真っ暗だ。深夜の暗がりとは比べものにならない、本物の闇。黒のインクをぶちまけたような、光さえも吸い込んでしまいそうなこの闇は、身震いするほど恐ろしく、またぞっとするほど蠱惑的だ。
時間にしてはほんの一瞬だっただろう。しかしぼくにとっては、何だか永遠のように長く感じた。
気がつくと、ぼくは地面に座り込んでいた。ライ先輩に右手首をぐいっと引っ張られ、無理矢理立ち上がらされる。体力なんて欠片もなさそうな見かけとは裏腹の、とても強い力だった。
辺りを見渡すと、どうやらこの場所は、部屋の中のようだった。床には豪奢な絨毯が敷き詰められ、部屋の壁には大きな暖炉が、季節柄、現在は稼働していないようだった。脇には趣味のいいガラス棚に、様々な見たこともない魔法道具が所狭しと並べてある。
「……幣原秋を連れてきた」
ライ先輩がそう口にすると、さっきまで眠っていた肖像画の目が弾かれたようにぱっと開いた。驚いたが、どうやら寝たフリをしていたようだ。
肖像画に描かれた、真っ白なヒゲを長く伸ばした男性は、ライ先輩に目を飲った後、じろりと値踏みするようにぼくを見回すと、小さくフンと鼻を鳴らし、パカリと寮の扉のように開いた。
扉の奥には、どこか見覚えのある空間が広がっていた。ここは──そうか、ホグワーツの校長室だ。
自律的に回る天球儀に、ぷかぷかと煙を吐く銀飾り。かつての校長先生が描かれている、たくさんの肖像画。視界の右端に、赤と金色の不死鳥の姿。
「秋」
ぼくの名前を呼ぶ声に、はっと目を向けた。ダンブルドア校長先生だ。普段好々爺な笑顔を絶やさないあの人は、今日は珍しく真面目な表情を浮かべている。
つかつかとぼくに歩み寄ると、ぼくの肩を掴んだ。想像していたものより、強い力だった。
「気をしっかり持つのじゃ。……と言っても、酷かもしれんがの」
何を言っているのか。よく分からない。ぼくは至って正常だ。
ぼくがおかしいのだとするならば、
そんな世界の方が間違っている。
「……そうじゃな」
ダンブルドア先生は、何故か哀しげな眼差しでぼくを見た。
「世界の方が、間違っておるのじゃ」
気がついたら、ぼくは自分の家の前に立っていた。何かに誘われるかのように、ぼくは無意識に、門に手をかける。あまりにも軽々と、門が開いた。
玉砂利を踏みしめ、家に向かう。靴の下でやかましく鳴るはずの砂利の音は、どうしてかぼくの耳には届かなかった。
そういえば、今は真夏のはずなのに、そしてこの家は山の中にあるはずなのに、聞きなれた蝉の音も鳥の声も、なんにも聞こえないのはどうしてだろう。分からない。
玄関の扉を押し開ける。
沓脱ぎには、母が飾っていた小さな花瓶は粉々に割られていた。ビー玉ほどの大きさの水晶が砕け、盛ってある塩が黒ずんでいるのに、思わず足を止めた。靴も脱がずに家へと上がる。
廊下を進んだ。ドアが吹き飛ばされているから、廊下からそのまま首だけ突っ込んで部屋の中を見回す。
家の中は、まるで泥棒が手当たり次第にひっくり返したかのようにぐちゃぐちゃだった。執拗なまでに壊された電化製品、引き裂かれた大量の本、引きずり出された座布団の羽根。落とされ壊された神棚。
ここでもない、ここでもない。
足が、止まらない。
呼吸が整わない。
──やがて。
父の書斎の前に立ってようやく、ぼくの足は止まった。
何か第六感でも働いているのだろうか、ここに間違いなく──ある、そう心が焦っている。
両親の姿を見たいと、心が欲する。
恐る恐る、一歩を踏み出した。
「……あぁ」
息を吐いた。
術者が死んだからなのか、天井は今までのように空を映し出すことはなく、ただただ白い。壁を埋め尽くす勢いであった本は、半分くらい地面に落ちている。ばさばさと乱雑に落とされた本はぐちゃぐちゃで、修復が大変そうだと思った。
そして──部屋の真ん中。
抱き合って眠っているような姿の両親に、一歩一歩近付いた。
「……父さん、母さん」
母の傍らに、膝をつく。母の肩にそっと手を置いて揺すった。
「ただいま。ぼくだよ、秋だよ。父さん達が迎えに来ないから、待ち切れずに来ちゃったよ」
返事はない。
「確かに日本から迎えに来るのは大変だって分かってるけど、でも父さん達に迎えてもらわないと、寂しいよ。しかもさ……何で……っ」
声が詰まった。奥歯を噛み締める。
「何で、勝手に死んでんのさっ……!」
母の傍らに蹲り、拳を地面に叩き付けた。
言葉に出来ない強い衝動に付き動かされるまま、ただ一心に、拳を振るう。
何故か、痛みはなかった。
頭の中が霞みがかったようにぼんやりとして、うまく考えられない。反対に身体の方は、胸から腹に掛けて、とぐろを巻いたヘビがうごめいているかのように、そわそわして落ち着けない。
「……秋」
振り上げた拳を掴まれた。振り返るとそこにはライ先輩がいて、あれ、何で日本にライ先輩がいるの? と不思議に思った。
後ろから抱きしめられ、父さんと母さんからぼくを離れさせようとする。待ってよ、どうしてそんなことするのさ。ぼくらは家族なんだよ、誰にもぼくらを引き離すことなんて出来ないはずなのに。
暴れるけれどライ先輩はぼくを離してくれない。やめてよ、ここはぼくらの家で、君は部外者なんだよ。
何で、何で、何で。
「秋、今から──」
「──して」
「え?」
「放してよぉっ!!」
魔力が、弾ける音がした。
瞬時、家中全ての窓が粉々に吹き飛ぶ。家全体がガタガタと音を立てて揺れ、軋み、悲鳴を上げた。
全部、全部、全部。何もかも、跡形も残さず、面影も、原形も、何も留めない形で。
壊れてしまえ。
手に余る程の膨大な魔力。それが今、自分の思う通りに動くのを実感した。玄関のタイルも、居間の壁も、屋根の瓦までもが、はっきりとしたイメージを持つ。
魔力を精製し、練り上げ、全てを破壊しつくした。
気付けば、立っているのはぼく一人だった。両親の所を避けるように、瓦礫の山が堆く積もっている。
二人の姿を視界に入れた途端に、涙が溢れた。頬を伝う生温い水を感じる。身体の奥から、堪えきれない熱量がせり上がってきた。それはぼくの喉を震わせ、開いた口から漏れ出てくる。
見上げると、青空があった。青く高い空。そして、その青空と不釣り合いな、銀色に光り輝く髑髏。思わず、目を見開いた。
溢れた涙が頬を伝う。嗚咽が身の奥底から込み上げる。
ぼくは、何年か振りに、声を上げて泣いた。
いいねを押すと一言あとがきが読めます