「セブルス!」
ぼくの大声に、セブルスはゆっくりと振り返った。周りにいたスリザリンの友人達に「先に行ってくれ」と促すと、困惑した表情でぼくに向き直る。
「どうしたんだ、随分と深刻そうな顔じゃないか。そろそろ授業が始まるのは君もだろう? 何かあったのか?」
「今朝のスリザリンの歓声……あれはどういうこと?」
セブルスの瞳が、ぼくの左手に握られていた本日付の日刊預言者新聞に移った。納得したように小さく頷く。
「どういうこと、も何も。説明するようなことはないと思うが」
「……どうしてヴォルデモートを賛美するあの中にいられるんだ。どうして、彼なんかを……」
「なんか、とは失礼だな。君も講演に来ればよかったんだ。そうすれば、あの人のお考えを、高尚な思想を身に染みて感じただろうに」
セブルスから出た驚くべき言葉に、思わず絶句した。
「……っ、人が死んでんだぞ!?」
ようやくそれだけを絞り出す。しかしセブルスは、興奮するぼくを窺うような表情を滲ませ、静かにぼくを見返すだけだった。
「君は、何も知らないからそう言うんだよ。やっぱり君も講演に連れて行けばよかった。でも僕じゃ、あの方のおっしゃったことを君に上手く説明できそうにないからな……そうだ、ルシウス先輩に頼もうか。あの人なら大丈夫だ。秋、今日時間はあるかい? もし良ければ……」
「嫌だ。ぼくはそんなもの聞きたくない」
真っ直ぐにセブルスを見た。
どうして分かってくれない? ぼくが言いたいことは、そういうことじゃないのに。
伝わらない。ぼくの言葉は、セブルスに何一つ伝わっていない。
だいぶ慣れてきた英語を、久しぶりに煩わしく感じた。
日本語だったら、きっと伝えられるのに。ぼくが今、どんな気持ちなのか。どんな思いを、君に対して持っているか。
「どんな大義名分があろうと、ヴォルデモートは人殺しだ。それは何があっても変わらないし、許されるべきことじゃない。マグル殺しも、マグルに関わった魔法使いを殺すことも、決して許されないことなんだ。……そのくらい、セブルスは分かってるよね?」
セブルスは不満そうに眉を寄せた。どんな言葉をぼくに掛けたらいいのか、迷っているようだった。
「マグルは、それ以上に魔法使いを……僕達を殺したよ」
「……っ、それは……」
静かに紡がれた言葉に、思わず狼狽える。そういう返答が来ることは予想していなかった。
押し黙ったぼくを横目に、セブルスは腕時計をちらりと確認して「もうすぐ授業が始まるからね。秋、君も急いだ方がいいよ」と言った。
「……残念だ。君なら、分かってくれると思ったんだけど」
そう呟いて、セブルスはぼくの隣をすっと通り過ぎた。
その背中に手を伸ばしかけ──やがて力無く、手を下ろした。
◇ ◆ ◇
「アキ、アキ! おいアキ、行くぞ! 今日はお前の兄貴が出るクィディッチの日だろ!」
アリスに肩を乱暴に揺さぶられて、ぼくは目を覚ました。うとうとと起き上がっては、ぼんやりした頭でアリスをぽけっと見つめる。アリスは痺れを切らしたようにぼくのクローゼットを勝手に開けると、制服を一揃いまとめてぼくに向かって放り投げた。
咄嗟に手が出ず、顔面含む全身でキャッチする。勢いを殺せずもう一度毛布の上に倒れ込んだぼくに、アリスは飄々と「おお、悪かった」と肩を竦めた。
「って、痛ぁ! ハンガーが鼻に直撃したんだけど!? もっと真心込めて謝れよ! てかちょっとアリス、ぼくの鼻大丈夫? ちゃんとついてる? もげてない? 人前に出ても大丈夫?」
「おー、大丈夫大丈夫」
「せめてこっちを見てから言えよバカ!」
身体に積み重なった制服を横に置いて怒鳴ると、アリスは「目は覚めたみてーだな、行くぞ」と言いながらぼくの椅子に腰掛けた。
「今日はお前の兄貴のクィディッチの日だろ」
「ハリー! そうだった!」
慌てて時計を見ると、試合開始まであと二十分もない。パジャマのボタンを外す時間も惜しいと一気にズボッと脱いで、ぼくは急いで支度を始める。
アリスは小さく欠伸を漏らした。
「お前が朝起きてないの、珍しいな」
「ちょっと昨日、夜更かししちゃってね」
「面白い小説でもあったんか?」
「んー、そういうわけじゃないんだけど……」
ワイシャツとセーターを一緒に着込みながらもごもごと答える。ふーんと呟いたアリスは、ふと何かを手に取った。ぼくが昨晩置きっぱなしにしたリドルの日記だ。
「何、この紙」
「あー、それが原因なんだよね、実は」
簡単にリドルの日記についての仕組みと経緯を説明すると、アリスは眉を寄せて少し嫌そうな顔をした。
「余計なお世話かもしんねぇけどよ、こういう脳味噌がどこにあんのか分かんねぇやつには触れないが一番だぜ」
「そう?」
「あぁ。マグルの持ってる、箱型の机に置くやつで、でも全世界に繋がってるやつとかあんだろ。気持ち悪くていけない」
「パソコンのこと? あぁいうのダメなんだ、アリス」
「受け付けねぇな。ラジオですら拒否反応出る。一回分解して中身確かめたな。理屈知らねぇとモヤモヤすんだよ」
へぇ、意外。アリスがそんな繊細なたまだったなんて。でもレイブンクロー生らしいっちゃらしいよ。
「まぁ、開示する情報はちゃんと吟味しているよ。でもこれ、五十年前の事件について何かを知っているようなんだ。聞き出そうといろいろ試してはいるんだけど、なかなか答えてくれなくてね」
「五十年前の事件? って、あの?」
「そう、秘密の部屋が開かれた事件」
頷くと、アリスは少し興味を惹かれたようだった。「へぇ……」と首を傾げながら、日記のページを表から裏からと検分している。
「この日記の持ち主、誰だっつったっけ?」
「あれ、言ってなかったっけ。トム・リドルだよ」
ネクタイを締めながら答えた。靴下を履き終わり、そう言えばアリスの声が聞こえないなと顔を上げる。
「……どうしたの、アリス、妙な顔して」
「……トム・リドルだって? 本当か?」
途端、両肩を強く掴まれた。どうしたんだよと軽口を叩きかけ、真面目な瞳に押されて口を噤む。
「……いや、俺の記憶違いかもしれねぇし……最近は誰も『あの人』の本名なんて知らねぇんだ……一回親父に確かめて、アキに言うのはそれから……」
「……ねぇ、何の話?」
ぼくの声に、アリスは口籠った。しかし「アリス!」と強く促すと、根負けしたように小さく息を吐く。
「俺の記憶違いかもしれねぇから、全部が全部まるっと信じねぇでくれ。何せそんな書物なんてねぇからな……小さい頃にたまたま聞いた話だ。話半分に聞いてくれよ」
アリスが前置きを長々と付けるのは珍しい。
部屋にはぼくらしかいないらしく、しんと静まり返っている。にもかかわらずアリスは、まるで誰かに聞かれることを恐れるように声を潜めた。
「『例のあの人』の本名が、確かそれだ」
「……っ、え……」
「違うかもしれない。その日記について、俺は詳しくは聞かない。だからお前も、軽々しく人に話すな」
アリスに真っ直ぐ見つめられる。その碧の瞳を見ながら、ぼくはリィフの言葉を思い出していた。
『例のあの人──彼こそが、ハグリッドを糾弾してホグワーツ特別功労賞をもらった少年だ』
四隅のピースが、やっと今、見つかった。
「……分かった。喋らない。一人で勝手に首突っ込んだりもしない。約束する」
アリスの手に入っていた力が、くっと抜ける。ぼくはアリスに微笑みかけると、自身の肩からアリスの手を外した。
「さぁ、クィディッチだ。ぼくの兄貴の勇姿を見に行こう?」
「……あぁ」
アリスは、ぎこちなくぼくに笑みを返した。
寮を出て、クィディッチ競技場へと続く廊下を歩く道すがら、ぼくはあえて先程までとは全く関係のない話をし続けた。同級生が言っていた面白い台詞、先生方のくすりと笑える秘密など、普段通りの会話を続ける。
アリスは少し考え込みすぎるところがあるから、気を紛らわせてやらないと。
アリスを巻き込みたくはなかった。
アリスは何の関係もない、ただの一般人だ。下手なことを喋れば尚更、アリスに危害が加わる可能性も高くなる。
だって、ぼくの想像が正しければ、この事件の犯人は生徒なのだから────
『まもなく、グリフィンドール対ハッフルパフの試合が始まります。城内にいらっしゃる生徒の皆様、ふるってご観戦くださいませ――』
リー・ジョーダンの、魔法で拡声された声が外から聞こえる。アリスと目配せし合うと、ぼくらは足を早めた。
「って、おっ!?」
途端、周りも見ずに角から飛び出してきた女子生徒とぶつかりそうになり、ぼくは慌てて後ろに飛び退いた。彼女は少しよろめいて、ふらりとその場に座り込む。
「ご、ごめん! 大丈夫?」
ぼくの差し出した手を払い、彼女は立ち上がった。
燃えるような真っ赤な髪に、ぼくよりも少し高い背丈、グリフィンドールの制服。ジニーだ。ジニーはぼくに気付いていないのか、そのままふらふらとぼくらの横をすり抜け、何処かへ歩いて行ってしまう。
「……あの女子、ウィーズリー家の……」
「うん、ジニーだ。具合でも悪いのかな?」
ジニーの消えた方向を見つつ呟く。先日会った時も、何処か顔色が悪そうだった。体調でも崩しているのだろうか。
「アリス、先に行ってて。ジニーの様子を見てくる」
「んにゃ、いいよ、俺も行く。お前じゃ彼女を支えらんねぇだろ」
「失礼な。ぼくにだってそのくらいの力はあるさ」
「どうだか」
うっわ、鼻で笑いやがった。ムカつく。でも確かに、ぼくよりジニーの方が背が高いのは事実なのだ。悲しいことに。
「きゃああああっ!!」
唐突に、全てを切り裂くような悲鳴が上がった。女子生徒の声だ。
思わず身体が硬直するも、アリスがぼくの手を掴んで悲鳴が聞こえた方向へと走り出したことで我に返った。引きずられまいと懸命に足を動かす。
悲鳴が聞こえた大体の位置が、アリスには分かっているようだった。迷うことなく一直線に階段を駆け上がっていく。
やがて──図書館前の廊下で、アリスは足を止めた。
「遅かったか……」
目の前には二人の少女が立っていた。ハーマイオニーと、レイブンクローの監督生、ペネロピー・クリアウォーターだ。
最初、単に彼女達は、その場に立ち竦んでいるのだろうと思った。
……だけど、違った。
彼女達は立ち竦んでいるのではない。石にされているのだ。
「……ダンブルドアを呼んでこようか」
「いや……その必要はないみたいだな」
耳を澄ませながらアリスは呟いた。僅かに聞こえる足音やざわめきは、徐々にこちらへと近付いてくる。
寒気がして、ぼくは壁に背中を預けた。目頭を押さえて長く息を漏らしたぼくに、アリスが心配げに「大丈夫か」と尋ねる。
「大丈夫……ハーマイオニーが犠牲になったことに、ショックを隠し切れないだけだから……」
マグル生まれの子供が狙われる、この事件。ハーマイオニーもマグル生まれだということを、決して忘れていたわけではない。
でも────。
壁に体重を預けたまま、ずるずると地面に腰を下ろした。
『秘密の部屋は、実は五十年前に一度、ある人物の手で開かれたことがあるんだ』
リィフの声が耳奥で蘇る。
『一人、女子生徒が犠牲になってね。その際、ある生徒が犯人として挙げられた。そしてその生徒を犯人だと糾弾した生徒には、ホグワーツ特別功労賞が授与されたんだ』
例のあの人──ヴォルデモート。
彼の本名が、トム・リドル。
秘密の部屋を開けた犯人を探し出した功績として、ホグワーツ特別功労賞を授与された少年。
トム・リドルの日記の存在。
ハリーがグリフィンドール寮に置いていたリドルの日記は、誰かに盗み出されたと言っていた。
それは、誰にだ?
グリフィンドール寮には、合言葉がないと入れない。
それらを踏まえて、考えろ。
「もしかして──── なのか?」
ぼくの呟きは、こちらに走ってくる大人達の足音によって掻き消された。
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