「秋、多分気付いてるよね」
「あぁ、多分な」
ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックは、両手に大量の本を抱えながら廊下を歩いていた。
図書館からの帰路である。一週間に一度、この二人が図書館で上限いっぱいの本を借りて行くのは最近の日常となっていた。
図書館の閉館時間ギリギリまで粘り、厳選に厳選を重ねた上で借りる本を選ぶ二人の姿を、周囲の人間は「流石、学年首席と学年次席はやることが違う」と賞賛の眼差しで見ていたものの、別にこの二人は学業のために図書館へと通っていた訳ではない。二人の腕の中にあるものが『最上級変身術』『リセット・ド・ラパン──『動物もどき』の手記』『上級・闇の生物』『超物質的変身術理論』と、タイトルをなぞっただけでも現在四年生である彼らが受けている授業にはこれっぽっちも掠らないものであることからもそれは明白である。
「やっぱり、この前の闇の魔術に対する防衛術の授業のせいかなぁ」
「あれがキッカケなのは間違いないだろうな」
「だからさぁ、狼人間についての授業なんてしなければいいのにね」
「おい、それじゃ本末転倒だろ」
シリウスの言葉にジェームズは肩を竦めた。歩く速度を緩めては「よいしょ」と本を抱え直す。
「全く、図書館の本にも浮遊呪文が効けばいいんだけどなぁ」
「本当にな。マダム・ピンスがよくもまぁ……昔うっかり落書きして頭殴られたぜ」
「僕はページを破りかけて噛み付かれたよ」
「歯はどこにあるんだよ」
「それはまぁ、気分の問題さ」
はぁとシリウスはため息をついた。ちょうどのタイミングですれ違った女子生徒二名が、シリウスの顔を見ては「きゃあっ」と黄色い声を上げて駆けて行く。
学年一、もしかしたら学校一を争うほどにシリウス・ブラックはモテる。羨ましい限りだとジェームズは鼻を鳴らした。
「折角、秋にバレないようにって数ヶ月放課後の秋をストーキングして、秋が一番図書館に来る確率が低い、六限に薬草学がある木曜日にやってたのになぁ」
「そういう事情で木曜日だったのかよ。というか数ヶ月ストーキングされて気付かないあいつもあいつだな……」
「ぼくのストーキングの腕が素晴らしいという結論には行かないのかい?」
「行っていいのか? ジェームズ。それは素晴らしく不名誉な称号に、俺には思えるがね」
「闇祓いの隠密捜査では重宝するだろ?」
「それは否定しないけど、さ」
ジェームズは軽やかに笑った後、表情を一転させた。眼鏡の奥の瞳を僅かに細める。
「どうする? シリウス」
「……どうするもこうするも、リーマス次第さ」
「君は、リーマスが自分から口を割ると本気で思っているのかい? 僕らは一体何年一緒にいるんだよ」
「あー、悪かった悪かった。そうだな……俺達がいっくら詰め寄ったところで数ヶ月間口を利かないという暴挙に出た上、現場を押さえられてやっと吐いたレベルだったもんな」
彼らが一年の時の話である。
「そりゃ、リーマスにとっては好んで話したくはない話題だろう……いくら秋が、友人が相手でも」
「僕にとっちゃあ、あんなの『ふわふわでちっちゃな問題』だけどね」
「そんな風に捉えられるのは君くらいなもんだろうな、ジェームズ」
「秋もそんな風に捉える人間だ、とは思わないかい?」
「俺はそんなにポジティブに生きちゃいないよ……」
「そうだね、シリウスはどっちかというとネガティブ思考だ。生きててつらくないの?」
「君はいつでも楽しそうだな」
「僕がいる世界に楽しくないものなんて要らないよ」
極端なことを口走った友人に、シリウスはまたもため息をつく。
その時、すぐ近くの空き教室から数人の生徒が出てくるのが見えた。スリザリンの制服を着ている。その中にセブルス・スネイプも混じっていたことに、ジェームズとシリウスは目を瞠った。
彼らは二人には気付かずに、教室の扉に魔法を掛けた後立ち去っていく。
胸中に過ぎる嫌な予感に、ジェームズは慌ててその教室の前に駆け寄った。両手に抱えた本を地面に置くと、扉の引き戸に手を掛け引っ張る。しかし『貼り付け呪文』でも使われているのだろうか、どれだけ力を込めても扉はぴくりとも動きはしない。
「お、おい、ジェームズ? どうしたんだ」
「今の奴ら、どうして空き教室の扉に魔法を掛けたんだと思う? この中に誰かが閉じ込められている可能性は考えられない? ……くっそ、Finite<終われ>!」
ローブから杖を抜き呪文を唱える。扉に掛けられた魔法を無効化させたジェームズは、勢いよく扉を開け中へと駆け込んだ。シリウスもすぐ後に続く。
教室の真ん中で、一人の男子生徒が磔刑の格好で空中に吊るされていた。まだ小柄で制服も真新しいから、今年の新入生だろうかとジェームズは見当を付ける。
ジェームズとシリウスの二人がかりで少年を下ろした。助け出された少年は、地べたに腰を下ろしたまま堪え切れなくなったように泣き出してしまう。
「あーよしよし、大丈夫かい? 一体何があったんだ?」
少年曰く。
自分の両親はマグル生まれで、であるにもかかわらずスリザリンに入ってしまったことについての先輩からの制裁──だと言うのである。
ジェームズとシリウスは、同時に顔を見合わせた。
同寮の後輩にそんなことをするほど、あいつは落ちぶれた奴なのか。
「……秋には」
「言ったって信じるもんか」
シリウスは吐き捨てるように呟く。
「腐れスリザリンが」
「……あぁ」
小さく、ジェームズは頷いた。
ローブの中で強く杖を握り締める。
パチン、と火花が弾ける音が、聞こえた気がした。
◇ ◆ ◇
「あぁこれこそが至福という訳だねよく分かってるようんうんそうだこれこそが天国だ僕は今まさに死んでも構わないさアキから抱きついてきてくれるだなんてねあぁでも今死んだらこの至福の時間が途切れてしまうし永遠にアキと会えないなんて僕は絶対に死ねない!」
「ホントに大丈夫かよこの眼鏡。頭でも打ったんじゃないのか?」
「クソ野郎からの報告には、そんなことは書いてなかったけれど」
アリスとリィフがすぐ傍で何やら話しているものの、どうだっていい。ハリーが無事だったという事実だけで、今は充分だ。
「……あー、そのね、うん。アキ、ごめんよ、ちょーっとばかし自制心が足りなかっただけなんだ。マージおばさんを膨らませちゃったことはさ、うん。後……ホグズミードの許可証……」
「そんなのどうでもいいよ!」
顔を上げ、ハリーの服を掴んだ。驚いた顔のハリーとしっかり目を合わせる。
「君が今生きてるという、それだけでぼくは……」
「……ごめんね、アキ。心配かけて」
ハリーは、やがてふわりと笑った。
「魔法大臣が?」
「うん、そうなんだ。僕が『漏れ鍋』に着いたら、何故かそこにファッジがいて──」
多分それは、ハリーの監視……いや、見張り役の報告のおかげだろう。
リィフとアリスの二人は、ハリーの見張り役だった役人(マグルに紛れられそうなくらい影は薄いものの、どこか肝の据わった部分も併せ持っていそうな青年だった)との話が済むと、ぼくを『漏れ鍋』に残したまま帰ってしまった。これから新学期が始まるまで、親子水いらずで過ごすのだろう。
……心穏やかに休みを満喫できればいいんだけどな、アリスの奴……。
そしてぼくとハリーは、新学期までの二週間『漏れ鍋』に滞在する許可をもらうことができた。何と驚き、滞在費は魔法省から出るらしい。ありがたいけど、魔法省の予算をこんなことに使っていいのだろうか。
「僕、規則を破ったのに何も処罰されなかったんだ。どうしてだろう?」
「それは、多分……」
フローリアン・フォーテスキューのアイスクリーム・パーラー、そこのテラスで宿題を広げつつ、ぼくとハリーはお喋りに興じていた。暖かな日の光を浴びながら、しかも時折店主のフローリアン・フォーテスュー氏にサンデーを振舞ってもらいながらハリーと談笑し合う時間は、何物にも代えがたいほどに素晴らしい。フォーテスキュー氏の祖先にはホグワーツ校長がいたらしく、だからかどうかは分からないものの、彼は中世の魔女の火炙りを中心とした歴史事項に詳しくて、ハリーは夏休みの宿題が随分と捗ったようだ。
「それよりハリー、マージおばさんを膨らませちゃったんだって? 一体どうやったの? ぼくも常々、あの丸さは風船のようだって思ってたんだよ。よくあんなに中身が詰まってるものを浮かせたねぇ」
「あれは……思わず、
「ハリーは本当に優しいね。ぼくがその場にいたら、きっと屋根に大穴を開けてどこまで飛んでいくのかを計測したと思うよ」
「アキがいなくて良かったと本気で思ったのは今が初めてだよ」
ハリーはホッとした顔でそんなことを言う。
ふふと笑って、ぼくはレポートの続きを書こうと羽根ペンをインク壺に突っ込んだ。しかしインクが切れてしまったようだ。予備を探しかけ、そう言えば予備も切れていたんだと思い出した。
「アキ、僕のを貸そうか?」
「ありがとう。でもどうせ買わなきゃいけないものだし、買ってくるよ。ついでに新しい教科書も見に行ってくるから、ハリーは先に帰ってて」
そう言って、ぼくは荷物を纏め立ち上がった。アイスクリーム代を支払い、フローリアン・フォーテスキュー氏に挨拶をして、ぼくは通りを歩き出す。
ダイアゴン横丁は相変わらず人で溢れていた。どこを見ても人ばかりだ。その中でも一際の人垣があった。『高級クィディッチ用具店』の店先だ。どうやら新しい箒が展示してあるらしく、店員らしき人が通りを歩く人に向け、この箒がどれだけ素晴らしいものなのかを喧伝している。
「ファイアボルト──世界で最速の箒ですぞ! ニンバスなどもう時代遅れ! これからはこの箒を何本持っているか、どれだけ使いこなせるかで勝敗が決まるのです──!」
へぇ、世界最速の箒かぁ。ハリーはきっと惚れ込むことだろう。連れて来なくて正解だった、きっとここから
「あれ、教授?」
見覚えのある後ろ姿を発見し、ぼくは思わず声を上げた。彼──セブルス・スネイプ教授はビクッと肩を震わせ振り返ると、そろそろとファイアボルトが展示してあるガラスから身体を離し、何事もなかったかのように咳ばらいをして近付いてくる。
「教授、箒に興味あったんですか?」
「ない」
「え、でも今、滅茶苦茶見て……」
「ないと言ったらないんだ! 二度と言わせるな」
不機嫌そうに眉間に皺を寄せる教授に肩を竦める。ハイハイ、左様ですか。
「今日はあの兄は? 貴様と一緒ではないのか?」
「ハリーならアイスクリーム・パーラーのテラスで宿題をしてますよ。ぼくはインクが切れたから買い物に。まさか教授とこんなとこで会うとは露ほども思っていなかったです」
教授、クィディッチ好きなのかな。まぁ確かに、学生の頃は熱心に応援していたっけ。
「お茶でもしようか。奢ろう」
「わ、いいんですか?」
「昔のよしみだ。もしくは……ま、年長者だからということにでもしておこう」
そう言って、教授はローブを翻すと歩き始めた。教授の歩みに数歩遅れる形で、ぼくも後をついていく。
「そう言えば。この前までぼく、アリスの家にお世話になっていたんですよ」
「ほう、貴様一人でか? よく貴様の兄が許可したな。あんな酷い弟馬鹿が……」
教授、なかなか遠慮がない。
教授は路地の目をすいすいと抜けて行く。気付けばダイアゴン横丁の大通りから随分と入り組んだところまで来ていた。あれだけ大勢いた人の姿も、この辺りではほとんど見かけない。
「なら、ポッターが先日魔法を使ったことは聞いているか?」
「リィフさんから教えてもらいました。その後ダーズリー家から逃げ出して『
「あぁ、フィスナーか……確かに奴なら把握しているだろうな」
石畳に二人分の足音が反響する。
「……教授は、何を買いに来たんですか?」
「私か? 私は……」
教授はそこで言葉を切ると口を噤<つぐ>んだ。「……別に、大したものではない」と言い訳めいた言葉を口にする。
「大したもんじゃないのなら、教えてくださいよぉ」
「貴様には関係のないものだ、ポッター」
授業中のようにねっとりとした言葉遣いで、教授はぼくを突き放した。
へぇ、ほぉ、ふーん? そんな態度取っちゃうんだぁ?
「……意地悪」
「いじっ……!?」
思惑通り、教授はぎくりとたじろいだ。そんな教授に向けて、ぼくは可愛らしく小首を傾げ上目遣いをしてみせる。
「ぼくには教えてくれないんですかぁ? ひどいっ、ぼく、悲しいですっ!」
「う、うるさい! ……その目を止めろ! 夏休みの前半は忙しくて貴様への贈り物を買いに行く暇がなかったから今日買いに……あ」
「……聞かなかったことにしてあげますね。忘却術は掛けられたくないですから」
「……レイブンクロー十点減点」
「まだ新学期は始まっていませんよ?」
全くもう、困ったお人だ。
教授に連れて来られたのは、こじんまりとした紅茶専門店だった。お客さんはぼくら以外誰もいないようだ。
わぁい貸切だ、とはしゃいでみたところで、このカフェの経営は大丈夫なのだろうかとそんなことが気に掛かってしまう。立地が悪過ぎる。お客さん、本当に入っているのかな。
「この店では自分好みに紅茶を淹れることができる数少ない名店だ。折角の紅茶を他人に任せるのは真っ平御免だからな」
「なるほど、そんなレアな人間御用達な店って訳ですね」
普通は自分で淹れた紅茶より、お店で淹れてもらう紅茶の方が美味しいものだろうが。
教授はぼくの言葉に「何を言っているのか分からないな」と訝しげな顔をした。どうやら本当に分かってないっぽい。
しかし、紅茶の瓶が壁一面にずらりと並べられているのは壮観だ。何十種類置かれているのだろう? 実はここ、知る人ぞ知る『隠れ名店』なのかもしれない。教授、そういうとこ好きそうだもんな。
どれがよろしいでしょうかと尋ねられても分かんないぞとドキドキしていたものの、しかしぼくが選ぶ間もなく教授が「いつものを」と注文してしまった。ちょっと肩透かしだ。
というか『いつもの』で通じるって凄いな。教授行きつけの店ですか、そんなところで奢ってもらえるなんて、ぼくってば大丈夫かなぁ?
やがてお茶の一式が運ばれてくる。茶葉と茶器を手慣れた様子で扱いながら、教授は何気ない調子で話題を振った。
「ところで……シリウス・ブラックがアズカバンから脱獄したとの話は聞いているか?」
「……えぇ、聞いてます」
ようやっと本題に入った。ぼくは思わず身構える。
教授はこの話がしたくて、ぼくをここまで連れてきたのだろう。
「ブラックを……幣原秋が捕らえたという話も」
「……そうか」
沈黙がぼくらの間を満たした。
セブルスとシリウスは、幣原秋がいた頃も仲が悪かった。馬が合わなかったというべきだろうか。最終的にはあんな、絶交のようなことを……。
「……ポッターに伝えておけ」
「教授、ぼくもポッターなんですけど」
「貴様のいけ好かない兄の方だ。勿論私からだとは悟られるな、あくまでも貴様からの言葉として受け取らせろ。『今年は余計なことに首を突っ込むな』と」
「……ハリーは『いつも厄介事の方からやってくるんだ』と言うでしょうけどね……分かりました。教授なりの優しさも、ちゃんと受け取っておきますよ、ぼくが」
「……そんなものは受け取らんでよろしい」
教授はあからさまに苦い顔をした。
それから話題は、いつものように夢でぼくが見ている幣原秋のことに移り……教授は基本的に聞いているだけで時折口を挟む程度だったが、それでも大体は和やかにお茶の時間は過ぎて行った。
最後、席を立つ間際に教授が小さく呟いた。
「……こうして穏やかにあいつの話が出来るのも、そう長くはないのかもしれんな」
それは、何やら不吉な暗示めいて聞こえた。
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