長かった試験期間も、今日で終わる。最後の試験は薬草学だった。
もう夏も近いせいか、教室の大きな窓からはさんさんと陽射しが照りつけている。窓側の生徒は試験中だというのに眠たげにうとうとしていたし、ぽかぽかした陽気につられ、ぼくも徐々に集中力が途切れていった。
試験が終わると、皆がほっとした顔をした。一気に騒めきが広がってゆく。これからはもう授業らしい授業もないし、後は夏休みまでのカウントダウンだ。
ぼくは急いで自分の荷物を片付けると、早足でセブルスの元へと駆け寄った。
「セブルス!」
「秋じゃないか。ちょっと待っていてくれ」
穏やかに微笑んだセブルスは、鞄に荷物を押し込むと立ち上がった。
「急がなくていいよ。それよりも、今からちょっと時間あるかな?」
「別に予定は入ってないが、どうした?」
「良かった。今から小部屋に行かない? 君にも見て欲しいものがあるんだよ」
そう言うと、セブルスは逡巡するように視線を彷徨わせた。しかし小さく息を吐くと「分かった。久しぶりに顔でも出してみるか」と頷く。
「ところで、僕に見てもらいたいものとは何だ?」
「うん、えっとね。今ちょっとした企画が持ち上がっててさぁ、そこに使う魔法が結構複雑で面白いから、君にも見てもらいたいなぁって思ってるんだ」
「ほう? それは興味をそそられるな。君が『結構複雑な魔法』と言うのだから、それは相当のものなのだろう」
「買い被りすぎだって。ぼくがそんなに凄い奴じゃないのは君も知ってるでしょ? ただちょっと他人より魔力が多いだけの学生に過ぎないんだから。君やリリーやジェームズの方が、成績だって何だって凄いじゃないか」
ぼくの言葉に、セブルスは大きくため息をついた。何だか……呆れている? ような雰囲気が漂っている。
「君は本当に自己評価が低いな。僕もリリーも、それにポッター共も皆認めているというのに……肝心の本人が問題だ」
「一体何の話をしてるんだい、セブルス?」
きょとんと首を傾げると、セブルスは目を伏せ「なんでもない」と呟いた。
「……しかし、面白い企画とはどんなものなんだ?」
「それはね……」
そんな話をしているうちに小部屋についた。合言葉を唱え小部屋に入ると、中にはジェームズとリリーがいて、ぼくは思わず目を瞠った。
ジェームズとリリーが一緒にいるのは珍しい。騒がしいのは嫌いだと公言するリリーは、リーマスやピーターならばともかくとして、ジェームズやシリウスとはあまり同席したがらない。
「あら秋。今日はセブルスも一緒なのね。久しぶり、試験お疲れ様」
「あぁ。リリーもお疲れ様」
セブルスの表情が僅かに緩んだのを、ぼくは見逃さなかった。
セブルスはリリーを見ると、よくこんな優しい表情を浮かべる。この僅かな表情の変化が分かるようになったのも、実は結構最近のことだ。ひょっとしたらセブルスも気付いていないかもしれない、セブルスのリリーに対する心情も。
その時、ガチャリと扉が開く音がした。振り返ると、入ってきたのはシリウスだった。シリウスはセブルスを視界に入れると若干眉を顰める。
……何故か、シリウスはセブルスと仲が悪いんだよね。相性が合わないのかもしれない。
「ジェームズもシリウスも、お疲れ様」
ぼくがそう言うと、ジェームズは笑顔で「お疲れ」と返してくれたが、シリウスは軽く会釈をするだけだった。そんなシリウスの反応に、セブルスもムッとしたように眉を寄せる。
「さて、じゃあ試験も終わったことだし、これから本格的に忍びの地図作成に取り掛かりますかーっ!」
ジェームズは楽しげに手を叩いた。何処となく重苦しかった雰囲気が、今ので僅かに晴れ上がる。
「本格的に取り掛かるったって、すぐに夏休みが来るんだぜ。そう進むとは思わないがな」
「何を悠長なことを言ってるんだいシリウス! 時は止まっちゃくれないんだぞ? なぁ秋?」
「えっ? あ、まぁ、そうなんじゃないかな」
唐突に話を振られ、ぼくは曖昧に頷いた。シリウスはふんと鼻を鳴らすと、面倒臭そうに椅子に体重を預ける。
シリウスが不機嫌な理由──それは、セブルスがいるからだろうか。
『所詮はスリザリン生だ。俺達とは分かり合えない存在だ。人殺しのヴォルデモートを是とし肯定する、そんな奴を俺は、仲間とは思わない』
『秋。俺は、セブルス・スネイプを友とは認めない』
以前、シリウスが言っていた言葉だ。
……急に嫌な予感がしてきた。
ここにセブルスを連れてくるべきではなかったのかもしれない。セブルスとシリウスを向かい合わせてはならない、そう、ぼくの中で何かが警報を鳴らす。
ぼくの不安をさておいて、ジェームズはホグワーツの間取り図を広げた。パッと見は以前と同じだが、ところどころ描き込まれている部屋が増えている。どうやら試験中にもホグワーツ探検は継続していたらしいと、ぼくは呆れながらも感嘆した。
「他にも分かるところは、是非とも描き込んでくれないかな。秋はレイブンクロー、そしてセブルスはスリザリンだろ? 寮の位置や内部とかも描き込んでくれたら、一気に作業が進むんだけど」
「いいよ」
ぼくは快諾したが、セブルスは迷っているようだ。グリフィンドールとスリザリンの溝は、こんなところにも存在するのか。
少し悲しくなりながらも、ぼくはレイブンクロー寮の間取りをあらかた描き終わると「はい」とセブルスに羽根ペンを差し出した。反射的に受け取ったセブルスは、ぼくを見て少し困った顔をするも、やがて仕方ないなと軽く笑うと描き込み始めた。
「へぇ。スリザリン寮って、学校の地下にあるんだね」
「あぁ、陽の光は差し込まないがな。隠し部屋みたいで、僕は嫌いじゃない」
さらさらと間取り図が描き込まれていく。まだ地図は全体の三割ほどしか完成していないものの、この調子だと再来年中には出来上がるだろう。
「いやー、二人がいてくれて助かったよ。おかげで随分と手間が省けた」
「……ジェームズ、ちょっといいか」
「うん? ……あ、いや。……別に今じゃなくてもいいだろう、シリウス」
「いいや、もう我慢できない。元々決定的に無理だったんだよ、俺達は。もう必要なことはやってもらったし、いいじゃねぇか」
何やらシリウスとジェームズが話している。何のことかは分からないが、少なくとも楽しい話ではなさそうだ。
やがてジェームズは、シリウスの説得を諦めたようだった。力無く息を吐くと「……分かった」と呟き、荷物を纏めて出て行ってしまう。
「秋、エバンズ。君らも、良かったら出て行ってくれないか? 少しスネイプと話したいことがある」
シリウスの言葉に、ぼくはリリーと顔を見合わせた。揃ってセブルスを見るも、セブルスはぼくらに目を向けず、じっとシリウスを見返している。
「ちょっと、ブラック!? どういうことよ、今から何を……」
「分かった」
リリーの声を遮り、ぼくは立ち上がった。「行こう、リリー」とリリーを促すと、勝手にリリーの荷物を取り上げ出口へ向かう。
「……悪いな、秋」
シリウスの脇を通った時、シリウスは小さな声で呟いた。ぼくは目を伏せ、何も答えずに外に出る。
「秋っ! どういうことよっ、今から何が始まるの? 秋!」
やがて、リリーが追いついてきた。リリーの鞄を返すと、顔を上げてリリーを見返す。ぼくの表情を見て、リリーは何かを察したらしい。
ぼくらは重苦しい雰囲気のまま、お互い別れた。
◇ ◆ ◇
バジリスクの牙を掴んだまま、僕は大きく右手を振りかぶると、リドルの日記帳のど真ん中に突き立てた。リドルの絶叫が秘密の部屋中に響き渡り、日記帳からはインクが、まるでリドル自身の血のようにどくどくと噴き出てくる。
リドルは身悶えし、その場でのたうち回ると、やがて姿を消した。リドルが持っていた僕の杖が、リドルが今までいた位置にカランと落ちると、カタカタと音を立て、やがて止まった。
乱れた呼吸をそのままに僕はしばらく呆然としていたものの、やがてゆっくりと立ち上がった。
地面がまるでスポンジのように、ふわふわとして頼りない。目眩を堪えながらも、僕はアキの元へと駆け寄った。
「アキっ!」
倒れているアキの傍に、崩れ落ちるように膝をつく。両手でアキの肩を掴むと乱暴に揺さぶった。このままアキが目を覚さなかったらどうしようと、そんな不安が胸中を過ぎるも、幸いにしてアキはゆっくりと目を開けてくれた。
「あれ……ハリー?」
「……っ、良かった……!」
思いのままに、僕はアキを抱き締める。
アキは何が起こったのか分からないとばかりに目を白黒させていたが、やがてゆっくりと僕の背中に腕を回すと、安心させるように優しく僕の背中を叩いた。
「じゃあ、終わったんだね?」
「あぁ……終わったんだ」
全部、終わったんだ。
アキは穏やかな声で「助けに来てくれて、ありがとう」と僕に告げた。
「ジニー! 生きてたのか! 夢じゃないだろうな! 一体何があったんだ?」
あれだけ分厚く思えた石の壁は、戻ってきたら人一人潜れそうな程の大きな穴が開いていて、僕らはロンとアリス、それにロックハートと合流することができた。
ジニーの無事を確認したロンはジニーを抱き締めようとするも、しゃくり上げたジニーにすげなく拒否された。ロンはちょっとだけ寂しそうな顔をしたものの「ジニー、もう大丈夫だよ」と笑いかける。
「アキも、よく無事で……良かった」
「うん、心配かけてごめんね。助けに来てくれてありがとう。……でもまぁ、まさかアリスが来てくれるとは思ってなかったなぁ?」
アキはそう言いながらアリスに悪戯っぽい目を向けた。そんなアキにアリスは「ありがとうって涙ながらに言ってくれてもいいんだぜ?」と鼻で笑う。
「そう言われると言いたくなくなるよなー!」
「言ってろ、馬鹿」
この二人も相変わらず、二人独特の友人関係を築いているようだった。これはこれでいいのだろう。少なくとも、当人同士は納得しているみたいだし。
「ロックハートはどこ?」
ロンに尋ねると、ロンはニヤッと笑って背後を顎で示した。
「あっちの方だ。調子が悪くてね。来て見てごらん」
促されるままロンについていく。そこではロックハートが鼻歌を歌いながら、随分と大人しく座っていた。
「記憶を失くしてる。『忘却術』が逆噴射して、僕らじゃなく自分に掛かっちゃったんだ。自分が誰なのか、今どこにいるのか、僕らが誰なのか、ちんぷんかんぷんさ。ここで待ってるように言ったんだ。この状態で一人で放っておくと、怪我したりして危ないからね」
ロックハートは僕らを見上げると、ニコニコしながら「やぁ、なんだか変わったところだね。ここに住んでいるの?」と屈託なく尋ねた。
「ここまで来ると憎めないよなぁ」
アリスが呟く。うんうん、とアキが頷いた。
僕は上に伸びる長く暗いパイプを見上げる。秘密の部屋に来るために通ってきた道だが、さて、どうしようか?
「どうやって上まで戻るか、考えてた?」
ロンは首を横に振る。
するとその時、まるで僕らの話を聞いていたかのようなタイミングでフォークスが飛んできては、僕らの目の前でその羽根を優雅に揺らした。長い金色の尾羽を、まるで掴まれと言っているように振っている。
「……でも、鳥が上まで引っ張り上げるには、僕らは重すぎるよな」
ロンも困惑した顔でフォークスを見つめていたが、僕はハッと思い至った。
「フォークスは普通の鳥じゃない。大丈夫だ……でも、皆で手を繋がなきゃ」
「フォークスがぼくらを引っ張り上げるんだ? 凄いね」
アキが無邪気に声を上げた。アキが近付いても、フォークスは逃げることなく悠然と佇んでいる。その立ち居振る舞いに、少なからずアキは感嘆したようだ。
僕に対しそっと右手を差し伸べたアキの意図を読み取って、僕は剣と組み分け帽子をベルトに挟むとアキの手を取った。
全員がきちんと手を繋いだのを確認して、僕はフォークスの尾羽をしっかりと掴む。途端、全身がふわりと浮いた感覚と共に、気付けば宙に浮いていた。
人間を何人も引っ張っていることなど感じさせないスピードで、フォークスは空気を切って進んでゆく。ロックハートが「凄い! まるで魔法のようだ!」と驚く声が聞こえた。
やがて僕らは『嘆きのマートル』のトイレに降り立った。僕らが出てきたのを皮切りに、秘密の部屋の入り口を塞ぐ役目をしていた手洗い台もひとりでに元の位置へと戻っていく。
誰かの視線を感じて振り返ると、マートルが立っていた。何処かポカンとした顔つきのまま僕らを見回している。
「生きてるの」
「そんなにがっかりした声を出さなくてもいいじゃないか」
小さく肩を竦める。マートルは僅かに頬を染めた。
「あぁ……わたし、ちょうど考えてたの。もしあんたが死んだら、わたしのトイレに一緒に住んでもらったら嬉しいって」
何を言われたのかよく分からないまま、僕は曖昧に頷いた。アキはどこか楽しげに笑うと、僕の脇腹を肘で小突く。
「モテモテだね、ハリー」
「モテて……るのかなぁ? 甚だ疑問なんだけど……」
トイレから暗く人気のない廊下に出ると、フォークスが先導するかのようにスィーッと飛んでいった。その後を着いていけば、やがてマクゴナガル先生の部屋の前に辿り着いた。
振り返ってアキを見る。アキはこくりと頷くと、柔らかく微笑んで僕の背中を後押しした。
僕はアキに頷き返し、マクゴナガル先生の部屋をノックした。
いいねを押すと一言あとがきが読めます