今となっては到底信じられないことかもしれないが、俺、アリス・フィスナーは、幼い頃はどうしようもないくらいの父親っ子だった。
父の後をどこまでもついていくのは勿論、父のやっていることは何でも真似したがった。あの頃の俺にとって、父親というものは憧れの象徴でもあった。
大きく、強く、優しい父。仕事が忙しいためほとんど帰ってくることはなかったが、それでも時折姿を見せる父親のことが、幼い頃の俺は大好きだった。
……でも、成長するにつれて──様々な事柄の道理を理解するに従って、今まで見えなかったものが見えてくる。
どうして、母は外に出ないのだろう?
初めは、そんな違和感だった。
父の仕事の関連でパーティーに誘われる時も、当然のように母は家に居残った。そのことがあまりにも日常過ぎて、俺はそこで出会った同年代の二人、ドラコ・マルフォイとアクアマリン・ベルフェゴールに訊かれるまで、そのことを不審に思いもしなかった。
『アリス、君のおかあさまはどちらにいるんだい?』
母親もこの場に『いる』ことを前提とされた質問に、俺はしばらく言葉を失った。
母は家から出ないんだ。そんな俺の言葉を聞いてからのアクアの台詞が──きっと本人はもう憶えていないだろう。しかし俺は、その言葉があまりにもぴったりと当てはまり過ぎて、年を経た今でも忘れることなどできなくなってしまった。
アクアはあの時言ったのだ。
『……じゃあ、アリスのおかあさまは、まるでとらわれのおひめさまみたいね』
成長し、魔法という概念も、存在も、はっきり分かるようになった頃、気付いた。
母は俺達とは違うのだ、と。
……何もできない囚われのお姫様。
お姫様は、王子様に助け出されるのが普通だろ?
じゃあ、王子様がお姫様を閉じ込めていた場合、誰がお姫様を助け出してあげるんだ?
──父がお姫様として、一生添い遂げると決めた相手は。
穢れなき血、魔法族のみの家系として、その希少さを誇りに生きてきた家柄の末裔が選んだ人は。
あろうことか、マグルの女性だった。
フィスナー家。
かつて純血として、魔法界の中の中でも誉れ高き位置にいた、純血一族の名家の一つ。
その歴史は旧く、英国魔法界のおよそ半数を一手に束ねる魔法界の《中立不可侵》として、表と裏とを機敏に見、立ち振る舞うことを求められる。
自分達の役割が、今の英国魔法界にとってどれほど重要なものであるのか。
決して驕ることなく、任に相応しい人物になれ──父は幼い頃から、俺にそう強いてきた。
魔法使いだからといって、魔法だけに頼りすぎるな。
剣術、体術、格闘術。礼儀、礼節、作法。学問や詩歌、音楽まで。
父は俺を甘やかしはしなかった。一分の隙すら作らぬよう、至らぬところは徹底的に詰められた。どれだけ厳しくされても俺が父を好きでい続けたのは、母がいつも優しい声で、父のことを語ってくれていたからだろう。
母は、俺が怪我をして帰るとすぐさま手当てをしてくれた。消毒をし、薬を塗り、包帯を巻く間、俺を膝に乗せては父の話をしてくれた。
父が幼い頃、護衛の追手を撒いては母に会いに来てくれていたこと。初めて目にした父は、キラキラしていて格好良くて、まるで御伽噺から出てきた王子様のようにも思ったこと。
『アリスはあの人とよく似ているから、きっと誰よりも強くて格好良い、優しい人になれるわ』
──そう母が、俺の頬を両手で包んで、何よりも愛おしい声で言うものだから。
……包帯なんて、その後使用人に「
『──アリスが私に似なくて、本当に良かった』
そんなことはない。母だって、俺や父と同じ金髪だ。皆が父と同じだと持て囃す瞳の色も、本当は母と一緒の色なのに。
──『母と同じ』は、フィスナー家では禁句だった。
誰よりも正しい人であれ。
正しさの定義も知らぬまま、ただそう言い聞かされて育ってきた。
父の教えに盲目的に、従順に従ってきた。
──母が倒れる、あの日までは。
元々、虚弱な人だったのだろう。俺を産むことも、母には大仕事だった。
ましてや、魔法族の中の魔法族、純血を誇りとする一族に嫁ぐなど────母には、荷が重い仕事だったのだ。
食事に不自由することはなかった。服だって本だって、欲しいものは何だって手に入る、そんな生活だった。
魔法界でも恵まれた一族。旧くから途絶えることなく続いていた純血の血筋。高貴なる家系。
それは、母の存在を隠蔽することによって成り立っていたのだと遅れて理解した。
今まで気付かなかった、親戚中からの母に対する嫌がらせ。悪意のある、悪意しかない卑劣な行為。
病は気からという言葉がある。その言葉通り、母は身体よりも先に精神を病んでしまった。
朝、いつも通り笑顔の母に見送られて──帰ってきた時、母はもう病院に運び込まれた後だった。
母と面会することも許されないまま、広い屋敷に、俺と使用人だけの日々。
その間、父が帰ってくることはなかった。
やきもきしながら三ヶ月が経った頃、やっと母との面会に許可が下りた。しかしそれは母の容態がが快方に向かったからではない。むしろその逆で、いつ状態が悪化してもおかしくない状態になってしまったからだ。
病弱だった母の身体を、どんな病が蝕んでいたのか。医者が一度説明してくれたようだが、俺はもう憶えていない。
憶えているのは、綺麗だった母の変わり果てた姿と、痩せ細った枯れ木のような腕。全身をコードで繋がれながら虚ろな瞳で虚空を眺める母に、涙すら出なかった。
子供の目にも、母は永くないのが分かった。だから面会が許可されたのだということも瞬時に理解した。
それからというもの、俺は毎日母の病室に通った。たまにアクアやマルフォイ(この時はまだドラコとファーストネームで呼んでいたか)も付いてきた。勿論、二人とも家族には内緒でだ。
あいつらの親が、マグルである俺の母との接触を許すはずもない。だから俺も、あの二人にはついてくるなと何度も念を押すのに、あいつらはいつも黙ってついてきては、無言で母の手なり顔なりに触れて帰るのだ。
きっと、何度も怒られたんじゃないだろうか。でも、二人とも何も言わなかったし、俺も何も聞かなかった。
それから半年後の冬、母の容態が急変したと病院から連絡が入った。
俺はすぐさま父に連絡した。父親の姿はもうかれこれ一年近く見ていなかったものの、それでも自分の妻が危険な状態なのだ。きっと、絶対に駆けつけてくれると思った。俺は、そう信じていた。
しかし、いくら待ってもふくろう便は返って来なかったし、父もまた帰ってはこなかった。
最後の最後に、母は俺を見て微笑んでくれた。ほぼ一年ぶりに、俺は母の笑顔を見た。
俺の名前を、そして最期、囁くように父の名前を呼んで、母は静かにこの世を去った。
俺が九歳の頃の話だ。
母は親類が誰もいなかったらしい。今になって思えば、あの親戚連中が母の縁者に対して母の死を伝えたかも怪しいと思う。ともあれ、葬儀はフィスナー家の内部のみでひっそりと執り行われた。
葬儀は驚くほど手間が掛かる。悲しみを一瞬でも忘れるような忙しさの中、父は久しぶりに俺の前に姿を見せた。
マグルである母の葬儀に参列する人はほとんどいなかったものの、僅かながらいた人々は皆、死者を悼む葬儀の場であるにもかかわらず、母への気遣いではなく母への誹謗中傷を口にしていた。
……死んでもまだ、母はここまで言われなければいけないのか。
魔法が使えることがそんなに偉いのか? 魔法を使えないことは、そんなにも悪いことなのか?
母が一体何をした。お前らに一体何をした。
純血であることは、死者を冒涜する以上に大切なことなのか?
腹が立ってそいつらに言い返そうとした時、父は見計らったように俺を止めた。
「アリス。やめなさい」
父のその声に、その言葉に──限界まで堪えていた全てのものが、決壊したのだと思う。
気付けば俺は、葬儀の最中だというのにもかかわらず、父に掴みかかっていた。
何を叫んだかは、頭に血が上ってしまってはっきりとは憶えていない。……ただ一言を除いては。
何故なら、その言葉を叫んだ瞬間、今まで微塵も動かなかった父の表情が変わったからだ。
『母さんが死んだのはお前のせいだっ!』
感情が抜け落ちたような、とでも表現するのだろうか。今まで見たことがない表情だった。
──どうしてお前がそんな顔をする。
母の見舞いにも来なかった男が、何の権利があってそんな顔ができる。
そんな父を見て思わず力が緩んだ直後、俺は親戚連中の手によって父から引き剥がされた。その手を振り切って全力で走り──気が付いたら、見知らぬ土地にいた。
そこから先の話は、ここでは必要ないだろう。この後俺は、まぁなんだ、とある人と出会い、そして別れの際にピアスを片方譲り受けることになる。
俺が父と母のことを整理する間というか、俺が精神的に落ち着くまで傍にいてくれたあの人に関しては、語る必要もないように感じる。
ただ、今思えば──微妙に父に似ている人だった気もするな、なんて。
そう思うのは、今の俺があの頃より、いろんなことを受け入れられるようになったからだろう。
……いや、父に似てはいたものの、あれは、あのお節介はやっぱり──あ、いや、なんでもない。
とりあえず、あの人が支えてくれたおかげで、今の俺はここにいる。
そして、後──俺なんかのことを諦めずにしつこく食らいついてきた、我が愛すべき友人、アキ・ポッターのことも。
アキ・ポッターの友人となれたことを、俺はきっと、生涯の誇りとするのだろう。
……本人には絶対、言ってやる気はないけどな。
扉が開く、音がした。そちらは振り返らない。背を向けたまま相対する。
「……アリス」
おずおずと俺の名を呼ぶ、張り詰めた声。この人でも緊張しているのかと思うと、なんだか笑い出したくもなった。
「……お前が生まれる前に、お前の母さんと一緒に名前を決めたんだ。子供の名前はアリスにしようって。……母さんが好きだった物語の主人公の名前だよ。彼女のように、可愛らしさ、優しさ、素直さ、礼儀正しさ、そして好奇心に富んだ子になってほしいと願いを込めた。
……それから僕はしばらく家を離れることになって、結局お前が生まれた時にも付き添えなかった。だけど、お前の母さんはずっと、僕の帰りを待っていてくれたよ。お前に『アリス』と名付けてね。
僕は、アリスという名は生まれてくる子が女の子だったら付けようと考えていた名前だったんだけど……僕と話し合った名前にそうこだわらなくても良かったと、そう言うとお前の母さんは笑って言ったんだ。
『だってリィフ、
「……そんな自由な人を、アンタはフィスナー家という鳥籠に閉じ込めた」
「否定はね、できないよ」
「…………」
「閉じ込めることになると分かっていても、それでも好きだった。看取ることすらできなかった僕が何を言ってもどうしようもないかもしれない。でも、それでも好きだったんだ、母さんのことが」
「…………」
「お前もいつか、この気持ちが分かる時が来ると思う」
「……さぁ、どうだろうな」
目をゆっくりと瞑った。息を吐き、両手で顔を覆う。
「俺は、アンタが許せない」
「…………」
「母さんを死なせたのはアンタだ。俺のその気持ちは、これから先もずっと変わらない」
「……アリス」
「でもな。……本当はきっと、最初から気付いてたんだよな、俺」
振り返った。父親の姿を視界に捉える。
最後に記憶に残っていたのは、母の葬儀の時の姿だ。それから三年の月日は、人の外見もそこそこ変えてしまうらしい。
父親の姿すら、今までまともに見ていなかったのか。
「母さんは最後に、自分の心を取り戻した。……最期に、母さんは言ったんだ……『子供の時からずっと、大好きだったよ』って、アンタにさ……」
どんなに傷ついても、どんなに傷つけられても、最期に母が遺した言葉は、父への愛の告白だった。
その事実は、変わらない。
父は黙って、両手で顔を覆った。力無く床に膝をつく。何かを堪えるようなため息が、肩の震えと共に漏れた。
「……だからさ」
俺は、アンタを許そう。
だから、アンタも。
もう一度家族になる努力を、してくれ。
「母さんの話、もっと聞かせてよ。……父さん」
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