穏やかな昼下がりの休日。まだ真冬とは思えないほど青く高く澄み切った空は、数ヶ月に一回のご褒美であるホグズミード行きに相応しい、麗かな日だった。
「リリー、セブルス、早く行こうっ!」
振り返って誘えば「ちょっと待ってよ、秋!」と、二人が笑顔で駆けてくる。そんななんでもないことが嬉しくて、ぼくは笑った。
こうして三人で遊ぶのも、随分と久しぶりだ。最近の息詰まる日常を打破しようと、ぼくが二人を呼んだのだ。二人も、ぼくの呼びかけに快諾してくれた。
──そう。これは紛れもなくぼくの意志。
ぼくが、この二人と一緒にいたいと望んだ証拠。
「早く早くと君は急かすがね、秋。一体君は今からどこに行こうとしてるんだ? 僕らに見せたいものでもあるのかい?」
「それは、えっと……」
セブルスが肩を竦めながら尋ねるのに、ぼくは思わず口籠った。すかさずリリーがフォローしてくれる。
「それじゃあ私、ティーカップ専門店へ行きたいわ。大きいカップから小さいカップ、よりどりみどりのお店なの。今なら一つ買うと、カエルの卵が付いてくるのだとか」
「リリー、君のセンスについて今更どうこう言うのは僕は随分前から諦めてはいたんだがね、黙っておくのも許せないから言っておこう。君はおかしい」
「あら? 私からすれば、まるでピクシー妖精向けとも言わんばかりの、虫眼鏡を使わなきゃ読めないほど字のちっちゃな本を、まるで最愛の恋人から贈られた精緻な細工が施された宝石を眺めるように熱心に見つめる人の方が、相当おかしく感じられますがね」
「ぼくからすれば、二人とも相当おかしいよ」
肩を竦めてため息をつく。久しぶりの懐かしい感覚に、そっと微笑んだ。
……なんだ、二人とも、昔と何も変わってなんかいないじゃないか。
変わったのかと思った。危惧した。恐怖した。
でも実際は、ぼくらの関係は何も変わってなどいなかった。
昔と同じ──二人がぼくを受け入れてくれた時と同じ、暖かな雰囲気を今も感じる。
変わらない日常を、ぼくは望んだ。
変わらない時を、ぼくは望んだ。
変わらない関係を、ぼくが望んだ。
この穏やかな時間が、ずっとずっと続きますように。
永遠に。
そう、ぼくが願った。
変わらないものなんてないと気付くのは、もう少し先のことだったから。
◇ ◆ ◇
「う、ん……」
頭が酷く重たい。心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛む頭に、ぼんやりと意識が覚醒する。
次に感じたのは、頬の冷たい感触。どうやら、硬く冷たい地面に横たわっているらしい。薄く目を開けるも、辺りは薄暗くて何処なのか判別つかない。
ぼくはどうしてこんなところにいるんだろう?
ぼんやりとそう考えて──意識を失う直前のことを思い出し、ぼくは慌てて飛び起きた。衝撃で頭がズキンと鈍く痛む。
「いった……」
左手で頭を押さえた。
「やぁ、やっとお目覚めかい」
そこで声を掛けられ、地面に腰をついたまま顔を向ける。
「……君は……」
目の前に、一人の少年が立っていた。
歳は十五、六といったところだろうか。今とはデザインが少し違うものの、スリザリンカラーの制服を細身の身体にきっちりと纏っている。さらりとした短い黒髪に、濡れた血のような深紅の瞳。ぼくをじっと見据えるその顔はゾッとするほど整っていて、ぼくは生まれて初めて、男に対して『美しい』という形容を感じた。
「……ひょっとして、君が『トム・リドル』なのか?」
「そういう君は『幣原秋』じゃないようだけど」
リドルの輪郭はぼやけている。まるで記憶の中の世界のようだ。
いや──実際、その通りなのだろう。
「……あぁ、そうだ。ぼくは『アキ・ポッター』。ハリー・ポッターの弟だよ」
「ふぅん、アキ・ポッター、ね……ハリー・ポッターの弟、アキ・ポッター。『幣原秋』と比べるまでもなく、全く無名の名前だね」
リドルはクスクスと品良く笑った。しかし目は微塵も笑うことなく、ひたりとぼくを見据えている。
「君は日記とあまり接点を持とうとしなかったから、時間のズレに気付くのが遅れてしまった。最後に秘密の部屋が開かれて五十年、直の息子がまだホグワーツにいるわけないものね。……幣原秋。幣原秋。幣原秋。幣原直と、アキナ・エンディーネの子供。まさか彼が、闇祓いになって未来の僕の前に立ち塞がることになろうとは考えもしなかったよ。よりにもよって直の息子が、僕の前に! なかなか傑作な話だとは思わないか? 小説のオチに使われそうな
リドルはそのまま、何が面白いのか天を仰いで哄笑した。甲高い、奇妙な声だった。
ぼくは黙ってリドルを見つめる。やがて笑い止んだ彼は、酷く冷たい瞳でぼくを見た。思わず怯みそうになるも、ぐっと堪えて口を開く。
「トム・リドル。君が、マグル生まれ襲撃事件を引き起こした犯人だ」
ぼくの端的な指摘にも、リドルは動じなかった。ふん、とつまらなさそうに鼻を鳴らすと、肩を竦めて歩き出す。
「無粋だね。まぁいいや。そうだよ、僕が犯人だ。憐れで可哀想な少女、ジニー・ウィーズリーを操って、ホグワーツを恐怖に陥れた張本人だ。しかし皆、運が良いよね。前回秘密の部屋を開いた時のように、一人くらいは死ねば良かったのに」
「何……!?」
「別に驚くことはないだろう? 穢れた血が一人や二人死んだところで、世界は何も変わらないさ」
知らず、顔を歪めていた。吐き捨てるように呟く。
「……最低だな」
「真理だよ」
「どうして君のような人間が、ぼくの父親と友人だったんだ」
その言葉は、リドルには効いたらしい。眉を顰めてはぼくにツカツカと歩み寄り、座り込んだままのぼくの顎を掴んで見下ろす。ぼくは緩慢にリドルと視線を合わせた。
「
「どうだっていいよ、そんな細かいことは。それより、父さんが君なんかと友人だったなんてね。父さんもジニーみたいに操ってたの? それともその綺麗な顔と演技で騙したのかな?」
リドルの赤い瞳が細められた。ぼくの顎を掴む手に力が籠る。
「調子に乗るなよ、アキ・ポッター。幣原秋の名前を騙った偽物くん。直と何の関係もない君に、直のことを語られたくない」
「……でも、父さんは」
「お前が直を『父さん』と呼ぶな!」
ぼくは黙ってリドルを見つめた。
……この絶体絶命な状況を抜け出す光明が見えた。
常に冷静なトム・リドル。彼はきっと、今までにぼくが出会った誰よりも頭が切れる。
そんな彼が、唯一動揺し感情的になる相手がただ一人。幣原秋の父親、幣原直だ。これを使わない手はない。
「……君は、幣原直の友人だと言ったね」
「……だから何だと言うんだ?」
胡乱な眼差しで、リドルはぼくを見返した。
ぼくは全身から力を抜くと、穏やかに笑みを浮かべてリドルを見る。そんなぼくの反応に、リドルは多少なりとも戸惑ったようだった。
「ねぇ、良いことを教えてあげようか」
「……何」
口にする直前、一瞬だけ、胸がぎゅっと強く痛んだ。冷ややかで鋭い痛み。冷たい氷の棘で心臓を刺されたような痛みがする。全てを無視して、ぼくは口を開いた。
「幣原直と幣原アキナは、君が殺したんだよ」
それを聞いた時のリドルの顔は、何というか……笑えた。
理解できないものに、初めてぶち当たったかのような顔。素直に、ぼくは笑みを零す。
「……嘘だ」
「うふふ……あはっ、そう思うならそう思っていればいい。ぼくはこれを、未来の君から聞いたのさ」
図書館に置いてある、日刊預言者新聞のバックナンバーをどれだけ漁っても。
どの文献を探しても、そんな情報は一言たりとも載ってはいなかったけれど。
「僕が直を殺す? ……意味が分からないな」
「……未来の君が言うには、それは幣原秋のせいらしいけど」
そう言えば、去年のヴォルデモートはぼくに対して『幣原秋』と語りかけてきたな。あれは一体どういうことだったんだろう? でも、同一人物であるはずのリドルは、ぼくと幣原秋を別人だと断言したし……まぁいい。
今、重要なことはそれじゃない。
不用心にも、ぼくのローブの左ポケットにはまだ杖が仕舞われている。ぼくに対する緩みのない監視の目、それが外れるのを油断なく待った。
「未来の……僕」
「そう、未来の君だ。……そうだリドル。ぼく、ずっと君に聞きたいことがあったんだ」
微笑みを浮かべて首を傾げる。
いつの間にか、リドルの手はぼくの顎から離れていた。
「君にとって友人というのは、殺しても何の差し支えもないような人のことを指すのかな?」
一瞬の動揺、一刹那の隙。それさえあれば、ぼくには十分だ。
杖を引き抜きリドルへと向ける。杖先から迸ったオレンジの閃光は、狙い違わずリドルに命中した。リドルの驚いた顔が、閃光に照らされる。
「……何っ!?」
しかし驚いたのはぼくも同じだった。リドルに命中したはずの呪文は、リドルをすり抜け後ろの壁に当たり、てんでばらばらな方向に跳ね返る。
ぼくが唖然としているうちに、リドルはゆっくりと立ち上がった。
「ここは僕が作った夢の世界だよ? アキ。物理法則は僕には効かない。僕には実体がないからね。……ふっ、まぁいいや。お望み通り遊んであげよう」
そう言って薄く笑ったリドルは、既に普段の余裕を取り戻したようだ。スッとぼくの前に右手を突き出す。咄嗟に危険を感じたぼくは、地面を転がるとリドルから数メートル離れた地点で立ち上がり、構えた。
果たして、リドルは言う。
「決闘をしようじゃないか、アキ」
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