たびたび述べている通り、闇の魔術に対する防衛術の授業はグリフィンドールとレイブンクローの数少ない合同授業だ。
「……という訳で、狼人間とは……」
何の因果か、闇の魔術に対する防衛術の教師は毎年一年で辞めていく。今年の先生は、アタリかハズレかで言うならば『ハズレ』のようだった。
教科書をただ読むだけの退屈な授業に、まだ今学期が始まって間もないというのにレイブンクロー生の皆は飽きてしまって、各々好き勝手に魔法史の予習や呪文学の復習をやっている。それを注意する度胸もないから、更に舐められるんだってば。
ぼくも普段であれば、闇の魔術に対する防衛術の教科書の上に数占い学のノートを重ねているものの、今日ばかりはそうする気も起きなかった。
思わずグリフィンドールの彼らに視線が向かう。ジェームズやシリウス、リーマス、ピーターが楽しそうにクスクスと笑い合っている姿が、更に己の考えを煽る結果となる気がしてしまって、ぼくはそっと視線を外した。
「……以上で、今日の授業は終了。本日の授業を踏まえて『人狼の見分け方』を五十センチ書くように……」
先生の言葉を皮切りに、教室中が一気に騒がしくなった。息をついて、ノロノロとカバンの中に教科書やノートを詰め込む。そこに悪戯仕掛人の四人が近寄ってきた。
「やあ、秋。どうした? 気分が優れないような顔をして」
「別に。授業があまりに退屈で、ちょっとウトウトしててまだ眠いだけ」
「なかなか言うなぁ。まだ先生様がすぐそこにいるってのに」
ジェームズは後ろにいる先生を指し示しながらにやりと笑う。ぼくは小さく肩を竦めた。
「君達は楽しそうだったね、始終」
「そりゃあ楽しいさ、何て言ったって……」
と、うっかり失言しかけたシリウスの頬をリーマスがぐいっと抓<つね>った。その手際は容赦という言葉が一切見えないほどで、思わず感心してしまう。
「シ、リ、ウ、ス?」
「わ、悪かったっ!」
「本当にそう思ってるのかい?」
リーマスが更にシリウスの頬を引っ張るのに、ピーターが「も、もう止めてあげよっ、可哀想だよシリウスが!」とワタワタしている。
「ピーターが言うのなら仕方ないなぁ」
ニコリと微笑んだリーマスは、シリウスの頬から手を放した。シリウスは赤くなった頬を手で押さえ、若干リーマスから距離を取る。そんな様子を見て、ジェームズが堪え切れなくなったように笑い声を漏らした。
「……あれ? リーマス」
「ん? どうしたの?」
リーマスが少し首を傾げてぼくを見る。ぼくは無言でリーマスに手を伸ばすと、リーマスの頬に触れた。リーマスは驚いたように目を瞠ったものの、ぼくの手を振り払うことはしなかった。
頬に一直線に入った傷をそっとなぞる。結構最近のもののようで、まだ赤い。
「……そう言えば先週、リーマス、数占い学休んでたよね」
ポツリと零す。小さく息を呑んだリーマスは、何かを誤魔化すように笑った。
「僕がすぐに体調を崩すのは、君も十分知っているだろう?」
「知ってる。……一ヶ月に一回のペースで、君は体調を崩すよね」
ジェームズとシリウス、ピーターも、はっとしたようにぼくを見つめた。リーマスはぼくの手に触れると、自分の頬からそっと外す。
「あぁ……そうだね」
「…………」
リーマスの右手が、ぼくの左手を掴んでいる。その指先はひんやりと冷たかった。
ぼくはパキンと指を鳴らし、リーマスの傷を癒す魔法を掛ける。リーマスの手を解くと、そのままカバンを手に取った。
「……変なこと言ったね、ごめん」
リーマスに笑いかけたぼくは「じゃあ、また」と彼らに背を向けた。
予想通り、彼らは追っては来なかった。
◇ ◆ ◇
リィフはそれから、三日間家に帰って来なかった。
三日後、八月三日の晩にようやっと帰ってきたと思えば「寝かせてくれ」と呟いてリビングのソファに倒れ込み、子供のように眠ってしまう始末。
四日の朝は朝食も取らずに『姿くらまし』してしまったものだから、まぁアリスを宥めるのは大変だった。
「まぁそりゃあね、その反応も当然ですよね、だって今日の朝食を作ったのは料理人じゃなくて自分なのに、愛息子の手料理に目もくれずにいなくなっちゃったお父さんを見ればね痛いっ!!」
「二度と喋れねぇようにしてやろうか」
ちなみに、以前雇われていた料理人は今回の解雇で実家の店に戻ってしまったらしく、再雇用に時間が掛かっているそうだ。だからこの夏中はアリスの手料理を頂けるらしい。やったぜ。
ぼくも手伝いはしているものの、メインはアリスだ。名門貴族のお坊ちゃんがよく料理なんて覚えたものよ。
そんなこんなでしばらくぼくとアリスだけの日々は続き、リィフがやっと仕事から解放されて帰ってきたのは八月六日の深夜──というより八月七日の早朝だった。
どのくらい早朝だったかと言うと、リィフが帰ってきたのとぼくが朝起きてきたのとが同じくらい。ちなみに時刻は朝の五時半、いつも通り清々しい朝の目覚めだった。
目の下の
……リィフってホント、何と言えばいいか……アリスのお母さんが生きている時もきっとこんな感じだったんだろうなぁ。そりゃ、アリスがあんな捻くれた子供に育つ訳だよ。
そんなリィフがようやっと自室から這い出てきたのは、もう日が落ち切った頃だった。ぼくとアリスの二人で夕食の用意をしていた時に、髪の毛に盛大な寝癖を付けてのご登場だ。折角のイケメンが勿体無い。
「おや、ただいまアリス」
「……で? もうすぐ発つってか?」
「何を怒ってるんだいアリス? ひとまず、あらかた用事は終わったよ……後は休暇の続きを楽しんで来いとね」
「嘘だろ!? アンタの分の夕飯作ってねぇよ!」とアリスは叫んだ。「ほら、やっぱり言った通りだろう?」とぼくは苦笑する。
「あー、えっと、なんだい? 今日の私の夕食は抜きと……悲しいな」
「るっせぇ、誰のせいだと思ってやがる!」
「そう言いつつも即座にもう一人分を空いた左手で作り始める君はホントに凄いね」
「アキ、ホグワーツに着いたら呪いの練習に付き合ってくれないか」
「上等。全て反対呪文で粉々にしてあげよう。君のプライドも一緒にね」
その日の夕食は、何とも美味だった。
夕食後。一人で皿洗いをしていると、キッチンにリィフがやって来た。
「やぁ、アキ。お客様なのに手伝わせてしまってすまないね」
「いえいえ、このくらいは。アリスは『働かざる者食うべからず』って言ってましたよ」
それに、ダーズリー家では掃除洗濯料理と一通りの家事を仕込まれているのだ。お役に立てて嬉しい限り。
「キッチンに何か用事ですか?」
「いや、私は君に用事があってね。この前言いかけていただろう? ──シリウス・ブラックのことで」
食器を洗う手が思わず止まった。ハッと我に返って手を動かす。
「……あぁ、そのこと」
「その、アリスの前では切り出しづらいところもあってね……まず、彼がアズカバンに入れられた理由だが」
「『たった一度の呪いで、魔法使い一人とマグル十二人を一度に殺した大犯罪者』──ちなみにその哀れな魔法使いの名前は、ピーター・ペティグリュー」
「…………」
「この一週間、ぼくが何も調べなかった訳がないじゃないですか。『一目で分かる、魔法界重要歴史一〇〇』に日刊預言者新聞のバックナンバー、それだけあれば充分です。リィフさん、あなたのお父さんは随分几帳面な方だったようですね。十二年前のものも綺麗にスクラップされてましたよ」
アリスが几帳面なのは隔世遺伝だろうか。だとしたらアリスの子供はリィフに似るのかな。
特にアリスのお母さんが亡くなった辺りの頃から、日刊預言者新聞は、そりゃ全部揃ってはいるのだろうけど、あっちはぐしゃぐしゃこっちはぐしゃぐしゃでちょっと見るに耐えなかった。
「……っはは。君には全部お見通しか」
「聞きたいことは──山ほどあります」
そりゃそうだろうねと、リィフは笑ったようだった。
水道の栓をきゅっと捻って水を止め、布巾で食器の水気を吸い取る。
「どうして、シリウスが……ピーターを、ポッター一家を殺すことになったのか。シリウスがどうして『例のあの人』の配下に……死喰い人、なんかに」
「……人は変わるものだよ、アキ」
「……そう、ですね」
頭を振った。目を伏せる。
「シリウス・ブラックが──『例のあの人』の第一の臣下がアズカバンから脱獄して、真っ先に考えることは、恐らく」
言葉を切って、続けた。
「ご主人様を倒した相手──ハリー・ポッターへの復讐」
「……その通りだよ。君は本当に賢いね」
拭き終わった食器を重ねる。そのまま食器棚に持っていこうとしたところ、リィフの杖の一振りで、一瞬で食器が食器棚の中へと移動して行った。いいなぁ魔法。ぼくはどうしてまだ未成年なんだろう?
「だが、アキ、心配することはない。君達の伯母さんの家にいる限りにおいて、ハリー・ポッターの安全は保証されている。闇祓いと協力して、君達の家には絶対の防衛呪文を施したんだ。それに加えて監視……いや見張り……ええっと」
「うん、いい表現を探してくれたのはありがたいけど、いいから」
道理で最近、ハリーからよく『被害妄想かもしれないけど、どこからか視線を感じるんだ……』と愚痴られる訳だ。
「いいのかい? ちゃんと監視もつけたからね、ハリーは大丈夫だよ」
……いいとは言ったけれど、そうはっきり『監視』と明言されるとなかなかクるものがあるな……。
あと、なんともしょっぱい話だが、ハリーの安全がダーズリー家によって成り立っているというのもなんだか歪な話だよなぁ。ぼくら、あの家で何度も命の危機に瀕しているんですけど?
「加えて……君には後一つ、話しておかなくてはならないことがある。どの書物にも、日刊預言者新聞にも載っていない事柄だ」
リィフの、真剣みを帯びた声を聞いた途端。
……背筋を這う嫌な予感に、
「幣原秋のことだ。君は知っておくべきだと思ってね」
────ドクン、と心臓が、跳ねた。
「シリウス・ブラックを捕縛したのは、幣原秋だ」
それは──つまり。
ぼくの声はしかし、窓ガラスを突き破ってきた『何か』によって遮られた。派手な音と共に飛んできた『それ』は────
「……紙飛行機?」
紙飛行機が窓ガラスを突き破る? 普通逆なのでは、というか何じゃそりゃ。魔法界の不可思議にはいい加減慣れてきたと思ったのに、まだまだ知らないことがたくさんあるなぁ。
驚きに声も出ないぼくとは反対に、リィフは至って落ち着き払った様子だ。すぐ目の前を飛んでいた紙飛行機を掴み、中を広げる。一行読んだリィフは、素早く顔を上げるとぼくを見た。
「大変だ、アキ」
その時大きな物音を聞きつけたアリスが「おいアキ、今凄まじい音が聞こえてきたが大丈夫か!?」と駆けつけてきた。
「ガラスが割れたような……って親父!? なんでキッチンなんかに、滅多に立ち入らないのに!」
「あぁ、すまないねアリス。今片付けるから」
キッチンを覗き込んでは素っ頓狂な声を上げたアリスに、リィフは杖を一振りして割れたガラスを元通りにする。
……いや、アリスが驚いたのはそこだけじゃないと思うんだけど。つくづくこの親子、お互いちょっとズレている。
「リ、リィフさん。一体何があったんですか?」
ぼくは慌ててリィフをせっつく。あぁと頷いたリィフは、心底困ったような顔でぼくを見下ろした。
「ハリー・ポッターが、マージ・ダーズリーを膨らませて失踪したと報告が入った」
「アキ! 君の伯母さんちの暖炉は煙突飛行ネットワークに組み込まれてないから行くのは無理だって! アリス、しっかり捕まえて!」
「ったり前だろ! 箒もないのにどうやって行く気だこの馬鹿!」
「こうなったら『姿くらまし』で……!」
「理論も習ってないのにできる訳ねぇだろ! 身体がバラけんのが関の山だぞ!」
「バラけるのは案外痛いものだよアキ……!」
「大体、ハリーが失踪したって、そりゃ監視の意味ないじゃんかよ! おいふざけんなよ、ぼくはハリーの元へ行かないと、ハリーを守んないといけないんだよ!」
「ちょうど監視役が手洗いにコンビニにふらっと立ち寄って、マグルの女の子のグラビア雑誌に魅せられていたところだったらしい」
「何だそれ、減棒モノだな」
「落ち着いてくれアキ、一晩もすればハリーは魔法省が見つける。それまで君はここで待つんだ」
「それまでにハリーがブラックに殺されたらどうすんだ!」
くっそぅ、魔法さえ使えたらなぁ!
ぼくが二人に押さえ込まれジタジタしていると、再び飛んできた紙飛行機がリビングの窓ガラスを割り侵入してきた。
「……なぁ親父様よ。紙飛行機が窓ガラスを割ってくるのはどうしようもないのか?」
「暖炉から人が出てくるよりいいじゃないか。その場合私は魔法省に呼び出されることがほぼ確定なんだから……っと。アキ、安心してくれ。ハリーの安全は確保された。ハリーは『
「ほっ、本当に!?」
アリスの力が緩んだ。ぼくは慌ててホールドから抜け出すと、ぺたんと床に座り込んだままリィフを見上げる。「あぁ」とリィフは穏やかに微笑んだ。
「明日ハリーに会いに行こうじゃないか、アキ。私も行くよ。あの女の子好きのクソ野郎をちょっとシメる用事が出来たものでね」
……似てない似てないと思っていたものの、根元の物騒さはこの親子共通のものなのかもしれないなと思い始めてきた。
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