「リィフ、起きてる?」
寝室を仕切っているカーテンを僅かに開けて首を突っ込む。毛布を頭まですっぽり被って丸まっているリィフに、ぼくはそっと声を掛けた。
「……秋?」
「うん、ぼくだよ」
にっこりと微笑む。やがてもぞもぞと毛布から頭を覗かせたリィフは、酷くバツの悪そうな顔でキョロキョロと辺りを見回した。
「大丈夫だよ、誰もいない」
「先輩とか……何か言ってた? 僕のせいで、クィディッチの試合に負けちゃって……」
「誰もリィフのこと、責めたりなんてしないよ」
本当? と尋ねるリィフの瞳は、どこか不安定に揺れている。しっかりと目を見て「本当だよ」と告げた。
「リィフはリィフなりに、一生懸命頑張ってる。頑張って努力している人を笑ったり責めたりする人なんて、ここにはいないよ」
「……っ、でも、君だって分かってるだろ。僕が全然、普段の調子を出せてないこと」
肩を震わせながら、リィフは呟く。ぼくは静かに首を傾げた。
「そうだね。新学期が始まってからずっとそんな感じに見える」
「はは……流石は秋、お見通しだ。……理由はね、分かってるんだよ」
そう言って、リィフはぽつぽつと話し始めた。
両親や親類縁者、皆からずっと掛けられている期待のこと。
それを裏切ることができなくて、家でも気を緩められずにいること。
魔法族のみの家系であるという『名門』という重圧に重苦しさを感じていること。
「ずっと、ずっと……父と母は僕に言い続けてきた。一片の瑕疵も許されない。どこにも恥じない人になれと。……昔はね、それでも頑張れた。僕が頑張って結果を出せば、皆が喜んでくれるから。でもね……最近、疲れちゃって。上手く身体に力が入らなくなっちゃったんだ」
特に、今のこの雰囲気だから、尚更……ね。
そう付け足したリィフは、しかし無理矢理笑ってみせた。
「……ごめんね、秋。急にこんな話をされても困るよね。気を遣わせてごめん。……そろそろ夕食の時間だよ。ご飯食べに行こうか」
「あ……っ、リィフ」
そそくさと離れようとしたリィフの手を咄嗟に掴んだ。そのまま両手で握り締める。
ぼくよりも一回りは大きな、それでもまだ幼い手。
この手で、この身体で、君は一体どんな大きなものを支えようとしているんだろう?
そう考えると、胸につっかえていた言葉はするりと零れ落ちた。
「君のおかげで、ぼくはここにいるんだ」
リィフの手は冷え切っていた。温もりを分けるように、ぼくは指先に力を込める。
「君がいなかったら、きっとぼくはこうして寮の人と仲良くなることもできなかった。ぼくはずっと一人で……自分のことが怖くて堪らなくって、もう絶対誰も傷つけたくなんてなくて、誰とも友達になれないままだったと思う……だから、ありがとう、リィフ」
そう、こうして人の手を握ることも、人に触れられることも、ずっと怖いままだった。
自分の持っている力が怖くて。この身に余る魔力が、心底恐ろしくて。
そんなぼくを優しく誘ってくれたのは、リィフ、君なんだよ。
上手く言葉にできない気持ちを、両手に込める。
きっと伝わってくれると信じて。
「……秋。好きな子はいるかい?」
「え?」
突然の問いかけに、戸惑いながらも首を振る。リィフはどこか甘く微笑むと、僅かに目を細めた。
「僕はね、小さい頃からずっと好きな子がいるんだ。家が近くて、まぁその子の家には遊びに行ったことはないんだけど……公園でね、たまに見かけてた。あまり走り回ったりしないで、一人でいつもブランコを小さく揺らしてる子なんだ。凄く華奢で、ぎゅっと抱きしめたら壊れちゃうんじゃないかと思うくらい、儚げな女の子で……すごく、すっごく好きなんだ、ずっと」
でもね、とリィフは目を伏せた。
「僕がその子を好きだという想いは、誰からも許されないんだ。たとえこの想いが報われても、僕にはきっとあの子を幸せにすることはできない。ねぇ、秋……この恋は、やっぱり諦めた方がいいのかな?」
少し考えて、ぼくはリィフの頭をぽんと撫でた。リィフは驚いたようにぼくを見上げる。ぼくは立ったまま、リィフはベッドに座り込んでいるからこそ為せる技なんだよね。それにしてもリィフの頭を撫でるのは初めてだ。
「リィフが幸せになる方を選べばいいんだよ、そういうのは」
ぼくには難しすぎて、その辺りのことはよく分からないけれど。
でも、これだけは分かるんだ。
君は、幸せになるべき人だって。
君の笑顔を見るだけで、ぼくは幸せな気分になれるのだから。
「……ありがとう、秋」
ほらね。
ぼくは今、心の底から幸せなんだ。
◇ ◆ ◇
アリスが父親と仲直り、というか、まぁなんとかなったのかな……という間にも、ハリー達も何やらゴタゴタしていたらしい。
ちょくちょく様子を見に行っていたポリジュース薬が仕上がり、ハリーとロンがスリザリン寮に忍び込みに行ったり、その際些細なミスによりハーマイオニーに猫耳と尻尾が生えたり(いや、こうして文字で見ると笑えるけど、実際全然笑い事じゃなかったんだからね!)女子トイレに住み着くゴースト、嘆きのマートルが何やら日記のようなものをぶつけられて泣き喚いて廊下を水浸しにしてフィルチが怒ったりと、いろいろあった。
そう、忘れちゃならないのがクリスマスだ。なんと、アクアからプレゼントが来たのだ。
……もう一度言おう。アクアからプレゼントが来たのだ!
それから一週間は、まさしく天にも昇るかのような気持ちだった。一応ぼくからもちょっとした小物入れをプレゼントしたのだが、まさかアクアから贈り物をしてもらえるとは思ってもみなかった。
『面白かったので、アキにも読んでほしいと思ったの』と書かれた手紙に(言うまでもなく、一生保存版だ)一冊の小説(内容は「え、アクアこんな本も読むの!? うっそ!」と思わせてくるような痛快アクションコメディだった。彼女はどこまでギャップを狙う気なんだどこまでぼくを萌えさせれば気が済むんだぁぁ!!)だったので、とりあえず本は通販で同じものを取り寄せて、アクアから贈られた本は保存用としてずっと綺麗なままで取っておこうと思っている。アリスに「心底気持ち悪い」とかなりあっさりばっさり切り捨てられたが、ぼくは負けない。
そんなぼくにはバレンタインなんてものは結構あっさりと過ぎていって(風の噂で、ハリーが大変だったというのは聞いた。本人に尋ねても詳しいことは教えてもらえなかったが。……何があったんだろう)ロックハートが大広間を悪趣味なほどのコッテコテのバレンタイン色に染めてスネイプ教授やフリットウィック先生が軽く巻き添えを食っていたり、誰々がチョコをもらったーだの付き合うことになったーだの、そういう甘ったるい話を聞かされたりしたその日の夜、ハリーから例の羊皮紙で連絡が来た。
既にぼくはベッドの中で、半ば夢見心地にうとうととしていたものの、ハリーに呼ばれたとなっちゃ寝てられない。眠い目を擦りながらも机に向かい、羽根ペンとインク壺を取り出すと「何?」と書いた。
『夜遅くにごめん、寝てた?』
「うん、寝てた。どうしたの?」
『起こしてごめんね。ちょっと前に日記を拾ったって話をしたの、憶えてる?』
「あぁ、マートルがいる三階の女子トイレでしょ? 憶えてるよ」
『その日記について、今日発見があったんだ。……あの日記は、君が作ったこの羊皮紙と同じような造りになっているみたいだ。日記の中の『記憶』と、話ができるんだ』
思わず、羽根ペンを走らせる手が止まった。そんなことができるのか? としばし考え込む。
『……アキ?』
「あぁ、ごめん。続けて」
そんなことができるとすれば──その技術は、こんな羊皮紙とは比べものにならないくらい、とても高度なものだ。あの日記にはそんな魔力が秘められていた? でも、一体何のために……。
『この日記の持ち主だった彼の名前は、トム・リドル。……そこで、僕は聞いたんだ。秘密の部屋の真相を──』
そこでハリーは、リドルが見せた風景を語ってくれた。秘密の部屋に閉じ込められていたと思われる大きなクモを、ハグリッドが夜な夜なこっそり外に出していたこと……。
「……でも、ハグリッドは犯人じゃないよ。秘密の部屋なんて開けてない。それは濡れ衣なんだ」
先日リィフから聞いた言葉を思い出す。
ハグリッドはスリザリンの後継者ではなく、本当の犯人は『例のあの人』──『ヴォルデモート卿』なのだと、リィフは確かに教えてくれた。
『うん、僕もハグリッドが犯人なわけないと思ってる。だから、アキから客観的な話を聞きたいんだ』
ハリーの言葉が真剣みを帯びる。ぼくは、ハリーの言葉の続きをじっと待った。
『アキ。明日、君にこの日記の一部分を渡したいんだ。君の目で、君自身で、リドルの言葉を聞いてほしい。そして判断してほしい。僕だけじゃ判断しきれないから、アキと一緒に考えたい』
次の日、ハリーから受け取った日記帳の数ページを手にしたまま、ぼくはどうしたものかと迷っていた。
今日空いた時間いっぱいを使い、図書室でトム・リドルの日記の仕組みを調べてはみたものの、これといった収穫は得られなかった。
……正直、未知のものに対する警戒が強い。少しは何か分かれば、また気分は違ったんだけど。
迷った挙句、ええいままよとぼくは羽根ペンを手に取った。インクをつけ、少し考えてから「はじめまして、リドル」と書き込む。
『初めまして。君はどなたですか?』
するとすぐさま返事が来た。なるほど、ハリーがぼくの羊皮紙に似ているというのもよく分かる。ちょっと違うけれども似たような文字の浮かび上がり方だ。
ぼくの羊皮紙と違うのは、受取人がいるかいないかの違い。これは受取人というよりもむしろ、羊皮紙自体が返事をしているような……。
──否。
羊皮紙に、
『どうされました?』
ぼくからの返事がなかなか来ないことを不審に思ったのか、リドルは急かすように尋ねてきた。慌てて羽根ペンをインク壺に浸し、書き出す。
「遅れてごめんなさい……ぼくは」
そこで何故か、手がすっと意図しない風に動いた。
「ぼくは幣原秋です」
そう書き終わると同時に、インクは紙に吸い込まれるように消えていく。思わず、そんな自分に驚愕した。
だってそうだろう。名前を名乗ろうとしただけなのに、意図せずに違う人物の名前を書いてしまったのだから。確かに幣原はぼくにとって一番身近な存在だけど、名前を間違えたことなんて今まで一回もないのに……。
「あっ、いや、ぼくは……」
『幣原!? 幣原って、じゃあもしかして、親戚に幣原直がいたりするのかな!?』
走り書きのような、本人の興奮を表すような字に、名前を訂正しようとしていた手が止まる。
……これは……。
「……うん、ぼくの父親だよ。知ってるの?」
代わりにそう書くと、返事はすぐに返ってきた。
丁寧で整っていて、本人の几帳面そうな性格を如実に写している筆跡は、僅かに面影を残す程度までに乱れていて、でもそれがまた、不思議と気持ちが伝わってくる一つの要因となっていた。
嬉しそうに走り書きされた文字には。
『うん。僕の、友達なんだ』
そんな言葉が、刻まれていた。
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