ぼく、幣原秋は今、ちょっとだけ困っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「…………くしゅんっ」
「ふぁっ! …………」
ぼくがくしゃみをすると、ピーター・ペティグリューは驚いたように身を震わせた。どちらからともなく顔を見合わせ「ごめん」と互いに小さく呟く。ピーターはあうあうと頷いて目を逸らした。
そして、再び流れる沈黙。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
なんというか……空気がすんごく、重たい……。
悪戯仕掛人の小部屋で、ぼくとピーターは二人っきりで重たい沈黙の時間を過ごしていた。普段はジェームズやシリウスが好き勝手に喋り倒すから、沈黙というものを感じたことはなかったものの、ピーターと二人っきりだとこれが相当に、クる。
ぼくもそうお喋りな方ではないが、ピーターもなかなかの無口さんだ。出会ってから一年と少し経つものの、それでもなかなか砕けてはくれない。お互いを挟む壁が分厚い。今でも、ぼくが身じろぎをするたびにびくっと肩を震わせているし。なんだかちょっと寂しい。
「ジェームズ達……遅いね」
「そうだね……」
沈黙を埋めるかのように言い合うも、また沈黙。
ぼくらの間に漂っていた気まずい沈黙を破ったのは、驚くべきことにピーターの側だった。
「……ねぇ、秋」
急に名前を呼ばれ、ぼくは少し目を瞠った。咄嗟に微笑んで「どうしたの? ピーター」と問いかける。
「君は、今の学校についてどう思う?」
ぼくは笑顔を引っ込めた。
……今の学校。ピーターの言葉が意味するものとは、つまり。
「……居心地はちょっと、悪くなったよね」
ぴりぴりとした、妙な緊張感。理由もよく分からぬ重たい雰囲気。そして、何処か接し難くなったスリザリン寮所属の友人。
ヴォルデモートとは何者だ?
どうしてセブルスや他のスリザリン生は、彼を支持するんだ?
分からないことだらけで、少し気分が悪い。
「……秋は、ヴォルデモートがスリザリンの支持を受けている理由、分からない?」
「理由……」
ぼくの目を覗き込むようにしながら、ピーターが訊いた。薄い色の瞳をしっかりと見返すことができなくて、ぼくは自然と目を逸らす。
「ヴォルデモートはね、時代の象徴なんだ」
「時代の?」
「象徴。……彼はね」
「魔法使いの英雄になるよ」
「…………」
「……それがいい意味か、悪い意味かはともかくとしてね」
そう言って、ピーターはぼくから視線を外した。
ピーターが椅子に座り直したのを区切りに、ぼくも詰めていた息を吐き出す。両手の指をそっと合わせた。
バタバタッと慌ただしい靴音が、部屋の外から聞こえてくる。やがて扉が乱暴に開いて「やあやあ君達集まりかいっ!」とジェームズの楽しげな声が小部屋に響いた。
「もうっ、ジェームズったら遅いよ! シリウスも!」
「悪い悪い、マクゴナガルに捕まっちまってさ」
「授業で先生のテーブルをラクダに変えちゃったりするからだよ」
「マクゴナガルのあの顔と来たら」
途端に室内は騒がしくなる。ぼくは思わず微笑んだ。
「随分と楽しそうなことしてるね。ぼくも見てみたかったなぁ」
「面白かったぜ! じゃあ今度もう一回、マクゴナガルに何か仕掛けようか」
「だから毎回罰掃除が絶えないんだよ、二人とも。リーマスは?」
「今日は体調悪いんだって。医務室で寝てるよ」
「そう、じゃあ後でお見舞いに行きたいな」
談笑しながら、ぼくはちらりとピーターを見た。
ピーターも横目で、ぼくをじっと見つめていた。
◇ ◆ ◇
「生徒が、しかも二人も、怪物に連れ去られました。『秘密の部屋』そのものの中へです」
「誰ですか? 一体、どの子ですか?」
呆然とした声でマダム・フーチが尋ねた。マクゴナガルは一度声を詰まらせた後、淡々と答える。
「グリフィンドールのジニー・ウィーズリーと、もう一人──レイブンクローのアキ・ポッターです」
隣で、ロンがへなへなと崩れ落ちた。
僕は今聞いたことが信じられなくて、どこか現実味のない心持ちで、マクゴナガルの声を聞いていた。
職員室で先程盗み聞きした話が実感として湧いてきたのは、グリフィンドールの談話室の片隅で、ロン、フレッド、ジョージ達と一緒に座っていた時だ。正直、どうやって寮に帰ったか全く覚えていない。
──アキが、秘密の部屋に連れ去られた?
何かの悪い冗談としか思えない。誰か、早く嘘だと言ってくれ。
明日の朝一番のホグワーツ特急で、僕達生徒は全員、強制的に帰宅させられてしまうらしい。
──アキは?
アキをホグワーツに残したまま、僕はダーズリー家に帰らなければいけないのか?
当てもない、まとまらない考えが、頭の中でずっとぐるぐる回り続ける。
「ジニーは何か知っていたんだよ、ハリー」
陽が落ちて、フレッドとジョージが寝室へと上がって行った後、職員室の洋服掛けに隠れて以来初めてロンが口を開いた。
「だから連れていかれたんだ。パーシーのバカバカしい何かの話じゃなかったんだ。何か『秘密の部屋』に関することを見つけたんだ。きっとそのせいでジニーは……だって、ジニーは純血だ。他に理由があるはずがない」
──じゃあ、アキは?
そう言い返しかけ、かろうじて残る理性を動員してぐっと押し留めた。
今口を開いたら、何もかもをぶちまけてしまいそうな心地だ。
辛いのは、僕だけじゃないのだ。
「ハリーは、アキが連れ去られた理由に心当たりはないの?」
アキが連れ去られた理由──そんなもの、思い浮かぶわけもない。
アキが秘密の部屋に連れ去られる理由なんて、たったのひとつもあっていいはずがない。
いつだって鮮明に、アキの姿は脳裏に思い浮かべることができる。
幼くも聡明な表情を。長く艶やかな黒髪を。僕を見て微笑む、柔らかな笑顔を。
『ハリー』
僕を呼ぶ、高くて澄んだ声を。
それだけで、堪らない気持ちになった。
「ハリー。ほんの僅かでも可能性があるだろうか。つまり──ジニーやアキがまだ────」
ロンの言葉が意味するところに思い当たって、僕は黙って俯いた。
……秘密の部屋に連れ去られて、二人が無事でいるとは思えない。
ロンは暗い雰囲気を振り払うように大きな声をあげた。
「そうだ! ロックハートに会いに行くべきじゃないかな? 僕達の知っていることを教えてやるんだ。それがどこにあるか、僕達の考えを話して、バジリスクがそこにいるって教えてあげよう」
ハーマイオニーが残してくれた手掛かり──秘密の部屋に隠された怪物、バジリスク。
その手掛かりを発見したときの午前中の興奮は、今やもうすっかり萎びてしまっていた。気怠くて、何をするのも億劫だ。でも他に案はないことだしと、僕はロンと一緒にグリフィンドールの談話室を出た。
もう既に陽は落ち切って、廊下は昼間よりずっと薄暗い。いつもは見回りをしている先生方の姿も今日はない。きっと話し合わねばならないことが山積みなのだろう。
人の気配が消えてしまった廊下を、ロンと二人、黙って歩いた。
「アキの兄貴っ!」
その時、唐突に背後から声を掛けられた。慌てて振り返ったぼくに、ロンもつられて顔を向ける。
僕のことをこんな呼び方で呼ぶのは、ホグワーツ広しと言えども一人しか思い当たらない。
「フィスナー……」
驚いたように、ロンが小さく呟いた。
走ってくる足音が近付いてくる。やがて息を軽く切らせながら、アリス・フィスナーは僕達に追いついた。
「良かった、捕まえられて……グリフィンドール寮まで行こうと思ってたんだが、道がわかんなくてよ。教師の監視も厳しいし、さっき隙見て抜けてきた」
「えっと、どうして……?」
ん? と不思議げに、彼の
「アキを助けに行くんだろ?」
そう、当然のように告げられた言葉に──僕はやっと、目が覚めた。
頭を思いっきり殴られたような気分だ。ロンも驚いたような、何かを悟ったような、そんな表情で僕を見返した。
息を止め、ゆっくりと吐く。ぎゅっと強く目を瞑り、目を開けるとアリスを真っ正面から見つめた。
「そうだ、行こう」
彷徨っていた目的が────
今、ストンと腹に落ち着いた。
「アキを……アキとジニーを、助ける」
思いを込めて、言い聞かせるように呟く。
諦めるな。
膝をつくな。
目を伏せるな。
腹に力を込め、姿勢を正した。しっかりと顔を上げ、前を見据える。
──もし、僕が秘密の部屋に連れ去られたとして、アキはそこで諦めて、ただただ無力に座り込むだけだろうか?
──絶対違う。そう言い切れる。
アキは動く。たった一人でも、僕を助けに来てくれる。
それがたとえ、どんなに危険な道だったとしても。
────絶対に。
「……僕らは、多分だけど……秘密の部屋の入り口を知ってる。それを今からロックハートに伝えに行くところなんだ。ロックハートは秘密の部屋に入ろうとしてるからね。……アリス」
改めて、この少年がアキの一番の友人である理由を理解した。
そのことに、ちょっとだけ嫉妬した。
「君も一緒に来て欲しい。アキが連れ去られた理由が分かるかもしれない」
アリスは、当然とばかりに頷いた。
ロックハートを連れ、三階の女子トイレに向かう。杖を『武装解除』された挙句に先頭を歩かされているロックハートは恐怖にガタガタと震えていたが、可哀想だとはちっとも思わない。ロックハートがただの詐欺師のペテン師だってことも発覚したことだしね。
いやぁ、しかしアリスがいてくれて良かったよ。アリスがロックハートの胸倉を掴んで凄んだだけで、怯えてなんでも喋ってくれた。まぁ確かに、アリスに脅されたら僕も怯えるとは思うけど。喧嘩慣れしているからか、脅し方がサマになってる。本当に同級生か? と疑ってしまうほどだ。アリスに脅されてビビらない奴なんて、きっとアキくらいのものだろう。
アリスも女子トイレに入ることに多少なりとも抵抗があったようだけど、一度眉を寄せただけで、ごちゃごちゃと喚いているロックハートの背中を蹴り飛ばし、男らしく女子トイレに入って行った。おぉ、と思わずロンと二人で顔を見合わせ、僕らもアリスの後に続く。
一番奥の小部屋のトイレに腰掛けていたマートルは、僕を見るなり表情をぱっと明るくさせた。
「アラ、あんただったの。今度は何の用?」
「君が死んだ時の様子を聞きたいんだ」
僕の言葉を聞いたマートルは、見たことがないほど嬉しそうな顔をした。
「オォォォウ、怖かったわ。まさにここだったの。この小部屋で死んだのよ。よく憶えているわ。オリーブ・ホーンビーがわたしの眼鏡のことをからかったものだから、ここに隠れたの。鍵を掛けて泣いていたら、誰かが入ってきたわ。何か変なことを言ってた。外国語だったと思うわ。とにかく嫌だったのは、喋ってるのが男子だったってこと。だから、出ていけ、男子トイレを使えって言うつもりで鍵を開けて、そして──死んだの」
「どうやって?」
「わからないわ。憶えているのは、大きな黄色い目玉が二つ。身体全体がギュッと金縛りに遭ったみたいで、それからふーっと浮いて……そして、また戻ってきたの。だって、オリーブ・ホーンビーに取り憑いてやるって固く決めてたから。あぁ、オリーブったら、わたしの眼鏡を笑ったことを後悔してたわ」
「その目玉、正確に言うとどこで見たの?」
マートルは手洗い場の辺りを指差した。ロックハート以外の全員は急いで手洗い場に近寄ると、目を凝らして何か仕掛けがないかを丹念に探す。
やがて僕は、蛇口の脇に彫られた小さな蛇の形を見つけた。手を伸ばして蛇口を捻ろうとするも動かない。
マートルはどこか楽しげに言った。
「その蛇口、壊れっぱなしよ」
「ハリー、何かを言ってみろよ。何かを蛇語でさ」
「蛇語? アキの兄貴は蛇語が使えるのか?」
「僕にもどうして使えるのか分からないんだから、詳しいことは聞きっこなしだよ、二人とも」
ロンとアリスを窘めて、僕は何を話せばいいかを考える。
「開け」
二人は揃って首を振った。うぅむ、難しい。もっと集中して、本物の蛇と向き合った時の気持ちを思い出して、もう一度────。
「開け」
今度は自分でもはっきりと分かった。
自分の口から漏れる、まるで蛇の息遣いのようなシューシューという奇妙な音。
次の瞬間、手洗い場が動き出した。慌ててその場を飛び退き、様子を見守る。
やがて────
「ここが『秘密の部屋』……」
五十年間閉ざされていた、秘密の部屋が姿を現した。
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