「秋! 今回こそはちゃーんと! クィディッチの試合見に来てよね!」
寮の天蓋付きベッドに寝転んで本を読んでいた時のこと。同室の友人リィフ・フィスナーは、断りもなしに突然ぼくのベッドのカーテンを開けたかと思うと、笑顔でそう捲し立てた。多分、全ての動作に一秒も掛かっていなかったと思う。
ぼくは小さくため息をつくと、本をぱたんと閉じて上半身を起こす。枕元に本を置いて一回伸びをし「何、急に」とリィフを見た。
「そりゃ確かに、クィディッチの試合は今まであんまり見てなかったけどさ……一年生の最後の方は、君に連れられて結構行ったと思うけど? まぁ、確かに選手の名前とか、細かいルールとかは全然覚えてないけど……」
「でも秋、今までは僕が誘わないと来なかったじゃん? そうじゃなくて、次からは一人でも来てねってこと。アルやジェイドもいるからさ、あいつらと一緒においでよ」
「……どういうこと? リィフは見に行かないの?」
ぼくの問いに、待ってましたと言わんばかりにリィフは胸を張った。零れんばかりの笑みを浮かべ「僕、レイブンクローのチェイサーに選ばれたからさ」と誇らしげに言う。思わずぼくは身を乗り出した。
「えっ、えっ! 凄い!」
「ま、まだまだ控えだけどね。でも選抜通ったんだ」
リィフの顔が嬉しそうにふにゃりと緩む。弾みでさらさらの金髪が一筋垂れた。
「凄い! おめでとう!!」
何だかまるで自分のことのように嬉しい。そうか、これが『友達』なんだ。パチパチと拍手をし続けるぼくに、照れた顔でリィフはストップを掛けた。
「いやー、そんなに祝ってもらっちゃうと、嬉しいっつーかなんつーか……はい、不肖の身ではありますが、リィフ・フィスナー、寮のために頑張ります!」
ピシッと敬礼してみせるリィフ。しかし真面目な表情もすぐに崩れては「ありがとう〜〜」とデレる。なんだか可愛い。
「その選抜ってやつ、いつあったの?」
「選抜自体は五日前にあってね、今日がその結果発表だったんだ。受けてた人も結構多くてさ。採用枠三人のところに何人も来てたんだよ」
「ふぅん……でも、二年生で選ばれるってとっても凄いんじゃない?」
クィディッチの試合に何人必要なのか、どのくらい控えがいるのかはよく知らないけれど、しかし寮の代表選手なのだ。ぼくの言葉に「まぁまぁ」とリィフは笑顔で頷いた。
「でも、今年選ばれてた二年は結構多かったみたいだよ。うちの寮では僕とダグだろう? ハッフルパフに女の子が一人と、あと、グリフィンドールのジェームズ・ポッター」
「ジェームズ!?」
思わず声を上げてしまった。リィフはぼくの大声に驚いたように目を白黒させつつも「あぁ」と頷いてみせる。
「なんだ、知り合いだったのか?」
「あ……えっと、うん。……この前、友達になってね」
『友達』のくだりに少し照れてしまう。友達って、名乗ってもいいんだよね。友達だって、そう言ってくれたんだよね。認めてくれたんだもん。
「そうか、友達だったのか。……秋が言うと、なんだか重みが違う気がするな」
「き……気のせいだよ、きっと」
「じゃあ尚更見に来てよ。応援よろしく! 秋、クィディッチの試合全然見に来ないからさ、あんまり好きじゃないのかなと思ってたよ。僕が無理矢理連れてきてる感が強くてさぁ」
「嫌いじゃ……ないよ。……約束しよ。次は絶対に見に行くから」
こくこくと首を縦に振る。そんなぼくの頭を、リィフはぐしゃぐしゃとちょっと乱暴に撫でた後「おう、約束!」と、あの輝かしい笑顔でそう言ったのだった。
◇ ◆ ◇
日曜の朝。クィディッチの練習があるというハリーを待つため、ぼくは朝食を食べた後、ロンとハーマイオニーと共にクィディッチ競技場へと足を踏み入れた。
早朝の競技場は、どこか寝ぼけたような質感で、まだ少し肌寒い。でも朝露に濡れた芝生は、光を反射してキラキラと輝いている。
「うーっ、寒いね!」
肌寒さに、ローブの端を掴んで身震いをした。ぼくの様子を見て、ロンは「このくらいで?」と呆れたように声を漏らす。
「そんなんじゃ、冬が来た時耐えられないんじゃないの?」
「だって寒いもんは寒いんだもん。アリスみたいなこと言わないでよ!」
そう言うと、ロンは僅かにたじろぎ「……みたいなこと言ったかなぁ」と眉を下げた。相変わらずアリスのことが苦手らしい。確かにこの二人が仲良く喋っているのって見たことないけど。……というか、アリスが誰かと仲良く喋っている現場自体、ぼくはほとんど見たことがないんだけど……。
「あら、ハリー達が出てきたわ!」
その時、ハーマイオニーが指差した。深紅のユニフォーム姿の選手達が、更衣室からぞろぞろと出て来ている。誰もが眠たげな足取りだ。中でも双子は特にふらふらとした足取りで、時折二人で頭をぶつけ合っている。
「まさか……まだ終わってないのかい?」
「まだ始まってもいないんだよ。ウッドが新しい動きを教えてくれてたんだ」
ぼくらを見つけ近寄って来たハリーは、若干不機嫌な顔でそう言うと、ロンとハーマイオニーが持っているトーストを恨めしげに見つめては箒に跨り練習に戻って行った。お気の毒だ。
まぁ練習は大変そうだが、しかし空を縦横無尽に飛び回る選手達は、どこまでも自由で開放的に見える。真似しろと言われてもできないけどね。ぼくの平衡感覚は凡人並みだ。
目を細めて選手達を眺めていると、背後で小さな物音がした。誰かが金網を開け、スタンドの中に入って来たのだ。何の気なしに振り返った瞬間、心の準備も無しに顔を向けたことを後悔した。
「あ……っ」
小柄な身体に細い手足。長い銀髪は、朝日を受けて透明に輝いている。緑と銀の制服をきっちりとその細い身体に纏った彼女、アクアマリン・ベルフェゴールは、ぼくらの姿を視認しては驚いたように目を瞠った。
「あっ、う、そのっ、アクアも練習を見に来たの? それじゃあぼくらと一緒に見ようよ」
やばいやばいやばい。思わず声が上擦りそうになる。語尾は震えていなかっただろうか。心臓は一瞬で狂ったように早鐘を打ち始め、頬が緩みそうになるのを食い止めるだけで精一杯だ。今年度初アクアの威力は伊達じゃない。
「……あ……いや、その……」
アクアは少し困ったように、眉を下げてはきょろきょろと辺りを見回している。そんなアクアに、ハーマイオニーは優しく「ね、こっちで私達と一緒に見ましょうよ」と促した。ありがとう、流石はハーマイオニー、学年一の才女だ。
「……あの……ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
てくてくと歩き、ぼくの横にちょこんと座ったアクアは、何処となく不安げに小さく肩を丸める。しばらく黙って練習風景を眺めていたアクアだったが、やがてぼくの肘を軽く引っ張ると、口元をそっとぼくの耳に近付けた。
「……ねぇ、アキ」
その仕草がかーわいいっ。
高鳴る気持ちを抑えつつ、努めて平静に「どうしたの?」と問いかけると、アクアはぼくにしか聞こえない程の小さな声で「……この練習、もう終わるの?」と尋ねた。
「いや、今始まったばかりなんだって。……どうしたの?」
途端、アクアの表情が曇る。ぎゅっとローブの裾を握ったアクアに、もう一度「どうしたの?」とそっと訊いた。
「……ドラコが……今日、スリザリンが練習するからお前も見に来いって……」
いいなぁドラコ、アクアをお前呼びするなんてちょっと許せないなぁ、アクアを呼びつけるなんて羨ましいなぁ……、じゃなくて。
「……スリザリンが練習するって? ここで? ……今から?」
こくりと頷き、アクアは黙って競技場の入り口を指差した。辿ると、濃い緑のユニフォームを着込んだ集団がちょうど入ってくるところだった。
グリフィンドールの誰かが一人、練習から外れて急降下する。おそらくグリフィンドールチームのキャプテンだろう。
「なんだ? あいつら、何しに来やがった」
アクアの声が聞こえていないロンが、首を傾げながら呟いた。ロンの言葉にアクアが身を強ばらせる。
次々にグリフィンドールの選手が降り立って、スリザリンと話し合いを始めた。しかし、話し合いと言っても穏便に済むような雰囲気は微塵もない。すぐさま一触即発の空気が漂い始めた。
自然、ぼくらも立ち上がり彼らの元へ向かう。アクアがぼくの隣に並んで歩いてくれるのがたまらないけれど、今はそう軽口を叩ける場面ではなさそうだ。
「なんであそこにマルフォイがいるんだ? ……どうしたんだい? どうして練習しないんだよ。それに、あいつ、こんなとこで何してるんだ?」
クィディッチのユニフォームを着ているドラコを見ながらロンが首を傾げた。ドラコは得意げに胸を張る。
「ウィーズリー、僕はスリザリンの新しいシーカーなのさ。僕の父上がチーム全員に買ってあげた箒を、皆で賞賛していたところだよ」
ドラコの言葉に、スリザリンチーム全員が揃って新品の箒をぼくらに見せつける。柄に金色の文字で『ニンバス2001』と彫り込まれたその箒は、クィディッチに疎いぼくでもその価値を知っているほど有名な逸品だった。ロンなんて、今にも目玉が飛び出そうなくらいにあんぐりと目を見開いている。
「いいだろう? だけど、グリフィンドールチームも資金集めして新しい箒を買えばいい。クイーンスイープ五号を慈善事業の競売に掛ければ、博物館が買いを入れるだろうよ」
スリザリンがどっと笑った。しかしアクアは、ローブをぎゅっと掴んだまま小さく俯いている。チームの中心で笑うドラコは、アクアの存在に気付いているのだろうか。
ハーマイオニーが一歩前に進み出た。
「少なくとも、グリフィンドールの選手は誰一人としてお金で選ばれたりしていないわ。こっちは純粋に才能で選手になったのよ」
ドラコの笑顔がさっと消える。ハーマイオニーを睨んだドラコは、噛み付くように言い返した。
「誰もお前の意見なんか求めてない。生まれ損ないの『穢れた血』め」
ヒュッと思わず喉奥で音が鳴る。
今、ドラコが発した言葉は、マグルの両親を持つ子供に対して最大の侮辱に値する差別用語だ。
面と向かって自寮の生徒が侮辱されたことに、グリフィンドールチームは一瞬で殺気立った。フレッドとジョージはドラコに飛びかかろうとして、オリバーがかろうじて二人を食い止めている。ぼくは慌てて両手を広げると、ハーマイオニーを背中に隠すようにスリザリンの前に立ち塞がった。
「ドラコ、謝るんだ! ハーマイオニー……っ」
ハーマイオニーは蒼白な顔で震えていたが、やがてその瞳の縁に涙が滲んでいった。やがて堪え切れなくなったように顔を覆ってしまう。
ロンは怒り心頭の表情で前に出ると、杖を抜いてドラコに突きつけた。
「マルフォイ、思い知れ!」
緑の閃光が迸るも、壊れかけた杖のせいで呪文は逆噴射してしまった。ばったりと後ろ向きに倒れ込むロンに、ハーマイオニーはぱっと涙を拭っては駆け寄って行く。
「ロン、ロン! 大丈夫?」
ロンは苦悶の表情で口を開くも、声の代わりに大きなゲップと数匹のナメクジが飛び出してきた。それを見て更に笑い転げるスリザリン勢。
正直ムカつくが、今はロンの介抱が優先か。そう思ってロンの元へ駆け寄ろうとした時、ふと視界の端にアクアの姿を捉えた。
地面を叩きながら笑っているドラコへ、アクアが歩み寄って行く。アクアの影に顔を上げたドラコが「なんだ、お前もいたのか」と無邪気に笑いかけた瞬間、アクアはドラコの頬を平手で張った。
スリザリン全員の笑いが止む。ドラコは何が起きたのか分からないような顔でアクアを見上げていた。
「最低っ!」
アクアのこんな大声は初めて聞いた。そのまま、アクアはローブの中に手を突っ込む。彼女が杖を取り出したのを見て、ぼくは息を呑んでアクアを後ろから羽交い締めにした。
「ダメだアクア、魔法はいけない!」
「嫌っ、放して! あんなこと言っちゃいけないのっ、ドラコ、謝って、謝ってよ!!」
「ダメだって!」
ロンの自損事故はともかくとして、生徒間での魔法によるトラブルは事が大きくなり過ぎてしまう。何せ、アクアは本気で呪いを掛けそうな剣幕だし。
暴れるアクアの手から無理矢理杖をもぎ取った。ドラコに視線で合図すると、ドラコは情けない顔でこくりと頷き、スリザリン勢を引き連れてそそくさとその場を離れて行く。
「ハリーごめん、ロンを、ハグリッドのところへ……」
「わかってる」
ぼくの兄貴は言葉少なに頷くと、ロンの肩に腕を回した。ハーマイオニーと共にロンを支えながら、引きずるようにしてハグリッドの小屋へと向かっていく。怒りの矛先を失ったグリフィンドールチームも、どこか困惑した表情のままその場を後にしていった。
アクアの身体から力が抜ける。思わず彼女を取り落とした。
地面に膝をついたアクアは、力なく小さな嗚咽を零す。震える肩に、ぼくは手を伸ばすことができなかった。
「あ……アクア」
何か、声を掛けなければ。
でも、泣いている女の子に掛けてあげられるような言葉って、何だ?
好きな女の子が泣いている時に、何と声を掛ければいいんだろう?
好きなのに。彼女のことが好きなのに。
ぼくは、彼女のために何もできない。
……どうして、アクアは泣いてるんだろう。
アクアに掛けるべき言葉はちっとも浮かばないのに、役立たずなこの頭は、そんな理由だけは正解を導き出してしまうのだ。
「……君は、ドラコのことが、」
何故か言葉が喉の奥でつっかえる。アクアを泣かせるだけだとわかっていながら、ぼくは言葉の続きを口にした。
「……好きなんだね」
好きだから、泣くほどドラコに怒りを覚えてしまうのだ。
好きだから、大切だから、大事な人だから。
泣くほど、怒るほど、ドラコの言葉が許せなかったのだ。
アクアの肩がびくっと大きく震える。しばらく静かに涙を零していたアクアは、やがてこくんと頷いた。
「…………、そうだよね」
アクアがぼくを見ていないのが幸いだった。
こんな顔、アクアには見せられない。
「ぼくからも、後でドラコを叱っておくからさ。言ってはいけないことだと、ドラコに分かってほしかったんだよね。大丈夫、君の気持ちは、いずれちゃんとドラコにも伝わるから」
強いて明るく声を上げた。
華奢で細い肩は、ぼくのすぐ隣にあるはずなのに、何故だろう、一生手が届く気がしない。
……胸が痛い。
叶わぬ恋心なんて雲のように千切れて消えてしまえばいいのにと、朝の澄んだ水色の空に想いを馳せた。
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