「学校の地図を作る!」
そうジェームズが高らかに宣言したのは、期末試験も二週間後に近付いた春のことだった。
小部屋にて各々好き勝手(例えば、ぼくは読書、シリウスはゲーム、リーマスはピーターに勉強を教えているというてんでばらばらな状況下で。リリーはさっきまでここで勉強をしていたものの、この場の喧しさに辟易して出て行った)やっている中、ジェームズは机をバンッと叩いては立ち上がり、皆の注目を集める。
「地図? そんなの作ってどうすんだよ」
「ちっちっち、分かってないねぇシリウスは。じゃあ聞くが、君はこの学校の部屋ひとつひとつが全て頭の中に入っているのかい?」
「頭の中にって……一体いくつ部屋があると思ってるんだ、そんなの無理だよ」
リーマスが素直に零す。そんな呟きを耳聡く聞きつけたジェームズは、満面の笑みで「その通り!」とリーマスを指差した。
リーマスは普段通りの笑顔を顔面に貼り付けながらも、彼に向いたジェームズの人差し指を掴むと強引に他所へと向けさせる。どうやら指を突きつけられたのがお気に召さなかったらしい。
ジェームズは声にならない声を上げ、右手の人差し指を反対側の手でそっと握りしばらく悶えていたものの、痛みが治まった頃合いで再び復活した。
「そう、ホグワーツには無数と言っていいほどの部屋が存在する。それだけならばまだしも、動く階段や消える廊下、更には幾重にも存在する抜け道回り道。そこで、だ! 僕達が学校の地図を作れば、これからの学校生活もより有意義に送ることができるのではないかと考えた!」
言いながら、ジェームズは鞄からゴソゴソと羊皮紙を取り出すと円卓のテーブルに広げた。皆が自然と集まり羊皮紙を覗き込む。
「へぇ……」
ぼくは思わず感嘆の声を上げた。
羊皮紙には学校の概略図に、授業や普段の日常生活で使われる部屋は勿論、今まで噂としか思っていなかった抜け道も既に何箇所か書き込まれている。図の脇には、ジェームズがこの地図に盛り込みたいと考えているだろう魔法(例えば、持ち主以外の人にはただの羊皮紙にしか見えなくする魔法や、地図上を実際に人が歩いた通りに足跡を付ける魔法とか)が事細かに書かれていた。ついさっきの思いつきというわけではなく、結構前から計画自体は練られていたようだ。
……というか。
「試験前なのに、よくこんなこと考えたよね……」
そう、現在ホグワーツは期末試験の直前。あらゆる教科の課題が山のように出されていて、ぼくなんて自由な時間などほとんど作れてないというのに。
その僅かな時間を、ぼくは趣味の読書に充てている。今はちょうどその息抜きの時間だったのだ。別に試験が余裕だから読書してるとかそういうことじゃなくって、息抜きとしての行為だってことを忘れないでね。ぼくの学力について無駄に期待をされても困るのだ。
「何を言っているんだ秋。むしろ試験前だからこそ、こういった計画作りが捗ると言うわけだよ!」
「……まぁ、言ってることは分かんなくもないけどさ」
つまりは現実逃避、ということか。
でも去年、一昨年と二年連続で首席のジェームズだ、ぼくのような普通の人間が思うような現実逃避とは格が違うのだろう。余裕が故の自由時間、ということか? 凄いなぁ、何だかちょっとムカつくなぁ。
「……でもこれ、相当大変だよ……単純に考えても、僕らでホグワーツにある全部の部屋や廊下を回らないといけないし、脇に書いてある魔法だってどれも凄く複雑そうだし……」
「だからこそ、楽しいんだろ?」
ジェームズが邪気の欠片もない笑顔を浮かべた。先程の台詞を言ったピーターは、うぅぅと苦笑いで黙り込む。
「まぁ、できなくはないかもね。僕らまだ三年生なわけだし、卒業するまであと四年もある。ジェームズやシリウスの行動力なら、完成も夢じゃないよ。魔法だって、秋がいるんだ。僕らがやってできないことは、多分世界中の誰がやってもできないことなんじゃないのかな」
リーマスが、ジェームズの描いた青写真を見ながら呟いた。
ジェームズはぼくを見て、真剣な顔で尋ねる。
「秋。この魔法、実現可能だと思うかい?」
ぼくは思わず黙って、小部屋にいる全員の顔を見回した。一度目を瞑り、小さく息を吐いて心を定める。
「できると思うよ、ぼくらなら」
ぼくらだったら、何だってできる。
そう確信してしまう程度には、ぼくらはまだ幼く、若く、向こうみずなほどに真っ直ぐだった。
◇ ◆ ◇
──決闘だと?
よく言うよ、こんな状況で。
これは決闘などではない。
これは──一方的な拷問だ。
「…………っ」
身体に力が入らなくて、ぼくは冷たい地面に崩れ落ちた。両手すらもつけずに全身をあらかた打ち付ける。
霞む視界の中、ぼくはリドルの姿を探そうと必死に頭を上げた。左手の杖をリドルに向ける。
「まだ逆らうんだ? いい加減諦めてもいいだろうに」
「…………っう!」
左腕に鈍い衝撃。魔法で杖ごと吹っ飛ばされたのだ。リドルは転がったぼくの杖を拾うと、指先でくるりと弄びぼくに向けた。思わず目を瞑って両手で頭を庇う。
頭を、背中を、足を、全身を、鞭で叩かれたような痛みが走る。身体を丸めて痛みに耐えた。
「あーあ、段々飽きてきちゃった。早く気でも失ってくれないかな? 君は所詮、ハリー・ポッターを誘い出すための撒き餌に過ぎないんだし」
「……なん、だと……!?」
「あれ、聞こえてたんだ? 言った通りだよ。愛する弟、アキ・ポッターが攫われたとしたら、間違いなく君の兄、ハリー・ポッターはやって来る。それがどんなに危険な罠でも、飛び込まずにはいられない人だと──そう教えてくれたのはジニー・ウィーズリーさ。ふふ、未来の僕の力を奪った奴を、僕はこの手で罰することができる! なんと胸躍ることだろう!」
狂ったように笑うリドルを、ぼくは睨みつけた。
「ハリーの元には、行かせない……! ハリーには、指一本触れさせないっ!」
瞬間、顔面に攻撃が飛んできた。反射的に目を閉じる。
リドルの楽しげな笑いは止まない。
「反撃しないのかい、アキ・ポッター? このままじゃなぶり殺しにされるだけだけど」
……そうは言ったって、一体どうやって反撃すればいいんだよ!
記憶相手に、実体がない相手に、一体どうやって戦えと?
こちらからの攻撃は何一つとして通用しない。全てがリドルをすり抜けていく。しかしリドルからぼくに攻撃を仕掛けることは可能なようで、流石はリドルの夢の中。お膳立てされた舞台がぼくに不利すぎる。
……何か、何か反撃を。
「……? あぁ、壁でも壊そうとしたのかな? 杖もないのによくやるね。ここが僕の記憶の中じゃなければ壊れていただろうけど、残念だったね」
「…………っ、う……」
倒れ臥すぼくに、リドルが近付いてくる。そのままリドルは乱暴にぼくの髪を掴むと、無理矢理顔を上げさせた。
「アキ、君の負けだよ。幣原秋のそっくりさん。『負けました』って言えたら、今すぐ楽にしてあげる」
「ぐ……」
ダメだ。ぼくが、リドルを止めないと。
ぼくがハリーを守るんだ。
ぼくが…………。
しかし、強固な意志とは反対に、視界はどんどん黒に塗り潰されていく。
「……ははっ、弱いんだぁ、アキ・ポッターって」
リドルの歪んだ笑みと哄笑を感じながら、ぼくは意識を手放した。
アキ・ポッターが意識を無くしたことを確認した僕、トム・マールヴォロ・リドルは、掴んでいた彼の髪の毛を離した。そのまま立ち上がると、口元を吊り上げ両手を広げる。
「あっはっは、あはははははは!! かの有名な幣原秋を自称するからどの程度かと思えば、所詮はこんなものか! 何奴も此奴も、ヴォルデモート卿の前では恐るるに足らぬ矮小な存在よっ!! あははははははは!!」
しばらく心ゆくまで高笑いをした後、床に倒れている少年を見下ろした。
綺麗だった黒のローブは、今は至るところが破れてしまっている上、埃に塗れてボロボロだ。一つに括られていた髪の毛もぐしゃぐしゃで、ぱっと見では人かどうかすら判別も怪しい。
「ふん……」
『幣原直と幣原アキナは、君が殺したんだよ』
「…………っ!」
脳裏で少年の声が蘇る。
腹いせに、ボロ雑巾のようになっているアキを蹴飛ばした。アキはそのまま床を転がり、ぐったりとしている。うつ伏せだった身体は衝撃で仰向けとなり、その顔がじっくりと拝めるようになった。
艶やかな黒髪に、白い肌。幼くも整った顔立ち。年齢に比して小柄な体躯。基本的に東洋人めいた造りながらも、肌の白さといったところに西洋の血を感じる。
直とアキナの息子、幣原秋。日本とイギリスのハーフと考えたら、ぴったりと嵌る容姿だろうか。
だが、彼は幣原秋ではない。幣原秋の名を騙った偽物だ。
──幣原秋。
直の息子であり、未来の僕の前に闇祓いとして立ち塞がった男。
ホグワーツ卒業後に異例の成績で闇祓いの試験に合格した彼は、
ジニー・ウィーズリーに調べさせたところによると、未来の僕は何とまぁ、十一年前にまだ幼子だったハリー・ポッターに倒されたらしい。何とも情けない最期だ。
僕を打ち倒したハリー・ポッターを世間は英雄と持て囃したようだが、たかが一歳の子供に何かができるはずもないし、どう考えても偶然の産物だろう。
まぁ自身の仇でもあるし、せっかくだからここで殺しておくつもりではあるけれども。赤ん坊などに負けた本体のために敵討ちなど、そんな積極的な理由はない。こんなもの、ただの暇潰しに過ぎないのだから。
僕が造り上げ、僕が自分自身を閉じ込めた。孤独と退屈ばかりが詰まった牢獄に。五十年ぶりの刺激だ、満喫しないのはあまりにも勿体無い。
しかし──。
「仮にも幣原秋を名乗るのなら、もう少し骨のある奴でいてよ、アキ。退屈すぎて欠伸が出ちゃうよ」
アキに声を掛けるも、臥した小さな身体はぴくりとも動かない。つまらないなと肩を竦めた。
さて、そろそろ記憶の世界を抜けて、五十年後の世界へ行こう。一年弱を掛けてジニー・ウィーズリーから搾り取った魔力は、記憶の靄でしかなかった僕を実体化させるほどの量になった。
ここで転がっている少年にももう用はない。彼の兄、ハリー・ポッターを誘き寄せる餌の役割はもう十分だし、会ってみたかった直の息子、幣原秋とも別人だった。そう言えば、一介の学生がどうして直のことを知っていたのか疑問にも思うが──まぁいい、どれも瑣末なことだ。
この世界を壊すために、僕は右手を伸ばした。
──途端、どこからともなく激しい風が吹き抜けて、思わず僕はバランスを崩す。
何が起こった、と周囲を見回して────
「……まだ動けたんだ」
口元に笑みを浮かべた。
アキ・ポッターは、よろよろとした仕草で身体を起こすと立ち上がった。小さく咳き込み、左手で口元を拭っている。
十分に痛めつけたつもりだったが、その怪我で立ち上がるとは。その度胸に敬意を示さんと、僕は両手を広げてアキに向き直った。
「どうやら君を見くびっていたようだね。その心意気だけは評価してあげよう。敬愛する兄ハリー・ポッターを、命を賭して守ろうとするその心意気だけは……」
最後まで言い切ることは、できなかった。
気が付けば、僕は地面に倒れ臥していた。
「…………っが、あっ!?」
頭が割れるように痛い。いや、頭だけでなく全身が軋みを上げる。声が出ないほどの鮮烈な激痛が、全身を包んで離さない。
「何っ……」
アキを見上げるも、アキは立ち上がった時の姿勢からちっとも動いていない。括られた髪の毛先がそよそよと泳ぐその流れに、どこかから風が吹いていることに気が付いた。
アキの瞳が静かに開く。辺りをゆったりと見渡した少年は、そのまま緩やかに頭を振った。ぐしゃぐしゃになった髪に触れると、頭の後ろに両手を回し、括っていた髪を解き放つ。
ふわり、黒い髪が宙を舞う。夜空のような艶めく髪は、吹く風に悪戯に踊っては、やがて重力に従い落ちた。
ひとつひとつの仕草が、確実に、どこまでも明確に、先程までのアキ・ポッターとは違っていた。
「……き、君は……」
「あぁ、ちょっと待ってね。髪くらい結ばせてよ、せっかちだなぁ」
声も、先程のものと変わりない。声変わりする前の、幼く高い少年の声。
しかし、どこまでも似ていたとしても、これはアキ・ポッターではないと──感覚が確かに訴える。
『彼』は髪を括り終えると、小さく息をつき僕を見た。
「なるほどね、君がトム・リドルか。なかなかぼくの身体をめっためたにしてくれたじゃない? だいぶ重傷みたいなんだけど。結構痛いんだけど」
ついっ、と『彼』は左手の人差し指を上げた。途端、一瞬で『彼』が纏っているローブの埃が消え失せ、新品同様の輝きを取り戻す。『彼』の頬に痛々しくついた擦過傷も、瞬きの間に掻き消えた。
「さて、トム・リドル。未来の君とは随分と因縁があったもんだよ。……うふふ、でも君本人と会うのはこれが初めてだね。いや、二度目かな? まぁいいや。ぼくにとって、君って何だろうね? 父さんと母さんの敵? 尊敬する先輩と、大切な同期と、可愛い部下の敵? それとも……親友の敵かな?」
「お前は、誰だっ!」
僕の怒鳴り声に応じないまま『彼』は左手を広げてこちらに向けた。それだけで全身を包む激痛が増す。内臓を圧迫される痛みに堪らず咳き込めば、口の中に血の味が広がった。
「思い込みが激しいタイプなのかな? クールな見た目とは裏腹に、存外引っかかりやすい」
『彼』は軽い調子で近寄ると、僕のすぐ脇にしゃがみ込んだ。僕の無様な姿を鑑賞するように眺めた後、首を僅かに傾ける。
「……僕に、何をした……!」
「ん? ……あぁ、別に、魔法対決としては普通のことをしたまでだよ。ここは君の記憶の世界でしょ? 物理攻撃が効かないのなら、残りは精神攻撃しかないじゃない。脳波に干渉するだけの簡単なことしかしてないよ。そんな目で睨むなって、幼いなぁ」
まぁいいや、
言いつつ『彼』は立ち上がる。黒いローブの裾が風でふわりと舞い上がった。
「幼い、この段階で切り離された君には、ぼくに対する罪はない。ぼくに対する罪は全て、君の本体が背負うべきものだ。記憶の中の引きこもりには、別段用もないしね。ぼくもこんなに早く出てくるつもりなかったしさぁ。ま、今回は特別出演ということで見逃してよ監督、って話だよね」
踵を軸にしてくるっと回り、『彼』は僕に向かい合う。大きな漆黒の瞳をゆるりと細め、『彼』は静かに微笑んだ。
「ぼくは、君を赦そう。君の全ての罪を、ぼくは責めない。ぼくをここまでボロボロにした恨みは、ちょっとだけあるけどね。でもそれ以外の
「……些細、だと……?」
霞む視界の中、『彼』を見上げる。
──僕の罪を、些細だと。
何も知らないから、そんなことが言える。
確かに『ヴォルデモート卿』として背負った罪に比すれば、今の僕、『トム・リドル』が背負った罪は些細なものだろう。だが既に僕は人を騙し、操り、その命を奪ったのだ。
それを知らずに、のうのうと。
「……全部知ってるよって言ったら、君はどうする?」
静かな声で、『彼』は笑う。
楽しげに、密やかな声を上げて。
「そろそろこの世界も飽きてきたんじゃない? 君の手間を省いてあげようか」
そう言うと、僕の返事も聞かずに『彼』は左手を真上に上げた。
ギンッと硬質感な音を立て、世界が崩れる。現れたのは、懐かしい秘密の部屋。
『彼』は興味深そうに辺りを見回すと、少し遠くで倒れているジニー・ウィーズリーを視認し「まぁ、生きているならいいや」と軽く呟いた。
──彼は、誰だ。
アキ・ポッターとはまるきり異質の雰囲気。先程までとは桁違いの魔力と、その扱いの巧緻さ。
ハッと、思わず目を見開いた。
まさか────……
「……誰だ、お前は!」
「……ふふ。ぼくはね……」
答えずに『彼』は含み笑いをした。そして──ふ、と、糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちる。
同時に、激しい痛みがすっと引いた。思わず『彼』の元に駆け寄る。呼吸を確かめたが、ただ気を失っているだけのようだった。
「…………っ」
何より、本能で恐怖を覚えた。背筋にぞっと悪寒が走る。
……まさか。そんなこと、あってたまるか。
でも、ならば、だからこそ。
きっと、彼は────
「ジニー!?」
背後でハリー・ポッターの声がした。急いで後ろを振り返る。
「ジニー、お願いだから目を覚まして」
ハリーはジニーに駆け寄ると、ジニーの身体を抱き起こした。呼吸を確かめ、生きていることに安堵の息を吐いている。
アキをもう一度視界に入れ、小さく息を吐いた。顔を引き締め踵を返す。
動揺した心を笑顔の仮面の奥に押し隠し、僕はハリーに一歩を踏み出した。
「その子は目を覚ましはしない」
いいねを押すと一言あとがきが読めます