居が数々演じられているではないか……」
文字を指でなぞり呟いた。
「そして人間は男も女も、すべて役者に他ならぬ……」
月明かりが部屋の床に光を落とす。そこで初めて、部屋の中が随分と暗くなっていたことに気が付いた。
よっこらせと立ち上がる。長い時間座っていたものだから、足腰がもうバキバキだ。ロン・ウィーズリーが「やけにハマって読んでたね、何の本?」と感心ともなんともつかない声を上げた。
「あぁ、シェイクスピアの……」
そう声を返したところで、空腹で鈍り切った違和感ランプがやっと点灯する。あれ、今何が? と数秒考えを巡らせて────
「ロン! どうしてここに!?」
慌てて窓辺に駆け寄ると、窓を開け鉄格子越しに顔を合わせる。ぼくの声で目が覚めたか、ハリーがむくりとベッドから身を起こした。
「どうしたのさアキ……」
ハリーは眠そうな顔でロンを見た後「ロン!」と驚いた声を上げ飛び起きた。
「ロン、一体どうやって? ──なんだい、これは?」
ハリーが呆然と呟く。
空飛ぶ車が、部屋(二階)の窓に横付けされているというシチュエーション。まぁ寝起きで飲み込むには重たい事実だろう。
運転席と助手席に座っていたロンの兄貴、フレッドとジョージが二人一緒に笑いかけてくる。
「よう、ハリー、元気かい?」
「殿下もお元気そうで」
殿下って、と思わず苦笑した。シェイクスピアと言えば殿下だろ、なんて適当なことを言いながら、双子の片割れがウィンクを飛ばす。……ちなみに、ぼくは未だにこの二人の見分けがついていない。
ロンはハリーに話しかけた。
「一体どうしたんだよ。どうして僕の手紙に返事をくれなかったんだい? 手紙を一ダースくらい出して、家に泊まりにおいでって誘ったんだぞ。そしたらパパが家に帰ってきて、君らがマグルの前で魔法を使ったから、公式警告状を受けたって言うんだ……」
「僕じゃない──でも」
「ハリー、そんなことよりまず聞かなきゃいけないことがあるだろ! どうしてここに来たの?」
ハリーの言葉を遮って、ぼくは窓から身を乗り出した。ロンと双子をそれぞれ見つめる。双子は互いに顔を見合わせ、ニヤッと笑った。
「さっすが、殿下は話が早い」
「俺達、お前らをここから連れ出すために来たんだ」
「でも、魔法は使っちゃいけないんだよ?」
ぼくの言葉に、しかし双子は余裕綽々だ。
「確かにアキの細腕じゃあ無理かもしれないが──」
「──俺達なら、できる」
双子はハリーにロープの端を手渡すと「それを鉄格子に巻きつけろ」と指示を出した。
「おじさん達が目を覚ましたら、僕らはおしまいだ」
ハリーは硬い声で呟く。しかし双子は、そんなハリーの不安までも笑い飛ばした。
「心配するな。下がって」
双子がエンジンを吹かす。ぼくらは部屋の暗がりまで下がると、じっと成り行きを見守った。ハリーがぼくの指先を軽く握る。ぼくも応えるように、親指で軽くハリーの手の甲を叩いた。
やがて──バキッ! という音と共に、窓から鉄格子が引き剥がされた。月の光が遮られることなく部屋に降り注ぐ。ここだけ見ると、なんだか月夜の晩に怪盗と出会ったみたいだ。見れば図ったように満月だし。
「乗れよ」
「だけど、僕らのホグワーツのもの……杖とか……箒とか……」
「どこにあるんだよ?」
「階段下の物置に。鍵が掛かってるし、僕らはこの部屋から出られないし……」
「任せとけ」
双子は窓を乗り越えると、しゅたっ、と物音ひとつ立てずに部屋に降り立った。どこからともなくヘアピンを取り出しては扉の鍵穴に押し込む。はぁー、と脱帽するしかない。
「マグルの小技なんて、習うだけ時間のムダだってバカにする魔法使いが多いけど、知ってても損はないぜ。ちょっとトロいけどな」
「うん。流石、すごいね」
感心して素直に頷く。と、双子の片方はぼくの頭に手を伸ばすと、わしゃわしゃとちょっと乱暴に撫でた。
「見たかロン、これが可愛い弟の反応というものだ。お前も見習いたまえよ」
「まぁお前がアキを見習ってみたところで
「うるさい! 急いでんだろ、早く!」
ロンに小声で怒鳴られ、双子は肩を竦めた。
錠の開く微かな音と共に、数日ぶりに扉が完全に開け放たれる。
「それじゃ、俺達はトランクを運び出す。ハリーとアキは部屋から必要なものを片っ端からかき集めて、ロンに渡してくれ」
ぼくとハリーは同時に頷くと、すぐさま荷造りに取り掛かった。洋服類をバッグに詰め込み、小物類をまとめロンに手渡し、まだ準備の整わないハリーを手助けし、トランクを持って上がってきてくれた双子にも手を貸そうと──したら「「いらない」」と即答された。ハリーの手は受け入れたくせに!
……筋肉つけよう。
自分の細い腕を眺め、切実に思うぼくであった。
トランクを詰め込み、先にぼくが車に乗り込んだ。後に続くハリーが窓枠を乗り越えようとした時、突然鋭い鳴き声が響く。慌ててパッと振り返った。
「あの忌々しいふくろうめが!」
「ヘドウィグを忘れてた!」
目を覚ましたおじさんの怒鳴り声。真っ青になりながら飛び出したハリーは、すぐさま鳥籠を手に駆け戻ってきた。ロンに鳥籠をパスして窓枠に手を掛ける。しかしその時無情にも扉が──さっきの錠開けのせいで何の枷もなくなった扉が──大きく開け放たれ、おじさんとおばさん、そしてダドリーの姿を曝け出す。
ぼくらを見たおじさんは一瞬だけ怯んだが、しかし猛然とハリーに飛びかかった。おじさんがハリーの足を掴んだのとほぼ同時に、ハリーがぼくの手を握る。
「ペチュニア! 奴らが逃げる! 奴らが逃げるぞ!」
瞬時に四方から手が伸びてきて、ロンとフレッド、ジョージが渾身の力でハリーを引っ張る。おじさんの手からハリーの足がするりと抜けた。瞬間ハリーを車に押し込めドアを閉める。
ロンが叫んだ。
「フレッド、今だ! アクセルを踏め!」
途端、身体に強くGがかかる。そんな感覚すら楽しくて、皆で大きな声で笑った。
出られた。抜け出せた。あの鉄格子の中から。
「来年の夏にまたね!」
ハリーが窓を開け叫ぶ。ぼくも首を突き出すと、呆然とぼくらを見送る彼らを存分に見下ろした。夜風が思い切り髪をかき回す感じが、最高に気持ちいい。
息を吸い込み、大声で叫んだ。
「自由だーっ!!」
夜空を空飛ぶ車が駆ける。
そんな出来事にワクワクして興奮してはしゃぎ回った、真夏の夜の一ページ。
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