「うぅ……」
その日は、朝から胃が痛かった。
魔法魔術大会の最終試合──決勝戦。週末の今日は授業はない。決勝戦は朝の十一時から、大広間で行う予定となっていた。
「すっごい顔色悪いよ? 大丈夫?」
「まさか、大丈夫な訳ないじゃない……」
心配そうに声を掛けてくれたリィフだったが、ぼくの言葉に苦笑いを返した。
対戦相手はグリフィンドールの七年生、ライ・シュレディンガー。前回の魔法魔術大会優勝者であり、また準決勝にて、あのジェームズ・ポッターをものの十五秒で沈めた相手。
無理だ、もう無理だ。
三年に一度のこの大会。しかも決勝戦ともなれば、ほとんどの生徒が観戦に来ることだろう。生徒のみならず先生までも。
元来ぼくは注目されるのに慣れていない。出来れば物静かに、一人ひっそりと物陰に隠れて本を読んでいたいタイプの人間だ。
それがどう間違ってこんな……はぁぁ。
朝食の席では、見知らぬ上級生に「今日頑張れよ!」と気さくに声を掛けられたり、下級生の女の子に「お、応援してますっ!」と握手を求められたりして、それら全てがもう……今日が決勝戦なんだ、戦うんだとぼくに突きつけてくるようで、もう緊張し過ぎて疲れてしまう。
しかも、ジェームズ達悪戯仕掛人があんなことを……あぁ、思い出したくもない。また胃が痛くなってきた。頭も痛い気がする。
その時、フリットウィック先生の声でアナウンスが流れた。
……そうか、もう三十分前か。
選手は試合が始まる三十分前に舞台裏に集合して、そこで軽いチェックを受けなければならない。杖以外の危険なものは持っていないか、杖が動作不良を起こしてはいないか、体調は悪くないか。
……正直体調不良者として今すぐ辞退したい気分ではあるものの、流石にそれは許されないだろう。風邪だとかそういった意味で具合が悪い訳ではないのだ。
「頑張れよ」と背中を押すリィフに頷きを返す。レイブンクローの同級生が数人、ぼくの肩やら頭やらを軽く叩いて激励してくれた。
「あ……待って!」
突然背後から掛けられた声に、踏み出しかけた足が止まる。見ると人混みをかき分け、リリーがこちらにやって来るところだった。リリーはいつものように、セブルスの手を引いている。
「い……今から、ね」
「あぁ……うん」
「が、頑張ってね!」
リリーが真剣な眼差しでぼくの手を握ってきた。温かく柔らかい感触が、ぼくの左手を包み込む。思わず顔を赤らめたものの、真面目なリリーにぼくも頷いた。
「秋」
無表情のまま、セブルスが拳を突き出してくる。何のことか分からずきょとんと目を瞬かせていると、セブルスは焦れたように「君も拳を握るんだ」と口を開いた。言われた通り拳を握ったところ、セブルスはぼくの拳にコツンと自分の拳を当ててくる。
「君なら大丈夫だ。自分を信じろ」
「…………、…………うん」
腹を決める。生徒のいない舞台裏へと、ぼくは一人向かった。
舞台裏では、既にライ・シュレディンガーが数人の教師に囲まれていた。ぼくの姿を視認して、何人かがこちらにも近付いてくる。
「危険なものを持っていないかの確認と、保護魔法を今からあなたにお掛けします」
マクゴナガル先生がキビキビと言った。ぼくは頷き、両手を広げて目を瞑る。
頭上からサラサラとしたものが降ってくる感触がした。保護魔法だ。命に関わる怪我を防ぐための魔法。下手をすれば死ぬかもしれない、そんなレベルの呪文が交錯する試合が今から始まるのだ。
「……何も危険なものは持っていないようですね。よろしい」
目を開け、自分の身体を確認する。特に違和感はない。
伝統ある大会の決勝戦。ということで、今日のぼくの格好は卒業の儀がある時にしか袖を通さないきちんとした正装だ。まだちょっと着慣れない感はあるものの、気になるほどではない。
ぼくの様子をしばらく見ていたマクゴナガル先生は、やがて微かに微笑んだ。
「……頑張りなさい、幣原」
まさかマクゴナガル先生からそんな言葉をもらえるとは思っていなかった。ぼくは小さく目を瞠る。
「……はい!」
その後はフリットウィック先生から杖のチェックを受けた。
「
フリットウィック先生が呪文を唱えると、杖先から様々な種類の花が溢れ出た。鮮やかな色合いの花々は、床に触れると同時に空間に溶けるように姿を消す。
「オッケーです。秋くん、ふぁいと、おー! ですよ。まぁ気楽にやってください。こういう勝負は楽しんだもんが勝ちなんですから」
そう言って、フリットウィック先生はぼくを見上げた。「ありがとうございます」とぼくは深々と頭を下げる。
教師陣が引いた。辺りを見渡したところ、ライ先輩は一人で壁に寄りかかっていた。腕を組み、目を瞑っている。集中しているのだろうか。
声を掛けるのにちょっと躊躇したものの、まあいいやと思い「ライ先輩」と歩み寄った。ライ先輩の方がぼくよりも圧倒的に優位なのだ、少しはその集中を乱しても構わないだろう。
「……秋か。どうした?」
「いえ、その……」
目を開けたライ先輩は、長めの前髪の隙間からじっとぼくを見た。
「あの、ぼく。この大会にエントリーしたときは、勝つとか負けるとかどうでもいいって思ってたんです」
リィフに誘われるままエントリーして。負けたくないとは思っていたけれど、勝ちたいとも明確には思っていなかった。ましてや、こんなに勝ち進むなんて想像すらしていなかった。
「ぼくは……ぼくはいつも、大体成り行きに身を任せて生きていて……何となく流されるままで、あんまり自分の意志で行動を起こしたりすることはなくって……そんなぼくだけど、この大会で、ちょっと変わったのかもしれない」
ぼくの持つこの力は、そう悪いものではないと思えるようになった。
誰かを傷つけるだけじゃなくって、誰かを助けることができるのかもしれないと思えるようになった。
この力を呪うだけじゃなくって、誇りに感じられるようになりたい。
自分を認めたい。
────だから。
「ライ先輩……ぼくは、あなたに勝ちたい」
ライ先輩の、いつもは眠たげな濃い茶色の瞳が、驚いたように少しだけ見開かれた。そのまま、ぼくの心を読み取ろうとするかのように、ぼくの瞳の更に奥深くまで視線が注がれる。
その視線をしっかりと受け止めた。
「……ふ」
やがて、ライ先輩は楽しげに笑う。目を僅かに細めると、唇の端を吊り上げた。
「優勝の王冠は重いぞ、秋」
「……望むところです」
頷いてみせる。
フリットウィック先生が舞台に上がった。そろそろ時間だ。ぼくは表情を引き締め、口上を述べる先生を見据える。
「……秋」
「? なんです……!?」
頭を上から押さえつけられた。と思うと同時に、髪を乱暴にわしゃわしゃとかき混ぜられる。
うわ、何てことするんだ、髪がぐっちゃぐちゃになるじゃないか。そう思いつつ、眉を顰めてライ先輩を見上げた。
「緊張するな。自然体で行け」
ぼくの頭から手を離したライ先輩は、言葉通り何にも気負っていない普段通りの歩き方で舞台へと歩いて行った。舞台の上はスポットライトが煌々と照り付けていて、ここからだと舞台は霞みがかって見える。
「……もう、あの人は……」
後輩との接し方が分からないにも程がある。七年生にもなって後輩一人まともに可愛がれないなんて。
そう思いつつ、いつの間にか口元には笑みが浮かんでいた。
「……よし!」
手早く髪を括り直し、ぼくは前を向く。
気分が高揚している。これから始まる勝負に、ぼくは何だかワクワクしている。
舞台に足を踏み入れた瞬間、スポットライトに照らされた。ちらりと周囲に視線を向ける。明暗差が激しくてぼんやりとしか見えないものの、観客は相当数いるみたいだ。ホグワーツのほとんど全員が集まっていると言っても過言ではない。
前回の大会は三年前だったから、当時のぼくは一年生としてホグワーツにいたんだろうけど……この大会を見に行った記憶もなければ、話を小耳に挟んだ記憶すらない。
ちょっと残念だ、と思った。
もし見に行っていれば、四年生ながらに優勝するライ・シュレディンガーの姿を見ることができたのかと思うと、惜しいことをしたと感じる。
ぼくの向かいに、ライ先輩が立っている。彼は真っ直ぐにぼくを見据えている。
もう、自分に向けられる視線には怯えない。
意志を込めて、その視線を受け止め、投げ返した。
「尊い騎士道精神に基づき、正々堂々闘ってくださいね」
フリットウィック先生がにこやかに言う。
向き合って一礼したぼくらは、杖を剣のように前に突き出し構えた。
心はびっくりするほど穏やかだった。余計なことは何一つ考えない。頭がすぅっとクリアになっていく。ライ先輩の一挙一動を、今なら決して見逃すことはないだろう。
「行きますよ──いち、に──さん!」
合図と同時に杖を振り上げる。
魔法魔術大会本戦の決勝戦が、いよいよ始まった。
◇ ◆ ◇
「リリーとジェームズの子供は、ハリー、君一人だ」
ブラックのその言葉にハリーが凍りついた。ハリーだけじゃない、ロンもハーマイオニーも──勿論ぼくも、動作どころか呼吸も止まった。
「……え?」
足下が急にスポンジに変わったかのような気分だ。全くもって、頼りない。
どこまでも頼りない土台に、ぼくはずっと立っていたのか。
扉が勢いよく開いた。視線を向けると、そこには真っ青な顔のリーマスが立っていた。
リーマスは視線をぼくらとブラックの間で行き来させた後、すぐさま杖を抜き「
ハリーとブラック、そしてぼくの手からも杖が離れた。四人分の杖を手にしたリーマスは、ぼくを真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「アキ……すまない、こんな、こんな慌ただしい時に言う羽目になって、本当に申し訳ない──」
「……リーマス、止めろ……ぼくは」
「『話がしたいんだ、秋』」
リーマスの唇が動く。途端、意識が急に遠のいた。
そうか、そういうことか。これは──つまりはキーワードだったのだ。
ぼくと幣原秋との
……ごめんね、ハリー。
視界が、全て闇に塗り潰された。
ハリーの目の前で、アキの身体が力無く崩折れる。ハリーは慌ててアキを抱き留めた。
「アキ……? アキ!? どうしたの、アキ!?」
「安心していいよ、ハリー。意識を飛ばしてもらっただけだ。すぐに目が覚める。ただし──」
ルーピンが喋り終わるよりも早く、アキはハリーの腕の中で目を開けた。
どこかから風の流れを感じる。床にうず高く積もった埃が、僅かに舞い上がった。
「あぁ、アキ、大丈夫かい? 君は──」
ハリーの言葉を最後まで聞くことなく、アキはハリーを押し返すと立ち上がった。風に、アキの括られた髪の毛が舞っている。
──待て。風?
窓は全て打ち付けられており、扉はルーピンが先程閉めた一つきり。
それではこの風は、一体どこから吹いているのだろう?
「……アキ?」
「リーマス」
低い声で、アキは呟いた。その声は何年も聞き慣れた声であるにもかかわらず、ハリーの耳には全く別人のものにさえ思えた。
パキン、とアキは指を鳴らす。途端、ルーピンの手から一本の杖が飛び出して来ては、アキの正面でピタリと静止した。無造作に左手で杖を取ったアキは、杖を指先でくるりと一回転させる。
「ぼくから『武装解除』するなんて、君もやるようになったもんだ」
「仮にも教師だからね。秋、まずは話を聞いてくれないだろうか」
「……急にぼくを呼び出したのは、ブラックを殺させるためじゃなかったんだ?」
皮肉げにアキは笑った。
いや──『彼』は本当に自分の知るアキ・ポッターか?
違う、と直感が叫んでいる。
「ピーター・ペティグリューだ。あいつが──生きている」
ルーピンは真摯な顔で真っ直ぐに『彼』を見据えた。
「秋、君なら確信している筈だ。忍びの地図に間違いはない。忍びの地図に現れた事象は、どれほど疑わしくとも真実なのだと。僕はあれにあの名を見たんだ、確かに見たんだ! このホグワーツにおける生徒職員ゴースト全ての生き物に於いてあの名を持つ者はただの一人もいなかった、いなかったんだ!」
ルーピンが何を言っているのか、ハリーには分からなかった。しかし『彼』は目を大きく見開いた後、視線をブラックに、次いで何故かロンへと移す。いきなり視線を向けられ、ロンは戸惑いと恐れとで顔を強張らせた。
「──まさか」
「そう、そのまさか、だ」
「……おいムーニー。いつまで私に『待て』をさせておくつもりだ? まず──彼は、誰だ。秋によく似た──」
ブラックが慎重に口を開く。それにルーピンは「秋によく似た、じゃない」と笑みを返した。
「幣原秋、本人だ」
「──本人、だと? それは──」
ブラックは困惑の色を浮かべ『彼』を見つめている。
「カラクリを説明している暇はない、シリウス。後で話そう。先にやらなければならないことがある」
そう言って『彼』はちらりとハリーに視線を向けた。
……その顔も、何もかも。ハリーの知るアキ・ポッターにどこまでもそっくりな筈なのに。
どうして、こんなにも違うと感じるのだろう。
へたり込むブラックに歩み寄ったルーピンは、身を屈めてブラックの手を取り助け起こした。そして──ハリーは目を疑った──ルーピンはそのままブラックを抱きしめたではないか。
ブラックは一瞬身を強張らせたものの、ルーピンが身を離さないと分かるとおずおずとその背に腕を回した。
「……どういうことだよ。アキと、先生と、ブラックが、まるで友達みたいに──」
ロンは驚愕に目を見開いたまま、震える声で呟いた。ブラックから離れ、ルーピンはロンに向かって頷いてみせる。
「──あぁ、友達だ、私達は」
「なんてことなの!」
ハーマイオニーはルーピンを指差し悲鳴を上げた。
「やっぱり、やっぱりそうだったのね! あぁ……私──先生が、先生がホグワーツに、ブラックを手引きしてたんだわ!」
「ハーマイオニー、落ち着きなさい……」
「私、誰にも言わなかったのに! アキにも言わなかったのに──先生は狼人間だってこと!」
何も考えられなかった。与えられた情報量が多過ぎて、何から考えれば良いのかさえも分からなかった。
そっと目を伏せたルーピンは、それでも普段の授業と同じ柔らかな声でハーマイオニーに問い掛ける。
「……ハーマイオニー。いつ頃から気付いていたのかね?」
「スネイプ先生のレポートを書いた時から……後、
「一人でその結論に辿り着くとは、しかもこんなに短時間で」
「リーマス」
どこか苛立ち混じりの声で『彼』はルーピンの名を呼んだ。
「ぼくには時間がないんだ、分かるだろう?」
「まぁ待って、秋。彼らにも知る権利というものはある。きちんと話してあげないと……」
「……手短にしてくれ」
「あぁ、善処するよ」
眉を寄せた『彼』は、小さくため息をついてソファに腰を下ろした。神経質そうに両手の指を合わせている。アキのそんな仕草は、今まで一度も見たことがなかった。
「私はシリウスの手引きはしていない──」
それからルーピンは驚くべき内容をハリー達に語って聞かせた。
忍びの地図を、ジェームズ・ポッターとピーター・ペティグリュー、それにここにいる三人で作ったこと。ブラックの有罪をずっと信じており、勿論ブラックがホグワーツへと侵入する手引きなどしていないこと。ところが今日の夕方、忍びの地図を見ていたらあることを発見したこと──。
ルーピンの話に聞き入っていたハリー達は、扉が一度ふわりと勝手に開き、また静かに閉まったことに気が付かなかった。
長年飼っているペットのネズミの正体が、未登録の『動物もどき』であり、シリウス・ブラックに殺された筈の魔法使い──ピーター・ペティグリューであると言われたロンは、信じられないと言わんばかりの顔をした。
ルーピンは滑らかに語った。自分が狼人間であること、それを知った三人の友人達が未登録の『
「だからスネイプはあなたが嫌いなんだ。スネイプは、あなたもその悪ふざけに関わっていたと思った訳ですね?」
「その通り」
嘲るような冷たい声がすぐ後ろから聞こえた。ハリーは驚いて振り返る。
『透明マント』を脱ぎ捨てたセブルス・スネイプが、杖をルーピンに向けて立っていた。
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