「アリス、見つけた」
ホグワーツに無数に存在する小部屋、その中でも奥まった、ひょっとすると見落としてしまうような場所。そこの扉を押し開け、ぼくは微笑んだ。
「久しぶりだね」
「……っ、…………」
ぼくが扉を開けると同時に、寝転がっていたベッドから一瞬で身体を起こしたアリスは、しばらくぼくに掛ける言葉を探していたようだった。しかしどうやら丁度いい言葉は見当たらなかったらしい。顔を僅かに歪めると、ため息をついて髪を乱暴にぐしゃぐしゃと掻く。そして、手に持っていた本をバンと閉じてぼくを睨みつけた。
「何の用だ」
「まぁまぁ、そう怒りなさんなって」
アリスを宥めながら、ぼくは部屋をぐるりと見渡した。本棚が部屋の壁を覆い尽くすように設置してあり、それに入りきれなくなった本が辺りにバラバラと散らばっている。端にはシングルベッドが一つと、小さいながらも窓まである。
「それにしても、よくこんな優良物件見つけたじゃん。ちょっと狭いけどいい感じだねぇ、ぼくもここに住んじゃおうかなー」
「ふざけんな。……ハッ」
アリスは凄みのある笑みを浮かべた。本を奥に押しやると、座ったまま顎を上げ、不遜な瞳でぼくを見上げる。
「俺を連れ戻しに来たのか?」
「うん、それもあるんだけどね」
「……『も』?」
目を細め、ぼくはアリスを見下ろした。両手を頭の後ろで組むと、意地悪く笑みを浮かべてみせる。
「ケンカしに来たんだ」
アリスがぼくの言葉の意味を理解するより早く、ぼくは動いていた。
驚いた時の目の見開き方は、リィフとそっくりだ。表情の作り方が違うのは性格のせいだろうが、顔のパーツ一つ一つは非常に似通っている。
目前に迫っていたぼくの右拳を、寸前のところでアリスは左手で受け止めた。そのまま手首を掴まれるが、それを利用して両足でアリスの腹に蹴りを入れる。
ぼくの軽い、それでも全体重を乗せた蹴りに、流石のアリスもぼくの手首を掴む力が緩んだ。すかさず振り解くと同時に、逆に奴の手首を掴み返す。
手足のリーチがアリスと全然違うぼくにとって、遠距離戦は非常に不利だ。逆にこの距離まで近付けば、アリスもそうそう暴れることはできないだろう。
空いた左手で拳を作り、もう一度あいつの無駄に整った鼻筋目掛けて殴りかかる。しかしぼくの左拳は、アリスがふっと首を横に倒して避けたため、あえなく宙を切った。
そこを逃すような奴ではない。ぼくの胸倉をネクタイごと、ぼくが掴んでいる方の手で掴むと、身体をぐっと反転させる。全身が空中に浮いていたぼくの身体は、力ずくでアリスに引っ張られ、ベッドで背中をしこたま打った。
「…………っ」
このベッド、寮のと比べるまでもなくクソ硬ぇ! 木箱にシーツと毛布掛けただけなんじゃないの?
流石空き部屋クオリティ、などと考えている暇もなく、アリスは杖を抜いたぼくの左手を押さえていた。右手もそのまま押さえつけられる。
ぼくはふぅと身体から力を抜くと、杖を自ら手放した。床に杖の転がる軽い音が聞こえる。
お見事、としか言いようがない。ここまでで占めておよそ十五秒といったところか。いくらなんでもぼくショボいだろ。
「……どういうつもりだ、アキ」
鋭い眼光で、アリスはぼくを睨みつけた。押し倒されている状況ながら、対照的にぼくは余裕げに笑ってみせる。
「だから、ケンカだよケンカ。ぼくでも、アリスに蹴りくらいは喰らわせることができるんだね」
「馬鹿野郎、お前なんかに本気出す奴がどこにいんだ。……そして、お前もな」
アリスの視線が、ぼくから床に転がった杖へと動いた。
「俺を沈めたかったんなら、最初から魔法を使えばいい。お前に魔法を使われたら、俺は勝てないよ。でも、お前はそうしなかった。……何故だ?」
「だから、最初から言ってるだろ。君とケンカしに来たんだって。……ま、このザマだけど」
ぼくは弱い。魔法が使えなかったら、ただの非力なガキそのものだ。
「どうしてここが分かった?」
「そういうことをぼくに訊くの?」
意地悪く言うと、アリスはため息をついた。それもそうだと思ったのかもしれない。
「何の用だ」
「こうでもしないと、君はぼくの言葉を聞いてくれないと思ってね。そろそろ追いかけっこも疲れたんだ。この辺りで捕まっとくのも一つの手じゃないかな」
……しかし、他人にマウントポジションというか、こういう位置に陣取られていると、相当落ち着かないな……。両手拘束されてる状態だし、尚更。
「まぁ、この状態でも簡単な魔法くらいは掛けられるんだけどね」
そう呟いて指を鳴らす。と同時に、開きっぱなしだった扉がバタンと音を立てて閉まった。アリスはチラリとそちらに目を遣ったものの、黙ってぼくに視線を戻す。
「さて、アリス。舞台は整った。役者は二人だけだけど、この狭い部屋にはちょうどいい。話し合いを、始めようか」
「……勝手に舞台作って、勝手に役者に仕立て上げてんじゃねぇよ……」
「舞台を降りないの?」
「降りないんじゃない、降りられないんだ。扉閉めたのはお前の魔法だろ」
「確かに扉は閉めたけど、鍵を掛けたとは誰も言ってないよ。案外、ドアノブを捻ったら普通に開くのかも」
「お前の戯言には惑わされねぇ」
「つれないなぁ」
小さく笑った。
と、アリスは眉を寄せ、呟く。
「……もう分かってる。親父のことだろ」
「…………」
「無駄だ。俺と親父が、この先どうこうなることはあり得ない。この先理解し合う日は永遠に来ない。俺達家族は、もう終わってしまってんだよ、三年前にな」
「……君の事情は、ある程度知っているつもりだ」
静かに答えた。「……ッ」とアリスは息を呑む。この体勢だと、アリスの表情は丸見えだ。僅かに眉を顰めた様子も、奥歯を噛み締めたことも、手に取るように全部分かる。
「……あぁ、マルフォイとお嬢サマかよ」
「正解。無断で聞いてしまって悪かったとは、思ってるよ」
「嘘つけ。……まぁ、それなら話は早いな。てか、なら、どうしてそれで、話を聞いた時点で諦めないんだよ、馬鹿な奴」
「馬鹿な奴とは、失礼だなぁ」
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪い。……俺はあいつを許さない。母さんを殺したのは、あいつだよ。その思いが俺の中から消えることも、薄まることもない」
「……そうだね。君の父親も、同じようなことを言っていた。君に憎まれて恨まれて責められて当然だって……でもさ、アリス」
ごめんね、アリス。
君は触れられたくないところだろうけれど。
あえてそこを、ぼくは訊こう。
君がずっと目を逸らし続けてきたことを、ぼくは君に突きつける。
「本当は、君は……君の父親を憎んでも、憎んでもいないんだろう?」
それを聞いたアリスは、瞬時に凄まじい形相をした。
眉を寄せ歯を食い縛って、今自分は何を耳にしたのか分からない、そんな表情で。
ぼくの両腕を拘束している手に、ぎゅっと強く力が込められる。
息遣い。呼吸が荒くなったのも見て取れる。
手を出す寸前、キレる間際、そんなギリギリの表情をしていながらも、アリスはぼくに殴りかかってはこなかった。
そりゃそうだ。ぼくを殴ったら全てを認めてしまう。
ぼくの言葉を、肯定することになるのだから。
(……殴られる覚悟は、あったのだけれど)
犠牲なしに、何かを得ることなんてできない。
それが他人のものであれば、尚更。
「確かに三年前は憎んでいただろう。恨んでいただろう。責めていただろう。でも、今は違うんじゃないの? 三年前よりも格段に、理解力も判断力もついた今なら──賢い君なら、理解してるんだろ? お父さんの行動の意味くらい」
そう。全てはそこに帰着する。
三年前は納得できなかったことが、今は受け止めることができる、そこの違い。
リィフはそこに気が付いていないだけだ。
子供は──成長するのだ。
それも、大人の想像以上に早く、急激に。
「……違う」
「じゃあ、どうして君は、そんな顔をしているの?」
「違う」
「君は、逃げてるだけじゃないのか? お父さんと向き合うことを避けてるだけじゃないのか」
「違う!」
ぼくの左手首から手を離すと、そのままアリスは右手でベッドを殴りつけた。シーツの下の硬い木箱らしきものが、ミシッと音を立てて軋む。
……いや、軋んだだけか? シーツで分からないけど、きっと穴が開いてそう。それくらいの勢いはあった。
「……何様のつもりだよ、お前。人の家庭事情引っ掻き回して、楽しいか。あ?」
低い声で、アリスは凄んだ。
今までに見たことがないような最強に凶悪な面で、ぼくを睨む。
「お前のそういうところ、前からうざってぇと思ってたんだよ。そんなお節介必要ねぇんだっつってんだろ。他人の問題に口出してんじゃねぇよ」
「……お節介、そうだろうね」
「自覚があんなら放っといてくれよ。大体、なんで俺にそう絡んでくるんだ。お前は友達だって大勢いる、つるむ相手だっていくらでもいるだろ。俺と一緒にいる必要なんてどこにもない」
言葉で、全身で。
アリスはぼくを拒絶する。
それはきっと、本心から出た言葉なのだろう。
ぼくの胸倉を、アリスはぐっと掴み上げた。顔を近付け、凄みを効かせた瞳で睨みつける。
「これ以上、俺に関わるな」
アリスはぼくから手を離すと、すっと身体を引いた。しかし逃さず、ぼくはアリスのネクタイをむんずと掴む。アリスはしっかりとネクタイを締めることがないので、ずっと前から掴みやすそうだなと思っていたのだ。
「ぼくの話はまだ終わってない」
「俺は話すことなんてない」
「正直ぼくも、何から話そうかと思案してるところなんだけどね。あーもうやだやだ、筋金入りのコミュ障ぼっちに『どうしてお前は俺と仲良くしてくれるんだ』と尋ねられた気分だよ。あながち間違ってもないよね」
「……なんだと……?」
「そんなの決まってる。君と一緒にいたい理由なんて、一つしかない」
ぼくは真っ直ぐにアリスを見つめる。
「君と一緒にいると、楽しい。それだけだ」
「それ以外に理由なんてあると思う? 君と一緒だと楽しいから、ぼくは君といたいんだ。面白い奴だと思ったから、ぼくは君と友達になったんだ。それ以外に特別なことは何もない」
瞳の色は、リィフの方が若干明るめだ。
そんな僅かな違いすらも見分けられるほど、ぼくはこいつの近くにいた。
「…………、アリス」
──あぁ、駄目だ。
どうしても、この感情は出てきてしまうのか。
友情などという美しい言葉で飾り立ててはみたけれども、この感情は、決して消えないのか。
「ぼくは……君が羨ましい」
アリスとリィフの問題を放っておけないのも。
わざわざ首を突っ込んでしまうのも。
認めたくはないけれど、どうしてもこの気持ちは表に出てきてしまう。
「親がいる君が、羨ましい」
アリスの家族は、一般的に見れば特殊な部類で、崩壊寸前のものだけれど。
そんなものでも、ぼくは『家族』が羨ましい。
アリスだけじゃない。
夏休みに泊まったロンの家だって、ハーマイオニーの家だってドラコの家だって──どんな家族にも、ぼくは羨望の気持ちを消すことはできない。
ずっと、ハリーと二人だった。
物心ついてずっと、ハリーと二人きりだった。
おじさんやおばさんは、家族らしいことなど何一つしてくれなかったし──何年彼らと一緒にいても、彼らがぼくらを家族と認めてくれる日は来ないのだと思う。
だからこそ、ぼくはアリスが羨ましい。
壊れてしまいそうな家族だからこそ──今にも絆が断ち切れそうな親子だからこそ。
羨ましいと思い、勿体ないと想う。
「自分の家族が終わってるって言うなら──父親なんかいらないって言うなら──ぼくにちょうだいよ」
ぼくがいくら望んでも手に入らないものを──
勝手に捨てる奴は、見ていられない。
「──親がいない子供の気持ちなんか、知らない癖に」
アリスの幼少期を、ドラコとアクアから聞いた。
それは、ぼくの理想そのもので。
強く、羨ましいと思った。
ぼくも、親に愛されて育ちたかった。
君のように。
幣原秋のように。
優しい父親、朗らかな母親、親子三人で暮らす我が家が、なんと暖かくのどかだったことか。
その暖かさを、ぼくは知っている。
知っているからこそ、余計に焦がれる。
満たされた心を知っているから、満たされたいと思う。
──ハリーには言えない、ぼくの心の暗い部分。
「ぼくはただ……見ていられないだけなんだ。君達が……ぼくがもう、どう頑張っても手に入らないものを、簡単に捨ててしまおうとするのが……それだけなんだよ」
お節介だ、うざったい、他人の問題に口出しするな。
全部正解だ。言葉もない。全て甘んじて受け入れよう。
でも、いくら自分が余計なことをしているという自覚があっても、動かずにはいられない時だってある。
「アリス……どうか、君のお父さんのことを許してあげて。憎んでも恨んでもいない代わりに、君はお父さんを許してない。どうか、決着をつけてほしい」
最後は、ただのお願いだった。
「ちゃんと話し合って……ちゃんと、家族に戻ってほしい」
お願い、アリス。
そう言うと、アリスは考え込むように目を閉じた。やがて大きなため息と共に目を開けると「ネクタイから手ぇ離せ」と、ぼくに気のない声を掛ける。
ぼくが手を離すと、アリスは起き上がった。ぐしゃぐしゃと乱暴に金髪を掻き混ぜるとベッドに腰掛け、頭を抱えては、再び大きなため息をつく。
「俺はもう、この家族は終わりだと思っていた」
やがてぽつりと、アリスは口を開いた。
「母さんが死んで、俺は家を出た。そのくだりはマルフォイやアクアからも聞いてると思う」
「……うん、知ってるよ」
寝転がったまま、ぼくは呟く。
アリスはぼくに背を向けたまま続けた。
「家を出たところで、当時の俺には行くアテもツテもないだろ。それでも無駄な元気と行動力だけはあった。絶対に家に帰らないという頑なさもな。適当に走ってたら地下街に出た。そこで、ある人と出会ったんだ」
アリスは左手で耳に──いや、正確には左耳のピアスに──触れた。ぼくに背を向けているから、アリスの表情はさっぱり読めない。
「奇特な人でな。俺みたいなクソガキを引っ切りなしに気にしてくる、ウザい奴だった。そう、お前みたいな感じの」
「ぼくみたいなウザい奴って……かなりショックなんですけど」
「わざわざ頼まれてもねぇのに人の事情に首突っ込みたがる、お節介野郎だ。まぁ、お前と一緒だよな」
「ちょっとアリス、わざと言ってるでしょ。殴るよ?」
「そんな生活にもだいぶ慣れてさ……落ち着いてきた時、あの人に言われたんだよ」
アリスはどうやらぼくの台詞を無視することに決めたらしい。勝手にネタ放り出しやがって、なんて奴だ。
「『今は許せねぇだろうけど、いつか親父さんを許してやれ』、『憎んでねぇなら、家に帰れ』──『帰れる家がある奴は羨ましい』とも言われたな」
「…………」
「正直……怒ってねぇかと言われりゃ嘘になる。あいつのあの時の行動は、そりゃ確かに納得いかねぇ。でも──お前の言う通り、許してやるくらいなら、できるかもな」
「……ありがとう、アリス」
なんでお前が礼を言うんだよ、と言って──
アリス・フィスナーは、久しぶりにぼくに笑顔を向けた。
「帰るか、寮に」
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