朝から、普段と空気が違うというのは感じていた。
暗いというわけでも、重いというわけでもないのだが、何と言えばいいのだろう……『不穏』な空気だ。誰しもがその空気を敏感に感じ取っては、いつもより声を潜めたり、不安げに辺りを見回したりしている。
リィフを含む何人かは、この空気の理由を知っているようだった。何処か憂鬱げな表情で、雑談に興じる口も重たい。
ふくろう便が届くのは、基本的に朝食の最中だ。ぼく宛の荷物は基本的には何もないものの(日本から海を渡ってここまで来るのは、流石にふくろうも無理だろう)、リィフは日刊預言者新聞を定期購読しているため、毎日ふくろう便が届く。他の子も家から手紙だの荷物だのお菓子だのと、何かしらちょくちょく送ってもらっているようだ。
今日も普段と変わらぬ時間に、ふくろう便がやってきた。どこか異質な雰囲気に包まれていた大広間も、一瞬だけいつも通りのざわめきを取り戻す。
しかしそんな日常を掻き消す声がどっと上がった。
「ヴォルデモート卿、万歳!!」
スリザリンのテーブルだった。皆が一斉に立ち上がり、何やら嬉しげに喚き合っている。誰もが興奮気味に声を張り上げているため、何を言っているのかぼくには聞き取れない。何が起こったのか分からないスリザリン以外の寮生は、これに一気に騒ついた。
隣で小さくため息をついたリィフに、ぼくは「ねぇ、今日のスリザリン、どうしたの?」と尋ねてみる。
「僕も詳しくは知らないんだけどね……昨日、ホグズミードでスリザリンの集会が開かれたらしい」
「集会……」
……セブルスが言っていた、あのことか?
「そこでどうやら、ヴォルデモート卿を名乗る人物が現れたらしいんだ。……ヴォルデモート、知ってる?」
「ヴォルデモート……うん、知ってるよ」
夏休みの時のダイアゴン横丁の沈んだ空気は、まだ記憶に新しい。書店で聞いた話だってちゃんと憶えている。
「彼は、スリザリン寮の卒業生なんだ。昨日はだから、何と言ったらいいのかな……演説。そう、演説だ。彼の講演会が行われたんだ。で……信者が生まれた、ってとこかな」
リィフは、彼にしては珍しく気怠い様子だった。そんな彼にさらに尋ねるのは気が引けたが、リィフ以外にこの出来事について詳しそうな人物はセブルス以外思い浮かばない。だから、思い切って訊いてみることにした。
「……でも、その、ヴォルデモート? って人は、何というか、えっと……人を殺してるんだよね? 最近の暗い雰囲気も、それのせいなんでしょ? なのに何で、その……スリザリンの人達は、そんな奴の信者なんかになっちゃったんだろ?」
「僕が知るものか」
ぴしゃりと言われ、思わず黙り込む。ぼくの表情を見て、リィフは慌てて「ごめん、冷たい物言いだったね」と謝った。
「う、うぅん……」
ゆっくりと首を振る。聞き辛いことを聞いたのはこちらだ。
リィフは頭を軽く掻くと、姿勢を正してぼくに向き直った。
「何と言えば良いのかな。カリスマ性のある犯罪者、とでも言えば、少しは想像が付くのかな。……ヴォルデモート。彼は彼なりの正義に則って殺人を犯している。その正義は、僕達魔法使いの根本にある思想とも重なっている。だからね……例え闇の魔術を行使する犯罪者だとしたって、大量殺人者だとしたって、その思想に共感する者は少なからず存在するんだ」
「思想って、どういうこと?」
「あー……そこに踏み込むと、魔法界における純血主義だの先の時代に起きたゲラート・グリンデルバルドだの、いろいろと……ちょっとややこしくて今から語るととんでもない時間が掛かっちゃうから、また今度……、いやホント、純血主義なんてロクでもないからな……」
リィフは大きなため息をついて顔を覆ってしまった。なんかごめん。
「とにかく」とリィフは低い声で首を振った。
「純血主義。魔法界からマグルを
リィフの言葉に息を呑んだ。
スリザリンのテーブルでの騒ぎは、まだまだ続いていた。リィフの目も構わず、テーブルに手をついて勢いよく立ち上がると、スリザリンのテーブルに目を凝らす。
セブルスの姿を、探した。
セブルスは頭が良い奴だ。そんな妙な奴の信者になんてなるはずがない。
ましてやそいつは人殺しなんだぞ。これまでに何人も殺していると自称している。そんな奴の信者になるなんて、正気の沙汰とは思えない。
でも、もし、もしかしたら────。
セブルスを探すのは、そう難しくはなかった。立ち上がって盛り上がっている生徒が多い中、セブルスは座っていたからだ。
セブルスは確かに、立ち上がってはいなかった。
ただ一人、静かに──満足そうに。
この空気が心地良いかのごとく、静かに微笑していた。
◇ ◆ ◇
グリフィンドール対ハッフルパフのクィディッチの試合が行われる前日の金曜日のこと。
競技場で毎晩遅くまで練習する我が兄ハリー・ポッターの姿を渡り廊下の片隅から眺めるのが、最近のぼくの日課だった。だって外は寒いんだもの。いくらハリーが練習しているからといって、コートが必要な野外に出ようとは(しかも夜に!)ぼくは思わない。
でも、せっかくハリーが頑張っているのだ。弟としてその勇姿を鑑賞しないわけにはいかないだろう。クィディッチ競技場を上から見ることができるこの渡り廊下は、そういう意味でとても最適な場所だった。
ふと、誰かの足音が聞こえた。この廊下は人通りが少ないため、思わず反射で振り返る。
「ジニーじゃないか! 久しぶりだね」
こちらに近付いて来ていたのは、ロンの妹、ジニー・ウィーズリーだった。夏休みにロンの家で数日を過ごした以来だから、こうして会うのはとても久しぶりだ。他寮の、しかも学年まで違うとあっちゃあ、そうそうばったり会うことなんてない。
ぼくの声にハッとしたように、ジニーは項垂れていた顔を上げた。
暗い渡り廊下の照明マジックだろうか、なんだか顔色が悪そうにも見える。そう思うと、綺麗な赤い髪の毛もなんだかくすんでいる気がした。
「……アキ?」
「それ以外の誰かに見えるのかい?」
語尾についた疑問符を茶化して指摘すれば、ジニーは微かに笑ったようだった。
「ジニー、今時間ある? ぼくの兄貴のカッコいい姿でも見ていかない? 隠れベストスポットとして、ぼくの中では話題の場所なんだけど」
ぼくの前では強気で可愛いジニーも、ハリーの前ではしとやかな恥ずかしがり屋さんだ。そのことを踏まえて促すと、微妙にジニーの表情が凍りついた気がした。
「いえ……今、時間がないの。ごめんね、アキ」
「いやいや、気にすることはないよ」
浮かない表情のジニーに、強いて朗らかに答える。「じゃあ、引き留めて悪かったね」と言い手を振ると、ジニーは一瞬だけ迷う素振りを見せた。
「どうかした?」
ジニーに尋ねる。ジニーはハッと息を呑んでは「なんでもない」と、小走りでぼくの前から離れて行ってしまった。
再び一人になったぼくは、ジニーの消えた方向を見ながらふと考える。
(……あっちには確か、嘆きのマートルがいる女子トイレがあったよな?)
『リドルの日記が盗まれたんだ。だからリドルの日記は、今君が持っている数ページ分しか残ってない。ハーマイオニーには盗難届を出すように言われたけど、五十年前にハグリッドが退学処分にされた、なんて話を蒸し返したくないんだ。お願い、アキ。何か知らないか、リドルに聞いてみてほしい』
例の羊皮紙越しにハリーからそんな連絡が来たのは、ジニーを見かけたその晩のことだった。
もう眠りにつく準備をしていたぼくは、眠い目を擦りながらも机につく。魔法で鍵を掛けた引き出しからリドルの日記を取り出すと、羽根ペンにインクを付け書き出した。
「こんばんは、リドル」
『こんばんは、秋』
自分でない名前で呼ばれるのは、なんだか妙な感じがする。あの時間違って名乗った名前は、未だに訂正できずにいる。響きは同じなのだけれど、なんとなく違和感だ。
前置きなしに、ぼくは本題を切り出した。
「君の日記の本体が盗まれたんだけど、何か知らないかい?」
『へぇ、そうなの? 僕は何も知らないな』
返事は間髪入れずに返ってきた。
「本当かい?」
『君に嘘をつく必要はないだろう?』
「君の日記を盗んだ何者かを、君が庇っている可能性だってあるよ」
『そんなことをする義理なんてないよ』
いつも通りの口調で、リドルは冷ややかにそんなことを言ってのける。思わず沈黙したぼくに向かって、今度はリドルが『そんなことより』と話題を変えた。
『君について、幣原秋個人について教えてよ。幣原直の子供だという君のこと、もっと知りたいんだ』
リドルは最近、幣原秋についての話を聞かせてくれとよくせがんでくる。今まではのらりくらりと躱していたものの、ふと気が向いた。
幣原の父親の友人だと聞くし、その子供のことが気になるのだろう。まぁぼくだって確かに、アリスの子供に会ったらどんな子なのか知りたいもんなぁ。ついでに幣原の父親との関係についても聞き出せれば万々歳だ。
「いいよ。代わりにリドルも、ぼくの父親のことを教えてよ」
『了解だよ。……ところで、疑っているわけじゃないんだけど、一応確認させてくれないかな。君のご両親のフルネームは?』
こうなったら嘘をつき通そうじゃないか。幸いにして、ぼくは幣原の知識を持っているのだから。
「幣原直と、アキナ。ちなみに母の旧姓はエンディーネ」
『本当に? 本当にあの二人の子供なんだね……』
「母さんのことも知ってるの?」
『知ってるもなにも、君のお父さんが頑張って君のお母さんにアタックし続ける様を一番間近で見てきたのは僕なんだよ』
なるほどね。直父さんがひたすらガンガン行って付き合ったカップルってことね。子供の目から見てもそれはわかるよ。……いや、ぼくは彼らの実子じゃないんだけどさ。
「そういえば、父さんと母さんはどこの寮出身だったんだろう?」
『聞いてないのかい? 直はハッフルパフ、君のお母さんはグリフィンドールだよ』
「何気に聞きそびれてたんだよ」
『ふぅん、ま、そういうこともあるか。次は僕から質問させてくれ。君の所属寮はどこ?』
「レイブンクロー、叡智を重んじる寮だよ。君は?」
『スリザリン。伝統を重んじる寮さ』
リドルの言葉に納得した。確かに彼にはスリザリンがよく似合う。
その後、お互いに何周か質問を投げ合い、幣原の両親の馴れ初めだとか、どういった経緯で幣原の父親とリドルが仲良くなったかを聞いた後、ぼくが眠気に耐え切れなくなりギブアップした。羽根ペンや羊皮紙を片付けるのもそこそこに、ベッドに倒れ込む。
なかなか楽しくお喋りに興じてしまったけれど、この日記は一体どういうものなのだろう。
ふと浮かんだ疑問を解決することもできないまま、ぼくはそのまま眠りへと落ちていった。
いいねを押すと一言あとがきが読めます