「なぁ、今日はこのまま小部屋に行くだろ?」
そうシリウスが声を掛けてきたのは、レイブンクローとグリフィンドール唯一合同の授業である闇の魔術に対する防衛術が終わった時だった。
確かに、今日の授業はこれでおしまいだ。夕食までは一時間かそこら時間がある。期日が迫っている課題もないしと、ぼくは「うん、いいよ」と頷いた。
「ジェームズ達は?」
「ジェームズは日直。リーマスは図書館で、ピーターは忘れ物して寮に戻ってる」
「あぁ、なるほどね」
他愛もない雑談を交わしながら、ぼくらは二人で廊下を歩いた。
放課後の廊下は、それなりに人通りも多い。その中ですれ違う女子生徒は、結構な確率でシリウスをはっとした顔つきで見つめているものだから、改めてシリウスの顔の良さを感じさせる。
……それはいいんだけどさ。シリウスに見惚れた後、隣にいるぼくに気が付いて顔色を変えるのは止めてくれませんかね。彼女か? みたいな疑いの顔。全然違うっての、傷つくねぇ。
その時、隣をすっと通り過ぎた影があった。セブルスだ。先輩か同級生かは分からないが、スリザリン寮の人と一緒にいる。
思わず振り返ったぼくにつられてか、シリウスも顔を後ろに向けた。
「ふん……スネイプか」
「……セブルス」
行くぞ、とばかりにシリウスがぼくの肩を小突く。ちょっと俯いたまま、ぼくはシリウスの半歩後ろを歩いた。
「あいつとケンカでもしてんのかよ?」
「……別に。ただ……最近、あまり話せていないだけ」
ふぅん、とシリウスはただ相槌を打った。
「放っておけばいいんだ、あんな奴」
「……でも」
「放っておけばいいんだよ、秋」
廊下を曲がった。普段は使われていない教室ばかりが並ぶそこは、先程までの喧騒が嘘かのように人気がない。
「放って……おくわけにもいかないよ」
「じゃあ、どうするんだ?」
そう尋ねられ、言葉に詰まった。
……ぼくは一体、どうしたいのだろう。
セブルスに一体、どうして欲しいのだろう。
合言葉を唱え、シリウスは小部屋の扉を開けた。円卓に腰掛けたシリウスの、その対角にある椅子に座る。
しばらくお互い黙っていたものの、やがてシリウスは口を開いた。
「スネイプが変わった理由が知りたいのか?」
ぼくは思わず顔を上げた。
以前、ピーターが言った言葉が脳裏に蘇る。
『……秋は、ヴォルデモートがスリザリンの支持を受けている理由、分からない?』
「理由……」
「残念だが、理由なんてないってのが俺の考えだけどな」
『彼はね……』
『魔法使いの英雄になるよ』
シリウスは足を組むと、両腕を頭の後ろに回す。椅子に体重を預け、目を細めてぼくを見た。
「感覚の違いは生まれ育った環境で決まるモンだ。いくら話しても無駄だよ」
「無駄って……」
「無駄だよ。感覚なんてモンは理屈じゃない。理詰めで話して通じるモンじゃない。秋、君は感覚的に、スネイプに違和感を覚えている、そうだろう? それがどういう理由なのか、分からないんだろう? つまりそれは、君とスネイプの感覚が根本的に違うってことだ」
「…………」
「感覚は、ほとんどが育った環境に依存する。自らが生まれ育った世界に違和感を抱く人間なんて……凄く、少ないんだ」
ふと、シリウスは切なげな眼差しを浮かべた。一瞬だけ垣間見えた表情に、ぼくは思わず驚いてしまう。
「セブルス・スネイプ。入学した段階で既に、上級生をも上回る程の闇の魔術に関する知識を持っていた男」
一呼吸置いた次の瞬間には、シリウスの瞳にはいつも通りの真っ直ぐな光が宿っていた。
「所詮はスリザリン生だ。俺達とは分かり合えない存在だ。人殺しのヴォルデモートを是とし肯定する、そんな奴を俺は、仲間とは思わない」
「秋。俺は、セブルス・スネイプを友とは認めない」
椅子を引きずる音が聞こえた。続いて足音と、扉が閉まる音も。
全ての音が消えた後、ぼくは息を吐いて固く目を閉じた。両手の指先を合わせ、額をつける。
ぼくの世界は、ぼくの意志とは無関係に、その形を変えようとしていた。
◇ ◆ ◇
秘密の部屋へと続くパイプを滑り落ちる。地下にあるどの教室よりも、もしかすると湖の底よりも深いんじゃないか。そう思うほどの長い時間が経った後、僕はやっと地面の上に着地した。
先に行かせたロックハートは、ヌメヌメの地面に叩きつけられたのだろう、全身ベトベトの無惨な姿で突っ立っている。ロンとアリスが降りてくるのを待ち、僕らは杖の明かりを頼りに歩き始めた。
「皆、いいかい? 何かが動く気配を感じたら、すぐ目を瞑るんだ……」
地面に落ちているのは小動物の死骸ばかりだ。それらも既に骨となり朽ち果てていて、僕はひたすらアキやジニーが無事でいることだけを祈っていた。
トンネルのカーブの先に、何やら大きく丸いものがあった。思わず足を止めると、皆も立ち止まる。
「ハリー、あそこに何かある……」
ロンが声を震わせながら、僕の肩をギュッと掴んだ。
アリスは明かりを灯した杖を掲げると、その物体に歩み寄る。平然とした様子のアリスに仰天しつつ、僕は小さな声で「アリス、気を付けて……!」と声を掛けた。
「ただの抜け殻だ。命は宿っていない。しかし、これは……驚いたな」
アリスが杖の先を物体に向ける。照らし出されたそれに、恐る恐る近付いた。
巨大な蛇の抜け殻だ。脱皮した蛇は、優に六メートルほどはあるだろう。抜け殻だというのに、鮮やかな緑の鱗がキラキラとその存在を主張している。
ロンが恐怖に満ちた声で呟いた。
「なんてこった」
──恐らく、これはバジリスクの抜け殻だ。
バジリスクは対象の目を見ることでその命を奪うと言う。ならば目さえ見なければいい。そう思っていたものの、こんなに大きいんじゃ話が違う。ぐるっと掴まれたら最後、簡単に噛み砕かれてしまうだろう。
……戦えっこない。
それにしても、アリスは興味深そうにバジリスクの抜け殻を見つめているが、果たして怖くはないのだろうか。まぁアキの一番の友人なのだ、普通の性格はしていないだろう。
そんな失礼なことを考えていた時、背後でドサッという音がした。振り返ると、ロックハートが腰を抜かしている。抜け殻を見てしばらく放心していたのだろうか。
「立て」
ロックハートに杖を向け、ロンはきつい口調で言った。以前アキに修理してもらっていたロンの杖は、スペロテープのぐるぐる巻きで見るも無惨な有様だ。アキに直してもらった直後はともかく、今となってはまともな呪文なんて掛からないんだと嘆いていたっけ。
ロックハートは、ロンの言葉に従いゆっくりと立ち上がると──なんとロンに飛びかかり、勢いよく殴り倒した。
思わず息を呑む。パッとロンに駆け寄ろうとしたが、アリスの方が早かった。しかしロックハートはそれより早く、ロンの杖を奪うと素早くアリスに向ける。アリスは素早く足を止めると、僕を庇うように右手を横に伸ばした。
僕らを牽制しつつ、ロックハートは肩で息をしながら立ち上がる。顔には普段通りの笑顔が戻っていた。
「坊や達、お遊びはこれでおしまいだ! 私はこの皮を少し学校に持って帰り、二人を救うには遅すぎたと皆に言おう。君達三人はズタズタになった無惨な死骸を見て、哀れにも気が狂ったと言おう。──さあ、記憶に別れを告げるがいい!」
ロックハートはロンの杖を頭上に翳し、叫んだ。
「
杖は小型爆弾なみに爆発した。トンネルの天井が崩れ、岩がバラバラと音を立てて落ちてくる。
僕は頭を守りながら後ろに逃げた。そのまま隠れてやり過ごす。
轟音が鳴り止み、土煙が収まった頃には、僕はたった一人でそこにいて、岩の塊が僕と他の三人の間を阻んでいた。
「ロン! アリス! 大丈夫か? ロン!」
「ここだよ!」
岩と岩の隙間から、かろうじて声が漏れ聞こえた。ホッと安心して胸を撫で下ろす。
「僕は大丈夫だ。フィスナーも。でもこっちのバカはダメだ……杖で吹っ飛ばされた」
僕は岩に手を触れた。ちょっとの力じゃビクともしない。
「さあ、どうする? こっちからは行けないよ。何年も掛かってしまう……」
手近にあった石を掴み、岩の塊に突き立てる。しかし僕の試みは、岩の表面を細かい砂粒に変えるだけだった。
……魔法で砕くか? でもこんな巨大なものを砕いたことなんてない。アキじゃないんだ、初めてでそう上手くいくとも思えない。
僕にはアキのような魔法の才能はないのだ。下手に力技で吹っ飛ばせば、天井ごと崩れて生き埋めになってしまうだろう。
かと言ってこのままでは、ただ悪戯に時間が過ぎて行くだけ──。
首筋を汗が伝った。手の甲で拭うと立ち上がる。
「ロン、アリス。そこでロックハートと一緒に待っていて。僕が先に進む。一時間経っても戻らなかったら……」
そこで言葉に詰まった。僕の気持ちを知ってか知らずか、ロンは明るく言葉を返す。
「僕らは少しでもここの岩石を取り崩してみるよ。そうすれば君が……帰りにここを通れる。だから、ハリー──」
ロンはその後にどんな言葉を続けるつもりだったのだろう。聞きたくなくて、ロンの声に被せるように「それじゃ、また後でね」と無理矢理話を切り上げた。
「アキの兄貴」
背を向けた僕に、静かな声が届く。アリス・フィスナーの声だ。
「必ず、二人を連れて戻って来いよ」
脳裏に、アリスの精悍な顔が浮かんだ。
思わず両手で顔を覆い──鋭く息を吐いて、両手を下ろす。
そうだ、僕は。
僕が、アキ・ポッターの兄だ。
僕が、アキを助けるんだ。
覚悟は決まった。
同時に、足の震えも止まった。
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