昼休み。少しだけ早く教室に着いてしまったぼくは、一人ぼんやりと外を眺めていた。
季節は冬に向かいつつある。外の風は徐々に冬めいてきたが、閉め切った窓際にいると、陽射しはぽかぽかと暖かい。ひとり日向ぼっこに興じていたところ、不意に背後から肩を叩かれた。
「ジェームズ!」
「やぁ、秋」
ジェームズは笑顔で片手を上げた。見ると、彼も一人のようだ。
「シリウス達は? 一緒じゃないんだ」
「今日までに図書館に返さなきゃならない本があってね、僕一人先に出てきたんだ。あの三人はまだ中庭にいる頃だろう。ピーターの度胸試しも兼ねて、大王イカの足を
頑張れ、ピーター。ぼくは内心で深くピーターに同情する。
シリウスはお兄ちゃん気質かガキ大将気質か、ちょっとドジで引っ込み思案なピーターを必要以上に構いたがる。時々シリウスに対し「それって大丈夫?」と不安になることもあるが、まぁ二人は楽しそうなので問題はないかと結論を出している。
ジェームズはぼくの隣の椅子を引いて腰掛けると、気負った様子もなく口を開いた。
「最近、セブルスと口をきいてないようだけど、何かった?」
いきなり直球を投げられ、思わず言葉に詰まった。その振る舞いこそ雄弁なものはない。眼鏡の奥の瞳は、全てを見通して尚、穏やかな色を湛えていた。
少しの間躊躇った後、ぼくは意を決して口を開く。
「……この前、セブルスが別人のように見えたんだ」
ホグズミードでの秘密の講演、スリザリンのテーブルで上がった歓声、セブルスとの会話──。
ジェームズは時折顔を顰めながらも、黙ってぼくの話を聞いていた。ぼくが話し終わると、目を伏せ、髪をぐしゃぐしゃと掻いて考え込む。
「セブルス・スネイプ。彼の噂を、僕は耳にしたことがある。この学校に入学したての頃だ。君は聞いたことがあるかい?」
「噂? ……うぅん、ないよ」
入学したての頃は、周りの噂なんて聞く余裕はどこにもなかった。ただただ毎日を生きるのに精一杯で、他のことに気を向ける余裕なんて、どこにも──。
「入学してすぐに話題になったんだ。『スリザリンに、闇の魔術に関して上級生よりも詳しい一年が入ってきた』ってね。その一年が、何を隠そうセブルス・スネイプだ」
「……え?」
目を瞠った。ジェームズは窓の外を眺めながら言葉を続ける。
「そうか……君は知らなかったんだね」
「……ごめん」
「謝る必要なんてないよ」
ジェームズは朗らかにそう言った。ぼくの謝罪の意味を、しっかりと理解しているようだった。
ぼくが思わず謝ってしまったのは、セブルスについて何も知らないことに改めて気付かされたからだ。
寮が違うから、なんて言い訳にはならない。知り合って既に三年も経つのだ。
相手のことを、何も知らないで──
今までよく臆面もなく、セブルスを一番の友達だと思っていたものだ。
……そうすると、あの時のセブルスは。
別人のように感じたセブルスも、ただぼくが知らなかっただけなのか。
知ろうともしていなかった、だけなのか。
「そう自分を責めるなよ、秋。君がセブルスについて何も知らないのは、セブルスが意図的に伏せていただけだと思うけどな、僕は」
「……どういう意味?」
「さぁ? 話したくないから話さないだけだと、僕はそう思うよ。彼は、君のことをとっても大事に思っているから──傷つけたくない一心なのかもね」
首を傾げる角度がぐぐっと深くなる。そんなぼくに苦笑して、ジェームズは「髪が床に着いちゃうぞ」と肩を竦めた。ぼくは頭を起こして、少しだけ思案する。
「……ならぼくは、セブルスを信じてみたいと思うよ。これから先も、このまま」
「君がそう言うなら、僕も彼を信じるよ」
ジェームズはさらりと言うと、にかっと笑ってみせた。
穏やかな、昼下がりのことだった。
◇ ◆ ◇
醜い大きなガーゴイル像の前に立つと、ぼくは大きく深呼吸をした。一言呟く。
「レモン・キャンディー」
途端、ガーゴイル像の目がクワッと開いてぼくを見下ろした。命が吹き込まれたような滑らかな動きで、ガーゴイル像は飛び上がって脇に寄ると、ぼくを奥へと促す。同時に、背後の壁が音を立てて左右に割れた。
知ってはいたものの、こうして訪問するのは初めてだ。エスカレーターのように動く螺旋階段を見上げながら、合言葉が変わっていなかったことに安堵する。でも万が一にと、昨日寮の友人達に魔法界のお菓子の名前を聞きまくったメモは必要なかったようで、そういった意味では少しだけ残念だ。
階段に両足を乗せると、階段は自動的に動き始めた。これならダンブルドアのようなお年寄りでも大丈夫だろう。いやダンブルドアは健脚そうだけども。
背後の扉が閉まる音に、もう引き返せないぞ、と表情を引き締めた。
階段は、輝きを放つ樫の扉の前で止まった。左手を伸ばして扉をノックすると、扉は音もなく開く。
広くて美しい円形の部屋だった。室内は不思議な小さい音で溢れている。壁には歴代の校長先生の肖像画がずらりと並んでいたが、誰もが深い眠りに就いているようだった。
「いつ来てくれることかと楽しみにしておったよ。アキ・ポッターくん」
穏やかな声に目を向ける。
部屋の奥、大きな事務机に腰掛けたまま、ダンブルドアはぼくを見ていた。その隣には
「たまには、校長先生とお喋りするのも悪くないなと思いまして」
にこっと笑顔を見せると、ダンブルドアは楽しげに笑った。正面にあるふかふかとしたソファを勧め「何を飲むかの?」と尋ねてくる。
「じゃあ……紅茶で」
ダンブルドアが指を振ると、銀色のティーポットがふわふわと空中に浮いてはひとりでに紅茶を淹れ始めた。
しばらくそれを見ていたい気持ちもあったが、ダンブルドアが「さて、アキ。一体君は何の話をしに来たのかね?」と促したので、ぼくは視線を外しダンブルドアを見る。
「そうですね……秘密の部屋と、トム・リドルについて、なんていかがでしょう?」
ダンブルドアの笑みが、一層深くなった気がした。
手元に、ティーカップに注がれた紅茶が運ばれてくる。ダンブルドアはぼくを見ながら、右手のゴブレットを少し掲げた。ぼくも同様に、ティーカップを少し持ち上げ、傾ける。
陽が傾き始める、午後六時三十分。
二人だけのお茶会が、始まる。
「リドルの日記について、ご存知ですか?」
「日記とな?」
「はい。三ヶ月くらい前に、捨てられていたものをハリーが拾ったそうです。その日記にはトム・リドルという生徒の名前が記されていました」
ダンブルドアは静かに続きを促してくる。
……どうでもいいんだけど。本当は今現在凄まじいまでの厳戒態勢が敷かれていて、午後六時以降の寮からの外出は禁止されているんだけど……ダンブルドアって「どうやって抜け出してきたのか」とか「規則は守らないと」とか、そういったこと何一つ言わないんだなぁ。すっげぇや。
「日記は、一見何も書かれていない、真っ白なノートそのものだったそうです。でもその日記に文字を書き込むと、自らを『トム・リドル』と名乗る人物から返事が来た。彼は五十年前の事件の時、彼が犯人を捕まえた夜の思い出の中に、ハリーを連れて行きました」
ダンブルドアはふと、机の上の銀細工に目を奪われたようだった。そんなダンブルドアを無視して、ぼくは話し続ける。
「ハリーが日記を拾った翌日、ハリーからこの日記のことを教えてもらいました。ただの日記帳のようだったけれど、本当は全然違う。魔法を解析しようとしても全然歯が立たない。凄まじいまでの魔力が秘められている代物です。……日記の中の彼と、少しお喋りもしました。ぼくの欲しい情報はあまり喋ってくれなかった──というより、意図的にはぐらかされてばかりでしたけど。
そんな日記が、先日ハリーの部屋から盗み出されました。ハリーはその日記の存在を、ぼくとロンとハーマイオニー以外には話していないと言っていました。それら全てを統合して、今からぼくの考えを話します」
ダンブルドアは、唐突に銀細工への興味を失ったようだった。今度はフォークスを突き始める。
「スリザリンの後継者はトム・リドルであり、彼がこの日記越しに、生徒を操って事件を引き起こしている。以上が今回の事件の顛末です」
「……もう少し詳しく話してくれんかの?」
やっとのこと口を開いたダンブルドアは、そんな言葉を口にした。
「君は言葉が足らないのが唯一の難点じゃな。皆が皆、君の思考についていけるとは限らぬことを、ゆめゆめ忘れぬよう」
「じゃあ、何を語れば良いんです?」
「そうじゃのう、それでは手始めに、秘密の部屋を開けたのはトム・リドルだという考えに至った理由について聞かせてもらおうか」
「アリスの父親から聞きました。五十年前、秘密の部屋は確かに開かれた。証拠はないけれど、絶対に彼しかいないという人物が後から判明したと。その人物こそがヴォルデモート卿──ハグリッドを糾弾してホグワーツ特別功労賞をもらった少年なのだと」
リィフは口が軽いのが難点じゃの、とダンブルドアは小さく呟く。
「君相手だから話したんじゃろうが……見る目は確かではあるものの、尚更じゃの」
「リィフさんを責めないでください、ぼくが聞き出したも同然なので。……トム・リドル=ヴォルデモートの部分も、リィフさんから確からしさを得ました。彼なら──彼ならきっと、生徒を操って事件を起こさせるくらい、容易なことでしょう」
そう。
幣原秋の世界のように。
たった一度の講演で生徒を味方につけることができる彼なら──そんなこと、余裕だろう。
「左様。彼はその気になれば、いくらでも魅力的になることができた」
ダンブルドアは、何かを思い出すかのように言った。首を傾げるぼくに「じゃあ、逆に問おう。君は何が分かっておらぬのだと思う?」と問いかける。
「……秘密の部屋にいるスリザリンの怪物の正体と、秘密の部屋の場所。あと、操ったとされる生徒の特定」
「然り。それらの証拠がない限り、君の仮説は未だ妄想の域を出ぬ」
「ですね。だから今日は、先生とお喋りをしに来たんです」
両手を胸の前で広げ、ぼくはダンブルドアに笑みを向けた。
「この妄想について、校長先生はいかが思われますか?」
「アキよ、いつの間にそんなしたたかな子になったんじゃ?」
「やだなぁ、昔っから変わらない、可愛い可愛いアキくんじゃないですか」
二人、腹の奥に一つ抱えながら笑い合う。
静かにぼくは笑顔を消した。
「……リドルの日記は、グリフィンドール寮のハリーの部屋から盗まれたそうです。リドルに操られている生徒は、グリフィンドール生である可能性が高いと思います」
「その生徒の予想は?」
「……ついてません」
ダンブルドアの薄いブルーの瞳を見返す。先に目を逸らしたのは、ダンブルドアだった。
「……分かった。グリフィンドールには殊更厳重な警戒を行うとしよう」
「……ありがとうございます」
「と、言いたいところなんじゃが」
ん? とぼくは「ありがとうございます」を言い終えた表情のまま動きを止めた。
ダンブルドアはひょいっと若々しく肩を竦めると、大きなため息をつく。
「いやー、理事の決定? とかいうやつでのぉ、わし、停職になっちゃったんじゃよ。つい昨日のことじゃ。そろそろ荷物をまとめて出ていこうとしておったのじゃが、その時に君がやって来たというわけでの」
「……え?」
「というわけで、悪いがマクゴナガル先生にもう一度話してもらっても構わんかの? ところでアキ、せっかく長い休暇をもらったことだし、どこか旅行にでも行こうと思うのじゃが、どこがいいと思う? 個人的には日本の『温泉』というものが凄く気になっているんじゃが……」
そう言いながら、なんとダンブルドアは本当に『別府・湯布院』と表紙にでかでかと印刷されている観光マップを見せてきた。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。さっきまでの真面目な雰囲気どこ行った。お願い五クヌートあげるから早く帰ってきて。
「……い、いいと思いますよ。疲労などにもよく効くらしいですし、温泉は」
「そうじゃのう。若返ってくるかの」
「えぇ、是非に」
ぼくは大きくため息をついた。……全く、もう。
ふと時計を見ると、そろそろいい時間になっている。これ以上大した情報が得られるとも思えない。「お暇します」と頭を下げ、ぼくは肩を落として出口へと歩いて行った。
「……あぁ、そうだ。最後にひとつ、聞きたいことがあるんでした」
くるりと振り返る。気負いもなく、あえて自然に、ぼくは呟いた。
「幣原秋の父親、幣原直と、トム・リドルは友人だったそうですね」
「…………そう言えば、そうじゃったのう」
「ぼくにはよく分かりませんが……」
一度静かに目を閉じた。肩に入っていた力を意図して抜く。
薄く微笑んで、ぼくは言った。
「かつての友人を殺すことに、ヴォルデモートは、少しは良心が痛んだことがあるんでしょうかね。それとも彼にとっての友人とは、自らの目的のためならば殺しても何ら差し支えないような相手のことを指すんですかね」
返事は聞かずに言い逃げる。
背後で扉が、静かに閉まった。
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