「秋」
図書館で本を探していた時、ぼくは久しぶりにセブルスに声を掛けられた。
心臓がどきりと強く脈を打つ。一瞬声を詰まらせた。
「……セブルス、久しぶりだね。君も図書館へ?」
「あぁ。魔法薬学の本でね、史書の先生に頼んでいたものが届いたんだ。それを受け取りに」
そう言いながら、セブルスは腕に抱えていた本を少し傾け、ぼくにタイトルを見せた。表紙がまだ新しい。聞けばつい先日出版されたばかりの本なのだという。
「この著者の思考は興味深いよ。君も一度、読んでみるといい」
「へぇ、じゃあ借りてみようかな」
セブルスがそこまで絶賛する著者に、思わず興味を惹かれた。勧められるまま数冊本を借りる。図書館を出て、ふと思いついた。
「……そうだ、セブルス。これから時間ある? 久しぶりにさ、小部屋にでも行ってみない?」
しかし、セブルスの返事は渋かった。
「いや……すまない、遠慮しておくよ。今日は寮の先輩に呼ばれているんだ」
「そう……じゃあ、仕方ないね」
ばいばい、と笑顔で手を振る。セブルスに背を向け、ぼくは歩き出した。
「はぁ……」
何だかちょっと、意気消沈。さっきまでは重さを感じなかった両手の本達も、急にその重さを主張し始める。
肩を落としつつ廊下を歩いていると「秋!」と声を掛けられた。ぼくに手を振りながら、リリーが駆け寄ってくる。その無邪気な笑顔に、思わずふわりと心が弾んだ。同時に本も軽くなった。
「リリー」
「秋に会いたいなぁって思いながら歩いてたら、本当に会えたんだもの。びっくりしちゃった」
「本当に? ぼくに会いたいって思ってたの?」
「本当よ。秋にはいつでも会いたいわ。なんで一緒の寮じゃないんだろうって、常日頃から思ってるくらい。でも同じ寮だったら本当に四六時中ずっと付き纏っちゃうから、もしかしたら組み分け帽子はそれを危惧して引き離したのかもね」
ぼくの隣に並んだリリーは、いつものようににっこりと笑った。
その笑顔は、ぼくがリリーと初めて出会った一年生の頃から全く変わらない。その変わらなさが、今は凄く嬉しかった。
「……でね、そこでミサが……ちょっと秋、ちゃんと聞いてるの?」
「聞いてる聞いてる」
ぼくがずっとリリーの横顔を見つめていたからだろうか。リリーは唇を尖らせると片眉を上げた。
軽く笑うと手を上げ、リリーの頭を軽く撫でる。途端、リリーはびっくりしたように目を見開くと、ぱっと頬を染めて俯いてしまった。
「あ、ごめんね」
「ひゃっ、違うの、嫌だったわけじゃなくて……ちょっとびっくりしただけ。……どうしたの?」
リリーは上目遣いでぼくを見る。
「まだ、リリーの方が背が高いなぁって思って。でも、前より差は縮まってきた気がするな」
「……ふんっ、秋には絶対に抜かれないわ。秋は大人になってもきっとそのまま、私よりちっちゃくて可愛いままなのよ」
「それは困るなぁ」
リリーはつんとぼくから顔を背けると、手を後ろで組んで数歩前に出た。綺麗な赤い髪の毛が、リリーの背中で揺れている。
「……困るって、どういう意味よ」
「え? ごめん、聞こえなかった」
「なんでもないわ!」
リリーの早口が聞き取れず、ぼくは首を傾げた。しかし聞き返しても突っぱねられたので、ぼくは仕方なしに口を噤む。
すると、リリーはこちらを窺うように振り返った。
「……今から、どこ行くの?」
「そうだなぁ、久しぶりに悪戯仕掛人に会いたくなっちゃって、小部屋にでも行こうかと思ってたんだ」
「そ。……じゃ、私も行こうかな」
付け加えたようなリリーの言葉に、ぼくは僅かに目を瞠った。
「……ありがとう、リリー」
ぼくの言葉に、リリーはきょとんとした顔をした。不可解そうに「なんで『ありがとう』?」と首を傾げる。
「さぁね。なんとなく、言いたくなったんだ」
ふぅん? とリリーは訝しんでいたものの、そういうものだと思ってくれたようだ。
ぼくは胸の中でもう一度呟く。
ありがとう、リリー。
ぼくをこんなに穏やかな気持ちにしてくれて、ありがとう。
この穏やかな時間が、ずっと続けばいいと願った。
◇ ◆ ◇
ダンブルドアが消え、ハグリッドがアズカバンへと連れて行かれた後のホグワーツは、何というか──静か、だった。いるべき人がいないと、ここまで冷え冷えとするんだなぁと改めて感じてしまう。
特にこんな時期にダンブルドアがいないとか、理事会とやらを本気で怒鳴りつけてやりたくなるな。しかも噂によれば、ダンブルドアを停職させたのはドラコの父親だという。お前のせいで今頃ダンブルドアは日本で優雅に温泉浸かってんだぞ! と、ちょっとドラコの父親正座させて小一時間説教したい。
しかしダンブルドアがいなくなっても、校内は
こんなご時世でも、授業は通常営業だ。マクゴナガル先生が「一週間後の六月一日から試験を行う」と宣言したため、皆身が入らないまでも緩慢に、頭の中を無理矢理試験モードに切り替えて勉強する日々を送っていた。
それから四日後。つまり、試験の三日前の朝食の席でのことだ。
テスト直前のレイブンクロー生は、なんというか、こう、近寄りたくない気迫に満ちている。朝食を取りながら暗記をし、口を開けば歴史論述の議論が始まり……とまぁ、他の寮では見られないような光景が日常だ。慣れると案外面白い。
今日もまたウィルとレーンが、魔法薬学のとある実験の解釈について朝っぱらから議論をしていた。同室のよしみということで、ぼくとアリスも議論に巻き込まれ、まぁそれなりに楽しく意見を交わしていると、教職員テーブルにてマクゴナガル先生が立ち上がった。
生徒の注目を集めたマクゴナガル先生は、しんと静まり返った大広間を見渡し告げる。
「良い知らせです」
途端、大広間はどっと湧いた。皆が興奮して立ち上がり「ダンブルドアが帰ってくるんだ!」「スリザリンの継承者が捕まった!」と『良い知らせ』の内容を各々が勝手な妄想を膨らませては騒ぎ立てている。
その喧騒が収まった後、マクゴナガル先生は厳かに口を開いた。
「スプラウト先生のお話では、とうとうマンドレイクが収穫できるとのことです。今夜、石にされた人達を蘇生することができるでしょう。言うまでもありませんが、そのうちの誰か一人が、誰に、または何に襲われたのか話してくれるかもしれません。私は、この恐ろしい一年が、犯人逮捕で終わりを迎えることができるのではないかと期待しています」
マクゴナガル先生の言葉に、大広間中が歓喜した。
特にレイブンクローでは、五年生の監督生の女の子が襲われたこともあり、彼女の友人であろう先輩方が抱き合って喜び合い、感極まって泣きじゃくっている。かく言うぼくも、ハーマイオニーが目を覚ましてくれるという事実に嬉しさを隠しきれない。隠すつもりもないけれど。
でも、アリスですら笑顔で拍手を送ったくらいなのだ。ちょっとくらい、いやかなり喜んだっていいじゃないか。
「スプラウト先生愛してる!」
「薬草学最高! もう一生寝ねぇ!」
「俺、薬草学の試験だけは、ガチで勉強するわ……」
とレイブンクローににわかに薬草学ブームが巻き起こった折、ぼくのローブを誰かが引っ張った。目を瞬かせて振り返る。
「……ジニー? どうしたの?」
ぼくのローブの袖を摘んだまま、ジニーは暗い顔で俯いていた。辺りがレイブンクロー生ばかりだからか、落ち着かなさそうに身体を小さくさせている。
「……突然ごめんなさい。アキに、相談したいことがあって……」
「相談? ……いいよ、分かった。ここじゃうるさいでしょ、場所変えようか」
ジニーがこくりと頷く。……なんだろう、この前見た時よりも顔色が悪くなっていて、心配だ。
ジニーの手を引いて騒ぎの群衆の中からするりと抜け出すと、ぼくはきょろきょろと辺りを見回した。しかし大広間中がお祭り騒ぎで、静かに話せそうな場所は見当たらない。仕方ない、大広間の外に出よう。
騒ぎに加わることなく(かと言って「うるせぇ」と出て行くこともなく)レイブンクローのテーブルに座っていたアリスに一言告げて、ぼくらは大広間を抜け出した。
大広間の扉を閉めると、一気に静寂が訪れる。一息ついて、ぼくはジニーを振り返った。
「さて、相談したいことって何?」
途端、ジニーの瞳に大粒の涙が浮かんだ。
あまりに唐突なことに、思わず思考が停止する。その間にも、瞳に溜まった雫はぽろりぽろりと次から次に流れ出した。
一方のぼくは、もう完全に大パニックだ。女子に目の前で泣かれる経験なんて数えるほどしかない。しかもどうして泣いているのか、その理由がさっぱり分からないのだ。男としては、ただおろおろと狼狽えることくらいしかできない。
ハッと我に返るまで、たっぷり三十秒は要しただろうか。一瞬だったかもしれないし、三分くらい掛かったかもしれない。時間の感覚が曖昧で、なんだかふわふわして、それでいて頭の中はどうしようどうしようという思いでいっぱいだった。
「だ、大丈夫? どこか痛い? 大丈夫?」
どこか痛い? ってなんだよ! どんだけパニクってんだよ! とセルフツッコミを入れてみるも、心臓はさっきからずっと早鐘を打ち続けている。
ジニーはふるふると頭を振ると、ぼくに縋り付いてはしゃくりあげた。わ、わ、わ、と思わず両手を上げては辺りを見回す。
……流石にこの図は人に見られたらヤバいって!
「と、とりあえず、あっち! あっちに空き教室あるから、行こう、ね! ここ誰が通りがかるか分かんないしさ、落ち着いたところで話そう! ほら!」
声が上擦るのは仕方ない。空き教室へとジニーを連れ込むと、小さな椅子にジニーを座らせ扉を閉めた。ジニーの手にハンカチを握らせる。
ジニーはしばらく身体を震わせて涙を零していたものの、徐々に落ち着いてきたようだ。
「……落ち着いた? 一体、どうしたの?」
「うん……、あのね……あのね。アキ、あたしね……先に、ハリーに言おうと思ったんだけど……」
ジニーの言葉を辛抱強く待つ。
ハンカチを握り締めるジニーの手があまりにも震えているものだから、ぼくはジニーに近寄ると跪き、彼女の両手をそっと包み込んだ。
「あたしね……」
ジニーの手は、驚くほどに冷たかった。ぎゅっと力が入っていて、血の気が完全に引いている。
この小さな身体に、この子は一体どれだけのものを溜め込んできたのだろうか。
きっと、誰にも相談できなかったのだ。だから話し始めるのに勇気がいる。最近顔色が悪かったのも、ならばこの悩み事が原因か。
一瞬でも疑ってごめんと、心の中でジニーに詫びた。
「あのね……」
「うん」
「……あのね……」
「……うん。……えっ!?」
何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
気付けばジニーに、床に押し倒されていた。
ジニーの両手がぼくのハンカチを離す。その腕はぼくの首に伸びると、そのまま一気に締め上げた。
息が詰まる。呼吸ができない。血液が脳に行かなくなって、瞬時に意識が霞みがかる。
「どう、して……ジニー……?」
「どうして? 今どうしてって言ったのかい? アキ」
ジニーの声が降り注ぐ。
ジニーらしくない口調で、ジニーらしくない表情で、ジニーはぼくを嘲笑った。
「どうやら
「……っ、ぁ……」
「ねぇ、天才の名前を騙った偽物くん? 僕が誰だか分かるかい?」
笑顔が歪んで見えるのは、視界が歪んでいるせいだろうか。
違う。ジニーの笑顔はこんな醜悪なものじゃない。こんなに歪んでもなければ、邪悪でもない。
こいつは。
彼は。
君は。
「ヴォル、デモート……っ!!」
歪みが一層深くなった。ぼくの首を絞める手に、更に力が込められる。
「せーいかい♪」
その声を最後に、ぼくの意識は闇に塗り潰された。
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